ジューン アリスン。 純アリス

ジューン・アリソン

ジューン アリスン

人物 [ ] 父親は戦後、。 2歳のとき、両親が離婚。 父親はニュージーランドに帰国し、母は上京。 アリスはの祖母のもとで育てられ、中学二年で上京したが、母のもとではなく、叔母の家に預けられた。 物心ついたときからアリスは家庭というものを知らずに育った。 アリスはニュージーランドであった。 在学中にスカウトされて、 津々見 マリの芸名でとなり、「」などのに登場する。 、の『』に、主演のの同級生であり、父親役のの再婚相手となる青海マリ役で女優としてデビューする。 この際に、本作の原案者であるのにより、「清純」と『』から、 純 アリスと命名される。 21歳の時、に入団。 として爆発的人気を得て代前半のや、男性誌のを飾った。 またやとしても活躍した。 に、東京キッドブラザースでほぼ同期の三浦浩一と結婚。 結婚後は、夫婦揃ってに司会として出演していた。 、のための病院で死去。 66歳没。 出演作品 [ ] テレビドラマ [ ]• (1972年 - 1973年、) - 青海マリ• (1973年 - 1974年、) - 二階堂涼子• 第12話「恋と王女と弾丸と」(1975年、NET)• 第32話「したたかな闘い」(1977年、、)• 第323話「愛は何処へ」・第324話「愛よさらば」(1978年、) - 白城幸子• サラムム(1979年、) その他のテレビ番組 [ ]• (1973年 - 1974年、) - 司会• (1973年 - 1974年、) - アシスタント CM・広告 [ ] ・岩田屋伊勢丹(開店時、岩田屋伊勢丹ショッピングセンター)マスコットガール、CM出演(1973年)• 「妹は20歳」のコピー• シュリンプヌードル(1973年) ディスコグラフィー [ ] シングル [ ]• アザミの花(1973年5月)作詞 ,作曲 ,編曲• コスモス占い(1973年)作詞 ,作曲 ,編曲• 恋のアタック(1974年)作詞 ,作曲 ,編曲 馬飼野康二• サヨナラの手紙(1975年)作詞 原田大介,作曲 椿ヒロ,編曲 北野ひろし 脚注 [ ] [].

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理想の奥さま ジューン・アリスン : 素晴らしき哉映画人生

ジューン アリスン

戦時中に音楽家は何をしていたのでしょうか。 誰もが思い出す名前は、 グレン・ミラーだと思います。 映画「グレンミラー物語」ではジェームス・スチュアートとジューン・アリスンを思い出しますが、ミラーは当時、空軍の軍楽隊を率いて各地を慰問して回っていました。 1944年暮、ミラーの乗った飛行機がロンドンからパリに向かう途中に消息を絶ち消えました。 この飛行機でパリに向かったのはミラーだけでした。 この軍楽隊には マット・デニスも籍を置いていたのです。 しかし、彼はこの事故には遭うことなく、2002年まで生きて天寿を全うしています。 ジミー・ヴァンヒューゼンは、やはり空軍にいたのですが、彼は戦闘機のテストパイロットとして在籍していました。 しかし、この話は音楽関係のところには公表されることがなかったのだそうです。 1954 そんな危険な仕事をしていて、「いつ死ぬか分からない者に作曲の仕事を依頼するやつが居るわけないだろ」と相棒のジョニー・バークに話していたそうです。 この話は後になってジョニー・バークがばらしたといいます。 アーティ・ショーは海兵隊のバンドを率いて南太平洋の島々を慰問して回りました。 暑くて湿気の多いジャングルの中をツアーしたといいます。 そして、17回も日本軍の飛行機に爆撃されたり機銃掃射されたのだそうです。 上記の話はすべて第二次世界大戦中の話ですが、 コール・ポーターは、1920年代のことですが軍の情報活動をするためといったお墨付きを持って、パリに赴任していた時代があります。 そして、パリの社交界に出入りして派手に遊びまわっていたのです。 2005年にコール・ポーターの伝記映画が封切されましたが、それを見るとそんな時代のことも描かれています。 彼は生まれも育ちも上流中の上流で、そんな暮らしが出来たのでしょう。

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純アリス

ジューン アリスン

Iさんから「アラン・ラッドの映画写真集(The Films of Alan Ladd)」という素敵な大判の本を頂いた。 私は昨年(2013年)出版した拙著「シネマが呼んでいる1『シェーン』白馬の騎士伝説とアメリカニズム」の補足資料(トリビア)の中でアラン・ラッド(1913〜1964年)の痛ましい半生のあらましを紹介したが、この写真集の中の序文はさらに一層彼の悲劇的な側面を伝えている。 この序文を書いているのはアラン・ラッドの友人である往年の名優ロイド・ノーラン(1902〜1985年)だ。 今日、我が国ではロイド・ノーランの名前を目にすることはほとんどなくなったが、私が若いころは、彼が脇役で出演した映画が結構上映されていた。 ロイド・ノーランは渋くうまい役者だったので、何かにつけ脇役として欠かせない存在だったのだろう。 1957年に公開された、フレッド・ジンネマン監督の「夜を逃れて」の中で彼は主人公の父親役で出演したと記憶している。 最も鮮明に思い出されるのは、1936年に初公開され1953年にリバイバル上映された「テキサス決死隊」の中で主人公ジムを演じるフレッド・マクマレーの敵役サムに扮した彼の翳のある悪党ぶりだ。 この映画は、テキサス州100年祭にちなんで作られた映画だそうだ。 ちょっと島田正吾を思わせるような面貌をしている。 ロイド・ノーランはどうしてアラン・ラッドと親しくなったのだろうか。 彼の序文によると、1947年の「Wild Harvest」(日本では未公開?)で共演して以来二人は親しくなり、家族ぐるみの付き合いがあったようだ。 お互いの家も近くにあったと彼は書いている。 ノーランによれば、アラン・ラッドには類まれな資質があって、そのようなものを持っていたのはリタ・ヘイワースとゲイリー・クーパーの二人だけだったと断言している。 ごく平凡なシーンでも、いざスクリーンに映し出されるとアラン・ラッドには精妙な美しさと強さがあったと言っている。 私が小学生の頃、彼に一時期夢中になったことがあるから、確かにオーラのようなものがあったのかもしれない。 しかし、彼にはどうすることもできないアキレス腱があった。 それは彼の背丈が低いことであった(彼の身長は168センチしかなかった)。 彼は見知らぬ人や群衆が嫌いだった。 人間嫌いであったわけではない。 仲間や友人は愛した。 しかし、彼は映画の中では6フィート(180センチ)を超えるように見せることに成功していたので、初対面の人が彼を見た時に示す不本意な驚きやショックに耐えられなかった。 小男であることは彼の呪いだった。 常識人ならそして生活にもまれる中で身に付けるようになる鈍重さを持ち合わせていたなら、人は自分の身体的弱点など気にしなくなるものだが、アラン・ラッドのプライドだけは折れることなく彼を苛み続けたのだった。 わが妻はアラン・ラッドの写真集のページを繰りながら、「優男ね」と評した。 私もこれについて異論はない。 「シェーン」におけるアラン・ラッドは品がよくてハンサムだった。 おまけに彼は誇り高かった。 1957年、アラン・ラッドは「島の女」という因縁の映画に出演した。 これ以降、彼は悲劇への坂道を転がり落ちていったような感じがする。 「島の女」は「イルカに乗った少年」という原題の主題歌の、揺らめくようにロマンチックな旋律の美しさとハリウッドに招かれてその野性的な官能美を惜しみなく披露して人々の心と目をくぎ付けにしたソフィア・ローレンの魅力が大いに話題になって、日本でもヒットした。 映画の舞台はエーゲ海のギリシャだった。 「島の女」の撮影中に、ノーラン夫妻はたまたまこの地を旅行し、アラン・ラッド夫妻が泊まっているアテネのホテルをわざと前触れなしに訪れた。 ノーランはこの突然の訪問がアランに嬉しい驚きを与えるものと期待していたのだが、いざドアが開くとアラン・ラッドは来訪者がノーラン夫妻であることに気付くや否や、いきなり中からノーランに抱き付き、号泣したのだった。 ノーランは、その時アランがこらえようもなくセンチメンタルになっていることに当惑したのだが、後日彼のメーキャップ担当者から、アランの愁嘆場の理由を聞かされた。 アラン・ラッドはロケ地に着いた時に、そこに目を覆いたくなるような忌まわしい現実を見たのだった。 名もないイタリアの新人女優ソフィア・ローレンは、なんと彼よりも上背が数インチ高かったのである(彼女は174センチの上背があった)。 自分よりもはるかに背の高いソフィア・ローレン、その圧倒的で豊満な肉体とくっきりとした大きな目鼻立ち、挑みかかるようなまなざしと強い意志を感じさせる上向きの厚い唇、さらにそんな彼女にひきつけられてしまった監督のジーン・ネグレスコ。 恐らく映画の撮影が終了した後だ思われるが、ロイド・ノーラン夫妻はアラン・ラッド夫妻にナポリで再会した。 その時、アラン・ラッドは持病の胃潰瘍を悪化させ食事も喉を通らなかったし夜も眠れなかったようだ、とノーランは書いている。 アラン・ラッドの若すぎる死は、「島の女」が計り知れないダメージを彼の消化器に与えたせいではなかったか、とノーランは推察している。 それにしても、アラン・ラッドは「島の女」に出演するという不幸な選択をなぜしたのだろうか。 彼の妻のスーは人一倍夫の映画出演には気を使っていたのだから、この件でも彼女は了承を与えていたはずである。 1955年の映画「マッコーネル物語」で、アラン・ラッドは共演者のジューン・アリスンと恋に陥った。 二人があまりに真剣だったので、妻のスーは離婚を覚悟したそうだ。 しかし、結局、ジューン・アリスンは彼のもとを去っていった。 アラン・ラッドの失意と落胆はあまりに大きかった。 恐らくスーは、紺碧のエーゲ海をロケ地にする「島の女」のオファーがあった時に、夫のアラン・ラッドの気分転換のためにこの映画は絶好の機会を提供してくれると思ったに違いない。 当時米国ではまだ無名だったソフィア・ローレンの存在はスーが気に掛けるほどではなかったのだろう。 しかし、事態はさらに暗転してしまった。 いったん噛み合わなくなった歯車は増々狂い出して収拾がつかなくなってしまうものなのかもしれない。 それにしてもアラン・ラッドの人生は悲劇的だ。

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