キングダム ほう けん 最後。 キングダム最新628話ネタバレ予想vol2「王翦は李牧を斬れるの?」

【キングダム】龐煖の死亡が確定!?性格や実力、今後の予想まとめ

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スポンサードリンク 今回は、2019年11月21日発売の週刊ヤングジャンプの掲載漫画『キングダム』の最新622話のネタバレ・あらすじをご紹介していきます。 621話では、羌瘣(きょうかい)が命を投げ出すほど呼吸の深い境地に達していました。 ここまで羌瘣が深い呼吸を必要としたのも、龐煖(ほうけん)が武の極(きわ)みに達していればこそ。 この深い呼吸で優位に戦いを進めていた羌瘣は、左手の指を切り落とすところまで龐煖を追い詰めていました。 しかしここで呼吸が途切れてしまった羌瘣。 そして羌瘣は龐煖の反撃を受け始めるようになり、龐煖は羌瘣の足をつかんで地面に叩きつけることになります。 土に還(かえ)れ とばかりに地面に羌瘣を叩きつける龐煖でしたが、飛信隊が突撃しようとしたその時、龐煖は羌瘣の身を飛信隊に向かって投げつけます。 そして羌瘣を受け止めたのは、他ならぬ信でした。 さてここから信vs龐煖の戦いが幕を開けると思いますが、どのような展開が待ち受けているのでしょうか? それでは2019年11月21日発売の週刊ヤングジャンプの掲載漫画『キングダム』の最新622話のネタバレ・あらすじをご紹介していきます。 最後までお楽しみください! スポンサードリンク キングダムネタバレ最新622話『信は王騎や麃公へ想いを寄せる?!』 信は羌瘣を倒されて激怒?! 羌瘣(きょうかい)vs龐煖(ほうけん)の続きが始まって、羌瘣は命を投げ出すほどに深い呼吸まで到達しました。 飛信隊が羌瘣の救出に向かおうとすると、龐煖は羌瘣を放り投げて信が羌瘣を受け止めた場面で、621話は終わりました。 ここで信と龐煖の戦いが始まるとは思いますが、信は羌瘣を倒された怒りがこみあげてくるに違いありません。 思い起こせば今は亡き王騎も、龐煖に摎(きょう)の命を奪われてから怒りを増した場面がありました。 信にあの時の王騎と同じような怒りがみなぎり、力が湧いてくるのかもしれません。 そして飛信隊では去亥(きょがい)も龐煖の矛の前に命を落とすことになりました。 一般兵にも苦戦していた信でしたが、ここから仲間を倒された怒りが信にみなぎってきて、力を発揮してくるのだと思います。 王騎や麃公への思いも沸き上がる?! また王騎の矛を手にしている信は、今は亡き王騎への思いも沸き上がるかもしれません。 王騎と共に過ごした戦いの日々を思い出し、そして龐煖に王騎が倒されたショッキングな事実。 振り返ってみると李牧が咸陽(かんよう)に訪れて秦趙同盟を結んだ時に、李牧を前にした信は王騎の仇ということで李牧をにらみつけていましたね。 そして少し前には、麃公(ひょうこう)兵が亡き麃公の仇(かたき)とばかりに、龐煖に襲い掛かった場面がありました。 麃公兵と同じような気持ちは、麃公に可愛がられた信もきっと抱えているに違いありません。 亡くなった仲間や倒された羌瘣への思い、また敗者の思いを背負った信は、龐煖を圧倒する場面があるのかもしれませんね。 信の強さに疑問を感じる龐煖?! そんな怒りに身をゆだねて戦う信は、龐煖を圧倒する場面があるかもしれません。 そして龐煖は、王騎に感じたような疑問を信に対して感じてくることでしょう。 そしてその約束を果たす日は今日であると。 ここで信は何を龐煖に語るのか? そんな見どころが近々訪れることでしょう。 スポンサードリンク キングダムネタバレ最新622話『李牧に迫る刃は?!』 倉央や糸凌が李牧に迫る?! 糸凌(しりょう)に立ちふさがったのは馬呈(ばてい)だったか。 この勝負はどちらが勝つのかな?糸凌が勝ってしまうようだと、龐煖が飛信隊を止めていても李牧に危険が及ぶなぁ。 まず一つ目は倉央(そうおう)や糸凌(しりょう)が李牧に迫る可能性がありますね。 段茶隊が李牧本陣に迫る?! 李牧は馬南慈軍に秦右翼の背後を突かせるのではなくて、王翦本陣を狙わせるとは。 自らを危険に晒してのことなので、勇敢な策に思えますね。 ただ後で出てきますが、共伯が糸凌を止められることを李牧は計算していたのかもしれませんね。 馬南慈軍を追って王翦(おうせん)本陣の救援に向かうかと思いきや、その姿は描かれていませんでした。 そして王翦は、田里弥(でんりみ)軍に合流しようとしています。 それならば段茶隊は、秦右翼軍の背後から李牧本陣に向かう可能性があるかもしれません。 スポンサードリンク キングダムネタバレ最新622話『王翦本陣の展開は?!』 蒙恬が傅抵を倒す?! キングダム620話は、まず王翦(おうせん)が挟撃の危機から脱した場面で始まりましたね。 一つには王翦本陣を背後から襲っている傅抵(ふてい)を蒙恬(もうてん)が倒す展開が考えられます。 さすがに王賁(おうほん)は肉体的な限界が訪れていますので、傅抵を倒すほどの力はないと思いますが、蒙恬にはまだ余力が感じられます。 ちなみに公式ガイドブックによれば、蒙恬の武力は89。 傅抵の武力は90あります。 武力だけで言えば傅抵に分がある戦いですが、しかし蒙恬は馬南慈の右目から光を奪うなど、数字に表れない強さを秘めているように思います。 それを発揮できれば蒙恬が傅抵を討つ可能性があると予想します! 王翦本人が傅抵を討つ?! または王翦本人が傅抵を討ってしまう可能性も捨てきれませんね。 先ほど紹介したように、公式ガイドブックの武力の数値は、蒙恬が89で傅抵は90です。 この数値のまま勝負が決まるとすれば、傅抵が蒙恬を倒すことも考えられます。 ただこれだけ武力の数値の差はわずかですので、傅抵が蒙恬を倒せたとしても無傷で済むほど楽な戦いにはならないはず。 傅抵が傷を負った状態であれば、王翦が傅抵を倒す場面があるのかもしれません。 ちなみに公式ガイドブックによれば、王翦は何と93あります! 知略の深さが王翦の強みという印象がありますが、李牧と同じように王翦も武に優れた将軍ということになりますね。 スポンサードリンク 『キングダム ネタバレ 最新 622話』まとめ 羌瘣(きょうかい)と龐煖(ほうけん)の戦いは、龐煖が優位に戦いを進め始めました。 これは技術や速さ、強さではなく、体のサイズが物を言った感じですね。 逆にこのポイントで戦わなければいけないほど、羌瘣は龐煖を追い詰めたといったところでしょうか。 もう少しでしたけどね。 龐煖(ほうけん)の左手の指を切断するなど、戦いを優位に進めていましたが、途中で呼吸が乱れてしまいます。 そして龐煖の怒りを呼び、羌瘣は何度も地にたたきつけられることになります。 そして投げつけられた羌瘣を受け止めた信でしたが、ここから怒りを増した信が龐煖を圧倒する場面があるのかもしれません。 また龐煖が求める答えを信が語る場面も出てくるのかもしれませんが、どんな言葉を信が龐煖に伝えるのか? この点も近いうちの見どころになることでしょう。 それでは、キングダム最新622話のネタバレ・あらすじのご紹介でした!.

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キングダム李信の最後は悲惨?嫁が超大物で子孫が王様になったって本当か

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その最後は信との一騎打ちで、龐煖の持っていた矛と共に両断されてしまう、というものでした。 王騎を倒し、麃公(ひょうこう)を倒した武神・龐煖。 その龐煖を王騎の矛で倒したことを、信はどこかでしみじみと振り返る場面が描かれるのかもしれません。 その時、信は涙を流しながら王騎や麃公とのことを思い出すことでしょう。 龐煖の敗因は?! また龐煖の敗因は何だったのでしょうか? 龐煖はキングダムでは最強の武将として描かれていて、呼吸に制限のある羌瘣(きょうかい)とは異なり、呼吸の制限のない武神として描かれていました。 しかし龐煖の戦いを見ていた李牧は、龐煖は武の極みに達していて、なお王騎に敗れたのではないかと考えていました。 人の情を否定した求道者として生きてきた龐煖。 そんな求道者・龐煖は武を極めて武神となることで、人を越える模範を示すことを目指していました。 求道者というのはそのことで人類を一段上の存在に変化させて、人の世から争いを止めて苦しみの世から完全に解放されることを本気で信じていた集団だったのです。 そんな求道者・龐煖は、関わる人たちの思いを紡(つむ)いで束にして戦う王騎という武将との勝負で敗れています。 (龐煖は王騎を倒しましたが、その時は魏加(ぎか)の矢が王騎を貫いたことが大きく影響しています。 実質的にあの戦いでは龐煖は王騎に敗れていたと言っても過言ではないはずです。 ) それでも武を極めた龐煖を倒すことは、まさに命がけの行為。 龐煖に対する信もギリギリの体力・精神力で龐煖に挑んでいきます。 そして自らの刃に抵抗できる信たちに、龐煖は疑問を感じていきます。 なぜ信たちは武神・龐煖に抵抗できるのか? 龐煖は道を極めたはずなのに、なぜ・・・ 龐煖が求めていた道が誤りだったのか? いや、そもそも龐煖が求めていた道など、人類には存在していなかったのではないか? 龐煖にそんな考えがよぎります。 自らのこれまでの歩みを全否定するかのような考えが浮かんだことは、龐煖に焦りのような感情をもたらしたのかもしれません。 そのことが戦いの場における一瞬の油断、スキとなってしまい、信に敗れてしまったのではないか? そんなことを思います。 公式ガイドブックの武力は? ちなみに公式ガイドブックでの武力は以下のようになっていました。 」と語っていました。 スポンサードリンク キングダム龐煖(ほうけん)の史実での実像は?! 実在した史実での実像は?! 李牧の近くに龐煖(ほうけん)が現れていたけど、次はどこで出てくるんだろう?龐煖がいれば李牧は安泰だから、李牧を守るためにどこかで出てきそうだけど。 実際に存在していた人物なんですね、龐煖は。 ただ史実での実像は優れた武将というだけではなく、本を執筆していたように思想や弁論にも優れた人物として知られています。 史実を紐解(ひもと)くと、紀元前236年。 秦の王翦(おうせん)たちが鄴(ぎょう)攻めを行っているその時、龐煖は燕(えん)を攻めていたことになっています。 そして秦が趙の領土内に侵攻していることを知り、龐煖は軍を引き返しますが、時すでに遅し。 龐煖が到着したのは、鄴などが陥落した後のことになっています。 そしてこの年に趙の王の世代交代がありましたが、次の王で龐煖は登用されず、そこから記録に残っていないと伝えられています。 ですので史実には龐煖の死について記録は残っていないことになります。 龐煖が戦場に出なくなる?! ここから考えられるのは龐煖が戦死しないというパターンで表舞台から姿を消す、というストーリーを私は考えていました。 信や羌瘣と戦って、龐煖が勝ってしまうこと。 このことも考えていました。 スポンサードリンク 信の答えに納得して戦場に出る必要性を感じなくなる?! また龐煖が「求道者」であり、「求道者」とは文字通り「道を求める者」であることが623話「模を示す」で描かれていました。 そして龐煖たち求道者の目的は「人の救済」でした。 そんな龐煖の求める道の答えに、信は何かを語る場面が出てくるはずです。 王騎の答えには納得しなかった龐煖でしたが、龐煖が信の答えに納得することがあるのかもしれません。 そうすると龐煖は元々求道者であり、戦いで功績を上げることなどには興味を示していませんでしたので、答えに納得してからは龐煖は戦場に出なくなるのかもしれません。 それは中華統一によって争いを無くすこと。 人の世から争いを無くすことを求道者たちも目指していますので、政が目指している構想を語ることで龐煖がその道があったかと納得することがあれば、戦場に出る意味を感じなくなることもあるのかと考えていました。 龐煖が戦えないほどの傷を負ってしまい戦場に出なくなる?! または信や羌瘣に命を奪われないとしても、一騎打ちの中で片腕を奪われる、または目を(光を)奪われるなど、戦いを継続するにあたって致命的な傷を負ってしまうかもしれません。 もしかすると王騎の矛を信が手にした時、このことは原先生の中で決まっていたのかもしれません。 スポンサードリンク キングダム龐煖(ほうけん)の最後 まとめ 巨木をなぎ倒す龐煖(ほうけん)。 そう李牧から伝言を受ける場面でした。 果たして答えにたどり着くことができるのか?その点が今後の見どころですね。 またキングダムでは、龐煖によって王騎や麃公(ひょうこう)が倒されましたので、龐煖が信によって倒されたことにようやく憎っくき敵が倒れたくれた!と思う方々も多かったかもしれません。 私もその一人で、王騎の矛で信が龐煖を倒してくれたことは胸がすく思いでした。 ところで龐煖を倒した信は、論功行賞でどれだけ評価されることになるでしょうか? 以上、キングダム龐煖(ほうけん)の最後に関してお届けしました! それでは、また!.

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キングダムネタバレ!李牧と龐煖(ほうけん)の約束とは何か

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経歴 [ ] 志学 [ ] 若い頃は、の深い山奥で、道家の隠者である(かつかんし、「ヤマドリの羽根の冠をつけた先生」の意)のもと学問を学んだ。 師や王侯との対話が道家の書『鶡冠子』全十九篇のうち七篇に収録されている。 道家出身ではあるが、若年の頃から軍事に強い興味を持っていたようであり、師への質問も天と武の関係を問うものが多い。 また、趙人のが燕の(在位紀元前312-279年)に仕える以前、親しくしていた。 劇辛からは人となりを「与し易きのみ」(とても親しみやすい)と評され、縦横家としての著書も執筆するなど、弁舌に長けていた。 あるとき、趙の(在位紀元前326年-298年)に召しだされ、「戦わずして勝つ者こそ最善である」というの兵法について意見を問われて、兵家と道家の両方の知識を用いて解説を行っている。 龐煖の会見との前後は不明だが、実際に武霊王は考えなしに攻めるのではなく、他国の後継者争いに介入したり、という軍制改革を行ったりすることで、趙を軍事大国としている。 『鶡冠子』武霊王篇に見られる弁論は以下の様なものである。 武霊王「余が流言飛語に聞くところでは、『百戦して勝つは善の善なるものにあらず、戦わずして勝つこそ善の善なるものなり』などという(『』にもほぼ同一の文があるが、武霊王はこれを風聞の類として扱っている)。 その解釈をお聞きかせ頂きたい」 龐煖「巧みな者は戦争に与しないことを貴ぶので、『計謀』を大いに上策として用いるのでございます。 その次が『人事』に因ることです。 そして下策が『戦克』です。 いわゆる『計謀』を用いるとは、敵国の君主を眩惑し、習俗を淫猥に変更させ、慎ましさを捨て驕って欲望のままにさせることです。 そうすれば聖人のことわりは無くなります。 人をえこひいきして親しくし、功績がないのに爵位を与え、勤労がないのに賞与を与え、機嫌のいい時は勝手に罪を許し、怒れば根拠なく人を殺し、民を法律で縛っておいて自らは慎ましやかな人間だとうそぶき、小人なのに自らを徳の至った者と見なし、無用の長物を頻繁に用い、亀甲占いに没頭し、高徳の道義というものが意中の人(を贔屓すること)よりも下になります。 いわゆる『人事』に因るとは、(賄賂として)幣帛をつらね貨財を用いて繰り返し側近の口をおさえ、そうであるという所を全くそうではない、そうではないところを全くそうであると言わせ、君主から離反する際にも忠臣の道を用いさせることです。 いわゆる『戦克』(戦って勝つ)というのは、もとから既に衰えきった国に、軍隊が進行して攻めるものです。 越王はこれを用いて呉を亡ぼし、楚はこれを用いてとをことごとく平らげ、(趙・魏・韓の)三家はこれを用いて(政敵の)を亡ぼし、韓()はこれを用いて東方にある(政敵の祁氏・羊舌氏の)地を切り分けました。 今、世間の者たちは軍事について、『すべて、強大な国が必ず勝ち、小弱な国は必ず滅ぶ。 だから小国の君は覇王者になれないし、万乗の主(一万の戦車を持つ大君主)は滅びない』などと主張します。 しかし、かつて夏は広くて湯王の殷は狭く、殷は大きくて周は小さく、越は強くて呉は弱かったものでした(が、小国のはずの後者が大国の前者に勝ちました)。 これがいわゆる(孫子兵法に言う)『戦わずして勝つは善の善なる者なり』であり、また(道家思想に言う)『陰経の法 ・夜行の道 ・天武の類 』でございます。 現在、百万の屍が散乱し、流血は千里に及び、しかもなお勝利はいまだ決しておりません。 軍功があっても、計略が常にまだ及ばないのです。 このゆえに聖人は昭然として(明白に)独り思索し、欣然として(楽しげに)独り喜ぶのです。 (ところが今の人は)ひとたび耳に金鼓の音が聞こえたならば武功を希み、旌旗(のぼりばた)の色を見れば軍陣を希み、軍刀の柄を手に握りしめれば戦を希み、出征し闘い合えば勝利を希みますが、これこそが主君を襄(たす)けることで(かえって主君を)破れ亡ぼす理由なのです 」 武霊王は深く思い嘆いて言った。 「国家の存亡は我が身にあるというのか。 なんと幽微なことよ、福の生じる所とは!余はこれを聞いて、日月の巡るたび自ら内省するとしよう。 いにしえは徳を修めた者は命を偽らず、要点を得た者はその口数は多くはなかったのだ」 老賢者から大将軍に [ ] 武霊王に続くとの治世下では、50年以上に渡って、あまり国事に参与しなかったようであるが、その次の悼襄王の代で転機がやってきた。 紀元前245年、王の失策により、歴戦の将軍であるとが同時に出奔してしまった(の項を参照)ため、急遽、龐煖が将軍として抜擢されることになったのである。 『鶡冠子』世賢篇には以下の様なやりとりがある。 ここで、龐煖は道家の「無為自然」の思想を説くと共に、本当に有能な家臣は名声が表に出にくいものであるが大事にすべきこと、危機に陥ってからの後手の対処では遅いことを遠回しに王に警告している。 あるとき悼襄王が龐煖に質問した。 「君主というのもまた国に(積極的に)何かを為すべきものなのかね」 龐煖「王は名医の医術をご存知ないのですか?病が既にあれば必ず治癒し、鬼神も彼を避けたと言います。 楚王が政務を為し部下の兵を扱うさまは、聖王が人に任せるがごとく、親戚を用いないで必ず能臣によってその病を治させ、自分が贔屓する人に任せないで必ず昔馴染みの医者を使いました。 楚王は、年老いて病が身にあることを伝え聞くと、必ず兪跗を招いてもてなしたといいます」 悼襄王「ふむ」 龐煖「王はお忘れですか。 昔、は殷の医者となり(つまり王に代わって政務を担当し)、は周の武王の医者となり、は秦の医者となり、はの医者となり、は晋の医者となり、は越の医者となり、は斉の医者となって斉を五箇国の覇者としました。 善は一つでありますが、道のことわりは同じではありません」 悼襄王「そのことわりをお聞かせ願いたい」 龐煖「王は魏のが名医に問いただした逸話をご存知ないのですか? 文侯『先生は三人兄弟だが、どなたが最も優れた医者であるのかね』 扁鵲『長兄が最高で、次兄がこれに次ぎ、わたくし扁鵲は最も下でございます』 文侯『理由を聞いてもよろしいかな?』 扁鵲『長兄は病の中に神を見ることができ、形になる前から取り除くことができます。 ですから、(誰も病に気づかず)その名声は我が家より外には出ませんでした。 次兄は病が少し出た途端に治してしまいます。 ですから、(誰も病が重かったことに気づかず)その名声は郷里の門より外には出ませんでした。 この扁鵲めは血脈を鋭い鍼で刺し、劇薬を投じ、皮膚を裂きました。 ですからしばらくして、諸侯に名声が聞こえ出たのでございます』 文侯『そうか。 もし(病が大きく露見してから対処するという)扁鵲のやり方によって(斉の桓公が側近の)管仲に医術(つまり政務)を行わせていたならば、いったい桓公は覇者となることができただろうか』 およそこのように、(本当の名医というのは)病がないところに病を見てとり、名の無いうちに治し、形の無いものを使って、最上の功能を成し、その根底にあるものを自然と呼ぶのです。 ですから、優れた医者はその造化の本質に従うけれども、劣った医者は無理にこれを破ろうとして、不死を望んでいるのに、(宋ののように)傷が太ももに及んで(死んで)しまうのです」 悼襄王「うむ。 余自身には傷を防ぐ力はないが、(龐先生などの名臣がいるのだから)どうして誰かが余の上に毛ほども傷を加えることができようか?」 四箇国を統帥する [ ] はじめ将軍としては無名で侮られていた龐煖であるが、燕将を伐つなどして瞬く間に名声をあげ、戦国時代最後の合従軍(複数の大国による連合軍)の長も務めた。 秦の名将も彼との直接対決を避けており、理屈だけではない戦上手であったと思われる。 趙の三年()、を攻め、将軍の劇辛を捕虜とする。 なお、『史記』「六国年表」「燕召公世家」では、旧友である劇辛の側が龐煖を侮って趙を攻めたことになっており、龐煖はこの戦いで劇辛を敗死させ、燕軍二万を捕虜にしている。 趙の悼襄王四年()、・・・の四箇国の精兵を率いての蕞を攻めたが、陥落させる事ができず、そのため兵を移してを討ち、饒安を取る。 「六国年表」「楚世家」「春申君列伝」等によれば、同年に楚のが五箇国の合従軍を率いるもで敗走しており、これと連携した動きだったと思われる。 趙の悼襄王九年()、趙軍は燕を攻めて貍と陽城を取るも、その隙をついて秦の王翦・・が趙を攻めやなどを落とす。 『』飾邪篇によれば、この際、燕への遠征軍を指揮していたのは龐煖であり、秦軍侵入の報を受けると軍を移して南に急行するが、既に鄣(一帯)は陥落した後であった。 この年、悼襄王が崩御し、子のが即位する が、幽繆王の代では用いられなかったらしく、以降、龐煖の活動の記録はない。 著作 [ ] 『』「」は、縦横家の書籍として『龐煖』二篇、また兵家の書籍として同題の『龐煖』三篇を記載する。 どちらも散逸し、現存しない。 脚注 [ ] 注釈 [ ]• この一篇だけ龐煥(ほうかん)という名前が用いられており、宋の陸佃は龐煖の誤字という説と、龐煖の兄という説を載せている(陸佃注「或作煖」「龐煥。 蓋煖之兄」)。 道家の伝説的開祖であるに仮託される経典(陸佃注「陰経。 黄帝之書也」)。 龐煖の師である鶡冠子の論の一つ(『鶡冠子』「夜行」)。 事物の本質は決まった形を取らず、玄妙なものであるとする。 『』「形勢解」では「いわゆる夜行は心行なり(所謂夜行者心行也)」と言う。 龐煖は『鶡冠子』の中の四篇に渡って、天と武の関係性を師と議論している(『鶡冠子』「近迭」「度万」「王鈇」「兵政」)。 その多くは観念的・抽象的で難解。 原文「是襄主之所破亡也」。 あるいは「これこそが(一時は天下に覇を称えた)宋の襄公が破れて亡んだ理由なのです」か。 自然(おのずからそうであること)は、『』に「人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」とあるように、道家思想の最上善・根本原理とされた。 出典 [ ]• 陸佃『鶡冠子序』「鶡冠子楚人也居於深山以鶡冠號曰鶡冠子」• 『鶡冠子』「近迭」「度万」「王鈇」「兵政」• 劇辛故居趙,與龐煖善,已而亡走燕。 燕見趙數困于秦,而廉頗去,令龐煖將也,欲因趙獘攻之。 問劇辛,辛曰:「龐煖易與耳。 」燕使劇辛將撃趙,趙使龐煖撃之,取燕軍二萬,殺劇辛。 『鶡冠子』「世賢」• 趙悼襄王三年「三年,龐煖將,攻燕,禽其將劇辛。 春申君相二十二年 「春申君相二十二年,諸侯患秦攻伐無已時,乃相與合從,西伐秦,而楚王為從長,春申君用事。 至函谷關,秦出兵攻,諸侯兵皆敗走。 兵未罷,秦攻鄴,拔之。 悼襄王卒,子幽繆王遷立。 秦始皇十一年「十一年,王翦、桓齮、楊端和攻鄴,取九城。 王翦攻閼與、轑陽,皆併為一軍。 翦將十八日,軍歸斗食以下,什推二人從軍取鄴安陽,桓齮將。 「趙又嘗鑿龜數筴而北伐燕,將劫燕以逆秦,兆曰大吉,始攻大梁而秦出上黨矣,兵至釐而六城拔矣,至陽城,秦拔鄴矣,龐援揄兵而南則鄣盡矣。 臣故曰:趙龜雖無遠見於燕,且宜近見於秦。 秦以其大吉,辟地有實,救燕有有名。 趙以其大吉,地削兵辱,主不得意而死。 又非秦龜神而趙龜欺也。 」 参考文献 [ ]• - 宋の陸佃らによる校注有りの原文。 聚文堂、嘉慶甲子(1804年)。 - 原文の電子テキスト。 注釈は無し。 - 立命館大学中国文学専攻による書き下し文(度万第八まで)。 関連項目 [ ]•

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