明智光秀年表。 明智光秀の年表

明智光秀とは?生涯をざっくりとおさらいします

明智光秀年表

謎に満ちた前半生 明智光秀は1825年、土岐明智氏の居城「明智城」城主・明智光綱 あけちみつつな とお牧との間に生まれた子です。 18歳で最初の妻・ 千草 山岸光信の娘)と結婚しましたが、早くに死別しました。 次に26歳のとき、 煕子 ひろこ・妻木範煕の娘 と結婚、仲睦まじい夫婦だったようです。 1556年、光秀が29歳のとき、 斎藤義龍が父の 斎藤道三を討ち、道三に仕えていた明智城も攻撃されて落城しました。 このとき、叔父の 明智光安が討死し、明智光秀は本拠を失い浪人となります。 流浪の身となった生活は大変貧しく、妻の煕子(ひろこ)が自分の黒髪を売って生計の足しにしたという逸話が残っています。 この頃、彼がどうしていたのかは謎に包まれていますが、この浪人生活の間に鉄砲などの最新武器の遣い方や和歌などの教養を身に着けたようです。 その後、母方の遠縁だった若狭武田氏を頼って、越前国の朝倉義景に仕えることになりました。 鉄砲の名手で風流な教養人だった 明智光秀が朝倉義景のもとにいたとき、すでに相当な鉄砲の腕前だったようです。 「明智軍記」によると、45メートルほどの距離から鉄砲を100発撃ってすべて的の中に当てたとのこと。 本当なら凄腕のハンターですね。 一体どこで訓練したんでしょう? また、彼はたいへんな教養人だったので、将軍や公家との交渉役に向いていました。 後に信長に重用されたのもこの理由が、大きかったようです。 光秀は苦労した浪人時代に、自分の黒髪を売ってまで支えてくれた妻の煕子(ひろこ)をとても大切にしたそうです。 40歳で織田信長の家臣になる 1569年には、浅井氏から離れ織田信長に仕えました。 このとき織田信長は34歳、明智光秀は40歳で6歳年上の家臣です。 ここから出世していくことになるので、かなり遅咲きの晩期大成型ですね。 織田信長は光秀の頭がよく気品があり、公家文化に精通しているところ、博識なところをたいへん気に入っていたようです。 でも、光秀は信長が「大うつけ」と呼ばれていたヤンキー時代を共に過ごした家臣たちとは違う新参者でした。 それでも光秀は 「比叡山延暦寺焼討」「長篠の戦い」などで次々と戦功をあげ、信長の家臣の中でいちばんの出世頭となりました。 ところが、なぜか 1582年(天正十年)、本能寺で織田信長を襲う「本能寺の変」を起こしたのです。 そして、そのわずか10数日後に、信長の家臣で同僚だった羽柴秀吉 豊臣秀吉 に 「山崎の戦い」で敗れ、討たれたのでした。 「本能寺の変」 「本能寺の変」は1582年に明智光秀が主君の織田信長を裏切り信長が宿泊していた京都の本能寺を襲撃した事件です。 当時、近畿地方を制圧しつつあった織田信長は、次に中国地方を攻略するよう羽柴秀吉に命じていました。 そして、明智光秀に羽柴秀吉の援軍として中国地方に行くよう命じたのです。 光秀は軍を丹波 兵庫県)まで進めましたが、なぜかそこで突如引き返し、主君・織田信長がいる京都の本能寺に向かい、そこを急襲したのです。 本能寺に目標を変えたとき、光秀が兵に言ったとされるのが、あの超有名な言葉。 「敵は本能寺にあり!」 歴史ドラマの本能寺の変で必ずと言っていいほど出るセリフです。 忠臣のまさかの裏切りにびっくりの信長は槍を持って戦いましたが、多勢に無勢、どうしようもありませんでした。 そして、このとき織田信長が発したのが、またまた超有名なこのセリフ・・・ 「是非に及ばず」 とうとう織田信長は自刃し、本能寺は炎に包まれました。。 ちなみに「是非に及ばず」は「やむおえぬ」という意味ですね。 そして残されたのが、光秀が信長を襲った、つまり「本能寺の変」の動機の謎、なぜ光秀はこのとき信長を襲ったのか? Why? Why? Why? 歴史家の検証を待ちたいところですが、いまだ結論は出ていません。 ブラック社長・信長に強い恨みを抱いていた(怨恨説) 信長を処分して自分が社長になりたかった(下剋上) 朝廷にそそのかされた(朝廷陰謀説) 足利将軍家にそそのかされた(将軍陰謀説) 羽柴秀吉にそそのかされた(秀吉黒幕説) 徳川家康とタッグを組んでいた(家康黒幕説) このような想像力をかきたてられるいろんな説が出ています。 どれもありそうな感じですが、複合的な動機だったとも考えられます。 明智光秀の簡単年表 ・1528年 0歳 美濃国 岐阜 で明智城城主・明智光綱の長男として誕生。 ・1535年(8歳) 父・明智光綱が自刃し明智家の家督を継ぐ。 幼年だったため叔父・明智光安が後見人に。 ~~~空白の十年~~~ 浪人となり各地を転々とする。 鉄砲の技術や高い教養を身に着けたらしい。 ・1565年(37歳) 越前 福井県 の大名・朝倉義景に仕官。 ・1568年 40歳 朝倉義景から織田信長に乗り換え。 ・1571年 43歳 織田信長の 「比叡山延暦寺焼討」. 明智光秀は実行部隊として参戦。 ・1572年 44歳 近江国5万石をget。 坂本城築城。 ・1577年 49歳 丹波地方 京都府と兵庫県の一部 攻略。 ・1579年 51歳 丹波国29万石をget。 ・1582年 54歳 豊臣秀吉とともに中国地方攻めに参加。

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【刀剣ワールド】明智光秀の年表|戦国武将

明智光秀年表

明智光秀の生涯を年表でご紹介します。 明智光秀の出自については、史実が残っておらず、諸説がいくつもあります。 明智光秀の死後、江戸時代中期に書かれた「明智軍記」によれば、美濃の守護であった土岐氏(源氏)の一族であると記されていました。 また、「明智氏一族城家相伝系図書」では、明智光秀の母「牧」の妹は、斉藤道三に嫁いだ「小見の方」で、その娘、濃姫(織田信長の正室)と明智光秀は、いとこ同士ということとなっています。 ただし、これも通説の域で、確かなものではありません。 明智光秀が主人公である大河ドラマ「麒麟がくる」では、この説を取り上げており、この年表でも明智光秀が土岐一族の分家だという説を採用しました。 生誕も1528年(享禄元年)として明智光秀の年表をまとめております。 1528年 (享禄元年) 1 歳 の家臣で、土岐氏の分家である明智光綱の長男として美濃多羅城に生まれ、その後、明智城へ移る。 通称は十兵衛 多羅城 1533年 (天文2年) 5 歳 斎藤道三が、稲葉山城から美濃の守護・土岐頼芸を追放して城主となり、実質的に美濃を支配下に治める 1535年 (天文4年) 7 歳 父 明智光綱が死去し、が家督を相続。 叔父で明智城主の明智光安の後見を受ける 1544年 (天文13年) 17 歳 稲葉山城の斎藤道三をが攻め入る「加納口の戦い」に参戦。 斎藤道三の計略で織田軍は大敗を喫する 井ノ口 1556年 (弘治2年) 29 歳 斎藤道三と長男・斉藤義龍が「長良川の戦い」で争い、斎藤道三は討ち死に。 このとき、斉藤義龍に明智城も攻め落とされる。 明智家は離散し、明智光秀は浪人となって、諸国遍歴に出る。 この時期に幕臣としてに仕えていた細川藤孝と知り合う 長良川 1571年 (元亀2年) 44 歳 織田信長の命で、明智光秀らがを実行。 数々の功績が認められ、織田信長より近江国滋賀郡(現在の)5万石を与えられ、坂本城の築城を開始する 1572年 (元亀3年) 45 歳 「小谷城の戦い」で織田信長に従い、上から水軍を率いて攻撃し、近江の浅井長政を攻める 1573年 (天正元年) 46 歳 明智光秀は、「槇島城の戦い」で織田信長側で出陣。 足利義昭は降伏し、京を追放される。 室町幕府が滅亡 槇島城 坂本城が完成し、会を催す 「一乗谷の合戦」で、織田信長が朝倉義景を破り、を滅ぼす 1574年 (天正2年) 47 歳 が東美濃を攻めた「明智城の戦い」に出陣する 1575年 (天正3年) 48 歳 織田軍は「」で、鉄砲戦術により武田軍を大破し、勝利を収める。 その勢いのまま、越前一向一揆を討伐。 織田信長はさらに勢力を広げ、丹波攻略に力を入れる 1576年 (天正4年) 49 歳 織田信長の命を受けて、1570年から続く浄土真宗本願寺勢力の本山・石山本願寺を攻める。 この時期に亀山城の築城にも着手 石山本願寺 明智光秀の妻・煕子、病にて死去 - 1577年 (天正5年) 50 歳 松永久秀の居城「信貴山城の戦い」に参戦。 この戦いで松永久秀は自害 信貴山城 1578年 (天正6年) 51 歳 坂本城で茶会を開く 明智光秀の娘・玉(のちのガラシャ)がに輿入れする - 1579年 (天正7年) 52 歳 織田信長が丹後国(たんごのくに:現在の北部)を配下にし、明智光秀に一国(29万石)が与えられる 1580年 (天正8年) 53 歳 明智光秀が横山城を大改修して、福知山城に改名 1581年 (天正9年) 54 歳 坂本城で連歌会と茶会を催す。 細川藤孝と共に丹波の見地を行なう.

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明智光秀の生涯(年表付き)文武両道・真面目なエリートはキレると怖いのだ!

明智光秀年表

1547年(光秀19歳)1~2話 1話(光秀、西へ)• 美濃の国の明智十兵衛光秀()、初めて鉄砲を目にする。 主君・斎藤道三()に願い出て、京へ鉄砲を買いに行き、 名医・望月東庵と駒()を美濃に連れてくる。 2話(道三の罠)• 斎藤道三()、織田信秀()と戦う。 道三、娘・帰蝶()の夫、土岐頼純()を毒殺する。 道三の家臣たち道三に不満を待つことになる。 1547年の主なできごと• 足利義輝()が将軍に就任する。 松平竹千代()が今川家へ人日に送られる途中奪われて、 織田信秀()の人質になり、居城・古渡城へ送られる。 斎藤道三()と織田信秀()が稲葉山城に攻めてくるが、 信秀は大敗した。 () 1548年(光秀20歳)3~8話 3話(美濃の国)• 斎藤道三()、土岐頼芸()に守護につくよう願い出る。 斎藤道三()と斎藤義龍()親子の対立が明らかになる。 4話(尾張潜入指令)• 十兵衛()と菊丸()、信秀の状況を知るため尾張へ潜入• 先に尾張に行った東庵から信秀の体調を知り、長くないことを知る。 尾張から帰る途中襲われるが、何者かに助けられ、 菊丸はただの農民でないことが判明。 5話(伊平次を探せ)• 鉄砲に興味を持った道三の命を受け、十兵衛()は、 京に伊平次()を探しに行く。 松永久秀()から鉄砲の真の力は戦を減らす抑止力になると聞く。 久秀とともに伊平次()の元へ行く。 6話(三好長慶襲撃計画)• 十兵衛()は伊平次()から三好長慶()の 襲撃計画があることを聞き、三淵藤英()に助けを求める。 十兵衛()の懇願が将軍・義輝の耳に届き、 三好長慶()と松永久秀()の救出に成功。 肩に重傷を負った十兵衛()を駒()が懸命に看病。 美濃で戦があったと聞き、一緒に美濃へ戻る。 7話(帰蝶の願い)• 尾張に行きたくない帰蝶()と海を手に入れて国を豊かにしたい道三。 2人の間で板挟みとなり、帰蝶()の願いである織田信長()を、 見に尾張へ潜入する十兵衛。 8話(同盟のゆくえ)• 尾張へ信長を見てきた十兵衛()は、母に背中を押され、 帰蝶()に尾張へ行くことを進言する。 帰蝶()は信長に嫁ぐことを決め尾張へ行く• 駒()は十兵衛()に本当の気持ちを聞いて、京に戻る。 1548年主なできごと• 小豆坂の戦いで織田信秀()が今川義元()に敗れる。 1549年 麒麟がくる 9~10話 9話(信長の失敗)• 何者かが竹千代()の父・松平広忠()を討ち取る• 帰蝶()と結婚した信長は、信秀に広忠の首をみせ、激怒させる。 帰蝶()、竹千代()に出会う。 10話(ひとりぼっちの若君)• 十兵衛()は道三の命により、帰蝶()に、 会いに尾張の国へと行き、信長と初対面する。 竹千代()は信長と将棋を指し、駿河の今川を見たいと言い、 菊丸(岡村隆史)が竹千代()を守る三河の忍者であることがわかる。 1549年の主なできごと• フランシスコ・ザビエルが上陸し、キリスト教が伝来する。 安城城の戦いが最後となる。 信秀と義元の最後の戦いとなる。 細川晴元()が三好長慶()の反乱で失脚する。 1556年 17・18話 17話(長良川の対決)• 斉藤道三()と子の義龍()が長良川で対決• 道三の敗戦を知り、十兵衛()は義龍と決裂する。 明智光安()は、明智家存続のために十兵衛と 左馬之助()を逃がすことを決める。 帰蝶()は伊呂波太夫()を美濃へ送り、 十兵衛の逃亡の手助けをする。 18話(越前へ)• 十兵衛たちは朝倉義景()を頼り、越前へ逃げのびる。 信長が謀反の動きがあった弟・信勝()を暗殺する。 1556年の主なできごと• 美濃の国で斎藤道三()と斎藤義龍()が争う長良川の戦いが勃発。 長良川の戦いで勝利した義龍は、明智家を襲撃。 こちらの記事で長良川の戦いをまとめました。 こちらの記事で長良川の戦い後の、明智城の戦いをまとめています。 道三ロスに耐えられない!そんな方のために斎藤道三名言集を作りました! 1560年 20・21話 20話(家康の文)• 駒()が家康に戦から生きて帰ってこれると言われる丸薬を渡す。 仕官を願う十兵衛は朝倉義景()に愛想を尽かし、 信長の戦いを見ようと尾張に向かう。 家康の母が、家康に今川軍から離れ、織田軍につくように伝える手紙を 菊丸()が届ける。 21話(決戦!桶狭間)• 織田信長()は圧倒的大軍と思われていた今川軍に対して、 策を練り戦いに挑むことにする。 徳川家康()の三河軍は、今川勢に軽んじられていて、出陣を拒否する。 毛利新助()が今川義元()を討ち果たす。 1560年の主なできごと• 尾張の国の織田信長()と遠江・駿河の国の、 今川義元()の桶狭間の戦いが起こる。 桶狭間の戦いはこちらの記事で紹介しています。 桶狭間の戦いの後、松平元康()が岡崎城を奪回する• 松永久秀()が多門山城の築城を開始する。

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