般若 心 経 解説。 「…なんだそうだ、般若心経」般若心経の意味をわかりやすく読み解きます

=般若心経秘鍵= 弘法大師 空海

般若 心 経 解説

摩訶原語(梵語、サンスクリット語)の「マハー」の音訳(写音による漢訳)。 意訳(意味による漢訳)では「大」。 「大いなる」という意。 般若原語「プラジュニャー」の音訳。 意訳では「智慧」。 一般的に言われる知(知識、分別知=思量分別する能力)と区別するために「般若」と音訳のままよく用いられる。 また無分別知とも解釈される。 「真実を正しく知る能力」、あるいは「よりよく生きることに関わる深く優れた智慧」の意。 波羅蜜多原語「パーラミター」の音訳。 意訳は「到彼岸」で彼岸(悟り)に到ること。 「完成」とも訳される。 摩訶般若波羅蜜多で「大いなる智慧の完成」と訳すこともできる。 心経心の原語は「フリダヤ」で、心臓の意味であるが、精髄・精要を意味する。 また、ものの中心(芯)という意味がある。 ここでは、「肝心要の教え」の意。 観自在原語は「アヴァローキテーシュヴァラ」で、玄奘は「観自在」と意訳したが、鳩摩羅什は「観世音(観音)」と訳し、智慧輪は両方を取って「観世音自在菩薩」と訳している。 多くの人々をよく観察して自由自在に救う働きを意味している。 菩薩原語「ボーディサットヴァ」の音訳で、菩提薩タ(ばだいさった)の略語。 「さとりを求める者」「求道者」の意。 五蘊原語「パンチャ・スカンダ」の意訳。 「五つの集まり」の意。 五つとは「色」「受」「想」「行」「識」を指す。 「色」は原語「ルーパ」の意訳で「形のあるもの」を意味し、ああらゆる物質的現象として存在するものを指す。 あらゆる存在(形あるもの)が、「色」という漢字に置き換えられてのは、私たちが眼によって見ている対象物としての存在は、色の違いによってその形が認識されると考え、眼で色によってその形を認識しているところのあらゆる存在のことを「色」と漢訳したものと考えられる。 「受」は原語「ヴェーダナ」の訳で、いわゆる「感覚」「感受」のこと。 苦や楽などを感じることをいう。 「想」は原語「サンジュニャー」の訳で、「表象」の意。 つまり知覚・感覚して対象物が意識されることで、青・黄などの色を了解したり、対象物が何であるかを、記憶や想像によって知ることをいう。 「行」は原語「サンスカーラ」の訳で、外界対象を知覚・感覚して、感じ、意識し、認識したものが一定の方向に向かって働いて行くことをいう。 意志するこころの働きである。 「識」は原語「ヴィジュニャーナ」の訳で、「分別して知る」という意。 我々は、眼・耳・鼻・舌・身・意という六根(主体的な認識作用)によって、色・声・香・味・触・法という六境(客体的な対象世界)を認識している。 その認識が眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識であり、「識」はこの六識の総称である。 *十八界 (六根)(六境)(六識) 眼………色………眼識 耳………声………耳識 鼻………香………鼻識 舌………味………舌識 身………触………身識 意………法………意識 一切の存在はこの「色」「受」「想」「行」「識」の五蘊によって構成されているとする。 すなわち五蘊とは、世の中の一切の物質的現象的存在、あるいは物質的現象的存在と精神的作用とが和合したところの存在のすべてをいう。 空原語「シューニヤター」の訳で、原意は「何もない状態」「ゼロ(零)」を意味するが、何もないというのは何も存在しないというのではなく、この世に存在するあらゆる存在は実体的存在ではないことを意味する。 すなわち、あらゆる存在は先の五蘊(色・受・想・行・識)あるいは四大(地・水・火・風)といった要素が関係し合って仮りに和合して存在しているのであって、現象(現に象あるもの)としてはそこに有っても、変化してゆくものであり、永遠に一定不変ではないことをいう。 舍利子釈尊の十大弟子の一人であるとされる「シャーリプトラ」のことで、智慧第一とされる。 舎利弗、鷲鷺子ともいわれる。 色不異空空不異色色即是空空即是色「色」が「空」であることを示したもの。 「色」とは、眼に見えているところのすべての存在のこと。 我々は眼(視覚)・耳(聴覚)・鼻(臭覚)・舌(味覚)・身(触覚)などによって外界のあらゆるものごとを認識するが、最も中心的には眼で物を見て外部の在り方を知る。 その場合、色(いろ)によって形を判断し、認識するので(もちろん遠近感によって、光によって、周波数によって、などなど、種々の認識方法も用いているが)、眼に見えているあらゆるもの、色(いろ)によって認識しているあらゆるもの、つまり、「すべての存在」を「色(しき)」と言う。 「空」とは、すべての物事は因縁和合によって生起している現象であり、ある時、ある場所で、ある条件ののもとに象(かたち)を現しているのであって、ほかのものと関わらず存在し、それ自体でいつまでも変わらずに存在し続けるものではないことを意味する。 つまり、「固定した実体がない」「一定不変でない」「移り変わりゆく」という意味。 ゆえに、色即是空とは、すべての存在は一定不変ではなく、移り変わりゆく、固定した実体がないものであることをいう。 受想行識亦復如是受・想・行・識(前出)も「色」と同様に「空」であることを言ったもの。 諸法この世に存在するすべての物質・現象のこと。 不生不滅「諸法」(あらゆる存在)は「空」であるから、生ずることも滅することもない。 「空」の部分で説明したように、「諸法」はさまざまな要素が関係し合って仮りに和合して存在しているのであって、現象(現に象あるもの)としてはそこに有っても、変化してゆくものであり、永遠に一定不変ではないことをいう。 さまざまに相を変えて存在してゆくのであり、新たに生じたり、全く消滅してしまったりするものではない。 不垢不浄「諸法」は「空」であり、本来、清浄(不垢)であるとも不浄であるとも言えない。 浄・不浄は人間の思量分別によるものであって、本来、存在そのものにはキレイもキタナイもない。 不増不減「諸法」は「空」であって、増えることもなければ減ることもない。 つまり、さまざまな要素がさまざまに結合・和合して一切は存在しているのであって、全体から見れば増えも減りもしない。 たとえば、大気圏を含めた地球上の存在は、箇々の存在は増えたり減ったりしているように見えても、全体としてはその質量には変わりがないようなものである。 無眼耳鼻舌身意眼・耳・鼻・舌・身・意が無いということ。 これらは、次の色・声・香・味・触・法を見聞覚知するもの(主体)であるが、「無い」と言っても、全く存在しないということではなく、本来「空」であることをいう。 無色声香味触法色・声・香・味・触・法が無いということ。 これらは先の眼・耳・鼻・舌・身・意によって認識されるもの(客体)であるが、これも本来「空」であって実体的に存在するものではないことをいう。 無眼界乃至無意識界眼識界・耳識界・鼻識界・舌識界・身識界・意識界が無いことをいう。 これも、先の六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)と六境(色・声・香・味・触・法)が本来「空」であるから、六根が六境を認識して得るところの六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)も「空」であることをいう。 ここのみに「界」(要素の意)の語が付されているが、六根も六境も、この六識もすべて「界」であり、合わせて「十八界」という。 仏教では、世界はこの「十八界」より成っていると説き、これらがすべて「空」であることをここでは示している。 無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽十二支の因縁の各支も無く、それが滅尽することも無いことをいう。 これも「無い」とはいっても本来「空」であるからこのように示している。 十二因縁では、因果の法則によって「無明」があるので「行」があり、「行」があるので「識」があり、乃至「生」があるので「老死」があると説き、故に「無明」が滅尽すれば「行」が滅尽し、「行」滅尽すれば「識」が滅尽し、乃至「生」が滅尽すれば「老死」が滅尽すると説くが、『般若心経』では、すべて「空」であるから、そもそも「無明」も無く、もともと「無明」が無いのであるから「無明が尽きる」ということも無いと説いている。 無苦集滅道苦・集・滅・道の四諦(四つの真理)も無いという意。 生・老・病・死の四苦、これに愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦を加えて八苦という。 人生はこれらに満ちているという真理。 この四諦説は、まず苦諦を説くが、先に十二因縁について、本来「空」であるから「生」も「老死」も無いとする『般若心経』では、苦・集・滅・道という四つの真理も本来「空」であるとするのである。 無智亦無得真理を悟る智(能証)もなく、悟られるような真理(所証)もないう意。 本来「空」である立場からすれば、このようにも言われる。 無所得所得するものがない意。 本来「空」であるから、これといって得ることのできる確固たるものはない。 心無ケイ礙「心にケイ礙なし」と読むが、原語は「心を覆うものがない」の意。 迷悟・生死・善悪等の意識によって心を束縛されることがないという意味。 顛倒夢想原語ヴィパリヤーサの訳。 正しくものを見ることができない迷いをいう。 究竟涅槃「究竟」とは、原語ウッタラの訳で「最上至極のところ」の意。 行き着くところに行き着く意。 「涅槃」は原語「ニルヴァーナ」の音訳で、一切の迷いから脱した境地をいう。 三世諸仏過去・現在・未来の三世にまします無数の多くの仏たち。 阿耨多羅三藐三菩提原語「アヌッタラ・サムヤック・サンボーディ」の音訳。 意訳では「無上正等正覚」。 この上なく正しく平等な覚りのこと。 大神咒原語は「マハー・マントラ」。 「マハー」は前出「摩訶」に同じ。 「マントラ」は真言(如来の真実の語)のこと。 「マントラ」とは、元来ヴェーダに見られる讃歌・祈祷句・呪文を意味するが、それが仏教にとり入れられ、仏教における「呪文」を意味し、さらに「真言」と訳された。 大乗仏教では、「ダーラニー」(陀羅尼)と並んで広く用いられた。 陀羅尼は、漢訳経典では「能持」とか「総持」とか訳され、元来、「すべてのことをよく記憶して忘れない力」を意味し、また、保持するという意味を持ち、当初は仏教の教理や言葉を記憶し、忘れないための祈りの言葉として用いられた。 記憶して忘れないようにするには、口で唱えて覚えるのがもっとも効果的であることは、我々が日頃唱える経典の記憶術としても証明されているところであるが、この口でブツブツと唱えて記憶する姿をさして陀羅尼と呼ぶようになり、ひいては、この唱える言葉(呪文)そのものを陀羅尼というようになった。 現在では「呪文」そのものを陀羅尼と言い、かえって、呪文そのものに「善法を持して散失せしめず、以て悪法をさえぎる力あり」などと解釈される。 特に密教では、「マントラ」あるいは「ダーラニー」は真理そのものであると尊重し、翻訳することなくそのまま口に誦える。 誦えれば真理と合一することができると説かれる。 大明咒真言(マントラ)のことを、また明咒という。 迷いの闇を明るく照らす真言であることによる。 無上咒この上ない真言の意。 無等等咒無等等とは「無比」「比類無い」とい意。 比類のない真言の意。 ギャー諦ギャー諦 波羅ギャー諦 波羅僧ギャー諦 菩提娑婆訶原語は「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディスヴァーハー」。 決定的な翻訳は困難であるとされ、古来、不翻(翻訳しない)とされている。 故に漢訳もチベット訳も音訳のみで、意訳していない。 中村元博士は、一訳として、「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、さとりよ、幸いあれ」あるいは「往けるときに、往けるときに、彼岸に往けるときに、彼岸に完全に往けるときに、さとりあり、スヴァーハー」と訳している。 「スヴァーハー」は成就などと訳されるが、願いの成就を祈って、咒の最後に唱える秘語である。 (註の作成にあたって、中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』(岩波文庫)を参照した。 ) 仏教の開祖釈尊は、「縁起〔えんぎ〕」という宇宙の真理を悟り、これに基づいた「四諦〔したい〕説」という現実問題の解決法を用い、その中の「道諦〔どうたい〕」すなわち八正道〔はっしょうどう〕(中道)の実践によって、自らの人生問題の解決をはかり、この方法論および実践を用いて、多くの人々の苦悩を救済した偉大な人物、と言うことができる。 簡単に言えば、宇宙の真理を洞察し、私たちが苦しんでいる現実の人生のさまざまな問題を、まず自ら解決し、そして人々をあらゆる苦しみから救った人物、ということになる。 その宇宙の真理をまた呼んで「法」と言い、その在り方を「空」と言い、人生の現実問題の解決方法を「智慧」(般若)と言う。 『般若心経』は、この「空」と「智慧」を説いた、仏教において最も有名なお経である。 ところで、当初、釈尊の仏教は、このようなものであり、釈尊によって多くの人々が救われ、また多くの弟子ができたのは当然のことであった。 そして釈尊亡き後、弟子たちはその教えを多くの人々に伝えてゆくが、当時は書き記して残すということはなされず、しばらくの間は口から口へと教えが伝えられていった(口伝)。 そして教えを確実に記憶する方法として、繰り返し繰り返し反復して言って覚えるということが行われ、これがお経のもととなったのである。 釈尊滅後三〇年くらいまで、(これを根本仏教の時代などという)だいたい釈尊の弟子たちが生存していた頃までは、弟子たちもまとまっており、教えも比較的正しく伝わっていたが、その後しだいに教えが伝承される間に、食い違いが生じ、釈尊滅後約一〇〇年ころ(この時期くらいまでを原始仏教の時代という)には、教団の内部で意見の対立が生じ、保守的な上座〔じょうざ〕部と進歩的な大衆〔だいしゅ〕部に分裂し、その後二〇〇から三〇〇年後には一八から二〇の部派に分かれていった。 この時代が部派仏教の時代である。 この部派仏教の時代の仏教は、学問的な仏教が中心で、経蔵などに説かれている語句を定義・説明したり、種々に分類整理して組織・体系化することが盛んに行われた。 この時代の仏教は、教義の確立という点では非常に大きな功績を残したが、仏教本来の宗教活動、つまり人々の苦悩を救うという実践においてはこれを怠るものであった。 部派仏教の僧侶は、釈尊が教えた遍歴の生活をやめ、王族や豪商などの保護のもとに安定した定住生活を送り、学問や自己の修行(主に冥想)に専念していたのである。 紀元前一世紀頃、このような仏教のあり方に対する反発・批判が巻き起こった。 「これが本当の仏教か」「釈尊が教えた修行者の生き方か」という批判である。 学問化し、哲学化し、形骸化してしまった仏教のあり方に反発する僧侶や在家信仰者が、仏教の革新運動をおこした。 これがいわゆる大乗仏教の運動である。 大乗仏教徒は、従来の部派仏教を小乗仏教と言って批判し、独自の経典を「仏説」の名において作成した。 だから当然のことながら、これらの経典には作者が記されていない。 また、「釈尊がこの時代に教えを説いたとすれば、このように説かれたに違いない」という信念に立って経典を作成した。 これが「大乗経典」である。 大乗経典には、『般若経〔はんにゃきょう〕』『法華経〔ほけきょう〕』『華厳経〔けごんきょう〕』『涅槃経〔ねはんぎょう〕』『阿弥陀経〔あみだきょう〕』などがある。 大乗仏教はその後、これらの経典に基づいて発展していった。 その先駆的役割を果たしたのが『般若経』であり、「空」の思想である。 『般若心経』はこの『般若経』の中の一つであり、この短いお経の中に「空」の思想が凝縮され、収まっているとされる。 つまり、「固定した実体がない」「一定不変でない」「移り変わりゆく」ということである。 ゆえに、『般若心経』に示される有名な「色即是空」とは、すべての存在は一定不変ではなく、移り変わりゆくものであることを言う。 このような「空」の思想が、大乗仏教の基本的教説となったのは、小乗仏教の基本的思想であった「縁起説」(因果関係・相互関係によってあらゆる物事は成り立っているという説)を、さらに自由な立場から実践的に捉えてゆくところにあったと言える。 また、法(教え)の研究(学問)よりも、仏としての実践が重要視され、仏のはたらきとしての「智慧」(般若)と仏の世界に導くための「方便」が強調されたのである。 このような「空」の思想を中心として、大乗仏教は大いに発展し、展開し、多くの教えを生み出していった。 日本の仏教のほとんどは、この大乗仏教の流れを汲み、この『般若心経』(特に玄奘訳)は浄土教以外のほとんどすべての宗派によって重んじられ、講説され、読誦されている。

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般若心経の解説

般若 心 経 解説

もっとも有名なお経の1つ 『般若心経』は短いお経であり、おそらく日本でもっとも広く知られているお経です。 そして、知られるだけの内容が、確かにこの経典には存在します。 ただ、 読めばその内容が理解できるかといえば、それは難しいと言わざるをえません。 基礎的な仏教の知識がなければ理解できない言葉がいくつもでてきますし、余分な言葉は削ぎ落とされてエッセンスだけで構成されているため、わかりやすく伝えようとする配慮は皆無。 それだけに、解説書も山のように存在します。 しかし悩ましいのは、その解説書がまた難解なところ。 解説書の解説書が必要なのではないかと、私自身、思わず断念して閉じてしまった本も少なくありません。 『般若心経』の構成 『般若心経』は ブッダの弟子の一人であるシャーリプトラに、観音菩薩が教えを説くというシチュエーションで全文が構成されています。 しかし、それも一般的には知られていないことであり、それがこの物語の理解を一層遠ざける結果となってしまっているようにも思います。 じつは日本に伝わっている『般若心経』は「小本」とよばれるものであり、このほかに「大本」よばれるものが存在するのです。 「小本」と「大本」は、その説かんとする内容に違いはありませんが、 「大本」にはプロローグとエピローグが付いているという点が異なります。 そこで述べられている状況設定が「小本」には存在しないため、どうしても「小本」は唐突に話がはじまるように感じられてしまうのです。 もし「大本」の内容を知りたい方は、『般若心経』の訳本として古典のような不動の存在となっているをご一読されることをオススメします。 わかりやすく現代語訳する 物語のなかで観音菩薩は、一人の人間のような存在として登場しているので、ここでの訳においても観音菩薩は人間のような存在として書きました。 そのほうがわかりやすいと思うからですが、そうした配慮が果たして訳として相応しいかといえば、それはわかりません。 私はあくまでも、 1つの物語としてもっとも理解しやすい形の『般若心経』の現代語訳が書きたいのであって、原文を忠実に訳したいわけではありません。 『般若心経』は何が言いたいのか、何を伝えたいのか、その意図するところを訳したいのです。 したがって、原文には記載がないけれども補足すべき事柄があるというような箇所には、注釈とすべきことも本文のなかに組み込んで書きました。 これはもう訳を越えてしまっているわけですが、それがなければ『般若心経』をわかりやすく読むというのは不可能に思います。 正確性を重視した忠実な訳の解説書は数多あるので、ここで一通り内容を理解した後にそれらで詳細に学ぶという方法をとったほうが、おそらくは理解しやすいものと思います。 では、さっそく『般若心経』の現代語訳(私訳)に移りましょう。 太字で書かれているのが原文で、( )に書かれているものが読み方(唱え方ではない)で、その下に書かれているのが訳になります。 照見五蘊皆空 度一切苦厄 (しょうけんごおんかいくう どいっさいくやく) 私たち人間という存在は、身と心によって成り立っている。 だから私は、自分とは何かを知るために、 この身と心のどこに自分が存在しているのかを確かめようとした。 しかし、物質的な肉体も、視覚・聴覚といった感覚作用も、それを受けとる知覚も、あるいは意思や認識といったあらゆる精神作用すべて、どれを詳細にみても「これこそが自分だ」というようなものを見つけることはできなかった。 確固たる自分は、どこにも存在しなかったのだ。 驚いたことに、 「自分」という実体は、じつはこの世界のどこにも存在しなかったのである。 その真実を知って私は驚きを隠せなかったが、同時に苦悩から解き放たれるような安らぎを覚えた。 色不異空 空不異色 (しきふいくう くうふいしき) まず私たちの体を詳細に観察すれば、これは「体」という固有の「もの」が存在するのではなくて、たとえば原子というような、様々なものがくっついて出来上がっていることがわかるだろう。 つまり「体」が存在するのではなく、いろいろなものが集まってできた「物体」を、私たちは体と「呼んでいる」にすぎないのだ。 これは事実として理解できるね? 体というものは、いや、体だけでなくあらゆる物体は、それ固有の実体が存在しているのではなく、あくまでも何かが集まった「状態」にすぎない。 不変の自分、つまり自性(じしょう)と呼ぶべきものはなく、すべて無自性なのだ。 この、 「あらゆる物体に実体はない」という真実に、まず名前を付けてしまおう。 「物体に実体は存在しない」という真実を、「空」と名付けることにするから、これから私が「空」と言ったら、「物体に実体は存在しない」「自性がない」という意味であると覚えておいておくれ。 色即是空 空即是色 (しきそくぜくう くうそくぜしき) 私たちが感じとるあらゆる物体は、固定的な実体がなく「空」という性質によって成り立っている。 存在を支配する根本の原理は、この「空」という真実なのだ。 そして 存在は「空」であり、変化をする性質であるからこそ、あらゆるものは形をもつことができ、また形を変えることができるのである。 もしも固定的な物体が存在したら、その物体は何をどう加工しようとしても変化をしないことになる。 変化をしないから固定的な物体なのだ。 しかしそのようなものは、この世界のどこにも存在しない。 どのようなものであっても変化をし、だからこそこの世界には多種多様な姿や形をしたものが存在している。 受想行識 亦復如是 (じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ) そしてその「空」という性質は、物体だけでなく、精神作用にもあてはまる。 すなわち、感覚・知覚・意思・認識といったあらゆる精神作用も、形こそないが、変化をするという法則のなかにある。 つまり、物体である身も、精神作用である心も、どちらにも固定的な実体は存在しないということだ。 これが何を意味しているかわかるだろうか? そう、 自分とはこの身と心であるにも関わらず、身にも心にも実体としての「自分」が存在しないということなのだ。 固定的な存在としての「自分」は、どこにも存在しないのである。 ただ、 私たちは脳という器官があり、「考える」という営みができ、「自分」という概念を想起することができるため、この身と心を具えた一つの物体、つまりが自分という存在を、自分だと認識することができる。 できる、というよりも、認識してしまっている、と言ったほうがより正しいかもしれない。 しかし真実としては、自分というものは存在しない。 これはつまり、 「自分」という存在は固定的な存在ではなく、流動的な「状態」の一つにすぎず、結局自分も「空」だということである。 不生不滅 不垢不浄 不増不減 (ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん) あらゆる存在が「空」だとわかると、面白い事実に気がつくことになる。 私たちは、命は生まれて死ぬものだと考えがちだが、それも違うのだ。 あらゆる存在は、いろいろなものが集まって形を為し、そこに形以上の「はたらき」が生まれて「生きる」という活動をしている。 私たちが、自分を自分だと認識して生きていることも、形以上の不思議な「はたらき」のなせるわざである。 「命」もまた実体として存在するものではなく、それは神秘としか言いようのない、不思議な「はたらき」なのである。 「個」が集まってできた「和」には、単なる個の集合以上の不思議な「はたらき」が具わることがある。 それが、 命だ。 だから生き物は、生まれて死ぬのではなく、はじめから実体が存在しない「空」という存在のしかたをするなかで、ただ変化を繰り返している。 この、 「存在は変化を繰り返す」という真実には、「無常(むじょう)」という言葉を当てるとしよう。 「存在」「空」「自性がない」「無常」「変化を繰り返す」「常なるものは存在しない」 これらのキーワードはすべて、互いに深く関係しあっているものなのだ。 存在には「変化」があるばかりで、生まれもしなければ死にもせず、垢がつくこともなければ浄らかなのでもなく、増えもしなければ減りもしない。 ただ、変化を続けるだけである。 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 (むくしゅうめつどう むちやくむとく いむしょとくこ) あらゆるものに実体は無いから、苦しみだって本当は無いし、苦しみを無くす方法だってない。 それらはすべて概念でしかなく、その概念を抱く自分という存在もまた、概念でしかない。 じゃあ、あらゆるものは概念なんだと理解すればいいかというと、それも違う。 ここはとてもややこしいところだが、 頭で理解するという営みが、すでに虚構なのだ。 これらを知識として理解したところで、それは何も理解していないのとほとんど変わらない。 私たちは知識で何でも得ようとするが、存在の本質に関わる部分では、知識としてこれを得ることなどできはしない。 真実を受け取るとは、知識で理解することではない。 だから、得ることなどできないのだ。 遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃 (おんりいっさいてんどうむそう くぎょうねはん) 人は普通、自分のことは自分でしていると思っていることだろう。 だが、本当にそうだろうか。 たとえば、心臓が絶えず拍動を続けているのは、自分の意思か? この体を作ったのは、自分か? 熱い物を触ったとき手を引っ込めるのは、はたして考えた上でのことか? 自分の体でありながら、それらは自分の意思とは関係のないところで自ずとはたらき続けてくれているのではないか。 それなのに、多くの人は自分の体は自分のものであり、自分の意思で自分は生きていると思っている。 存在しないはずの自分を「有る」と疑うことなく所有し続けているからである。 このような誤った考えから離れるだけで、心はずっと安らかになるというのに。 『般若心経』のまとめ 以上が私なりの般若心経の現代語訳です。 頭で理解するだけが理解のすべてではない。 自分の体験でもって理解すること、「腑に落ちる」というような体験、すなわち「体解(たいげ)」を禅は重視しますが、しかし『般若心経』を体解するというのも雲を摑むような話に聞こえるかもしれません。 けれども、「生きること」それ自体が『般若心経』の世界を生きることにほかならないのですから、本当は何も難しく考える必要はないのでしょう。 目の前に広がる世界のすべて、小石1つとってみても、そのすべてが「空」という真理を体現していることを感じで生きれば、それでいいのです。 だから逆に、考えれば考えるほど迷いの深みにはまっていくようなものといえるかもしれません。 前述のように、 『般若心経』は「空」の思想を説いた経典です。 あらゆるものに自性はなく、変化を続けることが存在の本質としてある。 しかし その真実を知ろうとせず、不変を求めたり、不変なるものが存在すると錯覚することで、真実との間に溝が生じ、そこから苦悩が生まれる。 真実を知れば、人はもっと安らかに生きることができるというのに……。 『般若心経』が「空」を説く理由はそこにあります。 すなわち、 執着から離れよ、執着すべきものなど何もない、ということが言いたいのです。 訓読文 観自在菩薩、般若波羅蜜多を深く行じし時、五蘊は皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。 舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空、空は即ち是れ色なり。 受・想・行・識もまた是の如し。 舎利子よ、是の諸法は空なる相にして、生ぜず滅せず、垢つかず浄からず、増さず減らず。 是の故に、空の中には色も無く、受・想・行・識も無く、眼・耳・鼻・舌・身・意もなく、色・声・香・味・触・法も無し。 眼界もなく、乃至、意識界も無し。 無明も無く、また、無明の尽くることも無し。 乃至、老も死も無く、また、老死の尽くることも無し。 苦も集も滅も道も無く、智も無く、また得も無し、得る所無きを以ての故に。 菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙無し。 罣礙無きが故に、恐怖有ること無く、一切の顚倒せる夢想を遠離して涅槃を究竟す。 三世の諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。 故に知るべし、般若波羅蜜多は是れ大神咒なり、是れ大明咒なり、是れ無上咒なり、是れ無等等咒なり。 能く一切の苦を除き、真実にして虚しかず。 故に般若波羅蜜多の咒を説く。 即ち咒に説いて曰く、 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶 般若心経.

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梵行 般若心経 理趣経 勤行解説

般若 心 経 解説

雑学 作成日:2014年11月21日 更新日:2020年02月20日 般若心経にはどんな意味があるの?現代語訳で流れと構成を理解しよう• この記事は小さなお葬式が書いています 般若心経は世界的にも有名なお経です。 日本だけではなく、世界各地で大乗仏教の経典としてたくさんの方に唱えられています。 般若心経は聞いたことがあっても、どのような意味があるのかは知らないという方もいるのではないでしょうか。 般若心経の意味を知ることで、これまで以上に気持ちを込めてお経を唱えられるでしょう。 そこでこの記事では般若心経を深く知りたい方に向けて、般若心経にはどのような意味があるのか、教えや歴史を踏まえながら解説します。 【もくじ】 ・ ・ ・ ・ ・ 般若心経とはどのようなお経? 300文字ほどしかない般若心経には、 仏教の教えの中でも大切な部分がまとめられています。 しかし般若心境は漢文で書かれているため、見ただけで意味を理解するのは難しいかもしれません。 ここからは、般若心経を唱えるにあたり知っておくとよい意味や教えだけではなく、般若心境にはどのような歴史があるのかもご紹介します。 般若心経を唱える意味 般若心経を含め、お経を唱えることは先祖供養につながります。 般若心経を葬儀や法要の際に聞いたことがある方もいるでしょう。 仏教では、 亡くなった方は輪廻転生すると考えられており、輪廻転生をした亡くなった方は幼い子供と同じ存在です。 そのため、亡くなった方にお経を唱え栄養を与えるという考え方をします。 また、僧侶がお釈迦様の説いた教えを葬儀の場で伝えるということも意味のひとつです。 ほかにも、生きている方を力づけるという意味もあります。 般若心経の教え 般若心経の教えは、自分だけではなくすべての生き物を救いたいという考えの大乗仏教に影響を受けています。 般若波羅蜜多経から大乗仏教の神髄をピックアップしているのが般若心経です。 この経典は2つの思想について説かれています。 存在には実体がないという 「空」、悟りとしての 「般若」の思想です。 般若心経は300文字ほどと短いため、お経に普段から触れていない方でも読みやすいといえます。 人々がさまざまなものにとらわれて苦しまないようにという内容です。 1,500年以上前から今もなお、般若心経はたくさんの方に親しまれています。 般若心経の歴史 般若心経は中国の唐の時代までさかのぼります。 玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)という僧侶がインドへ行き、さまざまな教えが記されている経典を仏像などと一緒に中国へ持ち帰りました。 持ち帰った経典は彼の手によって生涯をかけて翻訳されることになります。 翻訳した経典の数は600巻にも及びました。 その中のひとつに般若心経が記されている経典の 「般若波羅蜜多心経」があります。 般若波羅蜜多心経は、古代インドのサンスクリット語から漢文へ翻訳されたものです。 般若心経の全文と書き出し文 般若心経は300文字程度の短いお経です。 しかし、「漢字ばかりの漢文を読む自信がない」という方もいるでしょう。 書き出し文(訓読文)を読めば、初めて般若心経の全文を見る方でも理解がしやすくなります。 般若心経の意味を知るために、全文とあわせて読んでおきましょう。 般若心経の書き出し文 観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行じし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。 舎利子、色は空に異ならず、空は色に異ならず。 色はすなわちこれ空なり、空はこれすなわち色なり。 受想行識もまたまたかくのごとし。 舎利子、この諸法の空相は、不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。 この故に、空の中には、色もなく、受想行識もなし。 眼耳鼻舌身意もなく、色声香味触法もなし。 眼界もなく、乃至、意識界もなし。 無明もなく、また無明の尽くることもなし。 乃至、老死もなく、また老死の尽くることもなし。 苦集滅道もなし。 智もなく、また得もなし。 無所得を以ての故に。 菩提薩埵の、般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙なし。 罣礙なきが故に、恐怖あることなし。 一切の顚倒夢想を遠離し究竟涅槃す。 三世諸佛も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。 故に知るべし、般若波羅蜜多のこの大神呪、この大明呪、この無上呪、この無等等呪を。 よく一切の苦を除き、真実にして虚しからず。 故に般若波羅蜜多の呪を説く。 すなわち呪を説いて曰く、 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経 般若心経の全文を順に解説 般若心経は300字程度で構成されているため、それほど長いものではありません。 そのため、僧侶などでなくとも比較的覚えるのは簡単なものです。 しかし、ただ唱えるだけでなく、その意味を理解しなければ経典を唱える意味は薄れてしまいます。 それぞれの文節毎に意味を確認してみましょう。 (1)誰がどのように般若を得たか 第1のブロックでは、誰がどのようにしてこの思想を得たのか、ということが説明されています。 観音菩薩が悟りを得る修行の中で、この世の 五蘊(ごうん)には実体がないことを明らかにし、苦しみから解き放たれる方法を見つけたことが書かれています。 五蘊とは、人間の意識を構成する5つの要素のことです。 ・色蘊(しきうん):肉体などの物質 ・受蘊(じゅうん):人間が感じるもの ・想蘊(そううん):人間が想うもの ・行蘊(ぎょううん):人間が行うこと ・識蘊(しきうん):人間が認識するもの (2)弟子への呼びかけ 第2ブロックでは、古い弟子である舎利子(シャーリプトラ)に呼びかけています。 1行目には、「この世の形あるもの全てに実体がなく、実体がないからこそあらゆる形を得ることができる。 これは人間の感覚についても同じである」と書かれています。 2行目には、「実体がないのであれば、生まれることもなく、消えることもなく、汚れることもなく、清らかでもなく、増えもせず、減りもしない」と書かれています。 (3)空の思想の説明 第3ブロックでは、第2ブロックでの呼びかけに続く形で、空の思想についての解説がされています。 真実の世界では、目に見えるもの、それによって感じたこと、思ったことなどは全て存在せず、それらの無知からくる悩みもありません。 しかし、その悩み自体は尽きることがありません。 苦しみはなく、それを解決する方法も、それを知る方法もありません。 だからこそ、苦しみを知る観音菩薩はこだわりを持たず、全ての夢想・欲から離れることで涅槃(ニルヴァーナ)へと至ることができたのです。 (4)般若心経の真言について 第4ブロックでは、その悟りの境地に至るための真言について説明しています。 この真言は並ぶことのない言葉であり、これにより苦しみは解き放たれるとされていて、それこそが般若心経なのです。 真言は「 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」の部分で、これには「 往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ」という意味があります。 現代語によって内容が変わる場合がある 般若心経には、サンスクリット語から漢文に訳された背景があります。 現代語訳する場合、翻訳する人によって内容が多少変わる場合もあることを知っておきましょう。 さまざまな言葉や表現方法がある中から、現代語に訳す人の解釈によって表現するためです。 人によっては読み終えた後の感覚に違和感がある場合もありますが、それも現代語訳のよさとしてとらえるのがよいでしょう。 いくつもある般若心経の 現代語訳の違いを楽しむ姿勢が求められます。 般若心経をよく知るために 般若心経はよく耳にしますが、その内容を知るのは難しいと思っている人もいるでしょう。 しかし、現在は書籍やインターネットなどでわかりやすい現代語訳を確認することもできますし、読経の動画などもあります。 こういったものを活用すれば、般若心経を理解しやすくなるでしょう。 掲載サイト: ここで紹介されている現代語訳はある動画に寄せられたコメントで、般若心経の現代語訳をロック調にアレンジしたものです。 動画自体は2010年のものですが、この現代語訳は今でもさまざまなサイトで紹介されています。 掲載サイト: 真言宗のお寺である密蔵院のサイトで公開されている現代語訳です。 柔らかい言葉で書かれているので、比較的わかりやすいと思います。 まとめ 般若心経は、唱えることで先祖を供養したり周りの方に教えを示したりする意味があります。 短いお経ではありますが、その中には大乗仏教の神髄が含まれていることも理解しておきましょう。 お経を見ても何が書いてあるか分かりづらいかもしれませんが、書き下し文を読むことで、意味を理解しやすくなります。 物事にとらわれて人々が苦しまないようにという般若心経の教えを心に留めておくと、救われることもあるでしょう。 葬儀に関するお問い合わせは「小さなお葬式」へ 葬儀に関するご準備は事前に行うことが大切です。 いざという時困らないように、葬儀全般に関する疑問は、「小さなお葬式」へお問い合わせください。 24時間365日専門スタッフがお客様のサポートをさせていただきます。

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