アー シューラー。 モロッコで「超アツい」イベントや祭り4選(民族性や歴史あふれる行事)

アーシューラー

アー シューラー

イスラーム圏全体でみると、少数派なのだ。 以下は、イスラーム教徒の宗派の分布を示したもの。 緑がスンニ派。 オレンジがシーア派である。 イスラーム教には、イバード派やドゥルーズ派と言った別の宗派もあるが、ここではとりあえずスンニとシーアというものがあるんだ〜、と流しておけばよい。 引用元: シーア派が多い国は? イスラーム教徒人口の大半は、インドネシアやパキスタン、インドといったアジアの国が占めている。 シーア派人口の割合が多いのが、シーア派の総本山ともいえるイラン、そしてイラクなどである。 違いが生まれたきっかけ そもそもイスラーム教が誕生した時には、スンニ派やシーア派という区別は存在しなかった。 スンニ派とシーア派という区別ができたのは、預言者ムハンマドの死後のことである。 教科書的に言うと、スンニ派とシーア派を分けるポイントは、預言者ムハンマドの後を誰が継ぐべきかという点である。 「血統」で選ぶべきとしたのがシーア派。 「実力」で選ぶべきとしたのがスンニ派である。 後継者には、ムハンマドの血筋を受け継ぐ人間がふさわしいと考えたのが、シーア派。 「血統」派である。 彼らが後継者として認めたのは、ムハンマドのいとこであり、ムハンマド唯一の愛娘の夫でもあるアリーであった。 このアリーという男。 単なるムハンマドのいとこではない。 ムハンマドがイスラーム教を布教し始めて、2番目にイスラーム教徒に改宗した人物なのである。 カリスマの側近のようなものである。 「シーア」というのはアラビア語で、「党派」を意味し、「アリーの党派」という意味でシーアと呼ばれるようになったのである。 一方でスンニ派は、「とりあえずムハンマドの教えをもとに、みんなで話し合って選べばいいんじゃね?」という人々である。 血筋よりも実力主義で指導者を選ぼう、という人々である。 大半の独裁者やカリスマというのは、後継者を育てることや、指名することをしない。 預言者ムハンマドもそのケースだった。 ムハンマドが、「俺の後釜はこいつや!」だとか、「後継者はこう決めてくれい」と指示すれば、スンニ派やシーア派なんて存在しなかったかもしれない。 日常生活にみる違い スンニ派もシーア派もあくまでも本人たちは、同じイスラーム教徒だよお、とのたまう。 けれども、日常レベルでみると、ずいぶんと違うのだ。 例えば礼拝の回数。 スンニ派は1日5回だが、シーア派は3回である。 たった2回の違いじゃん?と思うかもしれないが、2回の差は結構大きいのだ。 私が改宗した当初は、「礼拝が3回で済むシーア派にしとけばよかったなあ」と後悔したものである。 も違う。 大半は同じだが、シーア派の場合には、「アリーはアッラーの友であると私は証言する」、「善行のために来れ」といった文言が入る。 聖地の数も違う。 同じイスラーム教であっても、シーア派の方が聖地の数が多い。 スンニ派では、メッカ、マディーナ、エルサレムの3つが聖地となっている。 一方でシーア派では、この3聖地に加え、イマームと呼ばれる歴代の指導者たちの墓も聖地扱いになる。 中でも有名なのが、イラクのカルバラーやナジャフ。 カルバラーには、初代指導者のアリーの霊廟、ナジャフにはアリーの息子であり、3代目指導者のフサインの霊廟がある。 シーア派の人々はこうした場所へ、聖地巡礼を行うのである。 スンニ派はこうした聖地に対しては、知らんぷりである。 モスクにみる違い モスクにもその違いがある。 ブルーのペルシャモスクをみると、人々はだいたい「シーア派のモスクだ」という。 ブルーでないシーア派のモスクもあるので一概には言えないところであるが。 典型的なシーア派モスク。 だいたいこの手のタイプはシーア派モスク。 これもシーア派モスク シーア派のモスクに必ず置いてあるのが、「モフル」と呼ばれるお祈りグッズである。 モフルは土の塊を素焼きしたものである。 イスラーム教徒は、礼拝をするときに、おでこを床につけるのだが、シーアの場合は、モフルにおでこをあてがうのである。 モスクで「ご自由にお使いください」と置かれているモフル モフルの土はその辺の土ではない。 シーア派の歴代指導者が眠る、聖なる土地の土を使っているのだ。 スンニ派のモスクでは、決して見られないものである。 シーア派のアイドル、殉教王子 シーア派にはアイドルがいる。 それが殉教王子ことフサインである。 フサインは、先ほど後継者争いの話で出てきたアリーの大事な息子である。 なぜフサインと言う人物が殉教王子なのかを話すと長くなるので、詳細は以下の記事を参照に。 殉教王子は、シーア派にとってのジャニーズ的存在、いやそれ以上の存在である。 シーア派が多い地区に行くと、必ず殉教王子の肖像画を描いた横断幕が見られる。 イスラーム教では、偶像崇拝が禁止されている。 肖像画や石像なんかを作ったら、人々が神をそっちのけに、石や肖像画を崇めるようになるからである。 ところが、シーア派たちは、偶像崇拝のおきてを無視して、そこら中に殉教王子グッズを飾っているのである。 ちなみに、先のアリーもフサインに並んで、シーア派の間ではアイドル的な人気を誇っている。 がある。 近くにはアリーのお墓があり、世界中のシーア派たちが、死後にアリーのお墓の近くで眠ると天国へ行けると信じているのだ。 シーア派特有の祭り「アーシューラー」 シーア派の最大の特徴ともいえるのが、アーシューラーと呼ばれる祭りである。 通称、自虐祭りである。 先の殉教王子フサインを悼む祭りだが、ただの祭りではない。 その最大の特徴は、鎖や刀剣で己の頭を切り裂き、血まみれになりながら、悼むのである。 フサインの痛みを己に召喚させ、故人を悼むという世にも稀なるスタイルをとっている。 そして、行列を作り、小さな子供から大人まで、フサイン!フサイン!と叫び、左胸をこぶしでたたきながら、街を練り歩くのである。 バーレーンにて街を練り歩くシーア派の人々 こうした一体感を醸し出すアツい祭りは、スンニ派にはないものである。 シーア派スピリットを感じる祭りとも言えよう。 ちなみにスンニ派とシーア派は、見た目に違いはないが、名前には特徴がある。 シーア派の指導者である「アリー」や「フサイン」という名前はシーア派に多いと言われている。 さらに付け加えると、シーア派はこのようにイベントが盛りだくさんなので、祝日もスンニ派より多いのである。 宗派が違いが対立を産む? スンニ派とシーア派というと、宗派が違うだけで仲が悪そうである。 中東で起きているいざこざも、宗派対立が原因なんじゃないのと思いがちだ。 けれども、宗派が違うことでいがみ合うことはない。 イスラーム教徒でも、「そんな違い気にしないよ。 同じイスラーム教徒だ」という人もいれば、「同じイスラーム教というのには無理があるんじゃね?」とシーア派をディスる人もいる。 シーア派とスンニ派が同じモスクで祈っても問題はない。 人々もさして、それを気にすることはない。 スンニ派vsシーア派と呼ばれる諸所の問題は、利権問題が絡んでいるケースが多い。 例えば、バーレーン。 国民の半数以上はシーア派であり、スンニ派は少数。 しかし、国の実権を握っているのはスンニ派の王族である。 よって、就職や高い役職につく時、シーア派は不利に立たされやすい。 実際にそうした不満からシーア派による反政府デモも度々起こっている。 逆のこともイランで起こっている。 シーア派が多数を占めるイランのホルムズ島やゲシュム島には少数派のスンニ派たちが住んでいる。 この島では、本土からの積極的なシーア派化が進められており、バーレーンのシーア派たちと同じような境遇に立たされているスンニ派の人々がいる。 スンニ派とシーア派の違いまとめ 両者の違いをまとめるとこんな感じになる。 ・預言者ムハンマドの後継者争いでの考え方が違う。 シーア派は血統、スンニ派は実力 ・礼拝の回数が違う。 シーア派は1日3回、スンニ派は5回 ・シーア派は礼拝時にモフルと呼ばれる道具を使う ・聖地が違う。 イラクのカルバラーとナジャフはシーア派独自の聖地 ・シーア派には「アーシューラー」や「アルバイン」と呼ばれる独自の祭りがある ・シーア派には殉教王子ことフサインと言うアイドルがいる 多数派であるスンニ派からすれば、アイドルを応援したり、独自の祭りで独自路線を貫いているので、異端視されていることも事実だ。 さらにくわしく知るなら 中東の対立は宗派対立が原因?そもそもスンニ派とシーア派の対立が注目されるようになったのはいつから?といった疑問にイランやイラク、レバノンといった国のケースをあげて具体的に解説。 専門的な内容にも関わらず、読みやすい文章で書かれており全体像を見るのに最適。

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痛すぎる祭り・アーシューラー

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次の朝は雨降りだった。 空は鉛色の分厚い雲に覆われていて、冷たい雨がアンズの木々を濡らしていた。 アンズの花の多くは昨日吹き荒れた風で散ってしまい、宿の中庭の階段に吹き溜まっていた。 雨の降りしきるフンザの朝は、昨日とはうって変わって陰鬱な雰囲気だった。 アンズの木陰に集まって楽しそうにお茶飲み話をしていた人々も、今朝は軒先にしゃがみ込んで、寒そうに肩をすぼめていた。 串刺しのヤクの肉を売る屋台の親父も、今日は姿が見えなかった。 この日のうちにフンザを離れよう。 僕はそう決めると、すぐに荷造りに取りかかった。 いつものように、荷造りは5分で終わった。 「あんたがここに来たのは二日前じゃないか?」 僕がチェックアウトすると言うと、宿の主人は大袈裟に驚いてみせた。 フンザの旅行シーズンはまだ始まったばかりなので、客の入りは芳しくないらしく、主人としても何とか引き留めたいのだ。 「この先、何か予定があるのかい? ないんだったら、もっといるべきさ。 明日になれば、きっと晴れるから」 「でも、ここの天気は『神のみぞ知る』なんだろう?」 僕は昨日出会った老人の台詞を引用した。 宿の主人は、まぁそうだがなと頷いた。 「やっぱり今日出発するよ。 ほら、もう荷物だって背負ってるから」 明日になれば、天気は回復するかもしれない。 でも、晴れ渡る桃源郷の風景を再び目にすることになったら、ここを去る決心がぐらつくに違いない。 だから僕は暗く冷たいフンザを後にすることを選んだのだった。 フンザからラワールピンディまでの道のりは、三日前に通ったルートと全く同じだった。 月面を思わせる不毛の大地。 ひとつ間違えれば谷底へ真っ逆様の道路。 狭苦しいバス。 スピーカーから途切れることのなく聞こえてくる音楽。 そして度重なるパンク。 そんな中でも、なんとか眠れるようになったのは、ひとえに「慣れ」のお陰だろう。 「モーニング! ウェイクアップ! ウェイクアップ!」 車掌の男に肩を揺すぶられて目を覚ましたとき、バスはハイウェーの真ん中に止まっていた。 時計は朝の6時を指している。 まだラワールピンディに到着する時間ではない。 それなのに車掌は、「ここでバスを降りろ」と言うのである。 「ここはどこなんだ? どうしてここで降りるんだ?」 そう訊ねても、うまく英語の話せない車掌の答えは要領を得なかった。 とにかくバスが止まったから降りろ、と繰り返すばかりなのだ。 わけのわからないうちに、僕はバスを降ろされ、屋根の上に積んであるバックパックを受け取った。 「パンクのしすぎでスペアタイヤがなくなってしまったのさ」と英語の話せる男が僕に説明してくれた。 「ギルギットから5,6回パンクしたらしいね。 だから、このバスはここから動けない。 でも心配しなくてもいい。 俺達はハイウェーを走ってくるバスを捕まえて、ラワールピンディーまで乗せてもらうから。 もちろん、金はバス会社が払う」 「こういうことは、よくあるんですか?」と僕は聞いた。 「・・・まぁ、いつもではないけど、たまにはあるね」男は苦笑いを浮かべて言った。 男の言った通り、車掌と運転手はハイウェーを走ってくるバスやタウンエースに手を振って止まってもらい、代わりに乗客を運んでもらう交渉を始めた。 この辺の手際の良さを見ると、こういったトラブルは頻繁に起きているのだろう。 それにしても、もっとパンクに強いタイヤを用意できないのだろうか。 とにかく僕らはやってきたミニバンに押し込まれて、ラワールピンディまでの残りの道のりを行くことになった。 ラワールピンディのバスターミナルに到着したのは朝の8時。 そこからすぐにペシャワール行きのバスに乗り換え、ペシャワールに着いたのは正午前のことだった。 ペシャワールでは、旧市街の入り口にある安ホテルに部屋を取った。 ドアを開けると防虫剤の強い匂いが鼻を突き、洗面台には大きな蜂の死骸が転がっているという部屋(おそらく掃除するは月に一度ぐらいなのだろう)だったが、一泊100ルピー(200円)という値段では文句も言えなかった。 僕は部屋に入って荷物を置くと、すぐに虫食い穴だらけのシーツの上に寝転がり、シミだらけの枕の上に頭を乗っけて目を閉じた。 フンザから25時間。 バスを合計5台も乗り継いでの大移動の間、ずっと窮屈な体勢を迫られていた体中の関節が、切実に眠りを求めていた。 どこかのモスクから、昼の礼拝を呼びかけるアザーンの声を聞こえてくる。 でもそれを最後まで聞くことなく、僕は深い眠りに落ちていった。 シーア派最大の宗教行事・アーシューラー ペシャワールの町に着いた日は、イスラム教・シーア派最大の宗教行事である「アーシューラー」の最終日だった。 「今日のアーシューラーは大変な騒ぎになる。 トラブルに巻き込まれるかもしれないから、あんたみたいな外国人は行かない方がいい」 そう忠告してくれたのは、ホテルのボーイだった。 「いや、ノープロブレムさ。 写真が撮りたいなら、自由に撮ればいい」 そう言ったのは、街角でお茶をご馳走してくれた薬局の老人だった。 いったいどちらの意見を信用すればいいのかわからなかったので、僕は他のパキスタン人にも話を聞いてみることにした。 道端で外国人に声を掛けてくる暇そうな男には事欠かないのがパキスタンという国だから(要するにみんな好奇心が強くて親切なのだ)、情報はすぐに集まった。 彼らの話を総合すると、だいたいこういうことになった。 アーシューラーは元々危険なものではない。 しかし、パキスタンでは少数派のシーア派の祭りであるから、多数派のスンニ派と衝突する危険性もある。 政府はパキスタン各地で今も続くイスラムの異宗派同士の対立が、これをきっかけに暴動に発展することを恐れている。 だから武装した警官隊を出して監視しているのだという。 実際にペシャワールの旧市街に入ってみると、パキスタン政府の懸念が本物であることがわかった。 通りという通りには、機関銃で武装した警察官が配置されていた。 屋根の上にまで武装警官が立っていて、トランシーバーで頻繁に連絡を取り合っている。 放水車や装甲車も何台か出動している。 バザールの中の商店も、ほとんどがシャッターを下ろしている。 僕はとりあえず様子を窺おうと、旧市街の路地に入った。 もし危険な雰囲気があれば、すぐに引き返すつもりだった。 路地はすでに大勢の人で溢れかえっていたが、武装警官の厳しい表情とは反対に、行き交う人々の顔はいつものパキスタン人と同じく、陽気なものだった。 道を歩くのは例によって男ばかりで、女性や子供は二階や三階の窓からひょこんと顔を出していた。 この分だと危険はないだろう。 そう判断した僕は人の波に乗って路地を進んだ。 アーシューラーとはどういうものなのか、まるで知らなかったから、とにかく周りに合わせて行動するしかなかった。 そうしていると、また暇そうで親切なパキスタン人が声を掛けてきた。 ディダールと名乗ったその男は、まだ大学生だというのに立派な口ひげを蓄えていて、僕なんかよりも遙かに風采が良かった。 そして上手な英語を話した。 「アーシューラーが危険かどうかですか? 実は一週間ほど前にも、ラホールで大きな衝突が起こって、十人以上死んだらしいんです。 だからポリスも警戒しているみたいですね。 でも安心してください。 アーシューラーは神聖な行事だから、そんな騒ぎにはなりませんよ。 アッラーがお許しにならないでしょうから。 でも警官は危険ですね。 彼らには注意した方がいい」 僕らがそんなことを話していると、群衆のざわめきが大きくなった。 「もうすぐ行列がやってきます」とディダールは言った。 「ほら、歌が聞こえませんか?」 彼の言う通り、しばらくすると男達の歌声が響いてきた。 もちろん、僕には歌の内容はさっぱりわからないのだが、悲哀のこもった歌声が、「ホセイン」「ホセイン」と大声で繰り返しているのは、何とか聞き取れた。 ホセインとはシーア派の人々が最も敬愛する、第3代イマーム・ホセインのことである。 680年、ホセインとその支持者達は、ウマイヤ朝の打倒を目指して立ち上がったが、「カルバラーの悲劇」と呼ばれる戦いで、一族もろとも惨殺されてしまう。 これはシーア派の人々にとって、正義が悪に敗れた悲しむべき出来事で、それから毎年ホセインの殉教した日に、彼の死を悼んで「アーシューラー」を行うようになったのだという。 アーシューラーの行列の先頭に立つのは一頭の馬だった。 頭に冠を載せ、全身を銀モールで飾られた馬である。 その後ろを黒いクルタを着た男達が歌いながら歩き、さらに後ろを上半身裸になった10人ほどの男達が興奮した表情で歩いてくる。 20代の若者から50を超えた白髪の男まで年齢は様々だが、全員が屈強な肉体の持ち主だ。 彼らの胸は赤く腫れている。 そして、それぞれの手には尖った金属片のついた鎖が握られている。 背中には何かでひっかいたような傷が無数にある。 その傷からは、真っ赤な血が流れ出している。 「さぁ、いよいよ始まりますよ」 ディダールが興奮気味に僕に告げる。 いったい何が始まるんだ、と訊ねる暇もなく、ディダールは僕の手を取って、群衆の中をずんずんと進み始めた。 人々は「割り込めはよせ」とかなんとか文句を言ってくるが、ディダールはそんなことお構いなしに突進していく。 けっこう強引な性格のようだ。 しかしとにかく、彼の突進のお陰で、僕はアーシューラーの男達を間近に見られるところに出ることができた。 行列は交差点の真ん中にやってくると、自然に歩みを止めた。 そして、黒いクルタの男達が群衆を押しのけて、直径15mほどのスペースを作った。 裸の男達は、そのスペースに輪を描くように等間隔に並んだ。 「ホセイン! ホセイン! ホセイン!」 男達の歌声がいっそう力強さを増す。 胸に手を当てて、悲しみに満ちた表情で、声を張り上げる。 周りの群衆も、彼らの声に呼応するように「ホセイン!」「ホセイン!」と叫び始める。 裸の男達はまず、自らの胸を平手で打ち付ける。 生半可な強さではなく、思いっきり打つ。 バチッ、バチッという革の鞭で地面を叩くような音が響く。 しばらくすると、男達の胸は真っ赤に紅潮してくる。 内出血を起こして赤紫色になっている者もいる。 歌声は渦を巻くように大きくなっていく。 周囲の空気は異様な熱気と緊張感で、電気を帯びたようにビリビリと震えている。 張りつめた緊張感を切り裂くように、最初の鎖が振るわれる。 一番年長の白髪の男だ。 鎖が空気を切り裂くヒュンという低い音がする。 次の瞬間、尖った金属片が男の背中に鋭く突き刺さり、肉をえぐる。 しかし彼はその痛みには全く気付いていない様子で、再び大きく振りかぶって背中を打つ。 金属片についた男の血が、小さなしぶきとなって地面に落ちる。 それを合図にして、10人の男達の鎖が一斉に振るわれる。 男達は何かにとりつかれたように、一心に鎖を振るい続ける。 苦悶の声を上げる者はいない。 歯を固く食いしばり、目をかっと見開き、力の限り背中を打つ。 苦痛を通り越して恍惚の表情を浮かべる者もいる。 背中の傷からとくとくと流れていく赤い血は、彼らの真っ白いズボンに染み込んで、赤黒い模様を描いていく。 それでも彼らは手を止めようとはしない。 彼らの目はもう現実を見ていない。 その目には、1300年前に殉教したイマーム・ホセインの姿が見えているのかもしれない。 長い間、彼らは休むことなく鎖を振るい続けた。 実際は2,30秒ほどのことだったのかもしれないが、僕には20分にも30分にも感じられた。 その間、僕は瞬きひとつせずに、文字通りその光景に釘付けになった。 彼らは黒服の男達が腕を取って止めに入るまで、気が触れたように鎖を振るい続けた。 もはや自分の意志では止められない一種のトランス状態に入っているようだった。 中には止めに入る手を振り払って、なおも鎖を振るおうとする強者もいた。 身長190cmはあろうかというその大男を止めるためには、4人の男が飛びかからなくてはならなかった。 群衆の中には、感極まって涙を流す人が何人もいた。 二階の窓から首を出す子供達は、一様に引きつった表情をしていた。 女達はとても見ていられない、というふうに目を伏せていた。 隣にいるディダールも、胸に右手を当てて、沈痛な表情をしていた。 血の行列は来たときと同じように、歌いながら去っていった。 そしてしばらくすると、違う行列がやってきて同じことを繰り返した。 歌を歌い、胸を平手で叩き、鎖を振るって血を流した。 それが4,5回繰り返されただろうか。 集まっていた群衆が「もう終わりだな」という雰囲気になって、それぞれの家路に就き始めると、僕は思い出したようにふーっと大きくため息をついた。 自分は何もしていないというのに、僕の脇の下は汗でぐっしょりと濡れ、背中から首にかけての筋肉がガチガチに強ばっていた。 頭の中では、まだ「ホセイン ホセイン」という歌声が渦を巻いていた。 男達の阿修羅のような形相が、網膜に焼き付いて離れなかった。 「どうでしたか?」とディダールが僕に訊ねた。 「・・・すごいものだね」 そう答えるのがやっとだった。 自分の目で見るまで、アーシューラーはただのセレモニーだと思っていた。 予定調和的な祭事のひとつだろうと想像していた。 しかし、実際にそこで行われていたのは、激しく厳しい血の儀式だった。 そこには肉体を傷つける痛みがあり、それを支える強い祈りがあった。 彼らは言葉ではなく、流された血によって自らの信仰心を示そうとしていたのだ。 イマーム・ホセインが味わった苦難を、痛みによって追体験していたのだ。 「あれだけの血が流れても、彼らは平気なの?」 僕はディダールに訊ねた。 「中には気を失って救急車で運ばれる男もいます。 でも、彼らはこの日のために毎日鍛えているから、大丈夫ですよ。 少々の血が流れたぐらいで、死にはしません」 ディダールはそう言って笑ったが、流れていた血は「少々」というような生易しい量ではないように思った。 毎日体を鍛える男達。 それを聞いて、僕はラホールのボディービル・ジムで出会ったマッチョマンのことを思い出した。 胸板が厚く、友情に厚く、信仰にも厚い。 どうやらパキスタン人というのは、本当に「男臭い」人々のようだ。 「君もアーシューラーに参加してみたい?」と僕はディダールに訊ねた。 「ノー。 今の僕にはとても無理ですね。 彼らは本物の肉体と、本物の魂を持った人々ですよ」 アーシューラーが終わると、屋根の上の武装警官達はほっとした表情で撤収をはじめ、シャッターを下ろしていた店も次々と開店準備に取りかかりはじめた。 車両の通行を止めていた鉄柵が撤去され、何台ものオートリクシャが砂煙を上げて走り出した。 祭りは終わり、いつもの日常が戻ろうとしていた。 それでも街のあちこちには、男達がほとばしらせていたエネルギーの一部が、まだ消えずに漂っているように感じられた。 三井昌志(みついまさし) 1974年京都市生まれ。 東京都八王子市在住。 神戸大学工学部卒業後、機械メーカーに就職し、エンジニアとして2年間働いた後退社。 2000年12月から10ヶ月に渡ってユーラシア大陸一周の旅を行う。 以降、写真家としてアジアを中心に旅を続け、人々の飾らない日常と笑顔を撮り続けている。 現地でバイクを調達して、行き先を決めずに移動するのが、旅の定番スタイル。 2020年までにインドをバイクで8周し、合計12万キロを走破した。 旅の経験を生かしたフォトエッセイの執筆や講演活動を精力的に行う一方、広告写真やCM撮影など、仕事の幅を広げている。 出版した著作は10冊。 訪問国は39ヶ国。 日経ナショナルジオグラフィック写真賞2018グランプリ受賞。 最新作「渋イケメンの旅」はインド愛のすべてを込めた旅行記。

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痛すぎる祭り・アーシューラー

アー シューラー

出典: 「アーシューラー」とは? において宗教的に重要な日のひとつであるが、その意味合いはととの間で大きく異なる。 人々が鎖で自分の体を鞭打って哀悼の意を表現するなど、熱狂的な儀礼が繰り広げられる。 宗教的な感情が最高潮を迎えるアーシューラーの日は、シーア派社会のエネルギーが爆発する日であり、においてもアーシューラーの日に行われたデモが大きな影響力を持った。 反権力闘争に繋がりかねないとして、などスンナ派政府の国家では、当局によってアーシュラーが弾圧されることもある。 出典: ウィキペディアの説明では、少々難しく分かり辛い内容なので、こちらも参考にしてみてください トカナ まだ2、3歳と思しき幼児の頭に、一切ためらうことなく刃物を突き立てる群衆。 かたや成人の男は、興奮気味に自らの背中にムチを打ちつけ、裂けた傷口から真っ赤な肉がのぞく。 救急車も出動し手当てに応じているが、誰ひとりとして動揺することはない。 老いも若きも、男たちは血まみれだ。 これは一体どのような祭りだというのか? 出典:トカナ 知れば知るほど、過激で危険な宗教行事のようである・・・そこで外務省からテロに対する注意喚起が発出されました。 「アーシューラー」 海外安全情報 イスラム教シーア派の宗教行事「アーシューラー」( 10月11日から10月12日頃まで)に伴い,海外安全情報( 広域情報)が発出されました。 行列や集会等の関連行事には不用意に近づかないようにしてくださ い。 【内容】 1 10月11日(火)から10月12日(水)頃までは, イスラム教シーア派の宗教行事「アーシューラー」に当たります。 「アーシューラー」は, シーア派イスラム教徒にとって最大の宗教行事のひとつです。 この間,欧米諸国やスンナ派アラブ諸国等でも, シーア派イスラム教徒が多数居住する地域では,「 アーシューラー」にかかわる宗教行事が行われることがあります。 「アーシューラー」は,シーア派イスラム教徒が, イスラム教共同体の正統な指導者と考えていた預言者ムハンマドの 孫フサインが殺害されたことを悼む宗教行事です。 この宗教行事に際して,シーア派イスラム教徒は, 自らの身体をたたいたり,泣き声をあげるなどして,フサインの「 殉教」を想起します。 2 テロの脅威に関しては,現在のところ,「アーシューラー」 に際してテロの実行を呼びかける声明などは確認されていません。 しかしながら, 過去「アーシューラー」に際して,イラク, パキスタン, バングラデシュなどで複数のテロ事案が発生しているほか,近年, サウジアラビア等の湾岸諸国においても, シーア派住民の多い地域でシーア派関連施設を狙ったテロ事案が増 加しています。 また,本年1月,ISIL(イラク・ レバントのイスラム国)は,その機関誌「ダービク」で, シーア派に対する攻撃を扇動する主張を行っています。 これらを踏まえ, テロに対する注意を強化する必要があります。 3 つきましては, 「アーシューラー」期間中やその前後に海外に渡航・ 滞在される方は, 従来以上に安全に注意する必要があることを認識し, 外務省が発出する海外安全情報及び報道等により,治安情勢等, 渡航・滞在先について最新の関連情報の入手に努めるとともに, 改めて危機管理意識を持つよう努めてください。 テロ, 誘拐等の不測の事態に巻き込まれることのないよう, 特にテロの標的となりやすい場所(モスク等宗教関連施設,政府・ 軍・警察関係施設,欧米関連施設,公共交通機関,観光施設, デパートや市場等不特定多数が集まる場所等)を訪れる際には, 周囲の状況に注意を払い, 不審な人物や状況を察知したら速やかにその場を離れる等, 安全確保に十分注意を払ってください。 また,行列や集会等の「 アーシューラー」に関わる宗教行事には, 不用意に近づかないようにしてください。 4 海外渡航前には万一に備え,家族や友人, 職場等に日程や渡航先での連絡先を伝えておくようにしてください。 さらに,渡航・滞在先の国・ 地域において緊急事態が発生した場合, メールアドレス等を登録されている場合には, 外務省から随時一斉メール等により最新の情勢と注意事項をお伝え しています。 3か月以上滞在する方は,必ず在留届を提出してください。 ( ) 3か月未満の旅行や出張などの際には,「たびレジ」 に登録してください。

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