吉良持広。 【麒麟がくる】松平広忠はどんな人?家康の父の空しい生涯

吉良氏 - Reichsarchiv ~世界帝王事典~

吉良持広

松平清康像(蔵。 (安祥松平家)の第7代当主。 第6代当主・の子。 三河国城主および主。 安祥松平家は清康の代に岡崎を征服し、武力により一族・重臣の掌握を急速に進めを支配下においた。 の祖父にあたる。 生涯 [ ] 武力により三河を掌握 [ ] 8年()、安城松平家6代当主・のとして生まれる。 3年()に隠居の祖父・道閲()や一門衆が父・信忠を隠居させて、子である竹千代(清康)にを継承させた。 ののを受けて 清孝(きよたか、のち 清康)と名乗る。 5年()にのを攻めてこれを降伏させる。 大永6年(、または大永4年())、のを攻撃して西郷信貞()を屈服させる。 信貞の居城であった旧岡崎城は破棄し、現在地の龍頭山に新岡崎城に移転し、岡崎に松平氏の拠点を移した。 岡崎ではを作り、・代官・小代官体制を整備。 また、松平氏菩提寺の化や修築・多宝塔の新築、松平郷からの勧請を受けての創建、の創建等を行った。 西三河の実質的な支配権を得るなかで、従来の支配層である三河に対する権威性の確立が求められており、このころのひとつ一門であるの庶流・に注目。 吉良氏に対する対立軸として 世良田次郎三郎と名乗った。 これが後に孫のが松平から改姓を行うことにもつながっているという(この経緯についてはの項も参照)。 清康は更に、東西に軍を進めて勢力を広げる。 2年()、尾島城(小島城:所在)を攻め獲る。 その一方で、同年5月28日(新暦7月3日)ににも進出してのを攻め落とした。 清康は更に吉田城の南方・に進軍。 は戦わずに降服したので清康は吉田城に兵を戻して10日間在城。 この間に北方・のの城及び菅沼氏と、の牧野氏等の東三河国人衆の多くが従属を申し出た。 ただし三河の東端に在ったのだけが服属を拒んだためこれを包囲し、()に攻め落とした。 なお、一説によれば宇利城攻め以後、の叔父・との仲を悪化させたともいわれる。 その理由に挙げられるのが、宇利城攻略戦において、大手門を攻めるの叔父・を失った際に、支援が遅れたとして信定を清康が罵倒したという。 森山崩れ [ ] 愛知県岡崎市鴨田町の内にある松平八代墓の松平清康の墓 (2019年(令和元年)11月) 享禄3年()にはへ再出兵、 を落とし岩崎郷(岩崎町)を、を落とし品野郷()を奪った。 3年6月22日には、を焼き討ちし、9つの堂塔を焼失させる。 これらはその後、梅坪城主の三宅氏や那須氏などが再建した。 そして三河統一の勢いに乗った清康は、との対立で苦戦する織田家の間隙をついて、8千名余りと称する大軍で尾張に侵攻。 天文4年()12月、清康は尾張に侵入しの弟のの守るを攻めた。 この守山の陣の最中の()、清康は大手門付近で突如、家臣の(弥七郎)に斬られ即死した。 これを「 (守山崩れとも)」という。 近年ではこの戦いは織田信秀と対立するを清康が支援し、これに対して織田信秀と松平信定が連携する構図の中で発生したとされ、信定による陰謀とされる背景となっている(信定の妻は信秀の姉妹であった)。 なお、正豊が清康殺害に用いた刀が「千子」と伝えられている。 「村正」が徳川家に仇なす妖刀であり、家康が村正を嫌ったという伝説の一部として語られることがあるが、実際には家康の生前にはそのような認識はされていなかったと見られている。 人物・評価 [ ] 『』には、「善徳公(御諱清康安祥二郎三郎殿と世に称し申す)士卒をあはれみ、勇材おはしませしかば、人々其徳になびき従ひ奉れり」とあり士卒に慈悲深く、優れた統率者であったことがうかがえる。 一方で、前述の譜代重臣である阿部親子、戸田氏などの国人衆からの不信や親族であるの叔父・との不仲も知られており、宇利城攻略戦において、の叔父・が討死した際には信定の責とし清康が激昂したという。 三葉葵家紋の由来 [ ] のある西三河の賀茂郡はの神領で、松平氏が賀茂神社の氏子であったことから葵紋であった。 『新編柳営続秘鑑』十二巻(「葵之御紋来由」)による と、の代に攻めの際に酒井氏にの家紋を与えたというが、祖父長親の代に三河に侵攻してきた今川軍の伊勢盛時()に勝利した後に何らかの理由からより回収し松平家の家紋としたという。 この時、酒井氏は酸漿()の家紋とされた。 なお『』(著。 各大名家の家系図と事跡を記したもの)では松平清康の攻めの際に伊奈城主のの立葵の家紋をもらったものだとしている。 注・出典 [ ]• 『』では、清康は「案(安)祥之三郎殿」という呼称で登場する。 但し、華陽院の清康再嫁説は子の生年等の考察から否定されている。 三河における吉良氏の権威性によるものであり、清康の子・広忠も持清の子・の援助を受けて一字を賜っている。 「松平清康」『第二版』• 「松平清康」『』• 岡崎市歴史的風致維持向上計画• 「三州吉田記」『近世三河地方文献集』(久曽神昇・ 近藤恒次編 、国書刊行会、1980年)所収。 清康の吉田城攻めを宇利城攻め直後とする説もあり、またこの時降伏した吉田の牧野氏を元年()再度攻めて滅ぼした。 江戸初期の著作である『三河物語』では清康がが城へ押し寄せた際に、四方を打ち込むと記載されている。 3年()のこととされる。 鉄砲伝来は1543年であり、『』の記述とも矛盾する。 「松平清康」『第二版』• 柴裕之「桶狭間合戦の性格」黒田基樹 編『シリーズ・戦国大名の新研究 第1巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) P296. では「千子村正の刀」と言及されている(『』 - 、166p)• では清康殺害時の記述に「センゴの刀にて」という 一文がある 『』 - 、40p• - 2013年11月21日14時41分 外部リンク [ ]• - (2008年10月11日アーカイブ分).

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西条吉良氏との相克 [編集 ] 勃発に際し、祖父・がの西軍側についたが、もともと、紛争の絶えなかった同族のはの東軍に味方したため、東・西吉良氏は領国三河で戦を交えることになった。 続く戦国時代に入っても両吉良氏対立は継続していたなか、東条吉良氏6代・の子として持広は生まれた。 持広の頃には東条吉良氏は・のに接近して、のに款みを通じた西条吉良氏に備えた。 その頃、同じく織田氏と対立関係にあった三河のとも結び織田氏に対抗していた。 略歴 [編集 ] 4年()、持広は松平宗家の継嗣 が松平一族の紛争で居城・を追放されるとこれを保護したと言われ、「」等では所領のあったに招き入れたともいい、に松平氏救援の執成しをしたとも伝える。 また、天文5年()広忠の三河再入国には持広の家老を同国室城に招き入れ、翌6年()の岡崎城復帰の実現につなげた。 松平広忠の元服加冠に際しては名付け親となり、広忠は彼の偏諱を受けたとされる。 隣国尾張のの軍事的脅威の懸念のなか天文8年()持広は死去した。 家督は対立する西条吉良氏・の次男で養嗣子のが継承した。 しかし、これには子細があるようで、後の遠江の祖・の家伝は、持広の生前に西条吉良氏の吉良義尭次男の義安を養子とし、持広の実子であった吉次(もとは義次)は幼児のため尾張に送られ織田氏の人質としてそこで成長したと伝え、のちに西条吉良家を継いでいた義安の兄・が戦死したため、東条吉良家を継いでいた義安が実家の西条吉良領をも兼領したとする。 持広が実子(義次)がありながらも西条の義安を養子とした内容から、西条吉良家との和睦を図ったのだと説明されている。 系譜 [編集 ]• 室:の娘・瀬戸の大房• 女子:室• 男子:• 養嗣子:吉良義安 脚注 [編集 ]• 『2、217』• 当時、仙千代丸、仙松丸とも。 義弘とも、通称甲斐守、八ツ面城主。 この女性はを産んだが、が義定に三河吉良氏の跡目を継がせたので西条吉良・東条吉良の血統は共に江戸時代も存続した。 のちに吉次と改名。 通称は小左衛門、後の遠州横須賀藩祖。 吉良義堯の次男。 出典 [編集 ]• 堀田正敦等編『新訂 寛政重修諸家譜 第二』(続群書類従完成会、1964年)• 平野明夫『三河松平一族』(新人物往来社、 2002年)ISBN 4-404-02961-6 C0021..

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吉良持広

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武家家伝_三河吉良氏 三河吉良氏 二つ引両 清和源氏足利氏流 清和源氏足利氏流で、今川氏などと同族である。 「御所(足利将軍家)が絶えれば、吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」などといわれた。 義氏の子長氏は吉良庄西条に住み、西条吉良の祖となり、この系統がそのまま三河に定着し、三河吉良氏の祖となった。 一方、長氏の兄義継は吉良庄東条に住んで、東条吉良氏と呼ばれた。 吉良の名字は、三河国吉良荘に由来する。 そして、吉良の語源は雲母であることもはっきりしている。 つまり、吉良荘の東に、八つ面山と呼ばれる小山があり、この山から雲母が産することから雲母山とも呼ばれている。 雲母は「キラ」とか「キララ」と読まれている。 吉良氏の祖の長氏の兄義継は「吉良系図」に蒔田吉良氏、すなわち、武蔵吉良氏の祖とみえ、奥州吉良氏の祖ということになる。 この義継が吉良荘東条を領したとすれば、当然、居所は東条城であり、義氏は三人の男子のうち、二人を東条と西条に分置したということになる。 吉良氏の軌跡 ところで、義継が奥州四本松に下向したという確かな記録はあるわけではなく、史料のうえでは、建武元年(1334)、関東廂番として吉良貞家および吉良満義の名が出てくるのが初めてであり、奥州吉良氏としての文書の初見は、さらに下って貞和二年(1346)の吉良貞家軍勢催促状ということになる。 その後、吉良氏は三河の矢作川流域を領する強大な権力として成長を遂げ、三河だけではなく、遠江国まで勢力を広げる。 しかし、義尭の代には駿河の今川氏が遠江に進出し、そのため吉良の代官大河内氏が引間庄を遂われ、吉良氏の遠江における拠点が奪われている。 義堯の子義郷は、家督を継いですぐに早世ともいい、あるいは、天文六年(1537)今川義元との戦いで討死したともいわれている。 しかし、天文六年の時点で、義元の三河出兵は考えられないことから、早世したものであろう。 つぎの義安は同族東条吉良持広の養子になっていたが、兄義郷の死によって西条に戻って家督を継いだ。 ところが、数年して義父持広が死んだことで、ふたたび東条吉良に戻り、西条吉良は弟の義昭が継いでいる。 天文十八年(1549)に今川勢が安祥城の織田信広を攻めるため、大軍で三河に侵入し、義安は捕えられ、駿府に連れて行かれた。 弘治元年(1555)、今川家に人質となっていた松平竹千代の元服のとき、理髪の役を務めたのがこの吉良義安であったことは注目される。 その後、駿河国志田郡薮田村に幽閉され、その地で没したという。 一方、西条吉良を継いだ義昭は、今川義元の三河進出と、松平元康の急成長によって、二重の圧迫を受けるという苦難にさらされた。 西条城が松平勢に攻め落とされたことから、東条城を本拠としていた。 永禄四年(1561)松平氏の攻撃がつづき、義昭は力尽きて家康に降った。 そして、岡崎に暮らしていたが、同六年、三河一向一揆が起こると、義昭は一方の大将となって家康に反旗を翻し、一揆平定後、赦しを乞うたが容れられず、六角義賢を頼って近江国へ出奔した。 その後、摂津芥川の戦いで討死したという。 その後の吉良氏 吉良氏といえば、誰もが「忠臣蔵」の悪役吉良上野介を思い浮かべるが、この上野介義央は、西条吉良氏の末裔にあたる。 つまり、吉良義安の妻が松平清康の娘という関係で、義安が死んだとき、松平清康の娘(俊継尼)は義安の遺児を連れて吉良の瀬門というところでひっそりと暮らしていた。 天正七年(1579)ごろ、たまたま家康が吉良のほうに鷹狩りに来たとき、俊継尼は義安の遺児を伴い、家康に面会してその取立を依頼した。 家康としても、俊継尼は叔母であり、その子を取り立てて、義定と名乗らせ、所領を与えたのである。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。 地域ごとの戦国大名家の家紋・系図・家臣団・合戦などを徹底追求。 日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、 小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。 その足跡を各地の戦国史から探る… 人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。 なんとも気になる名字と家紋の関係を モット詳しく 探ってみませんか。

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