三 法師 その後。 織田信忠とは?松姫や息子・三法師、生きていたらという仮説について!

【清須会議で担がれた三法師】清須会議で秀吉にだっこされていたあの赤ちゃんはその後どうなった?

三 法師 その後

生涯 [ ] 本能寺の変・清洲会議 [ ] 8年()、織田信忠の長子として生まれた。 は 三法師。 母・徳寿院はの娘、の娘、あるいはの娘・とも。 なお、母が松姫の場合、武田信玄の外孫という事になる。 『美濃国古蹟考』によると、和田孫太夫女であるという。 高野山過去帳は母方の祖母をとしており、進藤氏の娘の可能性もある。 天正10年()のの際、父・信忠の居城に在城していたが、、あるいは木下某()に保護されてへと避難した。 この折、におり信忠から末期に行光の短刀を与えられたという言い伝えがある。 同年、においての周旋により、わずか3歳での家督を相続 し、直轄領として3万石を得る。 代官はが務めた。 この際の決定でに移ることになったが、叔父のによって岐阜城に留め置かれ、これを発端として秀吉と信孝は干戈を交えることとなる。 信孝が敗れて降伏した後は、一応の整備がなった安土城仮屋敷へ移り、織田家の家督代行となったの後見を受けた。 ただし、織田氏の家督継承はの解体との確立の過程で複雑な経緯を辿っている。 天正12年(1584年)に羽柴秀吉と織田信雄が対立すると、三法師は安土城から坂本城、次いで京都の秀吉の下に移された。 そして、同年11月に秀吉と信雄が講和をする()と、政治的立場を逆転させた豊臣秀吉(羽柴秀吉)は織田家の家督を信雄に正式に認め、三法師は再び坂本城に移された。 元服、侍従任官 [ ] 天正16年()、9歳でに入って元服し 三郎秀信 と名乗り、に叙位・した。 4月ののを記した『』には、 三郎侍従秀信朝臣の名が見える。 このときの列席した侍従・少将のを持つ大名の中での席次は5番目であり、や・らに次いだ。 天正18年()のにおいて、『』の堀秀政の項には秀信が六番隊として参陣して左備えの大将である秀政の指揮下で鉄砲隊を供出して戦ったとあるが、『堀家大系図』所収の秀吉朱印状には「六番 羽柴岐阜侍従」とのみあり、はこれをとして 、天正十六年四月の行幸の時点では輝政が岐阜侍従であることが確認できる のであって、記述は疑わしい。 また『小田原陣陣立』によれば、六番隊は越前勢で構成され、同じく羽柴侍従であったがおり 、これとの混同の可能性も考えられる。 いずれにしても、元服を終えたとはいえ、大した所領も与えられていない10歳そこそこの旧主の遺児が、陪臣の配下で参戦するとは考え難い。 なお、小田原征伐後に関東地方へ移封となった徳川家康の旧領への移封を拒絶した織田信雄が改易され、その後嫡男の織田秀雄が大名として取り立てられて織田家当主を継いだ。 岐阜中納言 [ ] 元年()、秀信は(陣場は割り当てられていたものの)当初、に出陣する予定はなかった。 しかし同年9月9日に豊臣秀勝が没すると、秀吉はその遺領である13万石とを秀信に与えた。 この際、秀信は秀勝の養子として継承したと『』には記されている。 これは全く根拠がない事ではなく、豊臣政権(秀吉)が織田信長の五男である羽柴秀勝(於次)の後を秀吉の甥である豊臣秀勝(小吉)が継ぎ、その後を秀信が継いだことにすることによって、信長の後継者は信雄父子ではなく秀勝(於次)であり、秀信はその後継者であるという方針を打ち立てたとも考えられるからである。 これに伴って、、、ら九番隊と、済州島で在陣中に没した秀勝が率いていた美濃衆8,000人は、秀信の家老のが出陣して、急遽、これを率いることになった。 晋州城攻撃計画では、美濃衆からは釜山にて普請を行う6,000人の動員が予定されていたが、実際の5月ので動員されたのは4,018人で、(済州島から)渡海して包囲部隊に編入された。 家臣団にはなど信孝・豊臣秀勝らの家臣だった者が散見されるが、このほか将を務めたなど旧臣、やなど斎藤一族、なども見られ、美濃衆を家臣団として再結集した様子が窺える。 の庶長子・(生駒伊右衛門)、剣豪と言われるなども秀信に仕えた。 12月、秀信はを築き、免許状を与え遡上荷船の最終湊の地位を保障した。 文禄2年(1593年)3月6日、『松浦古事記』によると、秀信はらを供に引き連れ、秀吉のいるに陣中見舞いと称して参陣した。 同年10月3日には秀吉に従って参内した。 このときすでにも贈られていて 、 岐阜中納言として史料に見える。 このことから・に昇叙・任官していたことが分かる。 文禄3年()正月には新公家衆の一人として参内した。 『』の同年2月の記事には「岐阜中納言様御内室」との記述があり、中納言叙任と同時期に正室を迎えたことが窺える。 5月23日、名護屋城にて明使が秀吉に謁見した際に、、前田利家、秀信、、、の6名は同室で伺候していた。 同年、祖父・信長に倣ってを保護したことなども伝わる。 秀信時代、鵜飼舟12艘があったとする同地の記録が今日に伝わる。 鵜飼いの保護は、後の岐阜領主にも継承された。 文禄4年()正月にはを継いだに従って参内している。 同年3月8日には秀吉が聚楽第に秀次を訪問した際、兵を率いて道中の警備を務めている。 この時どちらに従っていたのかは不明であるが、秀次事件に連座していないことから、秀吉付きに復していたようである。 関ヶ原の戦い [ ] に際しては、前年から戦支度を進めていた節が見られる。 慶長4年(1599年)閏3月、岐阜の家臣・瀧川主膳に対し、の奉行職引退、蟄居を受けて稲葉山、町口の防備を固めるよう書面で指示している。 5年(1600年)に入るとらと面会を重ね、に拝謁して200枚、2,000ないし3,000石を下賜されている。 当初、徳川家康のに従軍して7月1日に出陣する予定であったが、軍装を整えるのに手間取り出発が遅延した。 この間に石田三成から「戦勝のあかつきには美濃・の2ヶ国を宛行う」 との条件で勧誘されて西軍に加勢した。 8月5日付の三成の書状「備えの人数書」には美濃口の将の一人として名前が記されている。 秀信が西軍についたことによって美濃の諸勢の大半はこれに従った。 この間、木造左衛門・津田藤三郎・上方弥佐衛門・上方藤蔵らである家臣の懇願を受けて三成に談判し、の帰洛を助けたという言い伝えも残っている。 柏木彦右衛門・河瀬左馬之助率いる三成からの援軍を得て慶長5年(1600年)8月22日、沿いの米野で老臣・、大番頭・らの2,500騎を先鋒としらの兵1,000を中野村に配置、遊軍としての兵1,000を新加納村に配置し、木曽川を防衛線として・らの東軍を迎え撃った()。 総兵力は6,530騎という。 秀信自身も1,700騎を率いて上川手村閻魔堂まで出陣し総指揮を執った。 この戦に関して、養教寺・善福寺・に出した禁制、閻魔堂に布陣するに際して秀信の家老から郷士に発給した文書が現存している。 飯沼長資(小勘平)が一柳家家老・大塚権太夫を討ち取り首級を閻魔堂の秀信のもとに届けるなどしたものの兵力差もあり、敗退した。 この戦いでは長資のほか、らが討死した。 同日夕刻、の守るも落城し、重勝は討死にを遂げている()。 追い詰められた秀信は、22日夜・に援軍を要請する一方で、岐阜城にした。 諸将の配置は本丸は秀信と弟・秀則、稲葉山・権現山砦に三成からの援将・松田重大夫、瑞龍寺山砦に同じく援将・河瀬左馬之助ら、総門口に津田藤三郎、七曲口に木造長政父子、御殿・百曲口に百々綱家、水の手口に武藤助十郎であった。 当初、援軍には島津右馬頭が赴くことが決定されたが、取り止めになっている。 籠城戦は23日一日続いたが、前日の戦いで兵力が激減していた上、東軍にかつて岐阜城主だった池田輝政が城の構造を熟知していたこともあって敗勢は覆いがたく、秀信は秀則と共にしようとしたが、輝政の説得で23日降伏開城した。 攻城戦では上格子門で激しい銃撃戦が繰り広げられ、二の丸門の戦いでは門内にあった煙硝蔵に火がつき爆発炎上するほどであった。 武蔵砦、本丸七間矢倉でも戦闘が繰り広げられた。 数に劣る城方ではあったが、織田秀則や・斎藤徳元・木造長政・百々綱家・・武藤助十郎(土岐一族)・入江左近・・安達中書・山田又左衛門・滝川治兵衛(土方治兵衛か)・和田孫大夫・津田藤右衛門・十野左兵衛・伊達平右衛門・といった家臣が奮戦し、寄せ手を食い止めた。 侍大将級の討死も多く、前述の奮戦した秀信家臣のうち、飯沼長実・和田孫大夫は討死を遂げている。 『』では福島正則勢が430、池田輝政勢が490、勢が308のをあげたことが8月28日の項に記されている。 また、落城時に最後まで生き残った家臣は切腹したといい、崇福寺には秀信家臣38人がした場所の床板を天井に張った「血天井」が存在し、この戦いの激しさが窺える。 なお、岐阜城攻防戦で討ち死にした秀信家臣の首級は江戸へ送られ、首実検の後家康の命によって増上寺、玉藏院忠義が麻布原に首塚を築いて供養したとされるが、現在もなお首塚は発見されていない。 この戦いで、秀信が岐阜城下に建設した司祭館なども炎上焼失した。 織田秀信髪切塚(岐阜県岐阜市円徳寺境内) 城を出た秀信は、上加納の浄泉坊でして 、父方の祖母の郷里である尾張小折生駒屋敷に移った後、生駒家の領地であり父方の叔母である徳姫も一時期滞在した尾張知多へと送られた。 岐阜城陥落後の逸話として、家臣・が関ヶ原より撤退するの軍勢の道案内をしたことが伝わっている。 降伏した秀信に対する助命はいかがなものかという声も上がったが、家中に秀信家臣の縁者も多かった 福島正則が自らの武功と引き換えにと助命を主張したため、合戦終結後に岐阜13万石は没収されてへと送られた。 道中の警護は浅野家が務めた。 岐阜城攻防戦を生き残った秀信家臣の多くは岐阜城攻防戦で戦った福島家、池田家や浅野家などに招聘された。 高野山からの追放とその後 [ ] された秀信は高野山で修行を積むことになったが、祖父・信長の行ったが仇となって当初は入山が許されず、10月28日まで待たされた。 出家が許された後も迫害を受けた。 この間、慶長8年()に伯母・が亡くなった際にはその供養を行っている。 慶長10年()5月8日、高野山から出て、山麓に住む。 追放ともされる下山の理由には僧を斬るなど自身の乱行が原因であるとの説があるが、秀信自身はを迫害したことはなく、高野山追放は祖父のとばっちりであるとする説もある。 同年5月27日、向副で生涯を閉じた。 この事からも、健康を害していたための下山療養とも考えられるが、死因は自害であるとも伝わる。 高野山側では山を下りた5月8日を死亡日としている。 同地のにが祀られている。 期、円徳寺住職が墓所に秀信の事跡を綴った石碑を建立している。 墓所は高野山にも存在し、同地の墓所には豊臣秀次の胴塚が存在する。 「江源武鑑」の記述 [ ] 一般的にとして評価されている、及びそれに準ずる資料においては、高野山追放後の秀信一行について以下のように記述されている。 関ヶ原の戦いに際し、秀信の母、妻と娘は大坂で人質となっていたが、岐阜落城後六角旧臣である家臣の和田孫太夫によって救出されている。 しかし、夜間岐阜まで逃げ延びるのは不可能であったため、和田は秀信の母と自分の娘である秀信の妻を刺殺し、首だけを送り届けた。 幼い娘は和田に背負われて逃げ延び、近江で百姓に養われて後六角義郷に嫁ぎ義郷との間に六角氏郷を儲けている。 別説 [ ] なお死亡説のほか、一部のには1万石で大名に復帰したという記述もあるが、詳細は不明である。 平成12年()に『天下布武』第13号に掲載されたの論文「最後の岐阜城主・織田秀信終焉の地とその子孫」がこれら末裔に関して記している。 あくまで伝承として、下山後、向副村に入り地元有力者の娘・梅との間にを儲けたとされる。 加えて、の庶流(後裔とも)と名乗る地元の豪族・(生地新左衛門尉坂上真澄)の娘・を継室に迎えて、さらにを儲けたともされ、伝承ではその後、恒直は男子2人を儲け、次男がを名乗り向副に土着したとする。 この子孫と称する一族は初期まで同地で存続し、一族は現在も健在である。 このほか美濃に閑居した一子があり、5代後の子孫がであるとされる。 ただしこれらの伝承については、上質の史料では実在が確認されない。 あくまで子孫の自称・伝承でしかない。 実際は秀信は高野山を降りた際、ないしはその2か月後に死亡している。 13年()? に転任。 天正20年()5月10日 -。 2年()1月10日 - 参議従四位下、• 文禄2年(1593年)9月24日 - 同年、主(13万3,000石)• 3年() - 権中納言如元(公卿補任では従三位のまま)• 慶長5年()8月23日 - 関ヶ原の戦いで岐阜城籠城するが降伏 人物 [ ] 祖父・信長と同じく派手好みであり、平素よりであったと伝わる。 円徳寺に残された肖像画には桐紋を描いた水色の衣に青い花を描いた紫の袴といういでたちが確認されている。 信長に容貌が酷似していたとする説もあり、関ヶ原の前哨戦で戦ったときには、信長を髣髴とさせるかぶいた甲冑をまとって出陣したと伝わるが、一方で岐阜落城時に籠城した家臣全員にを書いて渡したという伝承が残る [ ]。 治世 [ ] 秀信時代の岐阜領内に大規模なやが発生したという記録はなく、また、信長の保護した寺院を引き続いて保護 したり、、鵜飼いの保護など信長の政策を踏襲した面も見られ、信長の施政方針を継承して苛政を敷かず、の重視など民生や寺社対策に心を配っていたことが窺える。 岐阜市の円徳寺には、祖父・信長や池田輝政のものと並んで秀信の楽市楽座制札が残っている。 武将としての力量 [ ] 秀信は岐阜城を落とされていることから武将としての力量に欠けるとされることが多く、「遊芸にのみ長じた」などと酷評される向きもある。 しかし、関ヶ原前哨戦では積極的に軍備を整え、岐阜城攻防戦で取った戦術や敗北時の振る舞い、敵将として戦った福島正則が「さすが信長の嫡孫也」と秀信を称えている(『改正三河後風土記』)。 キリスト教、仏教との関わり [ ] への理解があり、を尊敬していたという。 文禄4年(1595年)には弟・とともに入信しており、「生まれもって位が高く、大きな期待がかけられる」との年報に報告されている。 慶長元年(1596年)の以後、信仰を公に表す行動は控えていたが、慶長3年()の秀吉没後は他のキリシタン同様、積極的に活動、慶長4年()には岐阜城下にと・を建設、また尾張・美濃は信者が増加し、秀信の家来は大勢信徒であるとにより報告されている。 一方で、の建立を行い、領内のにしかるべき保護も加えており、決してキリスト教一辺倒ではなかった。 秀信の創建になる寺院の主だったところには、祖父・信長がから美濃国へと移して保護を加えたの分身を祀ったがあげられる。 また、円徳寺・・などの寺院を保護した。 円徳寺には文禄2年(1593年)判物を与え、文禄3年(1594年)12月3日には法華寺に寺領20石を寄進、文禄5年(1596年)閏7月2日には加えて寺屋敷を寄進し、諸役免除と寺中における乱妨狼藉・陣取の禁止を通達している。 文禄4年(1595年)には崇福寺が信長・信忠及び織田家先祖の位牌所であるため、寺中門前諸役一切の免除を安堵している。 崇福寺については文禄5年(1596年)にも門前諸役についての文書を発給し、秀吉の朱印を得たので安堵するようにと伝えており、重視していた姿勢が見て取れる。 これらの文書発給状況から、秀信の岐阜統治がこのころ本格化したことが窺える。 秀吉の死後も秀信の統治方針は変らなかったようで、慶長4年(1599年)11月にはに判物を下し、慶長5年()にもにの屋敷跡地を寄進し寺地を移させている。 本誓寺には遺物として感状が伝わり、縁の深さが窺える。 系譜 [ ] はともとも自称するが、織田にあるの関係から古代豪族のと考えられている。 に地盤を築き、尾張に派生したため、同じ臣下で守護代格であったとは当初からの好敵手の関係であった。 から主で曾祖父のの代でを務める本家と同等に渡り合える力を持った。 その後、祖父の信長の活躍でに格段と近づいた。 しかし、で信長と父の信忠が討たれると一族の内乱で急速に家勢を失い没落した。 先祖 - - - - - 織田秀信 両親• 母:の娘・鈴• 母はの娘・鈴というのが一般的な説であるが、の娘という説やの娘・という説もある。 墓所は森可成と同じである。 聖衆来迎寺と塩川家は関わりが確認できず、塩川長満の娘であった場合、なぜ聖衆来迎寺に葬られたのか疑問の残るところである。 しかし同寺には「紙本著色織田秀信像」が伝来しており、全く無縁というわけでもなさそうである。 織田秀信• 正室:六角氏庶流和田氏一族のの娘• 正室はの娘・という説もあるが、時期が合わない。 継室:の娘・町野 以下の子孫については、上質の史料では実在が確認されない。 あくまで子孫の自称・伝承でしかない。 庶長子:(母・梅)• 嫡男:(母・町野)• 某(母不詳、祖) 娘• 某(室、母・和田孫太夫娘) 養子• (六角義郷の子あるいは弟)• 秀信には岐阜入部当初男子がなかったため、六角義郷の弟を養子とし、三郎と名乗らせている。 秀綱の母は信長の娘あるいは孫娘であるといい、秀綱は従兄弟あるいは従兄弟の子にあたる。 なお、秀綱は慶長6年()に没し、秀信が関ヶ原の戦いで敗北・改易されたこともあり、織田宗家の家督を相続することはなかった。 織田善直• 家臣 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2016年10月) 一門衆• 織田兵部 - 岐阜城攻防戦で勇戦。 - 秀信の弟といわれる。 庶弟ないし族弟か。 津田勝左衛門 - 米野の戦いにて木造・百々の両将と共に米野村に布陣する。 - 2万5,000石、付家老。 支城主• - 大番頭、池尻城主、9,000石、 岐阜四天王の一人。 十郎左衛門。 賤ヶ岳の戦いの際に父が織田信孝方への内通を疑われ、氏家内膳によって謀殺されて以降前田利家を頼って金沢にあったが、京都で秀吉に拝謁しこれに仕える。 のち秀信に転仕し父が城主であった池尻城を預かる。 朝鮮出兵では渡海して三年在陣し、多くの武功を挙げた。 岐阜城攻防戦で福島正則・加藤嘉明勢との戦闘中に火薬庫の爆発によって火傷を負い討死した。 - 美濃本郷城主。 関ヶ原の戦いに際して居城を焼き払われる。 - 斎藤道三の曾孫。 墨俣城主。 関ヶ原以降は俳諧師として近江諸将を中心に交流を結んだ。 2年()、高野山の秀信の墓を訪れて歌を詠んでいる。 は同族という。 - 主。 織田信忠附家老の次男。 岐阜城攻防戦において討死とも、大坂の役で大坂城に入城ともいう。 - 城主。 関ヶ原の前哨戦において居城を攻略され討死。 侍大将• - 小勘平。 4,000石。 800石とも。 母はの娘。 岐阜四天王の一人。 米野の戦いで一柳家中の勇士大塚権太夫と一騎討ちを演じこれを討ち取る勇戦をするも討死。 末裔は会津松平家に仕官し、戊辰戦争時には飯沼時衛が450石を拝領して物頭御弓であった。 時衛は会津若松城攻防戦で朱雀士中隊の小隊長を務めている。 小姓衆• - 左門、福島正則家臣の子、岐阜開城秀信退去の際に供をした。 後生駒勘解由を名乗り浅野家に仕官。 入江左近 - 元高山右近家臣でキリシタン。 岐阜城攻防戦で奮戦し、関ヶ原後、福島正則が広島に加増転封されるとその日のうちに招かれてこれに仕える。 この合戦での奮戦を認められ福島家に仕官した秀信家臣は多い。 左合所右衛門• 前野伝助 代官• - 斉藤徳元の父。 正印軒。 秀信の代官を務め文禄2年8月20日の崇福寺への文書など文書の発給を行っている。 このほか阿願寺文書などの文書が現存する。 弓術に優れていたと見え、秀吉への在陣見舞として「弓弦式百丁、天鼠革廿、同別二百、天鼠二桶」を贈り秀吉から礼状を送られている。 菊岡重正 その他• 飯沼長重 - 長資弟。 関ヶ原後福島正則に仕えて飯沼勘平を襲名した。 後徳川義直に仕えて三千石。 川方政信 - 織田信雄旧臣。 元伊勢一志郡川方城主。 木造氏の分家。 小牧・長久手の戦い後浪人していたが、本家当主木造長政が家老を務めていた縁故で秀信に仕える。 関ヶ原後、子孫は尾張藩士となり木造を称した。 長屋正隆 - 斉藤氏旧臣。 関ヶ原後、帰農した。 小林正祐 - 新六郎。 旗本衆、近江川瀬の者。 敗戦後、退却する島津隊の道案内をしたと伝わる。 - 筑後守。 関ヶ原後池田輝政に仕えて後、鳥取藩家老となる。 南部長右衛門 - 岐阜城攻防戦で槍傷を負う。 後池田家に仕官した。 土方治兵衛 - 元尾張江松城主。 尾張時代、信長の命で本願寺派の寺院称名寺を焼き討ちした。 滝川治兵衛と同一人物か。 塩川孫作 - 秀信から感状を受けた。 岐阜城攻防戦の折のものか。 大岡左馬介 - 秀信領内の岩利村、佐野村を知行したことが記録に残る。 岐阜城攻防戦で奮戦した。 井戸覚弘 - 井戸良弘の子。 十郎、若狭守、覚斎。 母は筒井順慶の姉。 秀信配下として朝鮮に出陣。 朝鮮から「井戸茶碗」の原型となる茶碗を持ち帰った。 武市善兵衛 - 米野の戦いにて大塚権太夫に討たれる。 武市忠左衛門 - 善兵衛の弟。 米野の戦いにて大塚権太夫に討たれる。 長屋正隆 - 斎藤氏旧臣長屋長政の子。 関ヶ原の戦いで秀信が滅ぶと帰農した。 橋本太兵衛 - 父の代からのキリシタン武士。 父は京都でも最古参のキリシタン。 少年時代からポルトガル語を学び、流暢に洋書を読みこなすほどの学才を発揮した。 正室テクラ、長男ミゲル以下六人の子女とも全てキリシタンであった。 1619年(元和5年)7月8日将軍秀忠が入洛した際、キリシタンとして摘発され殉教した。 冨永勝吉 - 六左衛門尉。 冨永勝秀の子。 慶長5年8月23日、米野の戦いにおいて新加納十王前にて討死。 冨永勝雅 - 久太郎。 勝吉の同族か。 - 服部正成の一族。 のちに仕えて家老となった。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 羽柴秀吉による周旋や柴田勝家による反対は後世の創作で、実際には信長存命中より信忠の次は三法師が後継者となる方針があり、その方針に従ってその織田家の後継者である三法師がいる清州城に織田家の一族と重臣が集まって今後の方針を決める「清州会議」が開催されたとする説もある。 豊臣の「秀」を織田の「信」の上に配したところに、地位の逆転が読み取れる。 さらに曽祖父と逆なのも異様である。 この役において家臣・が現地よりの原型となる器を持ち帰ったという伝説があるが、信憑性は薄い。 同記では同月11日に兵5,000をつれて到着した丹波中納言を死んでいるはずの「秀勝」と誤記しているが、「山口玄蕃允供し侍る」の記述からみてものことであるから、「秀俊」の間違い。 加増が実施された場合、最低でも50万石超の知行高になり、らの石高に匹敵する。 また父・織田信忠の領国が美濃・尾張だったことから旧領回復織田家再興の意味もあった。 秀信が剃髪をした浄泉坊の後身である神田町のは織田家ゆかりの寺であり、秀信の出家の際の髪切り塚が存在し、秀信の肖像画と彼の着用と伝えられる烏帽子型兜が現在も残っている。 他の遺品は多くがなどに寄託されている。 秀吉による小牧・長久手の戦いの後浪人した信雄の家臣が多く秀信、正則の家中に仕えたため、親兄弟、伯父甥で戦った者も少なくなかった。 岐阜善光寺に分身が祀られる善光寺如来は武田信玄も保護しており、旧勢力の慰撫の一面もあったと思われる。 出典 [ ]• 『西山家文言覚書秘伝録』• , pp. 32-46. , pp. 90-91. 東京帝国大学文学部史料編纂所編 『大日本古文書. 家わけ 三ノ一(伊達家文書之一)』 東京帝国大学、1908年。 国立国会図書館デジタルコレクション。 , pp. 98-100. , pp. 100-101. 「文禄の役における仕置きの城の存在形態について」『』黒田慶一 編、岩田書院、2005年4月。 , pp. 155-156. 『日本近世武家政権論』日本図書刊行会、2000年6月、28頁。 , p. 173. - 矢部健太郎「」『国史学』第196巻、2008年12月、 63-98頁。 『』 参考文献 [ ]• 吉村茂三郎、吉村茂三郎編 第1巻 吉村茂三郎、1934年。 国立国会図書館デジタルコレクション。 柴裕之 『清須会議』 戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - 関係者、家臣に六角系の人物が多い。 - 家伝に秀信五世の孫と伝わる。 外部リンク [ ]• 2015年2月2日閲覧。 橋本市観光協会. 2016年6月16日閲覧。

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本能寺の変さえなければ天下人だった?「三法師」の悲運を歴史系ライターがたどる

三 法師 その後

家督を受け継ぐ また天正3年(1575年)には長篠の戦いに参加し、長島一向一揆の戦いの時と同じくこの軍とは離れ、 単独で武田軍と戦っています。 その直後には総大将として岩村城攻めに加わり、岩村城の奪還に成功するなど、戦において数多くの功績を残しました。 その後信忠は正室・ 濃姫の養子とされると、信長より家督を譲り受け、岐阜城と尾張、東美濃の支配権もそのまま受け継ぎました。 信忠は家督を継承した後も、戦において活躍し、 天正5年の信貴山城の戦いでは総大将として信貴山城を没落させています。 天正8年(1580年)に尾張南部を支配していた佐久間信盛と西美濃三人衆の一人、安藤守就が追放されると、信忠は尾張全域と東美濃に加えて西美濃も支配するようになり、さらにその力を増すこととなります。 信忠の最期 信長が本能寺に入ると、信忠と深夜まで宴を開きました。 翌朝、本能寺の変が勃発すると、妙覚寺にいた信忠は、すぐに本能寺に駆けつけようとしました。 しかし村井貞勝から、 「本能寺は既に敗れたため、二条御所に立てこもるのが良い」と進言されると、その通りに側近とともに二条御所に移動しました。 しばらくすると大方の予想通り、 明智光秀が攻めてきて、たちまち御所も包囲されることとなります。 信忠は必死に抗戦しましたが、 信忠軍が数百の兵力だったのに対し、明智軍は1万以上と結果は明白でした。 そして御所に明智軍の兵たちが侵入し、建物に火が放たれると、信忠は父である信忠と同じく自害し、その生涯を終えました。 松姫の悲劇 信忠が11歳、松姫が7歳のときに二人は婚約しています。 この頃の織田家と武田家は互いに同盟を結び、良好な関係を築いていました。 二人の婚約から3年後、武田軍が徳川家を攻めると、徳川家とも同盟を結んでいた織田軍は徳川家の味方するために、援軍を送り込みます。 こうして 信忠と松姫の婚約は解消されることとなりますが、その後も松姫は信忠を想い続け、何度かあった縁談を全て断ったとされています。 しかし婚約解消から10年後、勢力が弱まった武田軍を織田家が攻めることとなり、婚約を結んでいた両家が、最終的に敵同士へと移り変わってしまったのです。 息子・三法師 信忠の息子・三法師は3歳の時、 本能寺の変で父・信忠を失うと、前田家に保護され清州城に移り住みました。 信長の後を継いで織田家当主となった三法師 (のちの秀信)ですが、豊臣秀吉が天下を取ると、秀吉に意見することも出来ず、その力は弱まります。 秀吉が亡くなると、 徳川家康と石田光成が関ヶ原の戦いで争うことになります。 この時秀信は石田側へつきますが、前哨戦で敗れ、秀信は降伏しました。 本来であれば死罪となる秀信ですが、なんとか許しを得て高野山へ送られることとなります。 しかし祖父である信長の高野山攻めが原因で高野山を追放された秀信は、その後26歳の若さでこの世を去りました。

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三法師のその後

三 法師 その後

家督を受け継ぐ また天正3年(1575年)には長篠の戦いに参加し、長島一向一揆の戦いの時と同じくこの軍とは離れ、 単独で武田軍と戦っています。 その直後には総大将として岩村城攻めに加わり、岩村城の奪還に成功するなど、戦において数多くの功績を残しました。 その後信忠は正室・ 濃姫の養子とされると、信長より家督を譲り受け、岐阜城と尾張、東美濃の支配権もそのまま受け継ぎました。 信忠は家督を継承した後も、戦において活躍し、 天正5年の信貴山城の戦いでは総大将として信貴山城を没落させています。 天正8年(1580年)に尾張南部を支配していた佐久間信盛と西美濃三人衆の一人、安藤守就が追放されると、信忠は尾張全域と東美濃に加えて西美濃も支配するようになり、さらにその力を増すこととなります。 信忠の最期 信長が本能寺に入ると、信忠と深夜まで宴を開きました。 翌朝、本能寺の変が勃発すると、妙覚寺にいた信忠は、すぐに本能寺に駆けつけようとしました。 しかし村井貞勝から、 「本能寺は既に敗れたため、二条御所に立てこもるのが良い」と進言されると、その通りに側近とともに二条御所に移動しました。 しばらくすると大方の予想通り、 明智光秀が攻めてきて、たちまち御所も包囲されることとなります。 信忠は必死に抗戦しましたが、 信忠軍が数百の兵力だったのに対し、明智軍は1万以上と結果は明白でした。 そして御所に明智軍の兵たちが侵入し、建物に火が放たれると、信忠は父である信忠と同じく自害し、その生涯を終えました。 松姫の悲劇 信忠が11歳、松姫が7歳のときに二人は婚約しています。 この頃の織田家と武田家は互いに同盟を結び、良好な関係を築いていました。 二人の婚約から3年後、武田軍が徳川家を攻めると、徳川家とも同盟を結んでいた織田軍は徳川家の味方するために、援軍を送り込みます。 こうして 信忠と松姫の婚約は解消されることとなりますが、その後も松姫は信忠を想い続け、何度かあった縁談を全て断ったとされています。 しかし婚約解消から10年後、勢力が弱まった武田軍を織田家が攻めることとなり、婚約を結んでいた両家が、最終的に敵同士へと移り変わってしまったのです。 息子・三法師 信忠の息子・三法師は3歳の時、 本能寺の変で父・信忠を失うと、前田家に保護され清州城に移り住みました。 信長の後を継いで織田家当主となった三法師 (のちの秀信)ですが、豊臣秀吉が天下を取ると、秀吉に意見することも出来ず、その力は弱まります。 秀吉が亡くなると、 徳川家康と石田光成が関ヶ原の戦いで争うことになります。 この時秀信は石田側へつきますが、前哨戦で敗れ、秀信は降伏しました。 本来であれば死罪となる秀信ですが、なんとか許しを得て高野山へ送られることとなります。 しかし祖父である信長の高野山攻めが原因で高野山を追放された秀信は、その後26歳の若さでこの世を去りました。

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