西武 球団 記録。 プロ野球の開幕連敗記録はどの球団がいつ達成(記録)した?

日本プロ野球記録の一覧

西武 球団 記録

<チーム最多記録> 年間最多得点 792得点 2018年 1試合最多得点 22得点 1981年5月26日対ロッテ 1992年9月1日対近鉄 年間最多安打 1351安打 2018年 1試合最多安打 29安打 1997年5月7日対ダイエー 年間最多二塁打 270二塁打 2008年 1試合最多二塁打 9二塁打 2015年5月13日対日本ハム 年間最多三塁打 56三塁打 1956年 1試合最多三塁打 5三塁打 1976年6月20日対日本ハム 年間最多本塁打 219本塁打 1980年 1試合最多本塁打 7本塁打 1965年4月24日対阪急 1975年5月11日対近鉄 1986年8月6日対近鉄 年間最多盗塁 200盗塁 1997年 1試合最多盗塁 9盗塁 1951年4月13日対大映 年間最高打率. 2813 1997年 <個人通算・年間最多記録> 通算記録 備考 年間記録 達成年 備考 試合 伊東勤 2379試合 打席 伊東勤 8191打席 栗山7553 秋山翔吾 685打席 2018年 打数 伊東勤 7050打数 栗山6450 秋山翔吾 603打数 2018年 得点 石毛宏典 1037得点 中村900 松井稼頭央 119得点 2002年 安打 栗山巧 1825安打 秋山翔吾 216安打 2015年 日本記録 二塁打 栗山巧 344二塁打 松井稼頭央 46二塁打 2002年 三塁打 松井稼頭央 51三塁打 関口清治 吉岡悟 松井稼頭央 13三塁打 1956年 1976年 1997年 本塁打 中村剛也 415本塁打 A・カブレラ 55本塁打 2002年 パ・リーグ記録 塁打 中村剛也 3034塁打 松井稼頭央 359塁打 2002年 長打 中村剛也 664長打 松井稼頭央 88長打 2002年 日本記録 打点 中村剛也 1166打点 浅村栄斗 127打点 2018年 盗塁 松井稼頭央 306盗塁 松井稼頭央 62盗塁 1997年 犠打 伊東勤 305犠打 原拓也 51犠打 2011年 犠飛 伊東勤 60犠飛 栗山58 中島裕之 11犠飛 2010・11年 四死球 清原和博 1025四死球 栗山943 清原和博 120四死球 1990年 三振 中村剛也 1725三振 中村剛也 172三振 2015年 併殺打 伊東勤 146併殺打 中村142 白仁天 和田一浩 22併殺打 1976年 2007年 打率 和田一浩. 317 秋山翔吾. 359 2015年 <各部門通算記録ランキング> 試合 安打 二塁打 三塁打 1 伊東勤 2379 1 石毛宏典 1806 1 栗山巧 344 1 秋山翔吾 58 2 栗山巧 1847 2 栗山巧 1825 2 石毛宏典 308 2 松井稼頭央 51 3 石毛宏典 1726 3 伊東勤 1738 3 中村剛也 296 3 玉造陽二 47 4 中村剛也 1664 4 中村剛也 1467 4 伊東勤 286 4 豊田泰光 42 5 玉造陽二 1645 5 高倉照幸 1446 5 松井稼頭央 272 5 関口清治 41 6 和田博実 1565 6 松井稼頭央 1439 6 秋山翔吾 251 6 中西太 38 7 高倉照幸 1534 7 秋山翔吾 1405 7 中島裕之 248 7 高倉照幸 36 8 清原和博 1403 8 中島裕之 1380 8 高倉照幸 245 8 城戸則文 32 9 中西太 1388 9 清原和博 1353 9 清原和博 229 8 辻発彦 32 10 基満男 1381 10 玉造陽二 1282 10 関口清治 217 8 伊東勤 32 11 仰木彬 132 8 11 豊田泰光 1280 10 鈴木健 213 11 栗山巧 29 12 大田卓司 13 14 12 中西太 1262 12 浅村栄斗 213 12 石毛宏典 28 13 辻発彦 1 296 13 基満男 1255 13 中西太 20 7 13 大下弘 26 13 豊田泰光 1290 14 秋山幸二 1224 14 豊田泰光 194 13 和田博実 26 15 関口清治 1281 15 辻発彦 1195 15 辻発彦 193 15 小関竜也 25 15 鈴木健 1281 16 浅村栄斗 1178 16 玉造陽二 192 15 源田壮亮 25 17 中島裕之 1225 17 関口清治 1133 17 和田一浩 191 17 片岡治大 24 18 田辺徳雄 1222 18 和田博実 1104 18 秋山幸二 188 18 基満男 23 19 秋山幸二 1210 19 鈴木健 1081 19 基満男 175 18 秋山幸二 23 20 秋山翔吾 1207 20 和田一浩 1032 20 田辺徳雄 170 20 仰木彬 22 21 松井稼頭央 1189 21 片岡治大 963 21 和田博実 167 20 平野謙 22 22 炭谷銀仁朗 1169 22 田辺徳雄 925 22 大下弘 161 22 永利勇吉 21 23 竹之内雅史 1121 23 大田卓司 923 23 片岡治大 157 22 田中久寿男 21 24 浅村栄斗 1113 23 A・カブレラ 923 24 A・カブレラ 148 22 立花義家 21 25 立花義家 1090 25 竹之内雅史 897 25 仰木彬 143 26 城戸則文 1059 26 大下弘 883 26 スティーブ・O 138 27 和田一浩 958 27 仰木彬 800 27 山 崎裕之 132 28 田中久寿男 943 28 立花 義家 779 28 大田卓司 130 29 片岡治大 937 29 スティーブ・O 768 30 伊藤光四郎 935 本塁打 打点 打率 盗塁 1 中村剛也 415 1 中村剛也 1166 1 和田一浩. 317 1 松井稼頭央 307 2 清原和博 329 2 清原和博 915 2 スティーブ・O. 312 2 片岡治大 271 3 秋山幸二 328 3 秋山幸二 858 3 松井稼頭央. 308 3 石毛宏典 242 4 A・カブレラ 273 4 石毛宏典 835 4 中西太. 307 4 秋山幸二 227 5 中西太 244 5 伊東勤 811 5 A・カブレラ. 306 5 辻発彦 220 6 石毛宏典 235 6 中西太 785 6 中島裕之. 302 6 金子侑司 195 7 豊田泰光 190 7 栗山巧 744 7 秋山翔吾. 301 7 豊田泰光 192 8 竹之内雅史 179 8 中島裕之 738 8 大下弘. 297 8 基満男 176 9 和田一浩 177 9 A・カブレラ 686 9 浅村栄斗. 287 9 高倉照幸 175 10 大田卓司 171 10 豊田泰光 665 10 石毛宏典. 285 10 玉造陽二 158 11 中島裕之 162 11 浅村栄斗 645 11 豊田泰光. 2830 11 中西太 142 12 土井正博 160 12 関口清治 644 12 栗山巧. 2829 12 中島裕之 141 12 O・デストラーデ 160 13 鈴木健 601 13 小関竜弥. 27862 13 伊東勤 134 14 伊東勤 156 14 松井稼頭央 571 14 辻発彦. 27861 14 和田博実 121 15 田淵幸一 154 15 大田卓司 564 15 高倉照幸. 278 15 仰木彬 116 16 松井稼頭央 150 16 高倉照幸 550 16 山崎裕之. 2772 16 秋山翔吾 112 17 鈴木健 147 17 和田一浩 543 17 清原和博. 2769 17 源田壮亮 101 17 浅村栄斗 147 18 秋山翔吾 513 18 平野謙. 2 759 18 苫篠誠治 90 19 関口清治 1 46 19 竹之内雅史 489 19 鈴木健. 2 754 19 奈良原浩 84 20 高倉照幸 143 20 和田博 実 486 20 佐々木誠. 2751 20 栗山巧 83 21 基満男 139 21 田辺徳雄 441 21 秋山幸 二. 273 21 E・ヘルマン 81 22 E・メヒア 130 22 土井正博 440 22 片岡治大. 271 22 大友進 80 23 秋山翔吾 116 23 基満男 428 23 今久留主淳. 270 22 小関竜弥 80 24 T・ロイ 108 23 辻発彦 428 24 関口清治. 26 848 24 平野謙 79 25 垣内哲也 105 25 大下弘 415 25 基満男. 26844 25 田中久寿男 76 26 栗山巧 101 26 田淵幸一 400 26 田辺徳雄. 2678 26 梅田邦三 73 27 和田博実 100 27 スティーブ・O 390 26 佐々木誠 73 28 赤田将悟 70 29 関口清治 68 29 浅村栄斗 68 31 高木大成 67 32 今久留主淳 66 <年度別各部門リーダーズ・ 青字 はリーグ1位> 本塁打 打点 打率 安打 1950 深見安博 22本 深見安博 77打点 宮崎要. 294 宮崎要 123安打 1951 関口清治 16本 関口清治 59打点 永利勇吉. 294 関口清治 96安打 1952 関口清治 21本 中西太 65打点 大下弘. 307 今久留主淳 117安打 1953 中西太 36本 中西太 86打点 中西太. 314 中西太 146安打 1954 中西太 31本 大下弘 88打点 大下弘. 321 大下弘 165安打 1955 中西太 35本 中西太 98打点 中西太. 332 中西太 157安打 1956 中西太 29本 中西太 95打点 豊田泰光. 325 豊田泰光 172安打 1957 中西太 24本 中西太 100打点 中西太. 317 中西太 154安打 1958 中西太 23本 中西太 84打点 中西太. 314 中西太 127安打 1959 豊田泰光 17本 豊田泰光 81打点 高倉照幸. 304 豊田泰光 134安打 1960 豊田泰光 23本 豊田泰光 87打点 豊田泰光. 287 豊田泰光 122安打 1961 中西太 21本 豊田泰光 60打点 田中久寿男. 306 高倉照幸 146安打 1962 豊田泰光 23本 豊田泰光 67打点 和田博実. 325 高倉照幸 148安打 1963 高倉照幸 27本 T・ロイ 81打点 J・バーマ. 274 J・バーマ 157安打 1964 T・ロイ 17本 T・ロイ 66打点 高倉照幸. 317 玉造陽二 164安打 1965 F・アグリー 24本 T・ロイ 77打点 T・ロイ. 292 T・ロイ 147安打 1966 J・バーマ 23本 T・ロイ 56打点 高倉照幸. 279 J・バーマ 125安打 1967 T・ロイ 26本 T・ロイ 80打点 伊藤光四郎. 265 T・ロイ 118安打 1968 船田和英 16本 船田和英 43打点 船田和英. 286 基満男 110安打 1969 広野功 20本 C・ボレス 56打点 基満男. 295 基満男 141安打 1970 C・ボレス 28本 A・ポインター 67打点 A・ポインター. 260 A・ポインター 122安打 1971 東田正義 23本 東田正義 58打点 東田正義. 284 基満男 129安打 1972 基満男 20本 竹之内雅史 46打点 基満男. 301 基満男 138安打 1973 竹之内雅史 22本 竹之内雅史 70打点 基満男. 292 D・ビュフォード 114安打 1974 竹之内雅史 22本 竹之内雅史 73打点 D・ビュフォード. 330 D・ビュフォード 126安打 1975 土井正博 34本 土井正博 82打点 白仁天. 319 D・ビュフォード 140安打 1976 土井正博 25本 土井正博 73打点 吉岡悟. 309 白仁天 135安打 1977 竹之内雅史 26本 土井正博 67打点 B・ハンセン. 269 B・ハンセン 121安打 1978 土井正博 26本 土井正博 75打点 土井正博. 303 W・デービス 149安打 1979 土井正博 田淵幸一 27本 土井正博 70打点 J・マルーフ. 290 J・マルーフ 146安打 1980 田淵幸一 43本 田淵幸一 97打点 立花義家. 301 J・タイロン 146安打 1981 大田卓司 24本 テリー・W 100打点 テリー・W. 316 テリー・W 148安打 1982 テリー・W 田淵幸一 25本 テリー・W 71打点 スティーブ・O. 307 スティーブ・O 129安打 1983 テリー・W 38本 テリー・W 109打点 スティーブ・O. 321 スティーブ・O 153安打 1984 ジェリー・W 27本 スティーブ・O 101打点 スティーブ・O. 338 スティーブ・O 156安打 1985 秋山幸二 40本 秋山幸二 93打点 スティーブ・O. 315 スティーブ・O 146安打 1986 秋山幸二 41本 秋山幸二 115打点 石毛宏典. 329 石毛宏典 169安打 1987 秋山幸二 43本 秋山幸二 94打点 石毛宏典. 269 石毛宏典 141安打 1988 秋山幸二 T・バークレオ 38本 秋山幸二 103打点 平野謙. 303 平野謙 154安打 1989 清原和博 35本 秋山幸二 99打点 田辺徳雄. 316 秋山幸二 144安打 1990 O・デストラーデ 42本 O・デストラーデ 106打点 清原和博. 307 清原和博 134安打 1991 O・デストラーデ 39本 O・デストラーデ 92打点 秋山幸二. 297 秋山幸二 辻発彦 135安打 1992 O・デストラーデ 41本 清原和博 96打点 田辺徳雄. 302 秋山幸二 142安打 1993 秋山幸二 30本 清原和博 75打点 辻発彦. 319 辻発彦 137安打 1994 清原和博 26本 清原和博 93打点 辻発彦. 294 佐々木誠 150安打 1995 清原和博 25本 D・ジャクソン 68打点 D・ジャクソン. 289 D・ジャクソン 146安打 1996 清原和博 31本 清原和博 84打点 鈴木健. 302 松井稼頭央 134安打 1997 D・マルティネス 31本 D・マルティネス 108打点 鈴木健. 312 松井稼頭央 178安打 1998 D・マルティネス 30本 D・マルティネス 95打点 松井稼頭央. 311 松井稼頭央 179安打 1999 松井稼頭央 垣内哲也 15本 鈴木健 81打点 松井稼頭央. 330 松井稼頭央 178安打 2000 松井稼頭央 23本 松井稼頭央 90打点 T・フェルナンデス. 327 松井稼頭央 177安打 2001 A・カブレラ 49本 A・カブレラ 124打点 松井稼頭央. 308 松井稼頭央 170安打 2002 A・カブレラ 55本 A・カブレラ 115打点 A・カブレラ. 336 松井稼頭央 193安打 2003 A・カブレラ 50本 A・カブレラ 112打点 和田一浩. 346 松井稼頭央 179安打 2004 J・フェルナンデス 33本 J・フェルナンデス 94打点 和田一浩. 320 J・フェルナンデス 146安打 2005 A・カブレラ 36本 A・カブレラ 92打点 和田一浩. 322 和田一浩 153安打 2006 A・カブレラ 31本 A・カブレラ 100打点 A・カブレラ. 315 A・カブレラ 147安打 2007 A・カブレラ 27本 A・カブレラ 81打点 和田一浩. 315 中島裕之 160安打 2008 中村剛也 46本 中村剛也 101打点 中島裕之. 331 栗山巧 片岡易之 167安打 2009 中村剛也 48本 中村剛也 122打点 中島裕之. 309 中島裕之 173安打 2010 中村剛也 25本 中島裕之 93打点 中島裕之. 314 栗山巧 172安打 2011 中村剛也 48本 中村剛也 116打点 栗山巧. 307 栗山巧 171安打 2012 中村剛也 27本 中村剛也 79打点 中島裕之. 311 中島裕之 155安打 2013 浅村栄斗 27本 浅村栄斗 110打点 E・ヘルマン. 319 浅村栄斗 172安打 2014 中村剛也 E・メヒア 34本 中村剛也 90打点 E・メヒア. 290 栗山巧 153安打 2015 中村剛也 37本 中村剛也 124打点 秋山翔吾. 359 秋山翔吾 216安打 2016 E・メヒア 35本 E・メヒア 103打点 浅村栄斗. 309 浅村栄斗 172安打 2017 中村剛也 27本 浅村栄斗 99打点 秋山翔吾. 322 秋山翔吾 185安打 2018 山川穂高 47本 浅村栄斗 127打点 秋山翔吾. 323 秋山翔吾 195安打 2019 山川穂高 43本 中村剛也 123打点 森友哉. 329 秋山翔吾 179安打 2020 本 打点. 314 中西太 146安打 1955 中西太 35本 中西太 98打点 中西太. 332 中西太 157安打 1957 中西太 24本 中西太 100打点 中西太. 317 中西太 154安打 1958 中西太 23本 中西太 84打点 中西太. 314 中西太 127安打 1960 豊田泰光 23本 豊田泰光 87打点 豊田泰光. 287 豊田泰光 122安打 2006 A・カブレラ 31本 A・カブレラ 100打点 A・カブレラ. 315 A・カブレラ 147安打.

次の

西武・中村、球団月間最多本塁打記録更新なるか? 最多はカリブの怪物…

西武 球団 記録

2020年6月26日 金 現在 年度 監督 順位 試合 勝利 敗北 引分 勝率 差 打率 本塁打 防御率 1950 宮崎 要 5 120 51 67 2. 432 31. 254 79 3. 87 1951 三原 修 2 105 53 42 10. 558 18. 242 63 2. 75 1952 三原 脩 3 120 67 52 1. 563 8. 261 94 3. 08 1953 三原 脩 4 120 57 61 2. 483 13. 253 114 3. 05 1954 三原 脩 1 140 90 47 3. 657 ---. 256 134 2. 17 1955 三原 脩 2 144 90 50 4. 643 9. 259 140 2. 68 1956 三原 脩 1 154 96 51 7. 646 ---. 254 95 1. 87 1957 三原 脩 1 132 83 44 5. 648 ---. 255 94 2. 15 1958 三原 脩 1 130 78 47 5. 619 ---. 243 83 2. 37 1959 三原 脩 4 144 66 64 14. 508 22. 236 69 2. 66 1960 川崎 徳次 3 136 70 60 6. 538 12. 251 97 3. 05 1961 川崎 徳次 3 140 81 56 3. 589 5. 249 110 2. 83 1962 中西 太 3 136 62 68 6. 477 16. 245 92 3. 00 1963 中西 太 1 150 86 60 4. 589 ---. 244 146 2. 69 1964 中西 太 5 150 63 81 6. 438 19. 242 116 3. 57 1965 中西 太 3 140 72 64 4. 529 15. 246 112 3. 00 1966 中西 太 2 138 75 55 8. 577 4. 231 125 2. 13 1967 中西 太 2 140 66 64 10. 508 9. 222 98 2. 50 1968 中西 太 5 133 56 74 3. 431 24. 237 110 3. 17 1969 中西 太 5 130 51 75 4. 405 25. 225 119 3. 40 1970 稲尾 和久 6 130 43 78 9. 355 34. 225 137 4. 12 1971 稲尾 和久 6 130 38 84 8. 311 43. 231 114 4. 31 1972 稲尾 和久 6 130 47 80 3. 370 32. 242 110 4. 12 1973 稲尾 和久 4 130 59 64 7. 480 4 5. 239 116 3. 58 1974 稲尾 和久 4 130 59 64 7. 480 3 4. 235 90 3. 46 1975 江藤 慎一 3 130 58 62 10. 483 2 4. 261 135 3. 73 1976 鬼頭 政一 6 130 44 76 10. 367 6 6. 259 115 4. 08 1977 鬼頭 政一 6 130 49 73 8. 402 6 5. 249 128 4. 27 1978 根本 陸夫 5 130 51 67 12. 432 4 5. 268 109 3. 75 1979 根本 陸夫 6 130 45 73 12. 381 6 5. 259 140 4. 60 1980 根本 陸夫 4 130 62 64 4. 492 6 4. 267 219 4. 43 1981 根本 陸夫 4 130 61 61 8. 500 2 5. 267 143 3. 62 1982 広岡 達朗 1 130 68 58 4. 540 1 3. 253 131 3. 31 1983 広岡 達朗 1 130 86 40 4. 683 ---. 278 182 3. 20 1984 広岡 達朗 3 130 62 61 7. 504 14. 256 153 4. 10 1985 広岡 達朗 1 130 79 45 6. 637 ---. 272 155 3. 82 1986 森 祗晶 1 130 68 49 13. 581 ---. 281 185 3. 69 1987 森 祗晶 1 130 71 45 14. 612 ---. 249 153 2. 96 1988 森 祗晶 1 130 73 51 6. 589 ---. 270 176 3. 61 1989 森 祗晶 3 130 69 53 8. 566 0. 271 150 3. 86 1990 森 祗晶 1 130 81 45 4. 643 ---. 263 162 3. 48 1991 森 祗晶 1 130 81 43 6. 653 ---. 265 155 3. 22 1992 森 祗晶 1 130 80 47 3. 630 ---. 278 159 3. 52 1993 森 祗晶 1 130 74 53 3. 583 ---. 260 114 2. 96 1994 森 祗晶 1 130 76 52 2. 594 ---. 279 122 3. 81 1995 東尾 修 3 130 67 57 6. 540 12. 246 117 2. 98 1996 東尾 修 3 130 62 64 4. 492 13. 258 141 3. 58 1997 東尾 修 1 135 76 56 3. 576 ---. 281 110 3. 63 1998 東尾 修 1 135 70 61 4. 534 ---. 270 115 3. 66 1999 東尾 修 2 135 75 59 1. 560 4. 258 89 3. 58 2000 東尾 修 2 135 69 61 5. 531 2. 255 97 3. 68 2001 東尾 修 3 140 73 67 0. 521 6. 256 184 3. 88 2002 伊原 春樹 1 140 90 49 1. 647 ---. 278 183 3. 20 2003 伊原 春樹 2 140 77 61 2. 558 5. 271 191 4. 43 2004 伊東 勤 1 133 74 58 1. 561. 276 183 4. 29 2005 伊東 勤 3 136 67 69 0. 493. 269 162 4. 27 2006 伊東 勤 2 136 80 54 2. 597. 275 131 3. 64 2007 伊東 勤 5 144 66 76 2. 465 14. 264 126 3. 82 2008 渡辺 久信 1 144 76 64 4. 543 ---. 270 198 3. 86 2009 渡辺 久信 4 144 70 70 4. 500 11. 261 163 4. 01 2010 渡辺 久信 2 144 78 65 1. 545 0. 271 150 4. 19 2011 渡辺 久信 3 144 68 67 9. 504 20. 253 103 3. 15 2012 渡辺 久信 2 144 72 63 9. 533 3. 251 78 3. 24 2013 渡辺 久信 2 144 74 66 4. 529 7. 257 86 3. 54 2014 伊原 春樹 5 144 63 77 4. 450 16. 248 125 3. 77 2015 田邊 徳雄 4 143 69 69 5. 500 20. 263 136 3. 69 2016 田邊 徳雄 4 143 64 76 3. 457 23. 264 128 3. 85 2017 辻 発彦 2 143 79 61 3. 564 13. 264 153 3. 53 2018 辻 発彦 1 143 88 53 2. 624 ---. 273 196 4. 24 2019 辻 発彦 1 143 80 62 1. 563 ---. 265 174 4. 35 2020 辻 発彦 3 7 3 4 0. 429 3. 233 6 4.

次の

日本プロ野球記録の一覧

西武 球団 記録

「 西鉄ライオンズ」はこの項目へされています。 1941年から1943年にかけて西鉄が運営していた野球チームについては「」をご覧ください。 とが共同で運行していた夜行高速バスについては「」をご覧ください。 埼玉西武ライオンズ 会社名 株式会社西武ライオンズ 創設 1950年1月 (70年前) ( 1950-01) 今シーズン ロゴデザイン イニシャルマーク 所属リーグ 歴代チーム名• 西鉄クリッパース() (を吸収合併(・開幕直前))• 西鉄ライオンズ( - )• 太平洋クラブライオンズ( - )• クラウンライターライオンズ( - )• 西武ライオンズ( - )• 埼玉西武ライオンズ( - 現在) 本拠地 () 収容人員 33,556人(メットライフドーム) フランチャイズの遍歴• ( - 1978年)• (1979年 - 現在) 永久欠番 獲得タイトル アジアチャンピオン(1回) 日本一(13回)• リーグ優勝(23回)• 成績(タイトル以外) アジアシリーズ出場(1回)(太字は優勝、斜体は準優勝) 日本シリーズ出場(21回)(太字は勝利した年)• クライマックスシリーズ(8回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退) 1勝7敗• プレーオフ(2004-2006)(3回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退) 1勝2敗• のである。 埼玉西武ライオンズ YouTube チャンネル 目次• 球団の歴史 [ ] 福岡時代 [ ] パ・リーグ加入以前 [ ] (西鉄)は、1943年にそれまでの を譲り受け、 として経営していたが、同年限りで解散している。 戦後すぐの6月には西鉄はノンプロチームを立ち上げ、にはで優勝するなど、アマ球界では強豪チームとなっていた。 西鉄初代社長のは「戦後の福岡に明るい話題を提供したい」との思いから1949年初めに戦前の西鉄軍を復活させ、再びプロ野球チームを持とうとするが、西鉄軍が解散で球団消滅扱いになっていた事もあって、3月にから復帰申請を却下されている。 ところが、暮れにが発生した。 1リーグ体制だった連盟がとの2リーグに分裂。 これを契機に村上は、後の西鉄3代目社長で球団オーナーも務める木村重吉らとともにプロ野球への進出を図り 、で 西鉄クリッパース(にしてつ-、 Nishitetsu Clippers )を結成。 に発足、パ・リーグへ加盟(この加盟日が球団創立日とされている)。 西鉄クリッパース時代 [ ] 1月下旬に運営会社 西鉄野球株式会社を設立登記した。 当初はと共同で球団を設立しようとしたが、これには頓挫。 西日本新聞は西鉄と同じ福岡県を本拠地としてを立ち上げ、福岡県にプロ野球チームが2球団出来ることになった。 選手は、ノンプロとしての西日本鉄道チームから初代監督となるを始め、、、ら、のら、の新留国良らのノンプロ選手に加え、出身での、福岡県出身で前年度で20勝を挙げた、同じく福岡出身のら、九州出身のプロ球界の有力選手を集めた。 川崎の移籍に関しては、巨人との契約が残っていたこともあり、当初巨人が移籍を認めず難航したが最終的に移籍させている。 シーズンはチームがアマチュア出身の選手が中心だったことや、エースと期待された川崎が初登板の戦で3回に肘を故障するなどが災いし、7球団中5位に終わる。 同じ福岡を本拠地とする西日本と比べると、西日本がドル箱の巨人戦などを抱えていたこともあって、人気、観客動員数の面で西鉄が下回っていたが、西日本も初年度のチーム成績は8球団中6位と西鉄同様に低迷、また西日本新聞がプロ野球の経営には素人で、福岡市での主催試合を自前で興行できずに、収益を興行師に持ち逃げされることもあり経営が安定せず、シーズン中の8月には選手への給料が遅配するなど経営悪化が進んでいた。 6月に既に西日本の経営悪化の事実をつかんだ西鉄は西日本新聞がいずれ球団経営を手放すであろうと見て、パイレーツの吸収合併をもちかけ、9月に正式に合併調印している。 川崎徳次の提案で、次期監督には巨人の総監督で、水原茂の復帰に伴う排斥問題が起きていたを迎え入れようとするが、元からの西鉄選手の反発もあり、三原は当初は総監督に据えられ、宮崎要が選手兼任のまま監督を1952年まで続けた。 西鉄・三原監督時代 [ ] 、西日本パイレーツを吸収合併して 西鉄ライオンズ(にしてつ-、 Nishitetsu Lions )となる(球団名変更は)。 西日本からは、後の黄金時代の主力となる・が加入。 当初は旧クリッパーズ出身選手の反発が強く、球団上層部からも「クリッパーズの選手を使うように」と介入してくるが、三原は反発せずにクリッパーズの選手を使い続けることで、クリッパーズ出身選手が使えない事を証明させ、後にそれらの不満分子の選手を他球団に放出したり、解雇している。 首位のと18. 5ゲーム差の2位に終わる。 シーズン途中に、契約が難航していたの大スターを、とので獲得。 このシーズンは、首位の南海と8. 5ゲーム差の3位。 Bクラスの4位に終わるも、が・・。 も達成している。 川崎徳次が・を獲得。 パシフィック・リーグ初優勝の様子(1954年) 西鉄が開幕から11連勝で首位に立つが、途中からにかけて26勝1敗 とした南海に追い上げられ一時首位に立たれるなど、南海と激しい首位争いとなったが、西鉄が残り1試合となった10月11日の阪急戦に勝利したことで、西鉄の初のパ・リーグ優勝が決定する。 最終的に西鉄は90勝、南海は91勝だったが引き分け数の差で西鉄が勝率で上回った。 このシーズンは2番打者の18本に続き、クリーンアップ全員が20本塁打(大下弘〈22本〉、中西太〈31本〉、関口清治〈27本〉)を記録するなど、チームで両リーグトップの134本の本塁打を記録。 しかし、ではに3勝4敗で敗れる。 前年とは逆に開幕から南海が10連勝するが、序盤から西鉄との首位争いとなり25度に渡って首位が入れ替わる状況であった。 6月4日の対近鉄戦でが球団初のを達成。 8月24日以降は南海が首位を明け渡さず、南海は日本プロ野球記録の99勝で、前年に続き90勝だった西鉄に9ゲームをつけて優勝、西鉄は2位に終わる。 4月15日から6月の一時期を除いて南海が一貫して首位を守り、最大7. 5ゲーム差9月上旬の時点でも南海が2位の西鉄に7ゲーム差をつけていた。 同月下旬の南海との首位攻防4連戦で西鉄が3勝1分とし、9月30日には西鉄が一時首位に立ち、その後も南海と首位が入れ替わる状況だったが、10月6日の対阪急戦に西鉄が勝利したことで2年ぶりにリーグ優勝達成。 南海と西鉄は共に96勝だったが、引き分け数の差で西鉄が勝率を上回った。 とのは4勝2敗で勝利し、初の日本一達成。 この年も南海との首位争いとなるが、7月下旬から8月にかけて西鉄は対南海戦7連勝を含む14連勝を記録し、この年の南海との対戦成績も15勝7敗と勝ち越した事もあり南海に7ゲーム差をつけて、10月13日にダブルヘッダーに連勝したことで、2年連続3度目のリーグ優勝を達成。 2年連続の対戦となった巨人とのは負けなしの4勝1引き分けで巨人に勝利し、2年連続2度目の日本一達成。 南海が新人のが前半戦だけで20勝3敗と活躍をみせて3年連続で開幕から首位を独走。 一方西鉄は4月は12勝5敗と好スタートを見せたものの5月は9勝10敗1分け、6月は12勝10敗ともたつく。 からのでの南海との直接対決3連戦に全敗し、最大11. 5ゲーム差をつけられた。 しかし後半に入ると杉浦は調子を落とし、が後半戦のチーム36勝のうち31勝に絡む鉄腕ぶりをみせる。 9月27、28日には6厘差で南海との首位攻防2連戦となり、27日は先発の杉浦と途中からリリーフの稲尾との投げ合いで10回を引き分けとし、28日には連投の先発の杉浦を打ち崩して初回で降板させるなど7対2で勝利し、西鉄が首位となり、10月2日の対近鉄ダブルヘッダーに連勝したことで、3年連続で序盤から首位を走った南海を逆転しての優勝達成となった。 3年連続の対戦となった巨人とのでは3連敗の後、稲尾の好投で4連勝を飾る。 稲尾を始めとしてこの当時の主力には大下弘・中西・豊田・・らの好選手を擁し「 野武士軍団」と呼ばれた。 中西、大下、関口らの故障もあり、投手陣も稲尾以外はが12勝しただけで2桁勝利投手がなく、4位に終わる。 三原は監督を辞任し、の監督に就任。 西鉄の次期監督には川崎が就任。 西鉄・川崎監督時代 [ ] この年も中西が故障で32試合の出場にとどまり、稲尾の出遅れもあり序盤は最下位になるなど低迷、前半戦は5割そこそこの成績で折り返すが、後半にかけ復調した稲尾が20勝を挙げるなど3位となるが、首位のや2位の南海に大きく負け越しての結果となった。 稲尾が序盤から勝利を重ね7月11日には日本プロ野球史上最速の20勝到達となったが、この時点で他の投手全員の勝利数が19勝で稲尾が半分以上を占めていた。 稲尾はこの年シーズンの半分以上の78試合、404イニングを投げ日本プロ野球タイ記録となる42勝 を挙げ、また353奪三振のシーズン日本プロ野球記録(当時)を樹立するが 、チームは2年連続3位に終わり、川崎が監督を辞任。 シーズン終了後、の中西、選手兼任助監督の豊田、選手兼任投手コーチの稲尾による「青年内閣」が誕生する。 西鉄・中西監督時代 [ ] 前年に続き前半戦最下位から、後半戦は稲尾和久の復調など投手陣がふんばり、3年連続の3位となる。 共に故障を抱えながら欠場した中西太と出場した豊田泰光との間がかみ合わず、オフには豊田はへ金銭トレードにより移籍。 序盤から独走状態だった南海に6月には最大14. 5ゲーム差をつけられ、オールスター戦直前でも10. 5ゲーム差であったが、西鉄が8月に6連勝、9月に7連勝と追い上げて、9月末には3. 5ゲーム差として、9月末から1分を挟んで9連勝で一時、南海に並ぶ。 10月17日に南海が全日程を終了した時点では1ゲーム差で南海が首位、西鉄は残り4試合を、3勝1分以上で優勝、3勝1敗で西鉄と南海が同率でプレーオフを行い、2勝以下だと南海の優勝となる状況で、10月19、20日に共に対近鉄戦ダブルヘッダーが平和台で行われ、19日の第1戦を17対5、第2戦は3対2でそれぞれ勝利。 続く20日の第1戦は5対4ので3連勝すると、勝てば優勝となる第4戦ではとの継投で2対0で勝利し、5年ぶり5度目のリーグ優勝となり、福岡時代最後のリーグ優勝となった。 5ゲーム差の逆転優勝は2013年現在日本プロ野球史上最大。 では稲尾が故障を抱えていたこともあり、巨人に3勝4敗で敗れる。 序盤首位にたつことはあったが、これまで8年連続20勝の稲尾和久が故障で0勝2敗に終わり、がを含む17勝、が15勝を挙げるものの、5年ぶりのBクラスとなる5位に終わる。 8年ぶりに開幕戦に敗れ、序盤から負け越し、前半戦終了時には首位と26. 5ゲーム差となったものの、前年未勝利の稲尾和久が13勝、新人のが20勝を挙げ、3位となる。 5月12日の南海戦(大阪)で球団史上初のを達成した田中勉が23勝、11勝ながら最優秀防御率を獲得した稲尾和久など安定した投手陣に比べ、打撃陣は振るわなかった。 優勝した1963年同様、首位南海が全日程終了時点で西鉄が4試合を残し、西鉄が4連勝すれば同率で南海とのプレーオフだったが、初戦の戦に敗れて2位に終わる。 開幕戦から2連続完封勝利を含む5連勝で4月を首位としたものの、5月以降は連敗がつづき8月末には一時5位に転落。 打撃陣は低調だったが、この年最多勝となった池永正明ら投手陣の活躍で2位となる。 これが西鉄最後のAクラス入りとなった。 、 開幕から4連敗。 6月には9連敗で、前半戦終了時点で首位の阪急と12ゲーム差の最下位となる。 池永正明が2年連続23勝。 4年ぶりの5位となる。 5月に9連敗で中西太が一時監督休養。 9月には4位まで上がるものの、最終的には5位でシーズン終了。 10月、が行為を行ったとして永久追放処分となり、これがいわゆる「」の発端となった。 稲尾和久が現役引退し監督に就任。 西鉄・稲尾監督時代 [ ] 開幕直前、前年追放された永易将之が池永正明ら西鉄の6選手 が八百長行為を行っていたと暴露した。 チームは序盤から5勝10敗と低迷、そのうち4勝は渦中の池永正明が挙げた。 5月25日にコミッショナー委員会により池永、与田、益田らに永久追放処分 が下り、これにより西鉄は戦力を大きく低下させる(詳細は「」参照)。 投手では、、打者では、(トンタケコンビ)ら若手を起用。 東尾は防御率5点台ながら11勝を挙げるが、チームは43勝78敗9分、勝率. 355、首位のと34ゲーム差の球団初の最下位となる。 巨人から移籍のが14勝を挙げるが、それ以外は前年2桁勝利の東尾とが共に16敗でリーグ最多敗になるなど、一つ二つ勝っては連敗するという状況が続き、8月21日にはに完全試合、9月9日にはにノーヒットノーランをたてつづけに記録される。 全球団に対し10勝以上挙げることができず15敗以上を喫する負け越し。 勝率も前年を下回る. 311で首位の阪急とは43. 5ゲーム差の2年連続最下位に終わる。 東尾が300イニングを投げ18勝、が17勝を挙げを獲得するが2年連続全球団負け越し。 首位の阪急とも32ゲーム差で3年連続最下位。 観客動員数も激減するなど経営が悪化、ついに西鉄は球団経営を手放すことになった。 太平洋時代 [ ] 1972年 11月にのオーナーが球団を買い取り、「」に商号変更。 日本法人(日本の販売会社)に買収させる案があったが、の身売り話が出てきたため(翌2月、に身売りされることとなった)、パ・リーグの現状を危ぶむペプシ側により破談となった。 また、東映の買収を検討していた音響機器メーカーのに買い取らせることも選択肢に挙げられたが、こちらも実現しなかった。 このため、これらの売却を提案した中村が自ら買収した。 資金面強化のためが創業したゴルフ場開発会社のと提携し、一種の命名権契約で球団名が 太平洋クラブライオンズ(たいへいよう-、 Taiheiyo-Club Lions )となる(のパ・リーグ実行委員会で、会社株式の移動・球団名変更承認を受ける)。 この年からパリーグはとなる。 開幕戦で新外国人ののサヨナラ本塁打で勝利すると4月を10勝3敗で首位としたものの、その後は順位を下げ前期は4位。 後期も序盤は好調だったが5位に終わり通年4位。 この年から翌年にかけてロッテ監督・とのが話題となった。 オフには382本塁打のを獲得する 期待されたフランク・ハワードは開幕戦に出場しただけで離脱、5月にはアメリカに帰国している。 東尾、加藤初らが投手陣が不調の上、打線も安定感がなく、前期3位、後期4位、通年では4位に終わる。 シーズン終了後、稲尾は監督を解任される。 後任には大洋からをトレードで獲得し、選手兼任監督とした。 近鉄から、日本ハムからをトレードで獲得。 54人中17人が新戦力となり、新監督・江藤による打撃重視の豪快な打ち勝つ野球を目指す方針で、土井正博、白仁天らの打線は「」と呼ばれ他球団の脅威となり、前期は2位としたものの、後期は打線に疲れが出て4位。 通年では8年ぶりとなるAクラス入りで3位となり、土井は本塁打王、白が、東尾修が最多勝を獲得した。 オフ、メジャーリーグで名将として知られるを監督に招聘、江藤は選手兼打撃コーチという実質的な「降格」発表に江藤が反発、退団してロッテに移籍。 新監督に就任したレオ・ドローチャーが来日直前に急病で倒れ、春季キャンプは監督不在のまま実施。 しかし「オープン戦までには来日できる」「再び健康状態が悪化した」というドローチャー側の二転三転の応答に業を煮やし契約を解除。 ヘッドコーチのが緊急昇格し監督に就任。 戦力不足や前年からのゴタゴタの影響もありこの年は前後期とも6位の最下位に終わる。 がプロ入り9年目で初の首位打者。 10月12日に命名権を持つ冠スポンサーが桜井義晃率いるグループ傘下のとなり、球団名が改まることが決定した。 クラウン時代 [ ] シーズンからと提携し、球団名を クラウンライターライオンズ( Crown-Lighter Lions に変更。 本来の社名である「ガス」は球団名が長くなってしまうため省略。 同年にパ・リーグより承認)。 しかし太平洋クラブから若干の資金援助が続いていたため、引き続きユニフォームの右袖には太平洋クラブのロゴマークが付けられる。 投手陣は大洋から移籍のがチームトップの12勝を挙げるものの、エース東尾、前年11勝のがそろって不調。 打撃陣は本塁打129本はリーグ2位だったが、の. 269がチーム到達者で最高打率だったなど打線が低迷。 前期6位、後期は8月中旬まで2位をキープするなど健闘したものの、最終的には5位に転落。 通年では2年連続6位の最下位に終わる。 11月のドラフト会議ではのを指名するものの入団を拒否される。 鬼頭監督が辞任し、後任にはが監督に就任した。 、など若手が台頭しレギュラー定着、中日から移籍のも打率. 293と活躍したものの、23勝した東尾修以外の投手陣の駒不足が露呈。 前期は4位。 後期は開幕から10試合で0勝7敗3分けで、その後は一時5割まで到達するものの、優勝争いに加わることなく5位。 通年では2年連続の最下位は免れ5位。 オフ、球団はのに買収されることになる。 埼玉時代 [ ] 根本監督時代 [ ] パ・リーグ優勝 ペナント 1997年 - 1998年 - 2002年 1978年 レギュラーシーズン終了後の、廣済堂クラウン がライオンズ球団の売却・への移転を発表。 の社長(当時)がクラウンライターライオンズを買取り、 西武ライオンズ( Seibu Lions )となる。 堤のが名誉会長就任。 、球団事務所をの内に開設。 、運営会社の商号を福岡野球株式会社から、現在の「 株式会社西武ライオンズ」に変更。 、ペットマーク・シンボルカラーの発表。 当時建設中であった新本拠地球場の名前が に決定。 堤は新球団の目玉にロッテからと、阪神からを獲得。 クラウン時代の77年ドラフトで指名し交渉権を得た入団にも執念を燃やしたが失敗、これによりとの関係が悪化した()。 西武ライオンズとして最初のシーズンは、春季キャンプでの調整失敗もあり前期は開幕から2引き分けを挟み12連敗を喫するなど最下位、後期も5位で通算成績も最下位であった。 しかし、斬新な球場や「」(で関東一円で放送)等のミニ番組を放送してPRに努めた結果観客動員数は前年の77万人から136万人と75%も増えパ・リーグトップに躍り出た。 なお西武はこの年以降、一度も最下位になっていない。 前期最下位、が加入し、打線が強化された後期は9月に首位に立つが終盤6連敗し、後期優勝を逃し結局4位となった。 通算でも4位。 前期は終盤まで優勝を争うもロッテに敗れ2位に終わる。 だが後期は失速して5位に沈み、通算では4位。 このシーズン限りで根本陸夫が監督を退任した。 広岡監督時代 [ ] この年より監督に就任したの下、チームの改革を実施した。 その効果はすぐに現れ、前期優勝を果たす。 後期は序盤つまずくと残り試合を対策に費やし、では後期優勝の日本ハムのを攻略し、3勝1敗でプレーオフを制し、19年ぶりのリーグ優勝を達成。 でもを4勝2敗で破り、チームとして24年ぶり、西武としては初の日本一を達成する。 序盤から首位を独走し始め、86勝40敗4分、2位阪急と17ゲームという大差をつけての2年連続リーグ優勝。 は巨人に4勝3敗で勝利し、2年連続日本一を達成。 田淵や山崎など2連覇を支えたベテラン選手が衰え序盤から低迷し、3位に終わった。 このシーズン終了後、田淵と山崎が現役を引退した。 のをトレードで獲得、5年目のがホームラン王を争い投手陣では2年目の、4年目のが主力投手となるなど若い力が台頭、2年ぶりのリーグ優勝を果たす。 しかし、ではの前に2勝4敗で敗れた。 シーズン終了後、広岡監督が自身の健康問題()などを理由に契約年数を1年残して辞任した。 後任には1982年から1984年まで広岡監督の下、バッテリーコーチ(ヘッド格)を務めたが就任した。 この年のドラフトで、を持つのを6球団競合の末 、交渉権を獲得している。 森監督時代 [ ] この時期は投打ともに戦力(秋山幸二、、清原和博、、、、、、、など)がそろい、特に渡辺久信(1986年、1988年、1990年、1986年)、(1991年、勝率第1位1988年、1994年)、工藤公康(シーズンMVP1993年、勝率第1位1987年、1991年、1993年)、(シーズンMVP、勝率第1位、1992年)、(1991年)、(1990年)などを擁した投手陣や、と呼ばれた秋山・清原の打力が光り、森の任期の1986年から1994年には、1989年を除くすべての年でリーグ優勝し、また1992年までリーグ優勝した年には必ず日本一にもなり、「」 を築いた。 ドラフト1位で入団した清原和博らの活躍で近鉄とのデッドヒートを制し、2年連続のリーグ優勝を果たす。 ではと対戦するが、第1戦で引き分け3連敗とした後、第5戦から日本シリーズ史上初の第8戦までの4連勝で逆転勝利し3年ぶりの日本一に輝く。 に球団事務所を現在の西武球場敷地内に移転した。 球団の諸施設(事務所・本拠地球場・練習場・合宿所)が全て上山口に集まった(会社の登記上本店は、引き続きサンシャイン60と同地に残る)。 序盤は清原の不振、辻や渡辺など故障者続出で苦戦するが、徐々に盛り返して8月に首位・阪急を逆転、3年連続のリーグ優勝を果たした。 では巨人と対戦、4勝2敗で勝利し2年連続日本一。 シーズンオフにこの年15勝をあげた東尾が麻雀賭博容疑で書類送検され、翌年6月まで出場停止処分となった。 開幕から謹慎の東尾修の抜けた穴が懸念されたが、開幕すると工藤、渡辺、郭泰源、ら安定した投手陣に、この年より一軍出場のが加わった打線で開幕から貯金を重ねた。 29試合目で20勝、6月15日には貯金20としたものの、皮肉にも東尾が復帰して以降は工藤らが不調、郭が故障するなど投手陣が総崩れとなり、それでも6月には2位近鉄に8ゲーム差をつけ、9月に入っても6ゲーム差をつけていたがそこから近鉄の猛追撃を受けた。 9月13日に近鉄に勝利し、そこで西武の優勝は決まったかのように見えたが、西武はそこから10試合を4勝6敗として、9月29日には近鉄に1. 5ゲーム差に詰められ、10月5日にはゲーム差無しで近鉄に並ばれるなど熾烈な優勝争いとなった。 西武も終盤10試合を8勝2敗で乗り切り、10月16日に西武が全日程を終了した時点では、近鉄が残り4試合を3勝以上で近鉄の優勝、2勝以下は西武が優勝という状況だった。 近鉄がそこから1勝1敗で、2連勝が優勝の絶対条件となったの第2試合が4対4の引き分けに終わったことにより、2厘差(ゲーム差なし)で西武の4年連続リーグ優勝が決定した。 では4勝1敗で中日に勝利し、3年連続日本一となった。 序盤から低迷し、7月途中まで3連勝すらない状況であった。 シーズン中盤よりが加入する。 後半戦は巻き返し、9月には首位に立つが10月12日の近鉄とのダブルヘッダーでに4打席連続ホームランを打たれるなどして連敗したのが大きく響き、近鉄に優勝を許しリーグ5連覇を逃した。 結果は優勝した近鉄に勝率2厘(0. 5ゲーム)差、2位のオリックスに勝率1厘差の3位に終わった。 3年連続最多セーブ数が一桁だった反省を生かし、リリーフ陣の強化を図った。 巨人から、ドラフトでを獲得。 この2人がリリーフ陣を支え序盤から首位を独走、6月に8連敗した以外は安定感ある戦いで、2位オリックスに12ゲーム差をつけてリーグ優勝を奪回し、では巨人を4連勝で破り2年ぶりの日本一を達成した。 開幕から8連勝を果たした。 序盤は首位を独走するが、中盤からは調子を上げてきた近鉄との一騎討ちとなった。 しかし、9月に12連勝して近鉄を突き放し2年連続のリーグ優勝を飾る。 では監督率いる広島と対戦し、先に2勝3敗で王手をかけられるも第6・7戦で勝利し4勝3敗、逆転で広島を破って2年連続日本一。 6月に近鉄を抜いて首位に出るとそのまま独走し、3年連続リーグ優勝、でも野村克也監督率いるヤクルトを4勝3敗で破り3年連続日本一に輝いた。 デストラーデがメジャー復帰のため退団、攻撃力低下が懸念されたものの、日本ハムとの争いを制して4年連続リーグ優勝、しかしではヤクルトに3勝4敗で敗れた。 シリーズ終了後、と、、と、、による3対3の交換トレードが成立する。 また、この年からそれまで禁止されていた所属選手のCM出演が解禁となり、その第1弾として清原がのスーパーカップのCMに起用された。 オリックス、近鉄、ダイエーとの優勝争いになるが西武が9月に抜け出すとそのままリーグ優勝、パ新記録のリーグ5連覇を果たした。 しかし、では巨人に2勝4敗で敗れ2年連続のシリーズ敗退。 森監督はこの年限りで勇退した。 東尾監督時代 [ ] が監督に就任しデストラーデが復帰したが、石毛や工藤といった黄金期の主力メンバーが次々とダイエーに移籍し戦力が低下、残った主力もベテランが増え成績が低迷、序盤は優勝争いに加わっていたが、を擁する首位オリックスの独走を許す。 またロッテにも抜かれ、オリックスと12. 5ゲーム差、ロッテと0. 5ゲーム差の3位に終わり連続優勝も途絶えた。 辻が戦力外通告され、球団はコーチとして慰留したが、現役続行を希望したため退団しヤクルトへ移籍した。 序盤から低迷しBクラスをさまよっていたが、2年目のが最多勝の(日本ハム)より1勝少ない16勝をあげ活躍。 6月に渡辺久信がノーヒットノーランを記録したがチームの状態は上がらず黄金期を支えていた郭・石井丈裕が未勝利に終わり田辺・佐々木の絶不調などあったが、終盤の若手が奮起し猛攻で最終的には62勝64敗4分、負け越しではあったが2年連続の3位。 不動の4番として活躍した清原がシーズン後にで巨人に移籍した。 ・・・・といった若手の台頭もあり2連覇中のオリックスを突き放し、マジック1で迎えた試合ではのサヨナラホームランで3年ぶりにリーグ優勝を果たす。 しかし、ではヤクルトに1勝4敗で敗れ日本一を逃した。 西武球場がドーム球場化工事の一部を施され、に改称。 チームは7月に首位日本ハムに10ゲーム差となり、その後日本ハム、ダイエー、近鉄との熾烈な首位争いを制しリーグ2連覇を達成する。 では、と対戦し下馬評は西武有利と予想されたが 、2勝4敗で敗れた。 ドラフトでは、この年の高校野球春夏連覇を果たしたのを1巡目で指名し日本ハム、横浜との競合の末、抽選で松坂の交渉権を獲得している。 西武ドームのドーム球場化工事が完成。 ルーキーの松坂は1年目にして最多勝となる16勝をあげ、に選ばれる。 松坂への関心もあって観客動員数とテレビ中継が増加した。 しかし、チームはこの年に優勝したダイエーに一歩及ばず、ダイエーと4ゲーム差の2位でシーズンを終えた。 前年に続きダイエーに一歩及ばず、首位ダイエーと2. 5ゲーム差の2位。 しかしオリックスには6年ぶりに勝ち越した。 同年秋のドラフトで系列企業のから• :投手(松坂世代:ドラフト8位) の3人を獲得。 松坂世代の2人は「高卒で社会人野球加入した選手は3年間ドラフト指名不可能」の規則で2001年まで指名不可能だったが、プリンスホテル硬式野球部の廃部に伴い救済措置・特例でプロ入り。 松坂が3年連続の最多勝となる15勝、西口が14勝、来日2年目のが11勝をあげ活躍するも、優勝した近鉄と6ゲーム差、2位のダイエーとは3. 5ゲーム差の3位と3年連続で僅差で優勝を逃した。 この年を最後に東尾監督が勇退し、シーズンオフ、伊東勤が後任の監督として候補に挙がったが、伊東が現役続行を希望したため伊原春樹作戦・守備走塁コーチが監督に昇格、伊東は総合コーチ兼捕手に昇格となった。 第1次伊原監督時代 [ ] 開幕直後から首位を独走し、2位の近鉄・ダイエーに16. 5ゲーム差をつける大差でリーグ優勝を果たす。 しかしは巨人に4連敗を喫した。 個人記録では10月2日にが日本プロ野球タイ記録(当時)の年間本塁打55本を記録。 同日松井稼頭央が年間長打数の日本記録を更新した。 この年の西武の開幕戦は西武主催試合だが、西武ドームではなくで行った。 これはNPBが全国各地の主要6都市(札幌、、、、、)で開幕戦を行うことを目的とした他、札幌ドームの建設に当時の西武ライオンズ球団の親会社であるが携わっていたからである。 西武は札幌ドームを翌2003年から準本拠地として使用し、年間20試合程度開催することを計画していた。 ところが2002年のシーズン開幕前に、当時を本拠地にしていた日本ハムが2004年から北海道に移転することにより札幌ドームを本拠地として使用する計画を発表した。 上記の企画をしていた西武は一旦はこれに難色を示したものの、2002年6月に他チームの公式戦も開催できることを条件に日本ハムの札幌ドーム本拠地化に同意した。 しかし、結局2003年は当初20試合程度の予定であった西武の主催試合は6試合しか行われず、2004年以降は、西武の札幌ドームでの主催試合は行われていない。 日本ハムは札幌移転の2004年以降も公式戦の年間数試合を準本拠地として東京ドームで開催しているが、西武は東京ドームでの日本ハム主催試合に関しては、日本ハムの札幌ドーム移転前の2003年9月28日の試合の後、2015年4月7日・8日に2連戦が行われるまで途絶えていた。 ダイエーと優勝を争ったが投手陣の不振が響き、最終的にダイエーと5. 5ゲーム差の2位でシーズンを終えた。 同年シーズン終了直前にが現役引退を表明し、同時に監督就任を承諾。 伊原監督は退任し、オリックスの監督に就任した。 伊東監督時代 [ ] が、総合コーチから監督に昇格。 松井のメジャー移籍。 開幕から主砲のカブレラが長期離脱、投手陣でも先発・リリーフで主力投手が年間通して働けなかったものの投打に渡り全員野球ができた結果、レギュラーシーズンは総合2位。 この年導入されたの第1ステージにおいて日本ハムを2勝1敗で破り、続く第2ステージではダイエーと対戦。 2勝2敗のタイで迎えた第5戦は9回に同点に追いつかれ、なおも2死2、3塁のピンチでレギュラーシーズン三冠王のを迎え撃つ(ただし松中はこの5試合で1本塁打含む2安打と不振だった)。 ここでランナーが帰れば目前まで迫ったリーグ優勝を逃し、逆にダイエーのサヨナラ逆転リーグ優勝を許してしまう大ピンチであったが、松中を打ち取り同点で切り抜け、延長戦に入る。 そして延長10回に勝ち越し、そのまま勝利し、最終成績3勝2敗で破り2年ぶり20回目の優勝を果たす。 では中日と対戦し先に王手をかけられるものの、4勝3敗で12年ぶりの日本一に輝いた。 この年、経営改善策の一環として本拠地・西武ドームの施設名称と二軍のチーム名称について命名権を売却することとなった。 企業向け通信料金一括請求サービスを主たる事業としているが取得に名乗りを上げ、に二軍の命名権を3年契約で取得することに合意した。 シーズンから二軍の球団名を「インボイス」、球場名を「インボイスSEIBUドーム」とすることを発表した。 レギュラーシーズンは総合3位、プレーオフでロッテに敗れた。 シーズンオフ、当時の親会社の事業不振に加え、コクドの系列会社で現在の親会社であるの有価証券報告書虚偽記載問題に端を発した西武鉄道株の急落・上場廃止により財務体質の悪化が進行したため、の経営再建を目指すべく、コクド側が球団売却を行う方針となった。 売却を2004年の球団の新規参入をと争って敗れたなど複数の企業に打診したが、売却額が200億から250億と予想されていた上、西武ドームの継続使用が条件であったため交渉はまとまらず、結局2005年も 西武ライオンズとして引き続き経営された。 西武グループの再建計画の中で球団の赤字が解消されなければ2005年シーズンオフに再び球団売却を検討するとしていたが、当時西武グループ経営改革委員会委員長を務めていたが売却に反対して計画が立ち消えとなり、2006年以降も球団を保有することとなった。 2005年に「ファン感謝の集い」が1980年以来、25年ぶりの開催となった(以後、毎年同日に開催する)。 この年のオフには、リリーフの中心として活躍した抑えのがFA宣言して巨人に移籍、中継ぎのがでのに移籍した。 日本ハムとのシーズン1位争いの末、最終戦までもつれるがわずか1ゲーム差で2位に終わった。 では第1ステージでに1勝2敗で敗退となった。 オフに、エースのがに移籍し、同年12月2日、西武は任期満了となったインボイスに代わり・サービス大手のグッドウィル・グループ(現:)と5年間の命名権取得契約に合意し、西武ドームを「グッドウィルドーム」、二軍のチーム名称を「グッドウィル」に変更することを発表、同月4日の実行委員会で正式に承認されから改称した。 2007年ファン感謝の集い・渡辺監督の就任挨拶風景。 (西武ドーム) 、球団社長兼オーナー代行(当時)が埼玉県庁を訪問し、上田埼玉県知事に2008年より球団名に地域名を入れる方針であることが報告された。 この段階では「埼玉ライオンズ」もしくは「所沢ライオンズ」が最有力候補であったが、「 の西部」として地域名を表現する球団会社名の「西武ライオンズ」も候補になっていた。 また、2008年以降、さいたま市ので一軍の公式戦やを開催する方針であることも伝えられた。 チームはで10連敗を記録するなどして、その後も連敗するなど低迷。 9月26日、対ロッテ戦に敗れた時点で1981年以来26年ぶりのBクラスが確定し、連続Aクラスの日本プロ野球記録(25年連続Aクラス)が途切れ、首位日本ハムと14ゲーム差、最下位オリックスと2. 5ゲーム差の5位に終わった。 シーズン最終戦の直前、伊東は不振の責任を取り辞意を表明し、シーズン終了と同時に監督を退任した。 、2008年より「 埼玉西武ライオンズ」と球団名を変更することをプロ野球実行委員会に申請し、2007年11月14日のプロ野球オーナー会議で承認され、球団名が正式に変更された。 これにより、保護地域である埼玉県の球団であることを明確にしを図った。 この年には二軍チームと球場の命名権契約を結んでいたグッドウィル・グループにおいて、子会社であるグッドウィルの違法派遣などの不祥事が発覚したことから、12月にグッドウィル・グループからの申し入れと双方合意により命名権取得契約を解除することが決定された。 2008年1月8日、正式に命名権契約の解除が発表され、1月9日より、本拠地名称が「西武ドーム」、二軍のチーム名称が一軍同様「埼玉西武ライオンズ」となることが発表された。 渡辺監督時代 [ ] 2008年日本シリーズ 西武vs巨人 表彰式(2008年11月9日撮影) 付で球団名を 埼玉西武ライオンズに変更(運営会社は「株式会社西武ライオンズ」のまま)。 が二軍監督から一軍監督に昇格し、をヘッドコーチに、を打撃コーチにするなどコーチ陣を一新した。 その結果、打撃力がアップし、渡辺はと名付けた。 には西鉄クリッパース創設以来通算4000勝を達成。 これは日本プロ野球では6球団目(2リーグ分裂後にできた球団の中では初)の記録であり、2リーグ分裂後の4000勝は読売ジャイアンツに次いで2球団目である。 4月に首位になって以来一度もその座を明け渡さず、、埼玉西武ライオンズとなって初めての年で4年ぶり21回目のリーグ優勝を決めた。 では、日本ハムとファイナルステージで対戦。 4勝2敗で2004年以来、4年ぶりの日本シリーズ出場を決めた。 巨人とのでは、先に巨人に2勝3敗で王手をかけられたもののその後連勝し、4勝3敗で4年ぶりの日本一を達成する。 では決勝戦の台湾の戦をサヨナラ勝ちで初優勝を達成した。 を受賞。 、公式ホームページにて、チームカラーがこれまでのライトブルーから紺(レジェンド・ブルー:西鉄の黒と西武の青の合体)に変更され、、チームネームロゴ、ユニフォームも変更されることが発表された(ただし、およびマスコットは変更しない)。 、新ペットマークおよびチームネームロゴを用いた公式戦用新ユニフォームが発表された。 この年より西武ドームの3塁側をホームとすることも発表されている。 昨シーズンの守護神であったの故障離脱などにより、リリーフ投手に安定感がなく、リーグワーストの14試合のサヨナラ負けを喫する。 それでも終盤にはが4試合連続完投勝利するなど先発投手陣が踏ん張り、楽天やソフトバンクなどと激しくAクラス争いをするが最終的な順位は4位に終わった。 前年日本一からBクラスへの転落は球団として50年ぶりとなった。 ドラフト会議で花巻東高校のとの交渉権を阪神、ヤクルト、楽天、中日、日本ハムとの6球団による競合の末に獲得に成功した。 前半はリリーフ投手が安定し、主力選手の故障が相次ぎながらも前半戦を首位で折り返した。 だが終盤にリリーフ投手陣が崩壊して失速したため、優勝したソフトバンクにわずか2厘差(ゲーム差なし)の2位に終わった。 はファーストステージでロッテに2連敗し、敗退した。 ドラフトでは1位希望の早稲田大学のを横浜、楽天、広島、オリックス、阪神との6球団による競合の末に獲得した。 による計画停電の影響を受け、4月中は本拠地西武ドームでの試合を自粛することとなった。 の後半から失速し、8月終了時点で最大借金15を経験して最下位に低迷する。 しかし9月は19勝5敗2分の成績で 、クライマックスシリーズ出場権をめぐる3位争いに加わった。 の最終戦前まで4位であったが最終戦で勝利し68勝67敗9分で勝率. 50370となり、前日まで3位だったオリックスが同日に敗戦して69勝68敗7分、勝率. 50365となってシーズンを終了したため勝率を5(0. 5)上回り、シーズン3位が確定しクライマックスシリーズ出場を決めた。 ではファーストステージで日本ハムに2連勝するが、ファイナルステージではソフトバンクに3連敗で敗退した。 オフにはFA移籍でがソフトバンクに、がオリックスにそれぞれ移籍した。 には2007年に死去したの背番号「24」を永久欠番とすることを発表 、の西武ドームでの対日本ハム戦にはメモリアルゲームとしてこの試合に出場した選手全員が稲尾の背番号である24を着用した。 開幕戦は5年連続でが先発するものの、敗戦投手となり涌井は開幕から3連敗でに登録を抹消され、チームも最大借金9を抱えて最下位と低迷した。 涌井が救援投手に回り、6月以降は勝ち越すようになり8月までの3カ月で貯金を19としに首位に立った。 日本ハムとの優勝争いとなったが、の試合に敗れたことで優勝を逃し 、3ゲーム差の2位に終わった。 ではファーストステージでソフトバンクに1勝2敗で敗れ、3年連続のクライマックスシリーズ敗退となった。 が本塁打王を獲得、オフには、が海外FA権を行使し、メジャーリーグのに入団した。 リーグ一番乗りで10勝に到達するなど開幕ダッシュに成功したものの 、5月9日に連敗したことで4月10日から守り続けた首位を明け渡し 、交流戦開始後の同月22日にはに抜かれ3位に転落 、には交流戦で優勝したにも抜かれて4位に後退、結局交流戦は11勝13敗で同率8位でパ6球団では最下位に終わり 、には最大9あった貯金が一旦無くなった。 には再び2位浮上するが 、にソフトバンクに3連敗した時点で4位に転落 、その後3位ソフトバンクに最大5ゲーム差をつけられたが 、10月3日にソフトバンクとの直接対決で連勝したことにより再度3位に浮上 、に対楽天戦(Kスタ宮城)で2対1で勝利したことで年間3位以上を確定し、4年連続でに進出が決定した。 10月8日、共にシーズン最終戦の西武ドームでの2位ロッテとの直接対決を10対2で勝利し8連勝で2位浮上、本拠地でのCSファーストステージ開催権を獲得した が、CSファーストステージは1勝2敗でロッテに敗退し 、ファーストステージ終了翌日の、渡辺監督が球団に監督を辞任することを申し入れ、了承されたことを発表 、渡辺監督は球団シニアディレクターに就任することとなった。 、渡辺監督の後任にはから2年間西武の監督を務めた伊原の就任が発表された。 FAで、が巨人に、がロッテに移籍した。 第2次伊原監督時代 [ ] 開幕から3連敗スタートで、打線のテコ入れとして5月よりを獲得したが、には両リーグ最速の30敗に到達するなどチームは最下位に低迷した。 6月3日に成績不振と右ひざ痛悪化の為、伊原監督は自ら休養を申し入れ、球団はこれを了承し翌6月4日のシーズン53試合目の対DeNA戦後に、伊原監督の休養と監督代行に打撃コーチのの就任を発表した。 また、チーフ兼バッテリーコーチをヘッド兼バッテリーコーチに、二軍野手総合兼打撃コーチを一軍打撃コーチ、二軍外野守備走塁コーチ兼打撃コーチ補佐を二軍打撃コーチ兼外野守備走塁コーチとすることを発表した。 6月27日、伊原監督からの申し入れによる正式に監督辞任と、7月1日付での球団本部付アドバイザーへの就任を発表した(田辺の監督代行職はそのままである。 2014年 の対ソフトバンク戦(西武ドーム)に敗れ、7年ぶりにシーズン負け越しが決まり 、には5年ぶりのBクラスが決まった。 、来季より田辺が正式に監督に就任することが発表された。 途中加入のメヒアは中村と共に2リーグ制後初となる「同一チーム2人本塁打王」となるものの、総合成績は5位に終わる。 ドラフトではを指名。 また、投手陣の補強で、、、を獲得した。 開幕より中村・メヒア・などをそろえた打線により、チームは1991年以来24年ぶりの開幕5連勝を飾った。 交流戦では中村が期間中に8本の本塁打を放つ など10勝6敗2分の3位となり 、交流戦以降はソフトバンク、日本ハムとの首位争いとなり前半戦を3位でターンした。 しかし、後半戦になると失速、のちに球団ワースト記録となる13連敗を喫し最大11もあった貯金がなくなってしまった。 連敗中は抑えをからに配置転換した。 、対楽天戦に3-2で勝ち、球団通算4500勝を達成した。 2リーグ制分立後に発足した球団では最速で、巨人・阪神・中日・オリックス・ソフトバンクに次いで6チーム目。 また、1950年の2リーグ制後に4500勝を記録したのは巨人に次いで2球団目。 終盤はロッテとのCS進出争いとなり、西武が先に3位でシーズンを終えるがロッテが逆転し最終順位は4位となりCS進出を逃した上、球団としては34年ぶりの2年連続Bクラスとなった。 がシーズン216安打の日本記録を樹立した。 この年に西口が現役を引退。 開幕から中継ぎに再転向した牧田の好投やメヒアら打撃陣の好調により一時は首位に立つが、の故障離脱やその他先発陣の不調、両リーグ最多の失策数を記録する守備の乱れが響き、には最下位に転落してしまう。 これらを受けて2軍投手コーチのを1軍投手コーチに昇格、先発要員としてとを緊急獲得した。 しかしのソフトバンク戦で2年ぶりの負け越し、のオリックス戦で3年連続のBクラスが決まった。 シーズン最終戦で田邊監督の退任が正式発表され、後任にはOBのが就任。 が自身初のを獲得した一方、4年ぶりに失策数が3桁に到達(失策数101はセ・パ12球団ワースト )・外国人先発投手が19戦連続未勝利を記録するなど課題の多く残るシーズンとなった。 また、2005年の球団創設から2015年まで年間対戦成績で一度も負け越しがなかった楽天相手に初めて負け越した。 この年はオリックス戦のみ勝ち越してパ・リーグ全球団に負け越しは免れたが争いには加われず4位に終わった。 オフに長年主力として活躍したがFAで楽天に移籍した。 辻監督時代 [ ] 1月16日、本拠地である西武ドームの名称をネーミングライツによって3月1日から『ドーム』にすることを発表。 4月中旬以降、5月上旬の一時期に4位となったほかは8月末まで3位を保ち続けた。 この間、7月21日から8月5日にかけて西鉄時代以来59年ぶりとなる13連勝を達成した。 8月31日に2位の楽天との直接対決を制して2位に浮上すると 、その後はシーズン終了まで2位を維持した。 西武のAクラス入りは2013年以来4年ぶり。 が3年目でレギュラー定着し、シーズン中盤からは打撃不振の中村、メヒアに代わってが4番に座った。 エースのがリーグ最優秀防御率および最多勝を達成 、新人のが56年ぶりとなる新人でのフルイニング出場を達成し新人王を受賞 、秋山翔吾が打率. 322で首位打者となった。 クライマックスシリーズではファーストステージにおいて3位の楽天と対戦し、第1戦ではエース菊池が完封し10-0で大勝するが第2戦・第3戦で敗れ、1勝2敗で敗退となった。 オフにがFAで巨人へ、がでへそれぞれ移籍した。 一方で、楽天を退団したがテクニカルコーチ兼外野手として15年ぶりに復帰した。 所沢への球団移転以来40周年の記念に当たる年で、様々な催しや事業が実施される。 中でも最大の事業は2017年末から2021年春にかけて予定されている西武ドームや二軍施設とその周辺の大規模な改修・再整備である。 4月17日には東京ドームで初めて主催ゲームも行われた。 4月21日、本拠地で開幕から8連勝となり球団初の記録となった。 また、貯金が10となり開幕18試合以内での到達は、、に続く63年ぶりの球団3回目となった。 4月22日にに勝ち、本拠地西武ドームで開幕から9連勝と球団記録を更新して貯金を11とし 、最終的に本拠地での連勝を12まで伸ばした。 4月25日に戦で5試合連続9得点を挙げて、パ・リーグ新記録を達成した。 また、14年ぶりの4月に2度目の5連勝となった。 強打で首位の座を一度も譲らず、9月半ばから勢いが加速、9月14日の楽天戦から12連勝で一気にマジックを減らし、9月30日、マジック1としていた首位西武は日本ハムに敗れたがマジック対象チームである2位のソフトバンクもロッテに負けたため、10年ぶり22度目のパ・リーグ優勝が決まった。 1、2位が同日に敗れて優勝が決まったのは2010年パ・リーグのソフトバンクと西武以来 となり、開幕から首位のまま優勝したのは2リーグ制では1953年の巨人、1962年の東映、1997年のヤクルトに続く4例目の記録だった。 771得点、191ホームラン、2割7分3厘の打率と攻撃面はリーグトップを記録した一方で防御率4. 27と636失点、84エラーはいずれもリーグワーストで、この内防御率が最下位で優勝したのは2001年の大阪近鉄バファローズ以来となった。 その後、ファイナルステージで2位のソフトバンクと対戦するが、4. 27の防御率とアキレス腱だった投手陣が5試合で合計44失点と壊滅。 初戦で敗れ2戦目で勝利したが3戦目から5戦目まで3連敗を喫し、1勝を含めた2勝4敗で敗れた。 辻監督は試合後に行われたシーズン最終戦セレモニーで、 「まさか今日2018年シーズンが終了するとは考えてもいませんでした」と3連敗で敗れ去ったことを悔しがり涙を流し続けた。 、、、が現役を引退し、オフにFAでが楽天に、が巨人に移籍。 また、がポスティングシステムでに移籍した。 をFAの人的補償で獲得したが、その内海を含めて開幕前に先発陣に故障者が相次いだ。 開幕以来一度も首位を譲らず優勝した昨季とは異なり、開幕戦最初からソフトバンク3連戦で3連敗を喫し、リーグ最下位からのスタートとなった。 しかし、に入ってから、5月1日に山川がパ・リーグの令和初ホームランを打ち、5月5日に今井が令和初の完封勝利を果たした。 7月9日に首位とのゲーム差が最大8・5まで開いたが、8月に入って打線が奮起。 9月11日、ソフトバンクとの首位攻防戦に勝って初めて首位に立ち、9月24日、マジックを「2」としていた西武は対ロッテ戦()に勝利し、2位のソフトバンクが東北楽天に2-4で敗れたため、2年連続23度目のリーグ優勝を果たした。 浅村や菊池、炭谷と主力の離脱でチーム状況は決して万全とは言えなかったが、そんな前評判を覆し、12球団トップの756得点 をあげる圧倒的な打力を武器に優勝を勝ち取った。 パ・リーグの2連覇は2014 - 2015年のソフトバンク以来、球団では1997 - 1998年以来となった。 なお、この年の5月1日にがからに改元されたことで、プロ野球史上初めて元号をまたいだ連覇となった。 山川穂高120打点、中村剛也123打点、森友哉105打点で球団史上初の100打点トリオを形成し、パ・リーグでは2003年のダイエー(ソフトバンク)以来の快挙となった。 さらに山川が本塁打王(2年連続)、中村が打点王(4度目)、森が首位打者(初)、金子が盗塁王(2度目)、秋山が最多安打(4度目)と6部門中5部門で西武がそれぞれトップを占め、打撃タイトルを総なめにした。 しかし、勇躍臨んだソフトバンクとのCSファイナルステージだったが、3連敗を喫し、第4戦ではに3本の本塁打を許すなど、1勝もできぬまま4連敗(アドバンテージ1勝を含む)。 シーズン756得点の強力打線は、わずか13得点とふるわず、ソフトバンクバッテリーにことごとく、その長所を消された。 一方、防御率がリーグワーストの4・35と泣きどころである投手陣は、この短期決戦でも4戦32失点(自責29)、防御率7・25と試合をつくれず、短期決戦巧者のソフトバンクから主導権を奪えなかった。 来季から3軍制を導入することを発表した。 オフに中日から自由契約のが14年ぶりに古巣へ復帰し、が海外FAでに移籍した。 所属選手・監督・コーチ [ ] 「」も参照• リーグ優勝 23回(年間最高勝率は下記から1982年と2004年除く21回)• (1954年、1956年 - 1958年、1963年、1982年 - 1983年、1985年 - 1988年、1990年 - 1994年、1997年 - 1998年、2002年、2004年、2008年、2018年 - 2019年)• 日本シリーズ優勝 13回• (1956年 - 1958年、1982年 - 1983年、1986年 - 1988年、1990年 - 1992年、2004年、2008年)• クライマックスシリーズ優勝 1回• (2008年)• 前期優勝 1回• (1982年前期)• Aクラス 48回• (1951年 - 1952年、1954年 - 1958年、1960年 - 1963年、1965年 - 1967年、1975年、1982年 - 2006年、2008年、2010年 - 2013年、2017年 - 2019年)• Bクラス 22回• (1950年、1953年、1959年、1964年、1968年 - 1974年、1976年 - 1981年、2007年、2009年、2014年 - 2016年)• 連続Aクラス入り最長記録 25年[日本プロ野球記録](1982年 - 2006年)• 連続Bクラス最長記録 7年(1968年 - 1974年)• 最多勝 96勝(1956年)• 最多敗 84敗(1971年)• 最多引分 14分(1959年、1987年)• 最高勝率. 683(1983年)• 最低勝率. 2004年度はレギュラーシーズン2位ながらプレーオフで3位・日本ハムを2勝1敗、1位・福岡ダイエーを3勝2敗でそれぞれ破り優勝。 その他の記録 [ ]• 最小ゲーム差 0. 0ゲーム()• 最大ゲーム差 43. 5ゲーム()• 最多本塁打 219本()• 最少本塁打 63本()• 最高打率. 281(、)• 最低打率. 222()• 最高防御率 1. 87()• 最低防御率 4. 60()• 引き分けを挟まない連勝記録は13()• 最多連敗 13() 永久欠番 [ ] の背番号24• 24: 引退後も1972年までは稲尾自身が監督として付け、1973年の福岡野球株式会社への売却時に稲尾が背番号を81に変更した事から欠番となった。 当時球団は稲尾が永久欠番を辞退したため、「将来有望な選手が入団してきたら24番をプレゼントしたい」としてしばらく欠番とした後、1976年にが着用した。 その後、さまざまな選手が着用したが、2012年の生誕75周年を機に永久欠番に指定(同年は永久欠番指定が報じられる前から欠番となっていた)。 過去の準永久欠番 [ ]• 3: 1960年3月1日の引退試合後、「大下選手の名に恥じない選手が出ればその選手に渡す。 」という当時の球団社長、西亦次郎の意向で当分の間欠番となっていた(1960年3月1日付け西日本スポーツ・野口正明のコラムから)。 1968年、大下の東映フライヤーズ監督就任と同時期に、中日から移籍のが着用。 その後も、、、と球団を代表する強打者が受け継いでいる。 6: 退団後の1970年から相応しい選手が出るまで欠番とされていたが、1973年に「もう新球団(福岡野球)になったんだからいいじゃないか」と、当時の監督・稲尾の推薦で [ ]が着用、その後もさまざまな選手が着用している。 89: 一軍投手コーチ在任中だった2017年に死去。 2018年は準永久欠番だったが、2019年シーズンからは二軍打撃兼内野守備・走塁コーチが使用する。 沢村栄治賞受賞者 [ ]• :1回(1992年)• :1回(1997年)• :1回(2001年)• :1回(2009年) 歴代本拠地 [ ]• 1950年 - 、• 1951年 - 1978年 - 平和台野球場• 1952年より正式なフランチャイズ制が敷かれる。 なお、1950年は西日本パイレーツの本拠地としても規定されていた。 1979年 - 1997年 - 西武ライオンズ球場• 1998年 - 現在 -• 命名権による名称変更で2005年・2006年は「SEIBUドーム」、2007年は「ドーム」、2015年・2016年は「西武ドーム」、2017年からは「メットライフドーム」• 西武球場の完全ドーム化は1999年。 名称は第1期工事(スタンド外周部に屋根を架設する工事)が完成した1998年に「西武ドーム」に変更されている。 1965年からは小倉球場(現:)、1973年からはを準本拠地として試合を開催し、いずれも1978年まで使用された。 特に2000年から2008年までの間はでの開催が毎年続けられたほか、1996年からはでも2、3年に1回開催しており、渡辺久信監督在任時期は同監督の出身地ということもあってほぼ毎年開催されていた。 また、2008年からはでも毎年主催試合を行っている(参照:)。 なお、球団名に「埼玉」が付いてからは埼玉県外での公式戦主催試合は減少傾向である。 1950年 : (登録上は、1951年 - 1952年も監督)• 1960年 - 1961年 :• 1962年 - 1969年 :• 1970年 - 1974年 :• 1975年 :• 1976年 :• 1976年 - 1977年 :• 1978年 - 1981年 :• 1995年 - 2001年 :• 2002年 - 2003年 : (第1期)• 2014年 : 伊原春樹(第2期)• 2015年 - 2016年 :• 2017年 - :• ここから西鉄ライオンズ• 1965年4月19日 - 5月10日は病気療養のためが監督代行。 1969年5月23日 - 6月13日と、10月9日以降は鬼頭政一が監督代行。 ここから太平洋クラブライオンズ• 就任が発表されたが、病気のため来日することなく契約が解除された。 ここからクラウンライターライオンズ• ここから西武ライオンズ• 球団唯一、右投右打でない監督(右投左打)。 1997年7月11日 - 13日まではが監督代行。 ここから埼玉西武ライオンズ• 2014年は6月4日まで。 翌5日からシーズン終了までは田邊徳雄が監督代行に就任。 チームの特徴 [ ]• 西鉄時代は三原・以外はチームの出身者が監督を務めた。 太平洋から西武時代は長らく監督が続いたが、1995年の以降は、、、、、と生え抜き及びチームの出身者の監督が続いている。 西鉄クリッパースのの由来は、ニックネームを公募したところ、親会社だった西鉄が当時の日本販売代理店だったことから、パンナム機の愛称「」から採用されたと言われる。 埼玉移転以降、「 西武」を名乗っているが、元々はの意味であり、直接の球団親会社は1978年に旧クラウンライターライオンズを買収した国土計画(後の)、2006年の西武グループの再編時にはコクドを吸収したであった。 しかし、2008年から本格化しているの強化を目的として、2008年11月21日のプロ野球オーナー会議において、球団の親会社を所沢市内に移転していたに変更することが承認された。 西武になってからの球団シンボルマークは、西武線沿線にゆかりが深いの『』の主人公・レオを採用している。 作者の手塚によると、堤オーナーから直接「引退中のジャングル大帝レオを球団マークとして復帰させてみる気はないですか」との連絡があり、さらに「子供のレオではなく、大人になってからのレオに衣服(ユニフォーム等)を着用させて使いたい」との意向も示され 、球団マスコットとしてが(人型で)登場した。 発表後、手塚の周囲では「あれはレオじゃなくて父親のパンジャじゃないか。 パンジャ球団にでもするのか」などと冷やかされたそうで、マスコットには他に女性キャラのがいるが、こちらは球団としてのオリジナルキャラクターとなるため、鼻の頭の色や目の大きさなど何度も作りなおした末に仕上げ、思い出深いキャラクターになったという。 実際その後、手塚の自室ではさまざまなライナの失敗作を飾っていたとのこと。 また、このマスコットは「異競技交流」の一環として、-シーズンにを統合したコクドアイスホッケーチームにも使用された(チームがとなったからは使用せず)。 このレオマークはのの前面にも取り付けられたほか(車両愛称もレオライナー)、西武鉄道のプリペイドカードシステムである「」(共通SFカードシステム「」加盟後は「SFレオカード」)にも使用された。 2015年までに11球団で唯一シーズン負け越しがない球団で勝ち越せなかった2009年も五分だったが、2016年に初めて楽天に負け越した。 これにより年間の対戦成績で一つの球団にのみ負け越しがないという事例はなくなった。 末に現存する球団では最後に日本一連覇を達成した球団である。 1990年、1991年、1992年の日本一3連覇が20世紀では最後の日本シリーズ連覇となった。 生え抜き選手での200勝投手は稲尾和久(276勝)、東尾修(251勝)がいる一方、2000本安打を記録した打者はいない(2019年レギュラーシーズン終了時点で栗山巧の1825安打が球団記録)。 球団旗の変遷 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年1月) 球団旗(一軍) [ ] 福岡時代• 1950年 - 上が青・下が黄色のセパレート型。 上に西鉄の。 下に青字で「CLIPPERS」。 書体は前述の事情でパンアメリカン航空が使用していたものとなる。 1951年 - 1972年 - 球団名が西鉄ライオンズへの変更に伴い「CLIPPERS」の部分を「LIONS」に変更。 書体はその後数度にわたって変更されている。 1973年 - 1976年 - 球団買収により、球団名が太平洋クラブライオンズへの変更に伴い、上が青・下が赤のセパレート型、間に白の細い線。 上には太平洋クラブの社章。 下には白文字の筆記体で「Lions」。 1977年 - 1978年 - メインスポンサーがクラウンガスライターとなり、球団名がクラウンライターライオンズへの変更に伴い、上が赤・下が青のセパレート型と太平洋時代のものとは上下反対に、中心の白線が太くなる。 中心の白地に青文字で「CROWN LIGHTER」の文字。 上に王冠と「C」を模したクラウンのマークが入った。 白文字の筆記体で「Lions」のロゴが大きくなる。 埼玉時代• 1979年 - 西武グループが買収し、球団名が西武ライオンズへの変更に伴い、ライオンズブルー 水色 が地色。 中央に手塚治虫デザインの「レオマーク」。 上に白文字で「SEIBU」、下に白文字の筆記体で「Lions」。 総合デザインはユニフォームを含めてが担当。 球団旗(二軍) [ ]• 2005年 - 2006年 - 二軍の球団名がインボイスに変更され、白地にインボイスのマーク。 2007年 - 二軍の球団名がグッドウィルに変更され、白地にグッドウィルのマーク。 ユニフォームの変遷 [ ] 西鉄ライオンズ誕生当時の復刻ユニフォームを着た(2011年)• -1951年 - 紺に黄色の縁取りで「CLIPPERS」。 グレーの縦縞に「FUKUOKA」のマークもある。 西鉄ライオンズになってからロゴが「Lions」に変わった以外、変更点はない。 1950年は帽子のマークは黄色の「N」と紺の「C」の組み合わせで、翌1951年はペットネーム変更により「L」となった。 1951年 - - 濃紺で「LIONS」と書かれたロゴが登場。 黄金期の象徴だった「NISITETU」マークが初登場。 しかし、ストッキングの評判が悪くビジター用は1年で廃止。 1952年当時のユニフォームは、その後もしばらく二軍・練習用に使用された。 1952年 - - ブルーグレーの縦縞を採用したユニフォームとなる。 同時に、西鉄晩年まで使われていた「Lions」の(飾り文字)が登場。 1954年 - - 黒色の帽子・ライン・レターを基調とした、後の西鉄黄金期を象徴するデザインが登場。 また、胸ロゴ「Lions」は iの黒点が取れるなどのマイナーチェンジ、帽子マークは従来のNマークからNとLを重ねたマークに変更された(以来、NLマークは1960年から1961年を除き、西鉄売却まで使用)。 このユニフォームは日本シリーズから使用された。 シーズン途中からビジター用胸マークが「FUKUOKA」となった。 には袖番号が装着され、帽子マークはLの飾り文字になった。 - - ホーム用のラインをWラインに変更。 また、袖番号に変わり、球団史上初の胸番号を採用。 また、ビジター用は、ラインが少し太くなった。 - - ユニフォームにオレンジ色を採用(帽子マーク、ライン・レターの縁取り)。 左袖には風のライオンマークが登場。 球団史上初の背ネームを採用。 途中にはビジター用のロゴが親会社の「NISHITETSU」となり、左袖には(のマークと同デザイン)を入れた風を装着。 1969年には背ネームが除外。 番号がゴシック体風書体となる(公式戦使用終了後は練習用として使われ、西鉄最終年のみ在籍していたがビジター用を着ている写真が残っている )。 1970年には左袖に足を1本突き出すライオンのイラストワッペンを装着。 ビジター用がブルーグレーに変更、また、ビジター用の胸のロゴが1951年から1958年途中まで使用されていた「NISITETSU」マークに変更される。 - - パンツと袖口がWラインとなり、ワッペンのライオンが2本足に変更される。 これが西鉄最後のユニフォームとなった(なお、太平洋クラブライオンズ初年度の春季キャンプ、オープン戦までは引き続き西鉄のユニフォームを着用していた)。 太平洋時代 [ ] 太平洋時代の復刻ユニフォームを着る(2010年)• - - メインスポンサーが太平洋クラブとなり、ホーム用は帽子・上着(球団初のプルオーバー)・パンツ(球団初のベルトレス)に白を基調としたデザインとし、ビジター用には日本初の原色カラーのユニフォーム(上下ツートンカラーとしても日本初〈上は赤、下は白をそれぞれ基調としたデザイン〉)が登場。 同時期に袖が赤いホーム用、ビジター用の上着がブルーというデザインも存在した。 ホーム用は背番号の上に「TAIHEIYO CLUB」、ビジター用には「FUKUOKA」。 帽子は、ホーム用が白地につばは青、ビジター用は青地に赤のつばと赤地に青のつばの2種類。 帽子マーク・左袖に、太平洋クラブのシンボルマーク()。 - 前期のものは最初で最後の風ユニフォーム。 ベースカラーはワインレッドで、近鉄同様にラグランスリーブスタイルを採用し左袖には「FUKUOKA」、右袖にはライオンのイラストワッペンが付く。 帽子はワインレッドに青の鍔でマークは「T」と「L」の組み合わせ文字。 袖・ベルト・パンツのラインは青地に白2本のストライプ。 ユニフォーム前面にアメフトのユニフォームよろしく大きく番号が入った。 しかし、「身売りへの準備」と勘ぐられるなどの悪評から後期は「Lions」のロゴが、ビジター用は「TAIHEIYO CLUB」のロゴがそれぞれ復活。 いずれも背番号の上には選手名が入った。 クラウン時代 [ ]• - - メインスポンサーがクラウンガスライターとなり、帽子も赤地に前部が白となって「C」と「L」の組み合わせ文字に変更。 ユニホームも白地に赤文字をベースとしたユニホームにモデルチェンジ。 ビジター用はライトグレー地に赤文字となり「CROWN LIGHTER」の二段文字となる。 ホーム用のみ、王冠と「C」を模したクラウンのマークが胸番号の代わりに入った(マークを使用しないビジター用にも胸番号はない)。 なお右袖には引き続き太平洋クラブのマーク(若干の援助を受けていたため)、左袖は帽子をクラウン仕様に変更したライオンのイラストワッペンが付く。 これが福岡のライオンズが着用した最後のユニフォームとなってしまった。 西武時代 [ ]• - - 球団名が「 西武ライオンズ」となりによるデザインに一新。 西武黄金期を築いたユニフォームで、途中マイナーチェンジはあったが、基本デザインはまで使用された。 帽子は緑の楕円の中にデザインのレオマークがつき、下に白文字で Lionsのロゴが刺繍される。 ヘルメットは、これらのマークが直接プリントされ、さらに右側(左打者用は左側)に SEIBUのロゴが入る。 背番号、胸番号の書体がゴシック体になり、パンツは腰ラインの入っていないベルトレスタイプになる。 スパイクはつま先、および紐通し部分が濃紺、それ以外は白でつま先側から青、緑、赤、のラインが各メーカーのデザインに沿った形で入る。 紐は青。 ホーム用は、上下白で、胸ロゴ、胸番号、背番号はライトブルー。 左袖にライトブルーの文字でのマークが入る。 ビジター用は、上下ライトブルーで、胸ロゴ、胸番号、背番号は白。 左袖には白文字でLionsのロゴが入った(1995年まで使用されたが、イースタンでは1996年まで使用された)。 詳細は「」を参照• より、ベルト式になり、腰を一周する形のベルト通しに、ホーム、ビジター共地色と同色のベルトになる。 1981年に入団したは、全身ブルーのビジター用をみたいで格好悪いと思ったが、チームが勝ち続ける中愛着も沸き、他チームの選手からは「ビジター用の方が強そうに見える」という感想を聞いている というエピソードが存在する。 より、ユニフォームのボタンが、乳白色半透明から地色と同色のボタン(製造メーカーのロゴが入る)になる。 より、ホーム用がデサント社から、社の製造になり、左胸にナイキのマークが入る(日本プロ野球で初めてユニフォームにブランドマークが入る)。 より、ホーム用がカッティング・デザインを駆使したものになる。 胸のLionsのロゴが太くなって大きさが縮小され、パンツのベルトループがスタンダードなものになり、青色のベルトになる。 からのビジター用は、上着がライトブルーに白のラケットラインが入り、胸番号、背番号、胸ロゴに白の縁取りが入り、書体が高校野球型に、パンツが白になり、ライトブルーのラインが入る。 また袖、首の赤、緑ラインが消える。 同時にスパイクの色が白地にライトブルー(端部に緑と赤が付く)ラインになる。 2002年からのビジター用は、ホーム用と同じくナイキの製造になり、大幅にモデルチェンジされ、ビジター用の上着の正面がグレー、脇・背中がライトブルーになり、パンツがグレーになる。 胸のネームと番号は、発表時は白だったが、公式戦時にブルーへ変更された。 また、札幌、長野での主催ゲーム用にサード・ユニフォームも登場した。 ホーム用をアレンジしたもので、ネームと番号の縁取りが黒。 番号のロゴは、ビジターと同じものを採用。 ビジター用とサード用の帽子からは、緑の楕円がはずされた(ヘルメットは、ホーム用と同じ)。 なお、3種類とも右袖にプライド・ロゴ(赤・緑の2色のホームベース型にLionsのロゴと日本一の回数の8個の星をあしらったもの)が入る。 - - 監督就任を機に25年ぶりにホームのユニフォームに大幅変更。 赤、緑のラインが消え、Lionsのロゴが大文字のLIONSにアンダーラインの付いたもの となる。 また、帽子の正面からLionsのロゴが消え、横にLIONSのロゴが入る。 ビジター用の帽子もホーム用兼用となり、サード・ユニフォームは、廃止された。 プライド・ロゴは、ビジター用のみとなる。 よりプライド・ロゴの星の数が9個となる(前年度日本一になったため)。 は所沢移転30周年記念ロゴが右胸に入る。 - - チームカラーがそれまでのライトブルーから「レジェンド・ブルー」と称する紺色に変更。 また、「Lions」のロゴも一新される ことが2009年1月1日、公式ホームページにて発表された。 それに伴ってユニフォームのデザインも一新。 基本デザインは西鉄ライオンズ時代のユニフォームデザインを踏襲しており、ホーム用は白地に紺の前掛けライン。 左胸に「L」のイニシャルが付く。 ビジター用はライトグレー地に紺の前掛けライン。 胸に「Lions」の新ロゴと胸番号。 ホーム用・ビジター用ともに、左袖には獅子がボールをわし掴みにするデザインの新球団ペットマークが、右袖にはLionsとほぼ同じ書体で「saitama seibu」の赤い文字が入る。 また、帽子・ヘルメットもレオマークから紺地に白で「L」の一文字に変更。 スパイクは黒地に白のラインとなる。 ただし、キャップを除きこのユニフォームの使用は開幕戦からで、初年の春季キャンプ・オープン戦時は、上が新デザインを踏まえた紺のオリジナル仕様練習着、パンツおよびヘルメットは昨年までのライトブルーの時代のものを使用。 より県営大宮球場での試合に「大宮リミテッドキャップ」を着用。 キャップは、通常の帽子デザインをさいたま市大宮区の色・オレンジを使ってアレンジしたもの。 空気坑・頭頂部のボタン・つばの端をオレンジ色に。 ユニフォームは変更なしで、2013年の1試合のみ3rdユニフォームの併用。 より新たに「Saitama」ユニフォームを3rdユニフォームとして使用することとなった。 レジェンド・ブルーをベースとし、脇からわき腹にかけて白。 襟から胸へ流れるラケットラインと袖口のラインは、埼玉県のカラーを意識した赤色を使用。 胸に白で「Saitama」の文字と胸番号、左袖にペットマーク、右袖にが入っている。 ユニフォームに県章を用いるのは日本プロ野球では初のこととなる。 なお、翌2014年も継続して使用。 ホーム用の胸ロゴが前ビジター用の「Lions」ワードマークのみに変更された。 胸番号はなし。 右袖のエンブレムは左袖のペットマークと組み合わせる形で移動し、これを「プライマリーマーク」と命名。 」のスローガンが下部に入る「コンセプトマーク」が新たに入った。 選手名・背番号ロゴは「ライオンズの力強さ」をイメージした新タイプに変更。 ビジター用は前年までの3rdユニフォームに変更。 これも選手名・背番号ロゴはホーム用と同じである。 よりユニホームが社製から社製になる。 基本的なデザインは、ホーム・ビジターともに2015年シーズンのものと同じであるが、右胸のナイキのロゴがマジェスティックのロゴとなる他、選手名・背番号の字体が 2013年にへ移動した直後の 仕様に変更される。 また2016年より、パンツ部分に広告が入り、が参加するのプライベートブランド「リミテッド エディション」の広告が入る。 シーズンより、ロゴが昇華プリント方式に変更された。 より、に本社を置く食品会社「ヨコオデイリーフーズ」とキャップスポンサー契約を締結し、同社が運営する「こんにゃくパーク」のロゴが入ったキャップを着用する。 キャップへの広告掲出は球団初の取り組みとなる。 また、ユニフォームの左袖には「40周年記念エンブレム」が入れられた。 、6年ぶりにサードユニフォームが導入。 「球団創立70年を迎え、伝統と栄光、そして悲願のリーグ制覇が融合した時代 カラー を身に纏い、新たなる戦いへと挑むユニフォーム」として、身頃はレジェンドブルーを基調に、両肩には西鉄ライオンズのブラック 右側 と西武ライオンズのブルー 左側 がグラデーションで入れられている。 胸ロゴは「Seibu」の右上に小さく「Saitama」と入れられたものが白文字で入れられた。 キャップとヘルメットもブラック、ブルー、レジェンドブルーの三色を取り入れたほか、ツバの右側には西鉄時代を含む日本一の回数を示す13個の星が入れられた(通常のホーム・ビジター用ヘルメットとは異なり、つや消し加工はされていない)。 また、新たに『ビクトリーエンブレム「WE ARE ONE」』が導入され、2019シーズンのホームユニフォーム及びサードユニフォームの右袖に刻み込まれることになった。 2015-現在 ユニフォーム(二軍) [ ]• 1976年 - 基本的に前年と同じものを使用。 帽子は同年の一軍と同じくTLマークを入れたものを使用。 2005年 - 2006年 - 二軍の球団名がインボイスに変更され、帽子のマーク・ホーム用の西武百貨店マークがインボイス社のに変更。 ロゴも「 INVOICE」となる(書体は従来と同じ)。 - 二軍の球団名がグッドウィルに変更。 胸のロゴが「 GoodWill」となり、ホーム用は、一軍ビジター用のグレー部分と背中を白にしたもの(背番号のロゴは一軍ホーム用と同じ)が使用され、ビジター用は、一軍のものから首のラインをはずしたものがそれぞれ使用された。 帽子マークはグッドウィルの社章に変更。 期間限定ユニフォーム [ ]• 2007年に夏季特別企画として、7月10日から8月30日の主催ホームゲームで、特別ユニフォームと1979年から1996年まで使用されていたビジターユニフォーム(いわゆるライオンズブルー)の復刻版を使用。 特別ユニフォームはフロント・わきの下の部分が水色、背中と肩の部分が白。 胸ロゴの「LIONS」と背番号・胸番号は赤縁に白。 背中にライオンの牙をモチーフにした赤い模様が入ったもの。 2008年に交流戦限定ユニフォームを着用。 肩から袖にかけての部分と脇からわき腹にかけての部分が白、それ以外の部分がライオンズブルー。 」をあしらったもの。 2008年より「」が開始され、期間中は復刻版のユニフォームを着用している。 詳細は、を参照。 2012年、球団の親会社である西武鉄道の設立100周年を記念し、全国の小中学生からユニホームのデザイン案を募集。 採用案がデザインされたユニホームを、8月11日・12日の日本ハム戦と同月17日 - 19日の楽天戦で着用した。 その後、ファンから「もう一度、100周年記念ユニフォームで戦って欲しい」という要望が多かったため、9月25日 - 27日の楽天戦でも着用した。 採用案のタイトルは「4000系とスマイルトレインユニフォーム」。 西武鉄道が保有する鉄道車両であるならびに「スマイルトレイン」の車体塗装をモチーフとし、スマイルトレインの帯色であるブルーとグリーンのグラデーションをベースに胸部分には「SEIBU」ロゴ(2003年までのビジター用のものと同一)をあしらい、首・袖周りには4000系電車の帯色である青・赤・緑3色のが入る。 原案においては右袖に西武鉄道のコーポレートロゴがあしらわれていたが、同部分についてはリーグ規定により通常ユニフォームと同様「saitama seibu」ロゴが貼付される。 8月11日についてはライト外野自由以外のすべての入場者に対してレプリカユニフォームのプレゼントが行われた。 2013年、パリーグ6球団共同企画「」において、1980から1990年代にかけてライオンズ黄金期にホーム用として使用したユニフォームの復刻版を着用。 ただし、復刻ユニフォーム左胸には、ナイキのマークが付く。 、西武鉄道100年アニバーサリー企画の一環として、デザインの「ジャングル大帝ユニフォーム」を着用。 球団旗やマスコットなどをデザインした漫画家のの代表作でもある『』をモチーフに、球団マスコットのレオが描かれている。 ネイビーをベースに球団マスコットのレオが胴部と右肩にあしらわれており、右肩と背中に地平を駆けるレオ、左胸の下にはたけだけしくほえるレオがデザインされた。 チーム及び背番号ロゴは独自にデザインされたものとなり、選手ネームは入らない背番号のみのスタイルとなった。 、西武鉄道100年アニバーサリー企画の一環として、西武鉄道の車両カラーとして長く親しまれている西武イエローをメインカラーとして、西武が現在所有する(いわゆる「黄色い電車」)をモチーフにしたユニフォームを着用。 シャツや帽子のロゴ等に黄色を配した。 チームロゴ・背番号などは2002年から2008年のビジター用と同一のもので、色は濃紺に白色の縁取りとなる。 ちなみに、黄色のユニホームは球団史上初であった。 、西武鉄道100年アニバーサリー企画の終了に伴い、新たに「ライオンズ フェスティバルズ 2016」の開催を発表。 テンプレートはラケットラインがない以外はホームユニフォームとほぼ同様。 この企画では西武鉄道がキャップスポンサーとなり、選手が着用するキャップには西武鉄道のコーポレートメッセージ「あれも、これも、かなう。 西武鉄道」が入ったロゴが掲げられる。 、前年に引き続き「ライオンズ フェスティバルズ 2017」を開催。 このユニフォームを着用してから、球団が西武になってからは初めてで、西鉄時代の1958年以来となる13連勝を記録した。 結果は20勝4敗、勝率. 833と好成績を残した。 対戦では、楽天側がビジターユニフォームだと見分けがつかないため、楽天がホームユニフォームを着用する。 上述したとおり、好成績を残したことから8月27日、9月13日~9月21日の公式戦8試合での炎獅子ユニフォーム再着用が発表された。 10月8日、4年ぶりに進出したクライマックスシリーズ(CS)に向けて、選手や監督からの要望により、CSファーストステージとファイナルステージ(進出の場合)で再々着用することが発表された(レギュラーシーズンと異なりファーストステージの対戦相手となる楽天はビジターユニフォームを着用するため同系色のユニフォームでの対決となる)。 限定ユニフォームでCSを戦うのはクライマックスシリーズ創設以来初めてのこととなる。 球団歌「地平を駆ける獅子を見た」をテーマにしたユニフォーム3部作の完結に伴い、メインテーマをチームの象徴である「ライオン」に定め、胸ロゴと背番号にライオンのたてがみをイメージしたゴールドを使用。 、ライオンズ命名70周年を記念した、2020シーズン中の16試合において「ライオンズ70周年シリーズ」を開催。 長年ファンに親しまれた水色基調のライオンズブルーをベースに、胸には筆記体の「Lions」ロゴ(胸番号、背番号と共にライオンズブルーからネイビーへのグラデーション仕様)が入り、左袖には70周年仕様のレオマーク、右袖にはビクトリーエンブレム「WE ARE ONE」があしらわれた。 ユニフォームのスポンサー [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年1月)• 球団歌• 「」(作詞:/作曲:/歌:/発表)• 応援歌• 「若き獅子たち〜ウィー・アー・ザ・ライオンズ」(作詞:/作曲:/歌:西武ライオンズ応援合唱団/発表、/カヴァー)• 「吠えろライオンズ」(作詞・作曲:/歌:、ライオンズ応援合唱団/発表) 「地平を駈ける獅子を見た」と同時期に発表された(同曲シングルレコード盤のB面に収録)応援歌「LET'S GO LIONS」(作曲・編曲:)もあるが、現在演奏される機会は少なくなっている。 またが「」用の挿入歌として・(当時同局アナウンサー)が歌う「Vのシナリオ〜吼えろライオンズ」という楽曲がごろに発表されているが、現応援歌の「吠えろライオンズ」とは同名異曲である。 福岡時代の主な球団歌• 「西鉄野球団歌(西鉄クリッパースの歌)」(発表。 作詞・作曲。 古賀政男音楽記念館に楽譜・歌詞・再録音源が存在する)• 「」(発表。 「」(発表。 が歌った未発売音源も存在する)• 「惚れたぜライオンズ」(発表。 「ぼくらの憧れライオンズ」(・少年ライオンズ 太平洋時代。 シングルレコード盤「惚れたぜライオンズ」のB面に収録) 主なキャンプ地 [ ]• (春季1次、秋季)• (春季2次) 過去 [ ]• (福岡時代)• (1979年のみ)• アメリカ合衆国(1990年代前半) 1982年以降のチームスローガン [ ] 広岡監督時代• 1982年:新風• 1983年:闘球• 1984年:鋭球• 1985年:爽球 森監督時代• 1986年:飛躍• 1987年:前進• 1988年:鍛える• 1989年:魅せる• 1990年:燃えて• 1991年:雄々しく• 1992年:初心• 1993年:新たに• 1994年:チャレンジ 東尾監督時代• 1995年:感動のドラマがある• 1996年:熱く、激しい感動。 1997年:Hit! Foot! Get! 1998年:夢へHit! Foot! Get! 1999年:栄光へ、Hit! Foot! Get! 2000年:Hit! Foot! Get! More Runs! 果敢に攻め、もっと得点を。 2001年:Hit! Foot! Get! 栄光への挑戦 第1次伊原監督時代• 2002年:全力 To The Best• 2003年:栄光へ全力! 伊東監督時代• 2004年:'04挑戦はじまる。 2005年:'05挑戦ふたたび。 2006年:'06挑戦あるのみ。 2007年:心を、ひとつに。 力を、ひとつに。 渡辺監督時代• 2008年:No Limit! 2008• 2009年:No Limit! 2009• 2010年:No Limit! 2010 逆襲の獅子• 2011年:No Limit! 2011 勝利への執念• 2012年:出しきれ! ライオンズ - このスローガンは、「朝日ニュースター」の野球中継のタイトルにも使用されている。 2013年:骨太!ライオンズ イズム 2013 第2次伊原監督時代• 2014年:全力! ライオンズ 攻めも、守りも、応援も。 田邊監督時代• 2015年:ガチ! ガチで戦う、マジで熱く。 それがライオンズだ!• 2016年:BEAST! 強く、猛々しく。 辻監督時代• 2017年:CATCH the ALL つかみ獲れ! - シーズン終盤は「つかみ獲れ! 」を「栄光をつかみ獲れ! 」に変更。 2018年:CATCH the FLAG 2018 栄光をつかみ獲れ! 2019年:CATCH the GLORY 新時代、熱狂しろ!• 2020年:Leolution! マスコット [ ] ライオンズのは、埼玉移転後に制定された以下の2体である。 どちらもデザインはが手掛けた。 詳しくは当該項目を参照されたい。 なお、太平洋・クラウン時代は黄色い顔のライオンをに使用。 また、西鉄時代もライオンをデザインしたペットマークを使用。 当時のジャンパーの胸部にワッペンが張り付けられていた。 お台場ドーム構想 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2012年10月) ドーム化前の西武球場は雨天中止が多く、後半の試合日程が厳しくなるケースもあった。 そのため本拠地を所沢から都心である東京のに移転してドーム球場を建設しようという案が浮上した。 しかし、当時既に東京都を保護地域とする球団が3球団 もあり、全ての球団の承諾を得る必要があったことや移転に対する地元所沢近辺のファンの猛反発、多額の建設費用の捻出、グループ企業の西武鉄道からの利用客減少への懸念の意見が出たため困難となり、結局は西武球場に屋根をかけドーム化させた。 福岡時代の歴史の取り扱い [ ] 西武による買収以降、当時のオーナーが「西鉄とわれわれは別の球団」と宣言した ことに現れるように、2007年までは福岡時代の歴史を極力消す傾向にあった。 球団の公式記録は全て埼玉移転後の記録のみが扱われて発表され、1950年の球団創立以来の通算記録は全く回顧されなかった。 また、福岡時代に在籍したが、埼玉移転の前に退団して西武ライオンズへの在籍経験がない選手などは球団のとして認められず、顕彰や始球式などは基本的に行われなかった。 このような扱いに対して福岡時代のファンの反発も強かった。 しかし、に堤が西武鉄道株をめぐる違反で失脚し、2007年にがオーナーが就任すると球団の歴史に対する扱いが変わることとなる。 西鉄時代のユニフォームは基本的に実施期間内の西武ドームでの主催試合で着用したが、西鉄時代の本拠地だった福岡(現在の本拠地である)でも2試合着用した。 これは2009年以降も福岡野球時代や西武時代初期なども対象に加えて、年度により行われることがある。 これを契機に公式ウェブサイト内年表において、西鉄クリッパース結成を起点とする福岡時代の記述が追加され、同年から掲載されるようになった、企業概要情報(公式サイトでは「球団概要」)のうち、創立年月日については「1978年10月25日」と記述されたが 、2009年1月の更新で「1950年1月28日 西鉄野球株式会社として登記」「1978年10月25日福岡野球株式会社より株式会社西武ライオンズに商号変更」と記述されるようになった。 さらに、には西鉄時代の選手であるの「24番」が、同人の生誕75周年を期して西武球団初のに指定された。 またチームカラーも、西鉄時代の黒と西武時代前期の青を融合させた紺色が「レジェンドブルー」の名称で採用された。 差し色として使われている赤も、特に明確な採用意図が説明されていないが、福岡野球(太平洋クラブ・クラウンライター)時代のチームカラーだった。 一方の西鉄側でも、売却以降ライオンズの歴史はタブー視していたが 、西鉄100周年を機に再度表舞台へと現れることとなった。 には両社の系列であるとの共同運行で、西鉄・西武それぞれのライオンズのロゴマークをデザインした車両により が運行を開始し(2015年5月に運行廃止) 、西鉄公式ホームページでも「にしてつwebミュージアム」で過去の電車やバスの画像と共に西鉄ライオンズを紹介している。 応援スタイル [ ] 「」も参照 ビクトリーフラッグと呼ばれる小旗が応援に使われる。 使われるのはスターティングメンバー発表時、得点時、5回表攻撃前など。 得点時には球団歌の「」のBメロ - サビが演奏され、ファンがそれに合わせてビクトリーフラッグを振る。 5回の攻撃前に球団歌の「地平を駈ける獅子を見た」が1コーラス演奏され、ファンがそれに合わせてビクトリーフラッグを振る。 交流戦では「」が代わりに演奏される。 応援のリードにが用いられる。 トランペットの使用が禁止されているでは攻撃開始前及び出塁時のファンファーレの代わりに「埼玉!西武!Let's Go Let's Go ライオンズ」の掛け声が使われる。 主催試合ではの演奏が流れる。 チャンステーマ1やチャンステーマ3は前奏があるため、そのオルガンに先行されて開始することがある。 勝利時には福岡時代からの名残で「」が演奏される。 ただしの打席のときは、中村が本塁打を打った後は「おかわりおかわりもう一杯」になる。 2004年までは関東での試合、関西での試合、九州での試合でそれぞれ応援歌が異なっている選手が居た。 その後、2005年から2006年にかけて発表された新曲に全員統一されたとの発表があったが、その後も福岡及び関西では異なる応援歌を打者一巡目や統一応援歌との交互応援など、地方では独自の応援がなされている。 福岡及び関西での応援歌は基本的に、黄金期の選手の応援歌を一部歌詞変更の上で流用、または、1990年代から2000年代にかけて作曲された地方専用応援歌を使用している。 1990年と2005年にほとんどの選手の応援歌の変更がなされている(1990年の変更は関東地区のみで九州では従前の応援歌のまま)。 しかし、チャンスの打席になると、その選手の変更前の応援歌や以前同じ背番号をつけていた選手の応援歌などが演奏されることもある。 でがチャンスで打席に立ったとき、元監督の選手時代の応援歌が演奏されたこともあった。 としては背番号7の選手(2008年から2013年までは、2014年から2015年までは)及びの打席での応援歌、外国人選手の打席での応援歌やの応援歌が使用されている。 2005年に選手の応援歌の一斉変更がなされる前は新しい応援歌がほとんどといっていいほど作られず、過去の選手の流用ばかりであった。 投手の応援歌だったものを野手用に使う例も見られた(やなど)。 実際に2005年の応援歌変更の対象とならなかったの応援歌は以降、、など歴代の外国人選手に使用されていた曲(歌詞も名前部分以外そのまま)、の応援歌はの曲の流用(歌詞は異なる)である。 7回の攻撃前には応援歌の「吠えろライオンズ」が演奏される。 従前の応援歌であった「」も相手投手交代の際などに使用される。 ライオンズクラシック2010の期間中は太平洋クラブライオンズ時代の応援歌であった「僕らの憧れライオンズ」が演奏される。 ライオンズクラシック2011の期間中は西鉄ライオンズ時代の応援歌であった「西鉄ライオンズの歌」が演奏される。 アウトテーマ2013年までは使用されていたが、2014年からは廃止となった。 7回攻撃前(ラッキー7)と勝利時にを飛ばす。 かつてはラッキー7では青色、勝利時は白色と色を変えていたが、現在は青で統一されている。 また、ライオンズクラシック2010の期間中はユニフォームの赤色に合わせて赤色の風船を飛ばす。 汎用の代打テーマは一応存在するが、専用の応援歌が無い野手は新人選手など数人しかいないうえ、近年は専用の応援歌のない選手が1軍の試合で活躍するとシーズン中でもすぐに専用応援歌が作成される傾向にあるため、滅多に演奏されない。 2005年の変更の際には代打テーマも新規作成されたが翌2006年入団の以外に使われることがなく、2006年交流戦頃にそのまま炭谷の応援歌となった。 それ以降2009年までは暫定的に一斉変更前の代打テーマを使用していたが、2010年から新しい代打テーマが作成された。 しかし、選手名が5文字以上の選手など、選手によっては新しい代打テーマを歌いづらい選手もいるため、それらの選手に対しては一斉変更前の代打テーマが使用されている。 不祥事 [ ] 黒い霧事件 [ ] 詳細は「」を参照 1969年から1971年にかけて起きた事件で、主力だったなどが関与して池永は処分を受けた(後に解除)。 詳細については上記を参照とのこと。 2007年裏金問題 [ ] 2007年3月9日、球団社長兼オーナー代行(当時)が会見を行ない、倫理行動宣言で行わないことを決めていたアマチュア2選手(の投手 と早稲田大学の清水勝仁 )に対するスカウト行動で、現金1300万円近くを2人に対して渡していたことがわかった。 さらに、2004年春ごろから2005年秋ごろにかけて、スカウトが2人の選手に対し一定額の現金を提供していたこともわかった。 社内調査委員会によるその後の調査で、別の5人のアマチュア選手に「契約金の前渡し」名目で計6000万円余り(つまり裏金を受け取っていたのは全部で7人)、さらにはアマチュアチーム(高校・大学・社会人)の監督延べ170人にも選手入団の謝礼として現金が渡されていた事 、しかも現金供与はオーナー企業が西武グループとなった1978年から既に行われていたことが判明した。 この裏金行為は太田が2006年8月に前社長から伝え聞いたものの、内部調査を経たため正式発表は2007年3月となった。 2007年3月24日、チームのシーズン開幕戦(戦)に当たり、太田は試合前のセレモニーに先だって謝罪し、「ファンに親しまれるチーム作りを目指します」とコメントした。 は5月29日、球団に対し制裁金3000万円または同額分の用品を機構の指定する育成団体に寄付させること、および秋のでの指名は3巡目からとすることを処分として決定した。 また事件発覚当時に楽天でスカウト部長を務めていた事件当時のスカウト部長が、楽天から減給、解任・編成部付となる処分を受けた。 スカウトによる不正の教訓から、ファンに親しまれるチーム作りを目指す姿勢と責任ある行動を誓って8月26日に「西武ライオンズ憲章」を制定した。 グッズショップ [ ] 本拠地であるメットライフドーム以外に、埼玉県および西武鉄道沿線にオフィシャルグッズショップ「ライオンズストア」を展開している。 グッズ販売のほか、ファンクラブ入会やチケット購入、各種優待チケット引換が可能。 ただし、フラッグスは西武ドームに隣接して所在するため、チケット販売・引換は行っていない。 (埼玉県所沢市、メットライフドーム前の2階建て建物、2019年7月に球団創設40周年事業の一環で建設。 (埼玉県)• (埼玉県所沢市、グランエミオ所沢2階)• (埼玉県、西武本川越ペペ3階)• (東京都、直結・8階) このうち、ともに移転前の本川越と所沢は「西武観光」の跡地であるが、西武観光でもライオンズ戦のチケットを扱っていた。 ファンサービス [ ] ファンクラブ [ ] 球団公式ファングラブがあり、ハイグレード・レギュラーA・レギュラーB・ジュニアの4コースがある。 西武ドーム 現・メットライフドーム の飲食売店やグッズショップで Lポイントを貯めることができる。 グッズショップやの主要駅で入会申し込みができる。 アニメとのコラボレーション [ ] 親会社である西武鉄道沿線にが多数存在することから、西武鉄道と同様にアニメとのコラボレーションイベントが増えている。 コラボレーションの内容としては、コラボしたアニメの主要キャラクターを担当したが来場し、始球式及びに場内アナウンスを行ったり、ライオンズとコラボしたグッズを販売するなど多岐に渡る。 コラボしたアニメ作品の多くは埼玉県を舞台にした作品だが、近年は『』や『』のように埼玉県が舞台ではないアニメ作品とのコラボも実施している。 4月からは、本拠地・所沢に(アニメや漫画などといったクールジャパンを発信する文化複合施設)を計画している出版大手とコラボしたフリーマガジンを発行している。 なお、西武ライオンズを題材としたアニメとして、西武移籍当初のをモデルとした『』(原作)が存在する。 作中では選手や監督のみならず当時のオーナーであった堤義明をイジる描写も多数見られたが、堤本人や球団、グループ会社からの言及や抗議は一切なかった。 こちらも2009年に開催されたで上映が行われている。 主なコラボ作品 [ ] 太字は、埼玉県を舞台とした作品。 括弧内は、その作品を制作したアニメ制作会社。 (シンエイ動画)• (A-1 Pictures)• (、)• (A-1 Pictures)(西武単独ではなくパ・リーグとして実施)• (シンエイ動画)• (トムス・エンタテインメント、MADHOUSE)• (オー・エル・エム)• (ISSEN、)(西武単独ではなくパ・リーグとして実施)• ()(西武単独ではなくNPBとして実施)• (オー・エル・エム)• () 放送 [ ]• 地上波テレビ(関東キー局)およびBSの(2020年の放映実績)• (・)- BS朝日は対巨人戦及びのみ映像は球団制作映像と独自映像を併用し、それ以外のカードはスコア表示が入った球団制作映像を使用する。 (・)• (・・)• ()- 球団制作中継を放送。 また、は「フジテレビTWO」への放映権を保有しているが、地上波については年度により西武主催の試合を中継することがある。 ただし、試合毎の個別契約のため、を含めた地上波5局のビジター側地元系列局やテレビ東京系列のBSテレ東では年度により西武主催の試合を中継することがある。 現在放送しているライオンズの冠番組 [ ] 試合中継• ラジオ• ()- 平日(シーズンオフ含む)のラジオ放送。 ()- 日曜日のラジオ放送。 ライオンズのラジオによる実況中継放送は、・をとしている、文化放送・NACK5の2局を合計して、4月から9月までの大半の試合が放送されている。 ラジオ放送のない土曜・祝日のデーゲームも、一部のカードを除いて文化放送が公式サイトでWeb配信を実施している。 テレビ• ()- 映像は球団制作の物をベースに使用し、実況は独自。 () 応援番組• (テレビ埼玉)• LTV〜ライオンズ徹底応援宣言! 〜(|埼玉、東京、群馬の一部地域) 旧:埼玉西武ライオンズTV かつて放送されていた番組 [ ]• (TBSテレビ)• はつらつライオンズ(テレビ埼玉)• (BS朝日)• ( )- 球団制作で放送。 福岡時代の番組 [ ] テレビ• () ラジオ• () 埼玉西武ライオンズ・レディース [ ]• かつては「 インボイス」、「 グッドウィル」と言う二軍独自の球団名が使われたことがあった。 戦後のとは無関係。 戦後のライオンズとは後述の事情もあり、球団としての系譜のつながりはない。 設立日については『魔術師 三原脩と西鉄ライオンズ』では28日、「プロ野球12球団全選手百科名鑑」シリーズ(途中頃までの発行分)では29日となっている。 西日本新聞の体面を考え「吸収合併」ではなく「球団合併」だったが、事実上の吸収合併であった。 チーム名は西日本新聞紙で募集し、1週間で53,000通の応募があったとされる。 8月22日から9月21日にかけて18連勝。 9月22日の西鉄戦に2-7で敗れた後、翌日から8連勝。 達成当時はの40勝がシーズン最多勝とされ、稲尾が新記録とされていた。 池永の他には、、、、。 池永は2005年に復権。 船田と村上はシーズン活動停止処分、基は厳重注意。 2013年、434本のが来るまで、日本プロ野球に来るまでのメジャーリーグ最多本塁打記録。 クラウンガスライターは6月に関東クラウン工業、廣済堂印刷と合併し廣済堂クラウンに社名変更した。 この時競合したのは、近鉄、南海、日本ハム、阪神、中日。 この当時の巨人の主力選手の一人であったは、「苦手を通り越してコンプレックス。 トラウマ的なものさえ感じる」と、巨人監督として迎えた直前の合宿地で印象を述べている。 『』 、、2007年。。 この年以後、同一チームの日本シリーズの連覇は2014年-2015年に福岡ソフトバンクホークスが達成するまで23年間なかった。 また、この年はゴールデングラブ9部門中、西武は8部門を独占。 同年、一時期は2位であってもマジックが点灯していたことがある。 これは西武の残り試合数が日本ハムの残り試合数よりも多かったことによるもので、一時期は3位転落でもマジックが点灯していたことがある。 現時点では3位球団におけるマジック点灯は同年の西武しか前例がない。 西武だけでなく、日本ハム以外のパ・リーグ各球団が主催する札幌ドームでの試合は2004年以降行われず、2009年の巨人主催を最後にセ・リーグ球団各球団が主催する札幌ドームでの試合は行われていない。 日本ハム以外のパ・リーグ球団の東京ドームでの主催試合に関しては、西武は2007年にオリックス、2012年にソフトバンク、2014年に楽天の主催試合の対戦相手として行ったことがある。 また交流戦では巨人主催試合での対戦相手として行われている。 球団はロッテなどのように、平日のデーゲームでの検討も行ったが、照明なしでのプレーは白球が見えづらく、西武ドームでは困難と判断した。 4月中は、4月12日からの開幕2連戦を西武ドームから日本ハム本拠地のに変更し、ホームゲームはのの2試合(うち1試合は雨天中止)のみ行われた。 2位の巨人が663得点で93得点差と圧倒。 したがって、同年は雨天による中止試合があった。 パ・リーグでは地方球場での主催試合開催で観客動員数を高める営業戦略を採るチームが多く、西武の方針は異例だった。 参照:• 1980年代から1990年代の一時期、子供のレオ(レオの子供のルネとも解釈可)の着ぐるみが登場したこともあった。 「ライオンズ・クラシック」等の復刻企画では広告ステッカー貼付の都合上この仕様通りに再現されない場合がある。 紐部が留めとなる場合はそれも濃紺となる。 このマークは広告扱いのため、交流戦ビジターゲームで着用するユニフォームには入らない。 この当時のロゴが2017年までの上に残されていた。 このロゴを「」と命名。 では・との提携関係にあったとき(初めまで)に、の中継において、この楽曲を中継のエンディングテーマソングとして使ったことがある。 当時の報道では「ブラデントン」という表記が一般的であった。 太平洋からクラウンに球団名が変更された後も、同じデザインのキャラクター(帽子のマークを変えて)を使用。 、、の3球団であった。 現在は日本ハムが札幌に移転したため、東京都を保護地域とする球団は現在ではセ・リーグのみの2球団である。 例として、ファンブックなどで国土計画の旧クラウン球団買収を「ライオンズ球団の誕生」と記述していたため、「福岡時代からライオンズを名乗る球団が存在したのに、新たに創設されたかのような記述はおかしい」と指摘され、この記述については「西武ライオンズ球団の誕生」と改めた。 また、1986年のパ・リーグ優勝の際に発売された西武鉄道の優勝記念乗車券では「西武ライオンズは1986年度パ・リーグ公式戦優勝。 4度目の制覇を達成することができました。 皆さまのご声援ありがとうございました。 」を全文とする感謝の意を示し、西鉄が達成した5度のリーグ優勝には触れなかった。 1962年限りで国鉄スワローズ(現:東京ヤクルトスワローズ)へ移籍し、監督・コーチとしての西武在籍経験もないは上記に該当する元選手の一人であり、ラジオ中継で西武贔屓の解説を続けながらも、現在の西武球団から自分の存在価値を認められない元選手は行き場や精神的故郷がないという球団批判を行っていた。 なお、豊田は2016年8月14日に誤嚥(ごえん)性肺炎のため、81歳で死去した。 その後、でからドラフト1位で指名され、入団。 -は、本来福岡県をカバーする日本テレビ系だったがフジテレビ系にネットチェンジした後も、特例で対巨人のオープン戦などフジテレビ系がローカルセールス枠となるデーゲームを中心に、日本テレビ系向けの中継を制作し、の福岡放送移行まで継続した。 出典 [ ]• [ ]• ここまでの出典は特記以外は 『魔術師 三原脩と西鉄ライオンズ』、1999年、132 - 148頁。 この年の記述の出典は特記無い場合、, p. 135と、, pp. 145 - 149。 この年の記述の出典は特記無い場合、, pp. 150 - 154。 この年の記述の出典は特記無い場合, p. 135と、, pp. 155 - 159。 この年の記述の出典は特記無い場合、, pp. 160 - 163。 , p.

次の