フィリップ 2 世 ツイッター。 フィリップ5世 (フランス王)

フィリップ2世 in Deutsch

フィリップ 2 世 ツイッター

在位 - 出生 、 死去 1223-07-14 (57歳没) 、 埋葬 、 王太子 配偶者 子女 イザベル・ド・エノーの子 ロベール(夭折) フィリップ(夭折) アニェス・ド・メラニーの子 マリー 庶子 ピエール・シャルル 王家 王朝 父親 母親 フィリップ2世( Philippe II, - )は、・第7代の王(在位: - 1223年)。 と妃での娘の子。 フランス最初の偉大な王と評価され、 尊厳王(オーギュスト、Auguste)と呼ばれた。 父の死により15歳で即位し、当初は舅であるの摂政下にあったが、間もなく親政を始めた。 エノー伯やシャンパーニュ伯などの強力な北部諸侯を抑え、婚姻政策によりなどを得た。 さらに、王家で欠地王のフランス南部に広大な領地を有するとの抗争に勝利し、その大陸領土の大部分をフランス王領に併合した他、を利用して、王権を、、といったフランス南東部から領にまで及ぼした。 この結果、フランス王権は大いに強まり、フランスはヨーロッパ一の強国となった。 1154年のフランスにおけるプランタジネット家の版図(茶、褐色の部分)、緑がフランス王領で薄緑が王権を認めている諸侯領 フランス王家であるは、もとはで、10世紀にが断絶すると選挙によってフランス王に選ばれたが、その支配地域は本領であると各地に散らばる若干の王領のみで、やといった有力諸侯と同程度の実権しか有していなかった。 歴代の王は王権の強化を図ったが、ノルマンディー公が王を兼ねて強力な存在になると()、これに対抗するのが精一杯で思うに任せなかった。 父のルイ7世はとの婚姻で一時はを支配下に加えた。 おりしもイングランドは王のだったため、王権を回復する良い機会だったが、この好機を生かせず、却ってアリエノールを離縁し、と結婚させてしまい、イングランドから南フランスまでを領有する強大なを誕生させてしまった。 長らくルイ7世には男子の跡継ぎもなく、このままに併合されるかという時に誕生したのがフィリップ2世だった。 幼いころは病弱で、一時期生命を危ぶまれる重病となり、父のルイ7世はヘンリー2世と戦争中だったにもかかわらず、聖の祠に病気治癒祈願するためイングランドへ渡ったほどだった。 生涯 [ ] 幼少期 [ ] 王位継承を確実とするため、フィリップ2世は14歳で共同統治王として戴冠し、1180年に父が亡くなると、わずか15歳で単独王として即位した。 即位した年に王家だったの血を引くの姪での娘と結婚し、間に王太子が誕生することによりとカロリング家の結合を果たした。 当初は摂政で舅にあたるボードゥアン5世や母の実家で異母姉の嫁ぎ先でもあったの力が強かったが、間もなく彼らを抑えて親政を始めた。 プランタジネット家との抗争、第3回十字軍 [ ] 最大の問題は、前王時代から続くプランタジネット家との抗争であった。 前王時代から、ヘンリー2世とその息子達が不仲なことを利用する方策が取られており、フィリップ2世もこの方策を受け継いだ。 元々フィリップ2世とプランタジネット家の息子達とは兄弟のような関係であり(ルイ7世とアリエノールの間に生まれた共通の異母姉・異父姉を持つ)、特に四男のブルターニュ公(ジェフリー)と親しく、一時は兄弟同様に過ごした。 にジョフロワがで死去すると、今度はジョフロワの兄と親しくなった。 に再びヘンリー2世との戦争が始まると、リチャードに父への謀反を起こさせ、ヘンリー2世を死に追いやることに成功した。 しかし、跡を継いだそのリチャード(リチャード1世、獅子心王)は手強い相手であり、当初は友好関係を継続させ、共にに向かった。 この際、2人は互いの領土に侵攻しないという約束を交わしたとされている。 第3回十字軍は、神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世(赤髭王)、イングランド王国のリチャード1世、フランス王国のフィリップ2世という王侯同士がそろって参加したであったが、たがいに反目しあい、うまく連携することができなかった。 現実主義者であるフィリップ2世は十字軍に情熱を持たず、リチャード1世とも対立し、を陥落させると間もなく病気を理由にフランスに帰国している。 この際、途中で教皇の元を訪れ、十字軍から脱退して帰国した理由を釈明した。 フランスへ戻ると間もなく、伝統的政策としてリチャード1世の弟の王位簒奪を扇動した。 そしてノルマンディ各地を占領していった。 そうしたジョンとフィリップの行動について報告を受けたリチャードは、との間で和平を成立させ、急ぎ帰国の途についた。 リチャードが途中で公に捕らえられると、解放を遅らせるよう身柄を預かった皇帝に働きかけると共に、ジョンの簒奪を支援したが成功せず、やがてリチャード1世はハインリヒに莫大な身代金を支払い解放された。 フィリップ2世は手紙でジョンに「気をつけろ、悪魔は解き放たれた」と知らせたという。 リチャード1世はイングランドに戻るとすぐにジョンを屈服させ、捕囚中にフィリップ2世に奪われたフランス領土(など)を回復すべくフランスに渡った。 フィリップ2世はアキテーヌ公領の諸侯を扇動し、リチャードに対して反乱させるなどをして対抗するも、戦上手なリチャードにはかなわず、次々と領土を回復された。 ことに1194年7月3日、ヴァンドーム地方フレトヴァルの戦いでは金庫や公文書まで捨ておいての逃走を強いられるほどの大敗を喫する。 1196年のガイヨン条約ではジソールを除く占領地の全てをリチャードに返還した。 しかしにリチャードはアテキーヌ公領シャリュで戦死し、甥のブルターニュ公(アーサー)との争いの中でジョンがイングランド王となった。 離婚問題 [ ] にイザベルが亡くなると、にの娘と結婚したが、フィリップ2世は彼女が気に入らず、間もなく離婚を宣言し、にバイエルン貴族のアンデクス伯兼メラーノ公の娘と結婚した。 しかし、インゲボルグは離婚を認めず、フィリップ2世の結婚を重婚としてに訴えた。 ローマ教皇はこの訴えを認め、フィリップ2世とアニェスとの結婚を無効とし、インゲボルグと死別しない内のフィリップ2世の再婚を禁止した。 フィリップ2世はこれに抵抗し、アニェスを妻とし続けたため、に新教皇はフィリップ2世を破門し、フランスをとした。 それにより国内でも、も、結婚も、葬儀も行われなくなっため、埋葬されない遺体が墓地に並べられ、不衛生になり、伝染病が流行した。 になるとフィリップ2世は、イングランド王との抗争においてローマ教皇の支持を必要としたため、教皇の要求に屈し、少なくともフィリップ2世は教皇を欺く目的で表面上アニェスと別れた。 しかし、アニェスは王に飽きられて捨てられたと思い込み、悲しみから病に罹る。 失意の中、アニェスは間もなく3人目の子の難産により亡くなるが、フィリップ2世はその死因がインゲボルグにあるとし、インゲボルグをエタンプの城に幽閉した。 その後もフィリップ2世はインゲボルグとの離婚を望み、彼女を遠ざけていたが、デンマーク王やローマ教皇の要求によりに呼び戻し、王妃として処遇した。 フィリップ2世は教会の干渉に非常に不満で、の年代記によると「(自分が)イスラム教徒だったら良かった。 ローマ教皇のいないがうらやましい」と述べたとされる。 ジョンとの戦い [ ] 1180年と1223年のフランスにおけるプランタジネット家の版図(赤)とフランス王領(青)、諸侯領(緑)、教会領(黄) にジョンが、既に婚約者のいたと結婚した時、婚約者だったはこれをフィリップ2世に訴えた。 フィリップ2世はジョンを法廷に召喚し、これを拒否されるとジョンの全フランス領土の剥奪を宣言し、ノルマンディー以外のこれらの領土をブルターニュ公アルテュールに与え、アルテュールを支援してジョンと交戦した。 にジョンがアルテュールを捕らえ殺害すると、フランスの諸侯はジョンを見限り、ブルターニュを始めとして、、、、はほとんど抵抗せずにフィリップ2世に降伏した。 ジョンの下に残ったのは、わずかにアキテーヌの中心地であるのみで、フィリップ2世は懸案だったプランタジネット家のフランス領土の大部分の回収に成功した。 その後もジョンは失地回復を目指してアンジュー、ポワトゥーに侵攻したが、これを撃退し、以北を正式にフランス領とする条約を結んだ。 さらにには、されたジョンに対し、ローマ教皇インノケンティウス3世の支援を受け、ジョンに不満なイングランド諸侯や、と呼応してイングランド侵攻を計画した。 しかし、これを恐れたジョンがイングランドをローマ教皇に寄進し、教皇の封建臣下となったため、教皇はイングランド侵攻の支持を取り消し、計画は中止された。 その後、イングランド侵攻に協力しなかったフランドル伯を攻めたが、イングランドの援軍により撃退された。 翌になるとジョンは、甥の神聖ローマ皇帝やと提携し、フランスを南北から挟撃する計画を立てた。 ジョンがフランス南部に進撃すると同時にドイツ、フランドル軍がフランドルからフランスに侵入するというものであった。 これに対しフィリップ2世は、王太子ルイを南部に派遣してジョンを抑え、自らはフランドルから進入する皇帝連合軍を迎え撃ち、で勝利を収めた。 この勝利により、イングランドに対して優位に立ち、プランタジネット家の旧領を確保すると共に、フランスの有力諸侯フランドル伯、ブローニュ伯を捕虜とし、王権をいっそう確実にした。 にジョンに不満を持つイングランド諸侯の要請により、王太子ルイのイングランド侵攻を認めるが、にジョンが亡くなるとイングランド諸侯はジョンの息子のを支持したため、ルイの即位は果たせなかった。 内政・外交 [ ] 内政ではの道路の舗装、城壁の建設、市場の設立などの整備を行い、父王時から続いているの建設を続け、の創立に協力した。 また、王領内に(国王)の制を確立させて支配機構を一新し、司法における王室法廷への上訴の道をひらき 、さらに都市(コミューン)を保護、育成し商業を振興させて官僚機構を整備して、コミューンを特殊な家臣「集合領主」として扱って、市民のフランス王国への帰属意識を高めさせた。 外交では神聖ローマ帝国のと同盟し、ハインリヒ6世の死後は弟のを支持した。 にフィリップが暗殺された後はハインリヒ6世の息子でフィリップの甥のを支持し、オットー4世と対立した。 十字軍には熱心でなく、ローマ教皇との関係はつかず離れずだった。 アルビジョア十字軍、晩年 [ ] はに始まったが、当初インノケンティウス3世からの参加要請は、イングランド王ジョンと神聖ローマ皇帝オットー4世の脅威を理由に断り、の指揮に任せている。 フランス王家は歴史的にローマ教皇との関係は良かったが、フランス領内での教皇の影響が強くなりすぎるのも好ましくはなく、つかず離れずといった対応を取っていた。 しかし1214年のブーヴィーヌの戦いの勝利の後は、1216年から始まる南仏諸侯の反撃に苦戦する十字軍に王太子ルイを派遣し、介入するようになった。 フィリップ2世の死後のにアモーリ・ド・モンフォールから南仏の支配権を受け継ぎ、ルイ8世が十字軍を指揮して、、への王権の伸張に成功した。 フィリップは1223年7月14日にので亡くなり、歴代のフランス王が眠るに埋葬された。 後継として王太子ルイがルイ8世として即位した。 評価 [ ] 懸案だったイングランド王家の大陸領土の大部分を回収し、北フランス諸侯の勢力を抑え、ブービーヌの戦いにより、神聖ローマ帝国、イングランドに対する優位を確立し、さらにアルビジョア十字軍を利用して南仏()やブルゴーニュにまで王権を及ぼす契機をつくった。 内政も都市の育成やパリの整備、の設立などにより民衆の支持を得て、フランス国民としての統一意識を高め、以降1世紀にわたりヨーロッパにおけるフランスの優位を確立した。 フランス王国最初の偉大な王と評価され、初代ローマ皇帝にちなんで尊厳王(Auguste)と称される。 子女 [ ] との間に3男いる。 (1187年 - 1226年) - フランス王• ロベール(1190年 - 1190年) - 生後3日目で死去• フィリップ(1190年 - 1190年) - 生後3日目で死去 との間に2男1女がいる。 (1200年 - 1234年) - クレルモン伯、1216年にダンマルタン伯ルノーの娘と結婚• ジャン=トリスタン(1201年 - 1201年)- 生後間もなく死去 愛人としていたで暮らしていた名前不明の女性との間に庶子が1男いる。 ピエール・シャルル(1205年-1249年) - ノヨン・の司教であり副伯 脚注 [ ] [] 注釈 [ ].

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在位 - 出生 、 死去 1223-07-14 (57歳没) 、 埋葬 、 王太子 配偶者 子女 イザベル・ド・エノーの子 ロベール(夭折) フィリップ(夭折) アニェス・ド・メラニーの子 マリー 庶子 ピエール・シャルル 王家 王朝 父親 母親 父の死により15歳で即位し、当初は舅であるの摂政下にあったが、間もなく親政を始めた。 エノー伯やシャンパーニュ伯などの強力な北部諸侯を抑え、婚姻政策によりなどを得た。 さらに、王家で欠地王のフランス南部に広大な領地を有するとの抗争に勝利し、その大陸領土の大部分をフランス王領に併合した他、を利用して、王権を、、といったフランス南東部から領にまで及ぼした。 この結果、フランス王権は大いに強まり、フランスはヨーロッパ一の強国となった。 1154年のフランスにおけるプランタジネット家の版図(茶、褐色の部分)、緑がフランス王領で薄緑が王権を認めている諸侯領 フランス王家であるは、もとはで、10世紀にが断絶すると選挙によってフランス王に選ばれたが、その支配地域は本領であると各地に散らばる若干の王領のみで、やといった有力諸侯と同程度の実権しか有していなかった。 歴代の王は王権の強化を図ったが、ノルマンディー公が王を兼ねて強力な存在になると()、これに対抗するのが精一杯で思うに任せなかった。 父のルイ7世はとの婚姻で一時はを支配下に加えた。 おりしもイングランドは王のだったため、王権を回復する良い機会だったが、この好機を生かせず、却ってアリエノールを離縁し、と結婚させてしまい、イングランドから南フランスまでを領有する強大なを誕生させてしまった。 長らくルイ7世には男子の跡継ぎもなく、このままに併合されるかという時に誕生したのがフィリップ2世だった。 幼いころは病弱で、一時期生命を危ぶまれる重病となり、父のルイ7世はヘンリー2世と戦争中だったにもかかわらず、聖の祠に病気治癒祈願するためイングランドへ渡ったほどだった。 生涯 幼少期 王位継承を確実とするため、フィリップ2世は14歳で共同統治王として戴冠し、1180年に父が亡くなると、わずか15歳で単独王として即位した。 即位した年に王家だったの血を引くの姪での娘と結婚し、間に王太子が誕生することによりとカロリング家の結合を果たした。 当初は摂政で舅にあたるボードゥアン5世や母の実家で異母姉の嫁ぎ先でもあったの力が強かったが、間もなく彼らを抑えて親政を始めた。 プランタジネット家との抗争、第3回十字軍 最大の問題は、前王時代から続くプランタジネット家との抗争であった。 前王時代から、ヘンリー2世とその息子達が不仲なことを利用する方策が取られており、フィリップ2世もこの方策を受け継いだ。 元々フィリップ2世とプランタジネット家の息子達とは兄弟のような関係であり(ルイ7世とアリエノールの間に生まれた共通の異母姉・異父姉を持つ)、特に四男のブルターニュ公(ジェフリー)と親しく、一時は兄弟同様に過ごした。 にジョフロワがで死去すると、今度はジョフロワの兄と親しくなった。 に再びヘンリー2世との戦争が始まると、リチャードに父への謀反を起こさせ、ヘンリー2世を死に追いやることに成功した。 しかし、跡を継いだそのリチャード(リチャード1世、獅子心王)は手強い相手であり、当初は友好関係を継続させ、共にに向かった。 この際、2人は互いの領土に侵攻しないという約束を交わしたとされている。 第3回十字軍は、神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世(赤髭王)、イングランド王国のリチャード1世、フランス王国のフィリップ2世という王侯同士がそろって参加したであったが、たがいに反目しあい、うまく連携することができなかった。 現実主義者であるフィリップ2世は十字軍に情熱を持たず、リチャード1世とも対立し、を陥落させると間もなく病気を理由にフランスに帰国している。 この際、途中で教皇の元を訪れ、十字軍から脱退して帰国した理由を釈明した。 フランスへ戻ると間もなく、伝統的政策としてリチャード1世の弟の王位簒奪を扇動した。 そしてノルマンディ各地を占領していった。 そうしたジョンとフィリップの行動について報告を受けたリチャードは、との間で和平を成立させ、急ぎ帰国の途についた。 リチャードが途中で公に捕らえられると、解放を遅らせるよう身柄を預かった皇帝に働きかけると共に、ジョンの簒奪を支援したが成功せず、やがてリチャード1世はハインリヒに莫大な身代金を支払い解放された。 フィリップ2世は手紙でジョンに「気をつけろ、悪魔は解き放たれた」と知らせたという。 リチャード1世はイングランドに戻るとすぐにジョンを屈服させ、捕囚中にフィリップ2世に奪われたフランス領土(など)を回復すべくフランスに渡った。 フィリップ2世はアキテーヌ公領の諸侯を扇動し、リチャードに対して反乱させるなどをして対抗するも、戦上手なリチャードにはかなわず、次々と領土を回復された。 ことに1194年7月3日、ヴァンドーム地方フレトヴァルの戦いでは金庫や公文書まで捨ておいての逃走を強いられるほどの大敗を喫する。 1196年のガイヨン条約ではジソールを除く占領地の全てをリチャードに返還した。 しかしにリチャードはアテキーヌ公領シャリュで戦死し、甥のブルターニュ公(アーサー)との争いの中でジョンがイングランド王となった。 離婚問題 にイザベルが亡くなると、にの娘と結婚したが、フィリップ2世は彼女が気に入らず 、間もなく離婚を宣言し、にバイエルン貴族のアンデクス伯兼メラーノ公の娘と結婚した。 しかし、インゲボルグは離婚を認めず、フィリップ2世の結婚を重婚としてに訴えた。 ローマ教皇はこの訴えを認め、フィリップ2世とアニェスとの結婚を無効とし、インゲボルグと死別しない内のフィリップ2世の再婚を禁止した。 フィリップ2世はこれに抵抗し、アニェスを妻とし続けたため、に新教皇はフィリップ2世を破門し、フランスをとした。 それにより国内でも、も、結婚も、葬儀も行われなくなっため、埋葬されない遺体が墓地に並べられ、不衛生になり、伝染病が流行した。 になるとフィリップ2世は、イングランド王との抗争においてローマ教皇の支持を必要としたため、教皇の要求に屈し、少なくともフィリップ2世は教皇を欺く目的で表面上アニェスと別れた。 しかし、アニェスは王に飽きられて捨てられたと思い込み、悲しみから病に罹る。 失意の中、アニェスは間もなく3人目の子の難産により亡くなるが、フィリップ2世はその死因がインゲボルグにあるとし、インゲボルグをエタンプの城に幽閉した。 その後もフィリップ2世はインゲボルグとの離婚を望み、彼女を遠ざけていたが、デンマーク王やローマ教皇の要求によりに呼び戻し、王妃として処遇した。 フィリップ2世は教会の干渉に非常に不満で、の年代記によると「(自分が)イスラム教徒だったら良かった。 ローマ教皇のいないがうらやましい」と述べたとされる。 ジョンとの戦い 1180年と1223年のフランスにおけるプランタジネット家の版図(赤)とフランス王領(青)、諸侯領(緑)、教会領(黄) にジョンが、既に婚約者のいたと結婚した時、婚約者だったはこれをフィリップ2世に訴えた。 フィリップ2世はジョンを法廷に召喚し、これを拒否されるとジョンの全フランス領土の剥奪を宣言し、ノルマンディー以外のこれらの領土をブルターニュ公アルテュールに与え、アルテュールを支援してジョンと交戦した。 にジョンがアルテュールを捕らえ殺害すると、フランスの諸侯はジョンを見限り、ブルターニュを始めとして、、、、はほとんど抵抗せずにフィリップ2世に降伏した。 ジョンの下に残ったのは、わずかにアキテーヌの中心地であるのみで、フィリップ2世は懸案だったプランタジネット家のフランス領土の大部分の回収に成功した。 その後もジョンは失地回復を目指してアンジュー、ポワトゥーに侵攻したが、これを撃退し、以北を正式にフランス領とする条約を結んだ。 さらにには、されたジョンに対し、ローマ教皇インノケンティウス3世の支援を受け、ジョンに不満なイングランド諸侯や、と呼応してイングランド侵攻を計画した。 しかし、これを恐れたジョンがイングランドをローマ教皇に寄進し、教皇の封建臣下となったため、教皇はイングランド侵攻の支持を取り消し、計画は中止された。 その後、イングランド侵攻に協力しなかったフランドル伯を攻めたが、イングランドの援軍により撃退された。 翌になるとジョンは、甥の神聖ローマ皇帝やと提携し、フランスを南北から挟撃する計画を立てた。 ジョンがフランス南部に進撃すると同時にドイツ、フランドル軍がフランドルからフランスに侵入するというものであった。 これに対しフィリップ2世は、王太子ルイを南部に派遣してジョンを抑え、自らはフランドルから進入する皇帝連合軍を迎え撃ち、で勝利を収めた。 この勝利により、イングランドに対して優位に立ち、プランタジネット家の旧領を確保すると共に、フランスの有力諸侯フランドル伯、ブローニュ伯を捕虜とし、王権をいっそう確実にした。 にジョンに不満を持つイングランド諸侯の要請により、王太子ルイのイングランド侵攻を認めるが、にジョンが亡くなるとイングランド諸侯はジョンの息子のを支持したため、ルイの即位は果たせなかった。 内政・外交 内政ではの道路の舗装、城壁の建設、市場の設立などの整備を行い、父王時から続いているの建設を続け、の創立に協力した。 また、王領内に(国王)の制を確立させて支配機構を一新し、司法における王室法廷への上訴の道をひらき 、さらに都市(コミューン)を保護、育成し商業を振興させて官僚機構を整備して、コミューンを特殊な家臣「集合領主」として扱って、市民のフランス王国への帰属意識を高めさせた。 外交では神聖ローマ帝国のと同盟し、ハインリヒ6世の死後は弟のを支持した。 にフィリップが暗殺された後はハインリヒ6世の息子でフィリップの甥のを支持し、オットー4世と対立した。 十字軍には熱心でなく、ローマ教皇との関係はつかず離れずだった。 アルビジョア十字軍、晩年 はに始まったが、当初インノケンティウス3世からの参加要請は、イングランド王ジョンと神聖ローマ皇帝オットー4世の脅威を理由に断り、の指揮に任せている。 フランス王家は歴史的にローマ教皇との関係は良かったが、フランス領内での教皇の影響が強くなりすぎるのも好ましくはなく、つかず離れずといった対応を取っていた。 しかし1214年のブーヴィーヌの戦いの勝利の後は、1216年から始まる南仏諸侯の反撃に苦戦する十字軍に王太子ルイを派遣し、介入するようになった。 フィリップ2世の死後のにアモーリ・ド・モンフォールから南仏の支配権を受け継ぎ、ルイ8世が十字軍を指揮して、、への王権の伸張に成功した。 フィリップは1223年7月14日にので亡くなり、歴代のフランス王が眠るに埋葬された。 後継として王太子ルイがルイ8世として即位した。 容姿と性格 フィリップ2世の姿と人となりについて、唯一知られている資料では、彼について以下のように記載している。 「禿頭だが、堂々として凛々しく、がっしりした大柄な体躯で血色の良い陽気な顔をしている。 気性は激しく、豪奢な暮らし、女性とワインを好む。 味方には寛容だが、自分を不快にさせた者には出し惜しむ。 戦術に精通しており、正しいと認められる信念を持ち、自分の決断に対して慎重かつ頑固である。 幸運の寵児であるが、激しやすく落ち着きがない面を他者から恐れられていた。 しかしながら、投獄した敵を死なせることは決してせず、自分の配下に置き、その鎮圧者であり、教会の援護者であり、支配者である自分を誇示することを好んでいた。 」 子女 との間に3男いる。 (1187年 - 1226年) - フランス王• ロベール(1190年 - 1190年) - 生後3日目で死去• フィリップ(1190年 - 1190年) - 生後3日目で死去 との間に2男1女がいる。 (1200年 - 1234年) - クレルモン伯、1216年にダンマルタン伯ルノーの娘と結婚• ジャン=トリスタン(1201年 - 1201年)- 生後間もなく死去 愛人としていたで暮らしていた名前不明の女性との間に庶子が1男いる。 ピエール・シャルル(1205年-1249年) - ノヨン・の司教であり副伯• 一説では初夜にインゲボルグの口から酷い口臭がしていたことが原因とされる。 当初、伯ギヨーム1世の娘、マルグリット・ド・ジュネーヴとの再婚が決まっていたが、マルグリットが結婚式のためにパリに向かう道中、待ち伏せていたトマによって彼女は連れ去られ、そのまま2人は結婚してしまった。 そのため、再度王妃を選抜し、アニェス・ド・メラニーと結婚した。 中世ヨーロッパの王の義務には、外敵に対する防衛、王国内の教会の保護、裁判義務があった。 中世フランスの名君としては、他に、の名がしばしば挙げられる。 フランスでは、せいなる「聖油入れ」「ユリの花」「王旗」がドイツの神聖ローマ皇帝に対する対抗の象徴であり、フィリップ2世はじめルイ9世、フィリップ4世はいずれも、一貫して「いとも敬虔なる王」たることを主張して、自己の王権を権威づけた。

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フィリップ2世 (ブルゴーニュ公)

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年表 西暦(年齢) 1527年(0歳)スペイン帝国のバリャドリッド(スペイン、カスティーリャ・イ・レオン州の州都)に生まれる。 1556年(28歳)スペイン国王に即位。 1557年(29歳)最初の破産宣告(国庫支払い停止宣言:バンカロータ)をする。 1559年(31歳)カトリックの禁書目録を公布。 1561年(33歳)バリャドリッドからマドリードに宮廷を遷す。 1563年(35歳)エル・エスコリアル修道院の建設開始。 1568年(40歳)ネーデルランドの反乱、アルプハラース山地でモリスコ(キリスト教に改宗したモーロ人)の反乱が勃発。 1571年(43歳)レパントの海戦でオスマン帝国軍に勝利。 1579年(51歳)ネーデルラント南部諸州を八十年戦争から離脱させる。 1580年(52歳)ポルトガルを併合。 1584年(56歳)天正遣欧少年使節を歓待。 1588年(60歳)アマルダの海戦。 スペインの無敵艦隊がイングランド軍に敗北。 1590年(62歳)ミリョネス新税を導入。 1596年(68歳)バンカロータを行う。 ペストが流行。 1598年(71歳)フェリペ2世、死去。 スペインの黄金期を築く 1556年、父カルロス1世のあとを継いで、フェリペ2世が スペイン国王に即位します。 ヨーロッパ内だけでも、スペイン、ネーデルラント、ナポリ、シチリアといった領土を受けつぎます。 オーストリアはカルロス1世の弟、フェルディナンド1世が受け継ぎ、ハプスブルク家は、スペイン・ハプスブルク家とオーストリア・ハプスブルク家に分化しました。 フェリペ2世即位後にはポルトガルも領有します。 そしてヨーロッパ以外にも、新大陸のアメリカ中南米、フィリピン、マカオ、マラッカ、ゴア、アフリカ大陸沿岸を植民地としていました。 広大な領土・植民地を領有していたスペイン帝国は 「太陽の沈まない国」と呼ばれ、フェリペ2世の治世下で 黄金期を迎えました。 カトリックを信望する「書類王」 フェリペ2世は 「異端者に君臨するくらいなら命を100度失った方がよい」と公言するほど、 カトリックを信奉していました。 同じハプスブルグ家から分かれたオーストリア・ハプスブルク家の君主がプロテスタント勢力を認めて信仰を許したことに不満を表しました。 1559年にカトリックで禁書とされている書物の目録を公布し、指定された大学以外でスペイン人が学ぶことさえも、一時的に禁止しました。 フランスのカトリックとプロテスタントが40年に渡り争ったユグノー戦争(1562年~1598年)に介入し、カトリック同盟軍を支持しました。 このようなカトリック信奉=異端派不寛容政策に対し、ネーデルランドの反乱とモリスコの反乱が起こっています。 それでも、フェリペ2世はカトリックの盟主としての姿勢を変えず、カトリックによる国家統合を目指しました。 フェリペ2世の父、カルロス1世は、ヨーロッパ内の広大な領地を移動し「遍歴の国王」と呼ばれていました。 それに対し、フェリペ2世はほとんどスペインから離れませんでした。 1561年、マドリッドに宮廷を遷し、1563年から王宮・修道院・墓所を兼ねたエル・エスコリアルを建設します。 フェリペ2世はエル・エスコリアルにこもり、広大な領土から送られてくる 書類の山をさばき、命令を発しました。 書類は 月1000通、勤務時間は 1日14時間に達することもあったそうです。 そんなフェリペ2世は 「書類王」と呼ばれるようになりました。 借金と莫大な国庫支出に悩まされる スペイン帝国は広大な領土を持ち繁栄していましたが、財政はかなり厳しく 借金が多かったようです。 父・カルロス1世から借金も受けついだフェリペ2世は、即位直後に「バンカロータ(国庫支払い停止宣言)」という 破産宣告をしています。 以降も、フェリペ2世は即位中に合計4回の「バンカロータ」を発しました。 理由は、 ・先代カルロス1世から続くフランス、イタリアとの戦争 ・即位後におきた地中海覇権をめぐるオスマン・トルコとの争い ・ネーデルランド反乱に対する鎮圧 ・イングランドとの戦争 で莫大な出費がかさんだためでした。 めったに笑わないフェリペ2世 冷静で近寄りがたかったフェリペ2世は、 めったに笑うことがなかったそうです。 1572年、ユグノー戦争中のフランスで、カトリック勢力によって プロテスタントたちの大量虐殺がありました。 サン・バルテルミの虐殺と呼ばれています。 このニュースを聞いたフェリペ2世は、生まれてはじめて笑ったと伝えられています。 1584年11月11日、フェリペ2世は日本からやってきた 天正少年使節団と対面します。 九州から来た4人の少年たちと会ったフェリペ2世は、少年たちを歓待し優しく抱擁しました。 カトリックを信仰し、日本からはるばるやって来た少年たちに感動したのでしょうか。 周りの人が驚くほど、フェリペ2世は機嫌が良かったそうです。 めったに笑わないフェリペ2世が笑ったという二つのエピソードは、どちらも カトリックが関係していて、相当熱心なカトリック信者だったことが伺えます。 きょうのまとめ フェリペ2世についてご紹介しました。 内容を簡単にまとめると、次のようになります。 冷静に書類をさばきながら国王としての職務を果たすフェリペ2世は、とても有能で仕事のできる王様だったのでしょう。 めったに笑わないフェリペ2世が日本から来た天正少年使節たちを歓待してくれていたというのは日本人にとってはうれしいことですね。 関連記事 >>>>.

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