そ た りょう すけ。 堀籠遼ノ助(ほりこめりょうのすけ)

受領(ずりょう)とは

そ た りょう すけ

本義は古代官人社会で交替の際の事務引き継ぎのことであるが、交替事務の重要性において国司の場合が他に勝っていたので、国司の別称となり、国務権限が国司官長( かみ ないし守を欠く場合介 すけ )に集中していくにしたがい、国司官長をさすことばとなった。 雑任 ぞうにん 国司の無力化と国司官長による国務の掌握とが決定的となるのが10世紀中葉であり、このころから受領が自己の郎等 ろうとう らを駆使し、部内に対し旧来の慣行にとらわれることなく、恣意 しい 的な支配を行うようになった。 この恣意的支配は、農民に対し過重負担をもたらし、国司苛政 かせい 訟訴とよばれる抵抗運動を引き起こした。 989年(永祚1)尾張 おわり 国郡司百姓等解 ひゃくせいらのげ は、農民らの受領支配に対する不満を示す好個の史料である。 受領らは、ほぼ2割前後の増徴を行い、私富を蓄積し、平安京において豪壮な邸宅を構えるなど、栄華を極めた。 ただし受領の栄華も摂関期が頂点で、院政期になると在地勢力の台頭により、収益はしだいに減少していった。 [森田 悌] 芸能などにおける受領受領は、古代では国司の別称で、守 かみ ・介 すけ ・掾 じょう ・目 さかん の四等官があったが、中世には実を伴わない官名として地下人 じげびと の名誉称号となり、職人や芸能人などの表彰に利用されるようになった。 近世に入るとその対象も多種多様にわたったが、なかでは刀鍛冶 かたなかじ 、菓子匠などの職人、浄瑠璃太夫 じょうるりたゆう ・人形操師 あやつりし などの芸能人で受領する者が多く、のちには主として浄瑠璃関係者に与えられ、官名はもっぱら掾に固定する。 大掾・掾・少掾の三階級があり、明治以降は宮家から口宣 くぜん を受けて掾号を名のった。 第二次世界大戦後では、義太夫節 ぎだゆうぶし の豊竹古靭 とよたけこうつぼ 大夫が1947年(昭和22)に山城少掾 やましろのしょうじょう を、人形遣いの吉田文五郎 ぶんごろう が56年に難波掾 なんばのじょう を受領している。 10世紀ころから遥任国守に対して,任地にあって吏務についての責任を負っている国守または権守,介などを(ずりよう)と呼ぶことがしきりに行われるようになり,受領の権限がひとり強大となって,それ以下の任用国司との地位の懸隔がしだいに大きくなったが,この受領の地位をめぐってしきりに競望が行われ,またその重任(ちようにん),(じようごう)を目ざして激しい運動が展開されるようになったのは,まったくその莫大な収入への期待によるものであった。 また国司の地位がやはり10世紀ころから盛行するようになった年官(ねんかん)の主たる対象となり,あるいは院宮分国や知行国のごとき制度が行われるようになったのも,やはり国司の地位がきわめて大きな収入源とみなされるようになったためである。

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堀籠遼ノ助(ほりこめりょうのすけ)

そ た りょう すけ

本義は古代官人社会で交替の際の事務引き継ぎのことであるが、交替事務の重要性において国司の場合が他に勝っていたので、国司の別称となり、国務権限が国司官長( かみ ないし守を欠く場合介 すけ )に集中していくにしたがい、国司官長をさすことばとなった。 雑任 ぞうにん 国司の無力化と国司官長による国務の掌握とが決定的となるのが10世紀中葉であり、このころから受領が自己の郎等 ろうとう らを駆使し、部内に対し旧来の慣行にとらわれることなく、恣意 しい 的な支配を行うようになった。 この恣意的支配は、農民に対し過重負担をもたらし、国司苛政 かせい 訟訴とよばれる抵抗運動を引き起こした。 989年(永祚1)尾張 おわり 国郡司百姓等解 ひゃくせいらのげ は、農民らの受領支配に対する不満を示す好個の史料である。 受領らは、ほぼ2割前後の増徴を行い、私富を蓄積し、平安京において豪壮な邸宅を構えるなど、栄華を極めた。 ただし受領の栄華も摂関期が頂点で、院政期になると在地勢力の台頭により、収益はしだいに減少していった。 [森田 悌] 芸能などにおける受領受領は、古代では国司の別称で、守 かみ ・介 すけ ・掾 じょう ・目 さかん の四等官があったが、中世には実を伴わない官名として地下人 じげびと の名誉称号となり、職人や芸能人などの表彰に利用されるようになった。 近世に入るとその対象も多種多様にわたったが、なかでは刀鍛冶 かたなかじ 、菓子匠などの職人、浄瑠璃太夫 じょうるりたゆう ・人形操師 あやつりし などの芸能人で受領する者が多く、のちには主として浄瑠璃関係者に与えられ、官名はもっぱら掾に固定する。 大掾・掾・少掾の三階級があり、明治以降は宮家から口宣 くぜん を受けて掾号を名のった。 第二次世界大戦後では、義太夫節 ぎだゆうぶし の豊竹古靭 とよたけこうつぼ 大夫が1947年(昭和22)に山城少掾 やましろのしょうじょう を、人形遣いの吉田文五郎 ぶんごろう が56年に難波掾 なんばのじょう を受領している。 10世紀ころから遥任国守に対して,任地にあって吏務についての責任を負っている国守または権守,介などを(ずりよう)と呼ぶことがしきりに行われるようになり,受領の権限がひとり強大となって,それ以下の任用国司との地位の懸隔がしだいに大きくなったが,この受領の地位をめぐってしきりに競望が行われ,またその重任(ちようにん),(じようごう)を目ざして激しい運動が展開されるようになったのは,まったくその莫大な収入への期待によるものであった。 また国司の地位がやはり10世紀ころから盛行するようになった年官(ねんかん)の主たる対象となり,あるいは院宮分国や知行国のごとき制度が行われるようになったのも,やはり国司の地位がきわめて大きな収入源とみなされるようになったためである。

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りょう〇ちおすけ

そ た りょう すけ

本義は古代官人社会で交替の際の事務引き継ぎのことであるが、交替事務の重要性において国司の場合が他に勝っていたので、国司の別称となり、国務権限が国司官長( かみ ないし守を欠く場合介 すけ )に集中していくにしたがい、国司官長をさすことばとなった。 雑任 ぞうにん 国司の無力化と国司官長による国務の掌握とが決定的となるのが10世紀中葉であり、このころから受領が自己の郎等 ろうとう らを駆使し、部内に対し旧来の慣行にとらわれることなく、恣意 しい 的な支配を行うようになった。 この恣意的支配は、農民に対し過重負担をもたらし、国司苛政 かせい 訟訴とよばれる抵抗運動を引き起こした。 989年(永祚1)尾張 おわり 国郡司百姓等解 ひゃくせいらのげ は、農民らの受領支配に対する不満を示す好個の史料である。 受領らは、ほぼ2割前後の増徴を行い、私富を蓄積し、平安京において豪壮な邸宅を構えるなど、栄華を極めた。 ただし受領の栄華も摂関期が頂点で、院政期になると在地勢力の台頭により、収益はしだいに減少していった。 [森田 悌] 芸能などにおける受領受領は、古代では国司の別称で、守 かみ ・介 すけ ・掾 じょう ・目 さかん の四等官があったが、中世には実を伴わない官名として地下人 じげびと の名誉称号となり、職人や芸能人などの表彰に利用されるようになった。 近世に入るとその対象も多種多様にわたったが、なかでは刀鍛冶 かたなかじ 、菓子匠などの職人、浄瑠璃太夫 じょうるりたゆう ・人形操師 あやつりし などの芸能人で受領する者が多く、のちには主として浄瑠璃関係者に与えられ、官名はもっぱら掾に固定する。 大掾・掾・少掾の三階級があり、明治以降は宮家から口宣 くぜん を受けて掾号を名のった。 第二次世界大戦後では、義太夫節 ぎだゆうぶし の豊竹古靭 とよたけこうつぼ 大夫が1947年(昭和22)に山城少掾 やましろのしょうじょう を、人形遣いの吉田文五郎 ぶんごろう が56年に難波掾 なんばのじょう を受領している。 10世紀ころから遥任国守に対して,任地にあって吏務についての責任を負っている国守または権守,介などを(ずりよう)と呼ぶことがしきりに行われるようになり,受領の権限がひとり強大となって,それ以下の任用国司との地位の懸隔がしだいに大きくなったが,この受領の地位をめぐってしきりに競望が行われ,またその重任(ちようにん),(じようごう)を目ざして激しい運動が展開されるようになったのは,まったくその莫大な収入への期待によるものであった。 また国司の地位がやはり10世紀ころから盛行するようになった年官(ねんかん)の主たる対象となり,あるいは院宮分国や知行国のごとき制度が行われるようになったのも,やはり国司の地位がきわめて大きな収入源とみなされるようになったためである。

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