テンペスト シェイクスピア。 ヘンリー五世 (シェイクスピア)

ヘンリー五世 (シェイクスピア)

テンペスト シェイクスピア

本稿は人文学部英語英米文化学科において、2年生を対象に開講する科目「英米の文学A」で、英文学専攻者ではない学生に対してシェイクスピア作品を教える授業の報告である。 授業ではシェイクスピアの戯曲、特に『テンペスト』に触れることにより、文学の学習上で重要な主題解釈への導入教育を行なっている。 この授業で取り扱うシェイクスピア劇は二つで、『ロミオとジュリエット』と『テンペスト』である。 学生の理解を助けるために、両方とも原作の映画化作品を使用している。 授業では映画を視聴させつつ、さまざまな活動を次々に展開して、学生の興味と集中を持続させるよう工夫している。 『テンペスト』を取り上げる際には、原作と映画の相違点を比較させつつ、文学作品における主題解釈の多様性を理解させ、社会的・政治的なテキストの読み方についても提示している。 さらに、テキストの解釈は読者の手に委ねられており、ゆえに読者のテキストへの積極的な関与が文学鑑賞には不可欠であることを説いている。 This is a report on how I teach a course entitled English Literature which aims to guide non-literature majors into the world of Shakespeare. Among the many plays of Shakespeare, the course deals with Romeo and Juliet and The Tempest. This paper introduces various class activities in order to help students to understand Shakespearean plays better without losing their interest and concentration. The film versions of the two plays are also used in this course. In treating The Tempest, the comparison between the play and the film is indispensable to showing the students how to interpret the theme of the play. In doing so, I urge them to understand that different ways of interpreting the text exist, including studying it from a social and political point of view. By active engagement of the reader according to his or her viewpoint, I also point out to the students how a genuine appreciation of a literary work becomes possible.

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テンペスト

テンペスト シェイクスピア

キャリバン(Caliban):テンペスト ||||||| キャリバン(Caliban):テンペスト キャリバン(Caliban)はシェイクスピアが創造したキャラクターのなかでも最もユニークなものだ。 登場人物のリストの中で、彼は「野蛮で奇形の奴隷」というふうに紹介されている。 つまり人間の形をしているのではなく、グロテスクな形をした怪物のイメージで包まれているのである。 キャリバンを始めてみたステファーノは4本足の化け物だといい、トリンキュロは魚と化け物のあいの子だといっている。 頭は魚で、鰭が手足のように伸び出ているのだろう。 ヒエロニムス・ボスの絵に出てくる魚の怪物を思い浮かべれば、近いイメージが得られると思う。 キャリバンは魔女シコラコスが魔物とまぐわいして生んだということになっている。 彼らはもともとこの島の原住民であり、この島の主人だったのである。 ところがプロスペロがやってきて、彼らを魔法の力でねじ伏せ、この島を簒奪したのだ。 キャリバン:この島は俺のものだ おふくろのシコラコスが残してくれたものを お前が横取りしたんだ CALIBAN :This island's mine, by Sycorax my mother, Which thou takest from me. 2) ここには、キャリバンは島の原住民、プロスペロは外部からやってきて乗っ取った侵略者という対立が設定されている。 いいかえれば、キャリバンは文明が成立する以前の野蛮、プロスペロはそこに文明の光を持ち込んだものということになる。 キャリバンと云う名は、人肉食いを意味するcanibal という言葉をもじったものだ。 プロスペロの方には文明による繁栄を象徴させているのだろう。 ここからもうかがえるように、これは野蛮と文明との中世的な対立図式を反映したものだ。 中世的な世界観にあっては、聖と俗、生と死、高貴と下賤、内側と外側と云ったように、あらゆるものが対立の相のもとにとらえられるとともに、その融合によって混沌が生じ、世界が死と再生を繰り返していくという考えが抱かれていた。 キャリバンとプロスペロの対立は、こうした図式を反映したものだ。 それ故、この劇においては、プロスペロとキャリバンとの対立が根本テーマなのだといえる。 嵐による遭難や、プロスペロの復讐と云ったテーマは副次的なものでしかない。 キャリバンは野蛮の象徴だが、プロスペロによって言葉を教えてもらう。 キャリバン:お前はおれに言葉を教えてくれた その言葉でいってやる てめえなんかくたばれ、と 言葉を教えてくれたお返しだ CALIBAN:You taught me language; and my profit on't Is, I know how to curse. The red plague rid you For learning me your language! 言葉は文明のシンボルだ。 野蛮状態にあったキャリバンにとってはしたがって言葉は存在しなかった。 キャリバンには言葉を覚えたことで、何かが変化しただろうか。 いや何も変化しない。 せいぜい忌々しさを言葉にこめて、相手をののしることができるようになったくらいだ。 キャリバンは自分がプロスペロによって支配されているのが我慢できないのだ。 そこで、ステファーノとトリンキュロをそそのかしてクーデタを起こし、プロスペロを島から追放しようと企てる。 しかしその企ては成功しない。 ステファーノもトリンキュロもそんなに気の利いた人間ではないからだ。 そんな連中をあてにせざるを得ないところに、キャリバンの弱さがある。 その弱さが優しい気持ちとして現れる場面がある。 姿の見えないアリエルが奏でる音楽をステファーノとトリンキュロが怖がるのを、なだめながらこういうのだ。 キャリバン:こわがることはねえ、この島にはざわめきや 音楽や歌声が満ちているが 楽しいばかりで害はない 時にはすげえ数の楽器が耳元でうなったり 時には歌声が聞こえたりして 長い眠りから目覚めた後でも またうっとりとして寝入ってしまうんだ そして夢の中で 雲が切れてその間から宝物が いまにも自分の上に落ちてきそうな気がする だから一旦目覚めても また夢を見たくなるのさ CALIBAN:Be not afeard; the isle is full of noises, Sounds and sweet airs, that give delight and hurt not. Sometimes a thousand twangling instruments Will hum about mine ears, and sometime voices That, if I then had waked after long sleep, Will make me sleep again: and then, in dreaming, The clouds methought would open and show riches Ready to drop upon me that, when I waked, I cried to dream again. これは文明に汚染されていない原始の状態を夢見たものだ。 アリエルもまたキャリバンとともにそうした原始の状態を象徴している。 アリエルはプロスペロの召使いではあるが、野生を引きずっているという点では、キャリバンと共通したところに立っているのだ。 || 作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved C 2007-2011 このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである.

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シェイクスピアの英語の名言・格言集。英文と和訳

テンペスト シェイクスピア

[生]1564. 〈洗礼〉 [没]1616. ストラトフォードアポンエーボン イギリスの詩人,劇作家。 公式には4月 23日が誕生日とされている。 裕福な商人の長男として生れ,父は一時は町長に選ばれたが,まもなく没落したため,彼は土地のグラマー・スクールに通っただけで,大学に進んだ形跡はない。 18歳のとき8歳年長のアン・ハサウェーと結婚,1男2女を得たが,その後の数年間については伝記的資料が皆無のため種々の憶測が行われている。 おそらく 20歳を過ぎてまもなくロンドンに出て劇界に入り,俳優として出発,やがて劇作に転じたものと思われる。 劇作は 1590年頃から開始され,最初はバラ戦争を主たる背景とする『』 Henry VI3部作 1590~92 ,『』 Richard III 93 ,笑劇に近い『』 The Taming of the Shrew 94 を書いていたが,94年宮内大臣お抱え一座の幹部座員となるに及んで偉大なとしての本領を発揮しはじめ,『』 Romeo and Juliet,『』A Midsummer Night's Dream,『リチャード2世』 Richard II いずれも 95 などの抒情的な作品を発表,さらに愛の喜劇のなかにのを描いた『』 The Merchant of Venice 96 ,の登場で有名な『』 Henry IV2部作 97 ,生の歓喜のなかにも生きることのきびしさや,ときには生の倦怠さえも暗示する『』 As You Like It 99 ,最高の喜劇『』 The Twelfth Night 1600 を書いた。 続く数年間は「悲劇時代」と呼ばれ,生と,善と悪,罪と罰,仮象と真実など人間の根本問題をテーマとした『』 Hamlet 1600 ,『』 Othello 04 ,『』 King Lear 05 ,『』 Macbeth 06 の四大悲劇を創作した。 1608年頃から許しと和解を主題にしたいわゆるロマンス劇に転じ,『』 Cymbeline 09 ,『』 The Winter's Tale 10 ,単独作としては最後の『』 The Tempest 11 を書いた。 としては,サウサンプトン伯に捧げた物語詩『ビーナスとアドニス』 Venus and Adonis 1593 ,『ルクリースの凌辱』 The Rape of Lucrece 94 ,英詩では最大にして最高の『』 Sonnets 1609 などがある。 天成のであった彼はを縦横に駆使して韻文劇を創作し,その内容の深さと相まって最高のをつくり出した。 その伝記に不明な部分があるため,シェークスピアの実在に疑問をいだく説 たとえばシェークスピアは F. ベーコンの筆名であるという もあったが,現在では顧みられない。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 英国の詩人,劇作家。 イングランド中部のストラトフォード・オン・エーボンの生れ。 商業を営み町の有力者であった父が没落し,高等教育は受けなかった。 1582年に8歳年長のアン・ハサウェーと結婚。 1585年前後にに出たらしく,1592年には新進の劇作家兼俳優として名をあげ,のちにはの株仲間にもなった。 次いで,《》《リチャード2世》や喜劇《》《》,の登場する《ヘンリー4世》《から騒ぎ》《お気に召すまま》《ヘンリー5世》《十二夜》など,円熟した作品を書く。 1600年前後から,四大悲劇《》《》《》《》を書く一方で,問題劇と呼ばれる《終りよければすべてよし》《尺には尺を》《トロイラスとクレシダ》を発表した。 その後,《アントニーとクレオパトラ》《コリオレーナス》《アセンズのタイモン》などの,やや異質の悲劇を書いてから,晩年のロマンス劇の時代に入り,《シンベリン》《冬物語》《あらし》(いずれも1610年前後)など,争いと和解を主題にした作品を最後に,ロンドンを去って故郷に隠退し,平和で平凡な余生を終えた。 死んだ日と誕生日が同じ4月23日とされているが,伝記資料は確証のないものが多い。 作品は,戯曲が37編とされ,詩では,初期の物語詩《ビーナスとアドニス》《ルークリース凌辱》と,154編からなる《ソネット集》が重要。 によって〈百万の魂をもつ〉と評されたシェークスピアは,豊かで深い世界を創造することに成功したまれな人物であった。 日本では明治期にの翻訳によって紹介され,の重要なレパートリーとなった。 現在では様々な前衛的演出が試みられている。 世界演劇史を通じて最大の劇作家、イギリス文学史を飾る大詩人といわれており、18世紀以来シェークスピア学という独立した学問が発展し、イギリスにおいては、あらゆる批評原理のテスト・ケースとして用いられており、イギリス劇壇にあってはシェークスピア劇は俳優の登竜門となっている。 また、全世界を通じて、つねに観客から歓迎を受けている事実も驚異の的となっている。 [小津次郎] 生い立ちイギリス・ルネサンスの頂点をなすエリザベス1世治下のイングランドの中部地方、ウォーリックシャーのストラトフォード・アポン・エイボンで、シェークスピアは生まれた。 父は皮革加工業を主として、農作物や毛織物の仲買業を営んでいた。 母は近在の豪農の出身であった。 父は1568年には町長に選出され、シェークスピアは裕福な市民の長男として幸福な幼年時代を送り、町のグラマー・スクール(文法学校)に学んだが、彼が13歳のときに父の没落が始まり、大学へ進むことは許されなかったと思われる。 シェークスピアの少年時代についてはまったく記録を欠いており、演劇との結び付きも不明であるが、町の有力者の子弟として観劇の機会には恵まれていたと思われる。 ロンドンに出た事情や年代についても不詳であり、近郊の豪族ルーシー家の鹿 しか をいたずら半分に盗んだのが思いがけない醜聞となったので郷里を去ったという伝説もあるが、もとより確実な証拠はない。 なんらかの理由でロンドンに出たのち劇団に加入したのか、すでに俳優として多少の経歴をもってから劇団とともに上京したのかはわからないが、ロンドンにおける俳優としての生活は1580年代の末ごろに始まっていたらしく、1592年には新進の演劇人として評判が高かったことを示す資料が残っている。 [小津次郎] 習作時代シェークスピアの劇作活動がいつから始まったのかは不明確であるが、多くの学者は1590年ごろと推定している。 おそらく最初は先輩作家の戯曲に部分的改修を加える助手的作業であったと思われるが、やがて彼自身の作品とよびうる戯曲を発表するようになった。 その意味で歴史劇『ヘンリー6世』三部作(1590~1592)を彼の処女作と考えることができよう。 その続編ともいうべき同じく歴史劇『リチャード3世』(1593)は、彼の生きていたエリザベス朝イギリスに至大の影響を与えたヨーク、ランカスター両家のばら戦争(1455~1585年のイギリスの内乱)の最終段階を描いたものであるが、主人公リチャード3世の創造は注目に値する。 また、ローマの喜劇作家プラウトゥスからの翻案ともいうべき『まちがいの喜劇』(1593)や笑劇(ファルス)『じゃじゃ馬馴 な らし』(1594)、当時人気の絶頂にあった流血悲劇の線に沿ったローマ史劇『タイタス・アンドロニカス』(1593)などが初期の作品群を形成している。 いずれも習作であり、先輩の模倣や稚拙な部分が残ってはいるが、大作家の萌芽 ほうが はすでにこのころ現れている。 [小津次郎] 劇壇の再編成1592年から足掛け3年にわたって、ロンドンに流行したペストのため劇場は閉鎖された。 1594年に内大臣の庇護 ひご を受けた劇団(ロード・チェンバレンズ・メンthe Lord Chamberlain's Men)が誕生し、彼は幹部座員として参加することとなった。 劇場閉鎖の結果ともいうべきロンドン劇壇の大規模な再編成は、シェークスピアのような新進劇作家にとって有利な情勢をつくりだしていた。 彼は終生この劇団のために戯曲を書くことになるが、最初の作品群は悲恋の運命悲劇『ロメオとジュリエット』、詩人肌で自己陶酔的な国王が数々の受難を経て悲劇の主人公に成長してゆく過程を描いた歴史劇『リチャード2世』、アテネ郊外の夜の森を舞台に幻想的な世界をつくりだしたロマンチックな喜劇『真夏の夜の夢』である。 いずれも1595年ごろの作品で、叙情性が共通した特色となっているが、単に情緒的な作品ではなく、シェークスピア劇の大きな特色である人間観察の鋭さはすでに現れている。 [小津次郎] フォルスタッフの創造しかし人間への洞察が行き届いてくるのは次期の作品群である。 1590年代の後半は主として歴史劇と喜劇を書いているが、前者の代表作は『ヘンリー4世』二部作(1598)であろう。 リチャード2世から王位を奪うことによって成立したヘンリー4世治下のイギリスという陰謀と混乱の暗い時代を背景に、放蕩無頼 ほうとうぶらい の生活を送る老騎士フォルスタッフは、ハムレットとともにシェークスピアの創造した性格のなかでもっとも興味あるものとされているが、ハル王子と手を組んでの乱行ぶりは、道徳的には非難に値するが、その絶大なる人間的魅力によって、18世紀以来ハムレットとともにシェークスピア性格論の中心となってきた。 またこの時期の代表的喜劇の一つである『ベニスの商人』(1597)は、甘美な恋愛喜劇のなかに強欲なユダヤ人の金貸し業者シャイロックを登場させているが、作者は社会通念に従って彼に悪人としての運命をたどらせながら、しかも少数被圧迫民族の悲しみと憤りを強く訴えさせて、人間への温い目と公正な社会観察眼を感じさせる。 [小津次郎] 名声の確立内大臣一座は順調な発展の道をたどってイギリス第一の劇団となり、シェークスピアの名声も確立した。 1596年には長男を失うという不幸があったが、同年秋には父親のために紋章着用権を取得し、1597年にはストラトフォードの大邸宅ニュー・プレイスを購入するなど、経済的にも成功者であったことを示している。 また内大臣一座の最大の弱みであった劇場問題も、多少の紆余曲折 うよきょくせつ があったとはいえ、1599年にテムズ川南岸にグローブ劇場(グローブ座)を建設して、同劇団の常打ち劇場とすることができた。 このころにシェークスピアの創作力もほとんど頂点に達したかの感がある。 『お気に召すまま』(1599)は、アーデンの森を舞台に、宮廷を追われた公爵と家臣の田園牧歌的な生活を背景に、若い男女の恋愛をロマンチックに描いた喜劇で傑作の名に恥じないが、憂鬱 ゆううつ 屋のジェイクイーズを登場させて、この世界にも陰があることに言及させることを忘れてはいない。 次の喜劇『十二夜』は1600年ごろの作品で、おそらくは宮廷での上演を目的として書かれたものであろう。 シェークスピア最高の喜劇として評判が高い。 全体としてロマンチックな香気に満ちているが、優雅な主筋と活気に富んだ脇筋 わきすじ のみごとな調和が成功の一因をなしている。 [小津次郎] 四大悲劇の誕生これと前後してシェークスピアはローマ史から取材した悲劇『ジュリアス・シーザー』(1599)を書いているが、これから数年を彼の「悲劇時代」とよぶ批評家もいる。 『ハムレット』(1601)、『オセロ』(1604)、『リア王』(1605)、『マクベス』(1606)と並ぶいわゆる四大悲劇はこの時期に集中している。 それぞれに素材も異なり、扱い方も一様ではないから、四大悲劇について総括的に語ることは不可能であるが、いずれも外見と内容、仮象と真実の食い違いに悲劇の楔 くさび を打ち込み、真実を獲得するためには最大の代償を支払わねばならぬかにみえる人間の壮大な悲劇的世界を提出し、死との関連において人間的価値の探究を試み、世界演劇史上最高の悲劇をつくりだしている。 しかしこの時期にシェークスピアが創作したのは悲劇のみではなく、『終りよければすべてよし』(1602)や『尺 しゃく には尺を』(1604)などの喜劇もある。 いずれも結末は喜劇的ではあるが、筋書きの強行による不自然な結果であり、全体として作品に暗い影がさしており、モラルについても混迷がみられるところから、「問題喜劇」という名称を与える批評家もいる。 この時期の最後を飾る悲劇は『アントニーとクレオパトラ』(1607)であるが、ほぼ同じころに執筆された忘恩をテーマとした『アセンズ(アテネ)のタイモン』(1607)は、未完成ではないかと疑わせるほどに悲劇形式に対する困惑が認められる。 [小津次郎] ロマンス劇の流行1603年にエリザベス1世が死去し、スコットランドからジェームズ1世が迎えられると、内大臣一座は国王の庇護 ひご を受けることとなり、国王一座(the King's Men)と改称したが、このころからイギリス演劇にも変化が生じ、観客の嗜好 しこう も移ってきた。 巨大な主人公を中心とする激しい感情の劇から、家庭悲劇、風刺喜劇、感傷的な悲喜劇、あるいはデカダンスの悲劇へと様相を転じてきた。 この傾向に応ずるため国王一座は1608年、従来のグローブ座と建築様式を異にし、入場料も高く、比較的裕福な観客層を対象としたブラックフライヤーズ座を傘下に置いた。 劇団のそうした経営方針とおそらく無関係ではなかったと思われるが、シェークスピアの作品も1608年ころから新しい傾向を帯びるようになる。 それはロマンス劇とよばれる悲喜劇で、『冬の夜話』(1610)や、シェークスピア最後の単独作である『テンペスト(あらし)』(1611)はその代表作であるが、一家の離散に始まり再会と和解に終わる主題は、シェークスピアがかならずしも時流に従わず、彼独自の世界を展開していることを示している。 [小津次郎] 最高の韻文芸術シェークスピアの全戯曲37編のほぼ半分は彼の生前に出版された。 また、創作年代不明の『ソネット集』も1609年に刊行され、イギリス・ソネットの精華として高く評価されているが、自伝的要素を含む可能性もあり、興味の尽きない作品である。 シェークスピアは晩年の数年間は郷里で家族とともに過ごしたと思われるが、満52歳をもって死去した。 死没の日は4月23日であるが、誕生日も4月23日前後と推定されるので、この日がシェークスピアの記念日とされている。 彼の芸術は演劇という媒体を通じて人間内面の世界をほとんど極限まで追求したものであるが、最高の詩的表現に満ちた韻文が主体であることも大きな特色となっている。 [小津次郎] 日本への影響日本へは明治初期に紹介され、いくつかの翻案が行われたが、翻訳としては坪内逍遙 つぼうちしょうよう による『ジュリアス・シーザー』の訳『自由太刀余波鋭鋒 じゆうのたちなごりのきれあじ 』(1884・明治17)が刊行されたのが最初である。 逍遙は1906年(明治39)に文芸協会を設立し、シェークスピア上演に意欲を燃やしたが、協会の解散によってこの機運も消え、その後はときに好演もあったが、シェークスピア上演は概して低調であった。 また学者や愛好家を中心として1929年(昭和4)に設立された「日本シェイクスピア協会」は、純然たる学術団体として1961年(昭和36)に再組織され、英文による研究論文年刊誌『シェークスピア・スタディーズ』刊行などの研究活動を行っている。 人間世界のさまざまな悲劇・喜劇を描き、幾多の名作を後世に残した。 作品としては、「真夏の夜の夢」「ロミオとジュリエット」など抒情的なもの、「ヘンリー四世」「ベニスの商人」「十二夜」などの喜劇、「ハムレット」「マクベス」「オセロ」「リア王」の四大悲劇、「冬の夜ばなし」「テンペスト」など清澄さをたたえたものがある。 このほか、詩集、ソネット集なども多数あり、その作品は古典として広く読まれ、劇は今なお世界各地で上演されている。 1 は美術品一般に見られる〈偽造forgery〉のことで,シェークスピアの真筆と称し多数の偽文書を作成したイギリス人アイルランドW. 日本でも小野道風,松尾芭蕉,徳川家康,本居宣長などの真筆を偽造することが古くから行われ,明治期には古い木活字や古紙を使って多数の古書を偽造し,偽書の天才といわれた西村兼文なる人物がいたことを徳富蘇峰らが書き残している。 … 【薔薇十字団】より …プラハではルドルフ2世の宮廷侍医,イギリスでは,フランスではデカルト,ボヘミアでは教育学者J. コメニウスが,それぞれの立場から共感を示した。 ライプニッツも共鳴者の一人であり,また近年の研究では,シェークスピア晩年の戯曲《テンペスト あらし 》 1611 には《化学の結婚》と相似の場面がいくつか指摘されるという F. イェーツ《シェークスピア最後の戯曲》。 これに対して当初の運動の中心人物であったアンドレーエ自身はシュトゥットガルトのビュルテンベルク公膝下の宮廷牧師兼宗教局評定官という立場上,徐々に運動から距離をとり,晩年にはみずから〈薔薇十字屋のお伽話を嘲笑し,あらゆる秘密技術の帰依者に対立する者〉であると自称して,もっぱらプロテスタント内部の調整に専心した。 … 【マニエリスム】より …前者はおもにハウザー,サイファー,ローランドら主として精神分析や社会史に立脚する流派で,その説によると,マニエリスムはローマ劫掠 1527 等の社会危機に対する西欧の知識層の深刻な対応の姿であり,この文化動向は不安,緊張,神経症によって特徴づけられるという。 その文学的形象の典型は,知と懐疑において過剰なハムレット,〈狂気の〉ドン・キホーテ等であり,マニエリスムの最高の作家はシェークスピアだとする。 彼こそ,定型的人物,たとえば当時流行した憂鬱病者の類型たるハムレットのごとき人物と既存の常套的筋立てを利用しつつ,絶えず誇張と美辞麗句と語呂合せ,悲劇要素と喜劇要素の混交からなる独創的な技巧を駆使して,人生の測りがたさや,人間存在の夢幻性を浮彫にしたからだという。 … 【ロマン派演劇】より …なぜなら1770年代にドイツに起こった疾風怒濤(しつぷうどとう) の運動は,他のヨーロッパ諸国のロマン主義に与えた影響から考えると,広義のロマン派と呼びうるからである ただドイツにおいては,疾風怒濤期以後に古典主義が成立し,またさらにロマン派が生まれ,疾風怒濤の代表作家だった,らが古典主義を確立して,ロマン派と対立するというやや特殊な事情も存在する。 疾風怒濤派は,とくに劇文学において,〈〉の法則を典型とする古典主義の〈法則の強制〉に反発し,啓蒙的な合理主義に対して感情の優位を主張して,シェークスピアを天才的で自由な劇作の典型として崇拝した。 ゲーテの小論《シェークスピアの日に》やJ. レンツの《演劇覚書》にもその主張が見られ,ゲーテの《ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン》 1773 ,シラーの《群盗》 1781 はのちの各国のロマン派に影響を与えた。

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