新島 襄。 密航が生んだ基督者新島襄

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新島 襄

生涯 [ ] 幼少時代 [ ] 天保14年(1843年)、(現・)のにあったで、安中藩士・の子として生まれる。 母はの。 本名を 七五三太(しめた)という。 この名前は、祖父・弁治が女子が4人続いた後の初の男子誕生に喜び「しめた」と言った事から命名されたという説がある。 後に敬幹(けいかん)と改名。 元服後、友人から貰い受けたの地図書から、アメリカの制度に触れ、憧れを持つようになる。 その後、幕府ので洋学を学ぶ。 ある日、アメリカ人宣教師が訳した漢訳に出会い「福音が自由に教えられている国に行くこと」を決意し、の洋式船「」に乗船していたこともあり、当時は禁止されていた海外渡航を思い立つ。 函館潜伏 - 渡米 [ ] 新島襄海外渡航の地碑(大町) 元年()、アメリカ合衆国への渡航を画策し、「快風丸」に乗って開港地のへと向かう。 箱館に潜伏中、当時領事館付の司祭だったと会う。 ニコライは新島から日本語と日本の書物()などの手ほどきを受け、また聖書に興味を持つ彼に自分の弟子になるよう勧めたが新島のアメリカ行きの意思は変わらずニコライはそれに折れ、の従兄弟であるやと共に新島の密航に協力した。 ()、から米船ベルリン号で出国する。 でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、船中で船長ホレイス・S・テイラーに「 Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから以後その名を使い始め、後年の帰国後は「譲」のちに「襄」と名乗った。 元年()7月、着。 ワイルド・ローヴァー号の船主・A. ハーディー夫妻の援助をうけ、に入学することができた。 岩倉使節団 [ ] 慶応2年()12月、付属教会でを受ける。 慶応3年()にを卒業。 3年()にと同等レベルののトップ3の一つで、と呼ばれる名門校を卒業(理学士)。 これは日本人初の学士の学位取得であった。 アマースト大学では、後に教頭となるから化学の授業を受けていた。 クラークにとっては最初の日本人学生であり、この縁でクラークは来日することとなった。 当初、密航者として渡米した襄であったが、初代の駐米となったによって正式な留学生として認可された。 明治5年()、アメリカ訪問中のと会う。 襄の語学力に目をつけたは、から翌年1月にかけて自分付けの通訳として使節団に参加させた。 襄は使節団に参加する形でからへ渡り、、、、ロシアを訪ねた。 その後に戻って約7カ月間滞在し、使節団の報告書ともいうべき『理事功程』を編集した。 これは、明治政府の教育制度にも大きな影響を与えている。 また欧米教育制度調査の委嘱を受け、文部理事官・に随行して欧米各国の教育制度を調査した。 宣教師任命 - 帰国 [ ] 結婚間もない新島襄と八重 明治7年()、アンドーヴァー神学校を卒業する。 新島はから日本での宣教に従事する意思の有無を問われると、即座にそれを受託した。 明治8年()9月、宣教師志願者の試験に合格し、ボストンで教師としての任職を受けた。 新島の宣教師として身分は「日本伝道通信員」 Corresponding member of the Japan であった。 同年10月、アメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で日本でキリスト教主義大学の設立を訴え、5,000ドルの寄付の規約を得る 同年11月、に帰着。 最初に故郷の上州安中に向かい、三週間滞在した。 滞在中に、藩校・造士館と竜昌寺を会場にキリスト教を講演する。 その集会で30人の求道者がでて、日曜ごとに聖書研究会が開かれた。 明治11年(1878年)に30人が新島より洗礼を受け、 現、安中教会 を設立した。 同志社設立 [ ] 明治8年()、かねてより親交の深かったのより屋敷(高松家別邸)の約半部を借り受けて校舎を確保し 、京都府知事・、府顧問・の賛同を得て旧薩摩屋敷5800坪を譲り受け官許を開校し初代社長に就任する。 開校時の教員は新島との2人、生徒は、、ら8人であった。 また、この時の縁で翌明治9年()、山本覚馬の妹・と結婚する。 同年、、、、、、、らと呼ばれる青年達が同志社英学校に入学。 明治10年()には同志社女学校(のちの)を設立。 女学校スタイルはが設立したを模している。 明治13年()から大学設立の準備を始める。 同年に快風丸での旧知を訪ねるため、かつての備中松山藩であった高梁町(現在の)へと赴き、滞在中にの勧めで伝道と文化改革を目的とした演説を行う。 この時の演説は、のちに備中松山の地での設立発起員の一人となりに注力する事になる、同地の婦人部会の代表であったに深い影響を与えた。 1883年の第三回全国基督信徒大親睦会の幹部、新島は前から2列目の右から4人目、左隣は 明治16年 5月には東京に赴き、新栄教会で開催されたに幹部として参加する。 明治17年()、2度目の海外渡航に出発する。 ドイツでは訪問先のヨハネス・ヘッセの家で幼少の息子と会っている。 同年8月6日にはので心臓発作を起こして倒れ、二通の遺書を記した。 明治18年()12月に帰国。 明治19年()9月には(同志社病院)がキリスト教精神における医療・保健・看護活動、キリスト教伝道の拠点として設置されその役割を担う。 この看病婦学校・病院にて看護指導に当たる事となったのが、に師事しアメリカ最初の有資格看護婦でもあったである。 明治21年()、の協力により・・・・・・・等から寄付金の約束を取付ける。 特に土倉は新島のよき理解者、協力者であり、新島も土倉を頼りとした。 と新島を取り結んだのものパトロンでもあった土倉であろうと推測される。 また明治21年()11月、は襄の求めに応じ「」を添削し、自身の経営する発行の『』をはじめ全国の主要な雑誌・新聞に掲載し、同志社大学設立に尽力した。 晩年 [ ] 明治22年()11月28日、同志社設立運動中に心臓疾患を悪化させてので倒れ、神奈川県大磯の旅館・百足屋で静養する。 愛弟子の一人のの妻・ユウ の看護を受けるが、回復せず明治23年()1月23日午後2時20分、、小崎弘道らに10か条の遺言を託して死去する。 死因は急性腹膜炎。 最期の言葉は「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」。 享年48。 13時より同志社前のチャペルで葬儀が営まれ、京都府知事・をはじめ約4,000人が参列した。 遺体は京都東山若王子山頂に葬られた。 墓碑銘はの依頼によりの筆による。 新島襄旧宅(群馬県安中市)• の仲介によりと親交を持つことになる。 今日、との間で学生交流(国内留学)制度があるのはそのためである。 明治13年()、朝礼の際、自分の掌を杖で打ち、自らを罰して生徒に訓した。 これは「自責の杖」事件と呼ばれる。 は、この事件の責任を感じ卒業目前で同志社を中退したが、新島に対する敬愛の念は生涯変わらず、同志社大学設立運動の中心的な役割を果たした。 襄の臨終に八重とともに立ち会ったは八重に「今後貴女を先生の形見として取り扱ひますから、貴女もその心持を以て私につきあつて下さい。 」と述べ、貴族院議員の歳費は封を切らずに八重に贈り、八重が亡くなるまでその生活を支えた。 ののなかに新島が描かれた取り札がある。 「平和の使徒 新島襄(へいわのつかい にいじまじょう)」• 箱館に渡る前に、青森県下北半島の下風呂温泉に寄港し、当地の見聞を「函館紀行」に書きとめた。 下風呂温泉にある海峡いさりび公園に、「新島襄寄港の地」碑がある。 には日本人として、賀川豊彦とともに彫像が掲げられている。 参考図書(近年) [ ]• 『新島襄 教育宗教論集』 同志社編、、2010年10月• 『新島襄の手紙』 同志社編、、2005年• 『新島襄 わが人生』 編/人間の記録:、2004年• 『新島襄全集』 全10巻(11分冊)、同編集委員会、同朋舎、1983-96年 家族 [ ]• ポール・F・ボラー 『アメリカンボードと同志社:1875-1900』北垣宗治 訳、新教出版社 2007年発行 18-19頁• 『現代語で読む新島襄』290頁• 小野 2003年 91頁• 『新島襄全集 第3巻(書簡集)』p169-173。 「明治13年2月25日付新島八重への手紙」より• 「新島襄の交遊」本井康博 著・2005年 思文閣出版• 著『新島襄 人と思想』• 著『新島襄の交遊』• 著『日本プロテスタント教会史』 上 聖恵授産所出版部、1983年• 『』学校法人同志社、2000 関連項目 [ ]• - 襄が初代校長を務めた。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 (2003年11月24日時点の) 先代: 創立者 1875年 - 1890年 次代: (臨時).

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新島旧邸|同志社大学 同志社社史資料センター

新島 襄

新島襄とは() の。。 新島襄は、教育者であり宗教家でもある日本人です。 2月12日に生まれ、1890年1月23日まで生きました。 明治六代教育家の一人にもあげられており、キリスト教の布教家としても知られています。 また同志社大学を興したことでも、多くの人に知られています。 しかし彼自身は心臓病を患っており、前身である同志社英学校開校後、同志社大学設立運動中に倒れ、死去しました。 新島襄が残した名言の一つに、「アメリカ人の言葉に『時は金なり』とありますが、むしろ『時は金よりも尊し』と述べたい」というものがあります。 同志社大学設立のために奔走しましたが、自身は心臓病に苦しんでいる彼だからこそ、その言葉に重みが感じられる名言です。 メニュー• 内省記事一覧.

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新島襄の写真、名言、年表、子孫を徹底紹介

新島 襄

新島襄とは() の。。 新島襄は、教育者であり宗教家でもある日本人です。 2月12日に生まれ、1890年1月23日まで生きました。 明治六代教育家の一人にもあげられており、キリスト教の布教家としても知られています。 また同志社大学を興したことでも、多くの人に知られています。 しかし彼自身は心臓病を患っており、前身である同志社英学校開校後、同志社大学設立運動中に倒れ、死去しました。 新島襄が残した名言の一つに、「アメリカ人の言葉に『時は金なり』とありますが、むしろ『時は金よりも尊し』と述べたい」というものがあります。 同志社大学設立のために奔走しましたが、自身は心臓病に苦しんでいる彼だからこそ、その言葉に重みが感じられる名言です。 メニュー• 内省記事一覧.

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