マンデラ 大統領。 ノーベル平和賞授賞式でなぜ2人は目を合わせなかったのか――アパルトヘイト撤廃へ尽力した2人の政治家 マンデラvsデクラーク

ネルソン・マンデラ(5)

マンデラ 大統領

アパルトヘイトとは? アパルトヘイトとは、南アフリカ共和国が国の政策として行っていた、 人種差別政策です。 今の感覚からすると「えっ国が公に差別を!?」と思いますが、割と最近までそんな国があったんですね。 その一部をご紹介します。 アパルトヘイトとは?住む場所を分離 白人は産業が盛んで環境の良い土地に住み、黒人は不便な環境の悪い土地に住まわされました。 当然白人用の施設の方が優れていました。 アパルトヘイトとは?結婚・恋愛の禁止 白人と黒人の結婚を禁止しました。 貴族のお姫様とその邸宅で働く青年、みたいな(笑) 他にもまだまだたくさんありますが、まあ、よくもここまで堂々とやれるわ・・・って思いました。 法律に基づく差別というところが、日本人の感覚からすると、異常な印象を受けます。 アパルトヘイトは国際社会からも非難 当然、こんな非人道的な 差別は長くは続かず、国際社会からも非難されます。 例えば、1964年の我らが東京オリンピックから1988年のソウルオリンピックまで、 追放制裁が行われました。 国連主導のもと、日本・アメリカ・EC(ヨーロッパ共同体・EUの前身)からは 経済制裁が行われました。 国民の大半を構成する黒人達も、 アパルトヘイトの撤廃を要求していきました。 アパルトヘイトが非難されなかった理由 実は、1994年という最近まで、国として人種差別を続けてこられたのには理由があります。 南アフリカ共和国は資源が豊富で、特に入手しにくい レアメタルの産出国でした。 そのため、 アパルトヘイトについて非難すると、レアメタルの輸出をしてもらえなくなるという弱味があり、長い間、人種差別が堂々と行われてきました。 しかし冷戦が終わりソ連が崩壊したことで、旧ソ連から独立した国々からも、レアメタルを輸出してもらえるようになりました。 そこで、南アフリカ共和国への弱味がなくなったことで国際社会は、 アパルトヘイト を非難できるようになった、というわけです。 そして、南アフリカの白人の政府指導者達も、ようやくこのバカバカしい アパルトヘイト政策を続けることの無謀さに気づき始めました。 この頃、反 アパルトヘイト闘士として活動して投獄されていた ネルソン・マンデラ氏と、対談することを決めました。 ネルソン・マンデラ氏が大統領に ネルソン・マンデラ氏は、投獄されていました。 1962年に反アパルトヘイト運動により逮捕され、1964年から27年も牢獄暮らしでした。 (釈放時はなんと70歳) そのネルソン・マンデラ氏と、当時の南アフリカ大統領であった 白人最後の大統領デクラーク氏は、アパルトヘイト撤廃に向けて活動を本格的に進めていきます。 そして、1994年についに初の全人種参加の大統領選挙により、ネルソン・マンデラ氏が大統領に当選しました。 同時期に憲法も制定されました。 そして、 アパルトヘイトは撤廃されました。 ネルソン・マンデラ元大統領の素晴らしさ そして、ネルソン・マンデラ元大統領が、素晴らしいと思う点です。 この後、絶対的な権力を握ったネルソン・マンデラ元大統領ですが、自分を30年近くも劣悪な環境の牢獄に幽閉した白人達に対して、 復讐しませんでした。 これ、想像できますか? もしも今から30年近く、自分が無実の罪で投獄されたとしたら。 何も間違ったことはしていないのに、理不尽な理由で家族や友人と離ればなれにされたとしたら。 人生で最も素晴らしい時期を牢獄で過ごしたとしたら。 そして、その後釈放され、絶対権力者になったとしたら。 復讐や仕返しという文字が頭をよぎるのではないでしょうか? ・・・しかし、ネルソン・マンデラ元大統領は、 仕返ししませんでした。 さらに、もう1つ、投獄中のお話です。 もともとネルソン・マンデラ氏は終身刑でした。 かなり劣悪な環境と想像できます。 しかし、マンデラ氏は、そんな中で希望を失わず、むしろ自分の敵である白人の看守達とも仲良くなろうとしました・・・ 本当に脱帽です。 ネルソン・マンデラ氏の投獄中の心の支え 投獄中の辛い時は、次の詩を唱えていたそうです。 素晴らしいので、引用します。 ~引用ここから~ 【インビクタス-負けざる者たち-】 ウィリアム・アーネスト・ヘンリー 「私を覆う漆黒の夜 鉄格子にひそむ奈落の闇 私はあらゆる神に感謝する 我が魂が征服されぬことを 無惨な状況においてさえ 私はひるみも叫びもしなかった 運命に打ちのめされ 血を流しても 決して屈服はしない 激しい怒りと涙の彼方に 恐ろしい死が浮かび上がる だが、長きにわたる脅しを受けてなお 私は何ひとつ恐れはしない 門がいかに狭かろうと いかなる罰に苦しめられようと 私が我が運命の支配者 私が我が魂の指揮官なのだ」 ~引用ここまで~ 私はこの詩を読みながら、獄中の様子を思い浮かべると正直泣けてきました。 自分はなんて恵まれているんだろう。 ささいな事で弱音を吐いてどうする!と思いました。 改めて、マンデラ元大統領の素晴らしさと凄さを感じました。 その後、権力にしがみつくことなく、 1期で政治家を引退します。 引退後は、.

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ネルソン・マンデラに関するトピックス:朝日新聞デジタル

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これらは、反アパルトヘイト運動の英雄の、比較的よく知られているエピソードだ。 この人は、決して並の政治家ではなかった。 マンデラ氏を追うことは、人生を豊かにする体験だった。 マンデラ氏は私たちを謙虚な気持ちにし、もっと良い人間になろうと思わせた。 さらに、まだ黒人も白人も、国民の誰しもがアパルトヘイトの傷が癒えていない時代に、和解を受け入れようという気持ちにさせた。 例えば、大勢の黒人たちが白人の「第3勢力」に殺害されたとのニュースが伝えられ、反白人感情が最高潮に達した時、ヨハネスブルク()の端にあるアレクサンドラ()地区で群衆を前に演説していたマンデラ氏は突然、後ろの方に立っていた白人女性を指さすと、満面の笑みを浮かべて「あそこにいる女性は、私の命の恩人だ」と語った。 女性を演台に呼ぶと、暖かい抱擁を交わし、ケープタウン()のポールスモア()刑務所に入れられていた1988年に結核にかかり、入院した病院でこの女性に看病されたと説明した。 すると、群衆の雰囲気は一変。 復讐(ふくしゅう)を求める声は歓声へと変わった。 また、南アフリカ大統領を務めていた頃に周辺国の首脳らが集まる経済会議でのエピソードがある。 アフリカで起きた危機に対する対応策を首脳らが発表することになっていた記者会見場で、長時間にわたり待っていた女性記者の1人が、子どもを学校に迎えに行かなければならなくなり、やむなく会見場に子連れで現れた。 間もなく会場入りしたマンデラ氏は、男の子を見るやいなや、まっすぐ近づいて行き、「おや、こんにちは。 忙しいところ時間を取って来てくれて、とてもいい子だね」と語りかけた。 親子からは笑顔がこぼれ、他の記者は魅了され、首脳らは困惑した様子だった。 選挙運動中には、記者らに「きちんと眠ったか」「朝食は食べられたか」と聞くことを欠かさず、多くの記者やカメラマンの名前を覚えていて「またお会いできてとてもうれしいです」と声をかけてくれた。 フルウールト氏の首相在任中にアフリカ民族会議(、)と南アフリカ共産党(、)が非合法化されたためマンデラ氏は地下組織での活動を余儀なくされ、後に逮捕・起訴されて64年に終身刑を言い渡された。 「茶会」は、95年8月に、白人専用の居住区「オラニア()」にあるベツィーさんの自宅で開かれた。 当時94歳で体が弱っていたベツィーさんは、マンデラ氏が訪ねてきてくれて嬉しく思ったという他は多くを語らなかったが、ベツィーさんの孫娘のエリザベス()さんは「隣国の大統領だったらよかったのに」と述べたとされる。 だが一方のマンデラ氏は、オラニアでは「(黒人地区の)ソウェト()に行ったかのような(良い)扱いを受けた」と語り、礼儀と寛大さを示した。 これに先立つ1994年4月27日、ダーバン()近郊の学校で、全人種が参加する同国初の選挙で投票に訪れるマンデラ氏を記者団が待っていた。 私たち報道陣は皆、「これは現実か?マンデラ氏が投票をするのか?アパルトヘイトは本当に終わるのか?」と思っていた。 それは本当だった。 マンデラ氏は「全ての南アフリカ人が平等な、新しい南アフリカ」の夜明けだと宣言すると、自ら投票箱に票を投じ、文字通り朝日で体を輝かせ、長く、幸せそうな笑みを浮かべた。 その笑顔は、報道陣に撮影させるために作るような笑顔ではなかった。 魂の奥底からわき上がる笑顔。 そしてマンデラ氏の場合、それは非常に希有(けう)な魂だった。

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ノーベル平和賞授賞式でなぜ2人は目を合わせなかったのか――アパルトヘイト撤廃へ尽力した2人の政治家 マンデラvsデクラーク

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アパルトヘイトとは? アパルトヘイトとは、南アフリカ共和国が国の政策として行っていた、 人種差別政策です。 今の感覚からすると「えっ国が公に差別を!?」と思いますが、割と最近までそんな国があったんですね。 その一部をご紹介します。 アパルトヘイトとは?住む場所を分離 白人は産業が盛んで環境の良い土地に住み、黒人は不便な環境の悪い土地に住まわされました。 当然白人用の施設の方が優れていました。 アパルトヘイトとは?結婚・恋愛の禁止 白人と黒人の結婚を禁止しました。 貴族のお姫様とその邸宅で働く青年、みたいな(笑) 他にもまだまだたくさんありますが、まあ、よくもここまで堂々とやれるわ・・・って思いました。 法律に基づく差別というところが、日本人の感覚からすると、異常な印象を受けます。 アパルトヘイトは国際社会からも非難 当然、こんな非人道的な 差別は長くは続かず、国際社会からも非難されます。 例えば、1964年の我らが東京オリンピックから1988年のソウルオリンピックまで、 追放制裁が行われました。 国連主導のもと、日本・アメリカ・EC(ヨーロッパ共同体・EUの前身)からは 経済制裁が行われました。 国民の大半を構成する黒人達も、 アパルトヘイトの撤廃を要求していきました。 アパルトヘイトが非難されなかった理由 実は、1994年という最近まで、国として人種差別を続けてこられたのには理由があります。 南アフリカ共和国は資源が豊富で、特に入手しにくい レアメタルの産出国でした。 そのため、 アパルトヘイトについて非難すると、レアメタルの輸出をしてもらえなくなるという弱味があり、長い間、人種差別が堂々と行われてきました。 しかし冷戦が終わりソ連が崩壊したことで、旧ソ連から独立した国々からも、レアメタルを輸出してもらえるようになりました。 そこで、南アフリカ共和国への弱味がなくなったことで国際社会は、 アパルトヘイト を非難できるようになった、というわけです。 そして、南アフリカの白人の政府指導者達も、ようやくこのバカバカしい アパルトヘイト政策を続けることの無謀さに気づき始めました。 この頃、反 アパルトヘイト闘士として活動して投獄されていた ネルソン・マンデラ氏と、対談することを決めました。 ネルソン・マンデラ氏が大統領に ネルソン・マンデラ氏は、投獄されていました。 1962年に反アパルトヘイト運動により逮捕され、1964年から27年も牢獄暮らしでした。 (釈放時はなんと70歳) そのネルソン・マンデラ氏と、当時の南アフリカ大統領であった 白人最後の大統領デクラーク氏は、アパルトヘイト撤廃に向けて活動を本格的に進めていきます。 そして、1994年についに初の全人種参加の大統領選挙により、ネルソン・マンデラ氏が大統領に当選しました。 同時期に憲法も制定されました。 そして、 アパルトヘイトは撤廃されました。 ネルソン・マンデラ元大統領の素晴らしさ そして、ネルソン・マンデラ元大統領が、素晴らしいと思う点です。 この後、絶対的な権力を握ったネルソン・マンデラ元大統領ですが、自分を30年近くも劣悪な環境の牢獄に幽閉した白人達に対して、 復讐しませんでした。 これ、想像できますか? もしも今から30年近く、自分が無実の罪で投獄されたとしたら。 何も間違ったことはしていないのに、理不尽な理由で家族や友人と離ればなれにされたとしたら。 人生で最も素晴らしい時期を牢獄で過ごしたとしたら。 そして、その後釈放され、絶対権力者になったとしたら。 復讐や仕返しという文字が頭をよぎるのではないでしょうか? ・・・しかし、ネルソン・マンデラ元大統領は、 仕返ししませんでした。 さらに、もう1つ、投獄中のお話です。 もともとネルソン・マンデラ氏は終身刑でした。 かなり劣悪な環境と想像できます。 しかし、マンデラ氏は、そんな中で希望を失わず、むしろ自分の敵である白人の看守達とも仲良くなろうとしました・・・ 本当に脱帽です。 ネルソン・マンデラ氏の投獄中の心の支え 投獄中の辛い時は、次の詩を唱えていたそうです。 素晴らしいので、引用します。 ~引用ここから~ 【インビクタス-負けざる者たち-】 ウィリアム・アーネスト・ヘンリー 「私を覆う漆黒の夜 鉄格子にひそむ奈落の闇 私はあらゆる神に感謝する 我が魂が征服されぬことを 無惨な状況においてさえ 私はひるみも叫びもしなかった 運命に打ちのめされ 血を流しても 決して屈服はしない 激しい怒りと涙の彼方に 恐ろしい死が浮かび上がる だが、長きにわたる脅しを受けてなお 私は何ひとつ恐れはしない 門がいかに狭かろうと いかなる罰に苦しめられようと 私が我が運命の支配者 私が我が魂の指揮官なのだ」 ~引用ここまで~ 私はこの詩を読みながら、獄中の様子を思い浮かべると正直泣けてきました。 自分はなんて恵まれているんだろう。 ささいな事で弱音を吐いてどうする!と思いました。 改めて、マンデラ元大統領の素晴らしさと凄さを感じました。 その後、権力にしがみつくことなく、 1期で政治家を引退します。 引退後は、.

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