しいたげられるを使った短文。 和辻哲郎 日本精神史研究

[B! 東浩紀] 東浩紀 Hiroki Azuma on Twitter:

しいたげられるを使った短文

知人の 岸政彦氏が書いた小説「ビニール傘」をやっと読む事が出来た。 生活史の聞き取り調査をしている社会学者の著者が初めて書いたこの小説は、女性客を乗せたタクシー運転手の視線から始まって、登場人物の目に映る光景が淡々と書き出されていく。 「断片的なものの社会学」での 氏の視線に似ているなと思っていると、いつのまにか別のシーンにいた。 丁度グーグルストリートビューで街を眺めているときに、そこに映り込んだ何か、ポストとか、看板とかをよく見ようとズームした後、元に戻ろうとすると今までいた道ではない、どこかずれた、別の、思いもかけない場所が目の前に現れるように、話はズームし少しずつ場所と人を変えながら、なめらかに進んで行く。 違う人なんだけど何かが重なっている。 ふと立ち止まって後ろを振り返ったときに別の登場人物の人生が見えたら、それが自分の人生だとなんとなく納得してまた歩き出してしまいそうな、覚束ない感覚が続く。 出来事が指の間からすり抜けて、そのすり抜けた瞬間だけ自分の人生を感じられる、そんな心許なさ。 後半、極々若い、女の子と言ってもよい人物が登場する。 この子が語る出来事は、前半に登場してきた登場人物達のものよりは遥にはっきりしっかりしている。 それは彼女が生きている事の覚束なさに囚われるにはまだ若すぎるだけなのかもしれない。 ならば彼女は年を重ねるうちに、前半に出てきた人達の様に心許なくなってしまうのだろうか・・・ 私は新聞などに小さく載せられた、孤独に死んだ人や、情けない小さな事件に巻き込まれて命を落とした人が、少し間違えれば我が身に起こっていたのではという気持ちによく襲われる。 たまたま、運良く、難にも遭わず屋根の下で暮らしているが、何処かで違う選択、判断をし、別の出来事に遭遇していたら、彼らの代わりに私が冷たくなっていたのかもしれないと思い、親近感では決してなく、ただその人達と自分との境、違いが判らなくなって落ち着かない気持ちになることがある。 この作品を読んで、その不安な気持ちが説明され、共感され(そう、この小説は共感を求めるのではなく読者に共感するのだ)、ほっとした気持ちになった。 そして少し救われた。 昨日から師走です。 SNSで「ロードオブザリング」を読んでいると申告してからほぼ丸一年経った事になります。 それにも関わらず、私は未だに現在進行形の「読んでいる」です。 どうしてこうなったのか、その理由を、読み始めるきっかけ共々縷々綴ってみたいと思います。 松本市の図書館にトールキンの"The Hobbit"邦題『ホビットの冒険』があったことがそもそもの始まりです。 去年の十一月に、現実逃避が出来て面白そうだし英語の勉強にもなるかもと、手に取りました。 難しかったら返せばいいわと気楽に読み始めたのですが、これが平易で読みやすい文章の所々に、それより少し難しい単語や構文が良い塩梅に配置されていて、言語学者が子供向けに書くと(実際著者の子供のために書かれたのが最初らしいです)こんなに読みやすく勉強にもなる文章になるのかと、舌を巻きました。 そして文章自体も素晴らしく、いい年したおばさんではありましたが私は熱中してしまいました。 この図書館には「指輪物語」の原書もあります。 ホビットを読み終えた私は、年末休館での貸し出し期間延長に合わせて、原書の方を借りました。 その時何を血迷ったのか三巻に別れたのではなく一冊のやつを。 書庫から司書さんが担いできたそのハードカヴァーは、総頁数1193、漬け物石なみに重い代物だったので、間違いなので書庫に返してとは言えず、泣きながら家に背負って帰りました。 見込み違いはもう一つあって、「ホビット」を書いたときにはまだ子供だった著者の息子さんは、「指輪」を書く頃には難しい文章も読める年頃になっていたらしく、文章のお子様配慮がほぼ消え、トールキンの独自の言語と世界が遺憾なく展開されていました。 この本の中で一番判りやすかった文章が、現代社会で通じる言葉しか出ていない巻頭の"Foreword to the second edition"( 第2版に寄せて第2版序文)だったといえば、ご理解頂けるでしょうか。 それでもお話しは読めば面白いので頑張って読みました。 当たり前ですが返却期限が来ても読めたのはごく僅か。 このまま延長してもとても読み切れそうもなかったので、諦めて1300円のKindl版を買い、凶器の様に重い本は図書館に返しました。 これが何回読んでもややこしすぎて理解できない。 最後まで読めないだけでなく、読む端から何が書いてあったのか忘れていく。 多分日本語で書いてあっても私には判らないと思います。 これを読み始めた日から、私は本文を殆ど読めなくなってしまいました。 この備考には、何が書かれているのかというと、この本が発行された直後から著書が被った、印刷工、編集者などによる誤字誤植、そのほか考えられる限りの災難が延々と書き記されているのです。 54年の初版出版時、戦後の紙不足のせいでこの本は三巻に分けて出版される事になりました。 その第一巻には、印刷工、編集者などによる誤字誤植、写植工さんの善意の直しによる誤植などが沢山ありました。 一例を挙げるとdwarvesがdwarfsにelvishがelfishに、nasturtiansがナスタチウム(nasturtiums)などになっていて、著者の造語や語源に配慮した精緻な言葉使いに多大な打撃と混乱をもたらしました。 一巻の第2刷がその年の12月に出たのですが、実は印刷屋さんが一巻の活字をバラしておりまして、著者にも出版社にも知らせずに組み直したために、普通の文章ならまともでも、トールキンワールドから更にかけ離れたものが刷り上がってしまいました。 いつかつけると序文に書いた用語説明もつけられないまま、3巻目が出版されたのはその翌年。 それからほぼ十年間、混乱しきった版は刷り続けられました。 米で間違いだらけの海賊版が出たことなどを間に挟み、トールキンは最初の改訂に着手し、65年に米国から出ました。 この版は序文が直され、簡単な用語解説などの巻末付録をつける事が出来ました。 しかしトールキンがその本の実物を手にしてみると、想像以上に間違いが多い。 トールキンはその訂正を送り、刷られる度に直しが入ったのではありますが、いつも正しく訂正された訳ではなかったので、その訂正自体が更なる混乱を引き起こし、どうしたものか英国での三巻揃った改訂版出版まで遠のいてしまったのでした。 トールキンは一度は改訂版について書こうとしたのですが、余りの混乱で出来なかった模様です。 1966年、英国でもやっと三巻揃っての改訂版が出るやに思えたのですが、米国版で使われた改訂原稿の一部紛失という、まれにあるけどここで起こるとは、な出来事が発生し、英国の出版社はやむなく間違いの多い最初の改訂米国版を元に組み直しせざるをえませんでした。 この改訂第2版は、他にも膨大な間違いを含んだものでした。 間違った版と正し目の版の識別が必要になってきたのです。 67年、米国で改訂版がでます。 これは英国版からの写真オフセット印刷で出されたのですが、私には読んでも判らない理由によって出版年が65とか66とかあって今度は図書館や研究者に大混乱を引き起こしました。 (ごめんなさい、私も混乱してよく判りません) トールキンは諦めず頑張って(というか気になってやらないわけに行かなかったみたい)、なんとか67年に改訂版がで、その後69年のインド版で小さな改訂が載りました。 73年に彼が亡くなった後、息子のクリストファー氏が見直し作業を引き継いで出した改訂版が出たのが74年。 これは活字印刷でしたが、作者の改訂原稿にほぼ沿ったものでした。 しかし、それにも間違いが発見され(一番ひどく間違っているのが、この版以前も含めいつも何故かアペンディクスだったそうです)、クリストファー氏は見直しを続けたのですが、ペーパーバッグにする時に必要な組み直しの度に、、必ず間違いが入り混まざるをえなかったそうです。 とはいえ英国版ハードカバーはまともだったみたいです。 そして94年、ワープロ導入で出版! 私はこれで全て解決に向かうのだとばかり思いました。 この訳の判らない世界から解放されると。 あはははは。 いつもの間違いの他に、なんかのバグで 章センテンスが抜け落ちてたらしいですよ。 (章ではなくセンテンスでした。 お詫びと訂正を致します) ここまで来ると私疲れ果てて読んでも既になにも理解できなくなり、この先は殆ど読めていません。 何回挑戦してもこの辺りで撃沈します。 これらの経緯は"J. TOLKIEN - A Descriptive Bibliography"という本に詳しく書かれているそうです。 そして2004年、私が読んでいるところの出版50周年版がでて、話はそこで終わった模様です。 この版には Note on the 50th anniversary edition なる文章もあるのですが、私は恐ろしくてまだ読めていません。 読んでも判るか自信がありません。 と言う次第で、私はこの巻頭備考を読んでから、ここに何が書かれているのかはっきりさせないと気が済まなくなり、本文には手が付かない状態が長く続いたのでした。 でも、 一年十ヶ月経って漸く悟りました。 私には無理です。 諦めて本文を読みます。 この出来事について書かれたブログがありました。 私の文より参考になると思います。 続・トールキン関連本を読む トールキン作品のネタバレ有 )ブログより 追記 私が買ったは今年の1月には1300円でしたが、確認したところ2524円に値上がりしていました。 近藤史恵の「サクリファイス」を読んでみました。 自転車ロードレースを舞台にしたミステリーで、数年前に人から薦められて知っていたのですが、「サクリファイス(犠牲 犠牲的行為)」というタイトルに怯み、手が出せませんでした。 私を含めこの競技を観たことのある人が「サクリファイス」と言われて頭に浮かぶのは、チームメイトのエースに対する献身だと思います。 ロードレースは世界選手権などの例外を除き、レースはチームで走り、チームの中のエースと呼ばれる選手の順位をあげるために選手達はあらゆる献身をします。 この人達をアシストと呼び、エース・アシストが一丸となって動く事による、レース中の様々な駆け引きがこの競技の醍醐味で、アシストは非常に重要です。 しかし「サクリファイス」とタイトル付けられると、アシストが浮かばれないだけの、実際の競技とはかなり違うウェットな話である怖れがあり、薦めた人が自転車競技を全く知らない人だった事もあり、なんとか口実をつけて読まずに済ませていました。 それがつい先日、とても本好きのtakoさんが、このシリーズは好きだとツイートしていて、好奇心から「どんな本?」と訊いてみると「物語全体としてはスピード感があるしキャラも魅力的、また文章も上手いので読みやすいとは思います」()とのこと。 読解力と文章力には一目も二目も置いている彼女の言葉で、これは私の好きなこの競技がどんな描かれ方をしているのか俄然興味が湧いてきました。 またtakoさんは個人競技なのにチームで協力するというのも判りにくいとの事だったので、どんな風に書かれているのか、シリーズ最新作は「スティグマータ」ですが、まずは第一作の「サクリファイス」を読んでみました。 嫌な第一印象は残りつつも、読めば冒頭から掴みが上手く、またツール・ド・フランスのテレビ観戦シーンは、ツールの光景が目に浮かぶ様な鮮やかな描写で思わず引き込まれました。 自転車を漕ぐ爽快感もいかにもな描写で魅力的です。 主人公白石チカがこの競技に興味を抱く「選手がライバルに優勝を譲る」シーンも実際にありますし(例 06年ジロ・デ・イタリア第19ステージ、フォイクト選手など)、優勝でなくともポイント獲得ゲートでの譲り合いはとてもよくあるので、作者はこのスポーツをやっぱりしっかり観ていると思いました。 しかし17頁、登場人物のエース選手がレース中にパンクをし、同じチームの新人選手からタイヤを借りて試合を続行したため、タイヤをエースにあげて記録を残せなかった選手が契約更新されずチームを去るという逸話で私はちょっとブチ切れました。 この展開は有り得ないわ。 実際のレースでこの様な出来事が起こった場合(割とよく起こる)、自分のタイヤをエースに与えたこの新人は絶大な評価を受けます。 何故なら他のチームメンバーが皆脱落している中で、一番エースに近い場所を走り(走る脚力があった)、エースの危機を助ける事が出来たからです。 エースにとってそのレースでの順位は大したものでは無かったとしても、いつも上位に食い込む安定感を示せますし、エースの災難にすぐ対応出来るチーム力をスポンサーに印象づけられるのですから、チーム側としてはこの選手にはアシストとしての本分を真っ当したとボーナスを出したり、もっと小さなレースでエースに抜擢しこそすれ、これで更新無しは有り得ません。 サイクルロードレースは、チームで戦ってエースを勝たせる競技なのです。 それを知らない筈はない・・・はず。 作者は当然ですが知っていました。 第二章「ツール・ド・ジャポン」で、競技について、選手の役割や走り方をさりげなく説明するときに、エースを助けるのがアシストの役目としっかり書いてありました。 尤もこれを明記しないと話が進みません。 しかし選手の生きる道がエースコースとアシストコースに分かれ(まるで一般職採用と総合職採用みたい)、両コースには互換性が無く、チーム内ヒエラルヒーによってアシストは陽の当たらない損な役回りみたいな描写が、随所にはさまれた実際の競技の説明(これが簡潔で上手い且つ正確)と齟齬を来たし、きちんと読む人ほど混乱すると思います。 また主人公チカの同期であり有望選手で、アシストなんかしたくない、自分はエースの器だと思っている自信家伊庭君。 アシスト志望のチカとの対比で置かれたキャラなのでしょうが、グランツールの優勝者だってアシストしていたし、強豪名門チームのアシスト選手だって、それ以前はそれより弱いチームのエースだったのです。 ロードレースは、たった1人の選手と大集団が真剣に競ったら、どんな天才選手でも1人では勝ち目はない競技なので、他選手を見下す選手に将来の芽はないと、選手なら判るはずなのですが。 加えて主人公チカのアシスト志望なのですが、エースを張れる脚力がなければ、格上チームに行ってアシストなど務まりませんので、この人の競技認識にも問題が・・。 繰り返しますが、チーム内でそれぞれの役目をこなし、チーム(個人だけでなくチームの順位もある)を勝利に導く事に貢献した選手がロードレースでは評価されます。 またレースの賞金はチームメイト全員に分配されます。 入ったばかりの水ボトルを運ぶ選手にも分配されます。 エースの順位攻防も、アシスト達の戦略や引っかき回しも、同じ比重の醍醐味として観戦者に楽しまれるのがロードレースです。 また腕利きのアシストを揃えた強豪と言われるチームは、それだけで勝利に近いため、エースを選びやすくなり、結果が悪ければエースがチームから放り出されかねないのです。 とはいえ地方の小さなチームでは、アシスト選手が不条理な思いや苦労をすることも多々あるとは思います。 スポンサーが付かなくなるからその国の選手でないとエースになれないという話はよく聞きます。 強い選手にアシストさせて勝った選手も当然いるでしょう。 でもずっと観ていれば、全てとは言いませんが、選手は競技者として自分を正統に評価してくれる場所、自分が一番走りやすい、自分の強みを発揮しやすい場所へと流れていくことが判ります。 チームが選手を見切る様に選手もチームに見切りをつけています。 なのに作者はチームでの不条理を我慢して、ずーっと誠心誠意尽くし続ける、日本型終身雇用や年功序列で流動性のない、この場所で踏ん張るしかない責任感故の「サクリファイス」で何か事件が起こる話にしてしまった。 この2012年の対談で()、著者も「アシストという存在が、ロードレースの構造そのものなんじゃないか」とか「ビジネスライクな競技だ」と述べているにも関わらず。 他に事件が起きるネタがないような綺麗な競技ではないのに。 読んだ私の感想は、話の設定と競技の構造とは違うので、この本を読んで自転車ロードレースを理解しようと考えるのは無茶ですし、この競技にこの「犠牲」のモチーフはやはり無理があったと思います。 でも、ここに描かれる競技と実際のそれは全くの別物で、だけど所々に挟まれた解説は正しい、というスタンスで読めば、面白い小説として楽しめると思いました。 おまけ 昔NHKのTDF放送は録画でしたが、後から解説を付けるので生放送の解説より詳しく判りやすかったです。 その中で、選手同士の恩の貸し借りがあり、助けてもらった恩を返さないと後で大変とか、ここで恩を売っておくと後々都合がよいなどという解説を今だ覚えていたことも、私がこの本の設定にのめり込めなかった理由かと思います。 この競技が理解されていないだけなのか文化の違いなのかはてさて。 アンディ・シュレク選手がツールドフランス総合一位だった兄フランクとチームのエース、カルロス・サストレの為に怒濤の走りでライバルを疲れさせ、その後自分も疲れ切って後方に沈んでいった、語りぐさとなった勝負。 彼のこの働きによりライバルは脱落し、カルロス・サストレ選手がこの年の総合優勝に輝きました。 この後シュレク兄弟は新しく出来た別チームに他のアシスト選手とともに移り、チームのエースを務めたアンディはツール総合二位(一位のコンタドール選手が失格となり一位になった)になりました。 あんでぃー! TdF Stage. 2008 Awesome Andy Schleck (白地に下が黒ジャージで顔が長い選手がアンディです) エースのそばにアシストがいなかった場合にはどうなってしまうのか。 総合一位のクリス・フルーム選手を襲った悲劇(笑) 【大事件】走るフルーム【ツール・ド・フランス 2016 stage 12】 この本はネットで記事を書いたことをきっかけに、いわゆるネトウヨと呼ばれる人々、また在特会と称する差別主義グループから攻撃の標的にされてしまったフリーライターの李信恵さんが、ご自身に降りかかる差別との対峙を記録した本です。 今まで書かれてきた連載が収録されているため、記述が重複したり章によって時系列が前後したりしますが、本のトーンは統一感があり、著者の息子さんとご高齢のお母様が読んでも判る文を書くことを心掛けたと言うとおり、大変読みやすい本です。 以下がアマゾンのレビューに投稿したものです。 プロローグの冒頭から、在特会による排外デモで叫ばれるおぞましい罵倒の数々が現れ、身が縮むような怖さを味わわされますが、それを全身に浴びる李さんの筆致は、当事者がプロのライターだった為でしょう、恐怖を感じる自分、傷つく自分、怒る自分を冷静に見つめ、その上で「この社会を作った大人としての自分の責任」「自分は大人としての責任を果たしているのか」と絶えず心に刻みます。 在特会でもてはやされ、その後恐喝で逮捕されたS少年を著者は心配し、彼と遭遇したら何と言葉を掛けようと自問し、自分なら「おなか減ってない?」と言うであろうなど、主題の重さに反して暖かみが文章に溢れるのは「大人としての責任を果たせているか」という著者の意識が貫かれているためでしょう。 責任ある大人としてヘイトと戦うために何をなすべきか、著者の模索も丁寧に書かれています。 アンチ・ヘイトには知識も必要との認識で、著者自身が受けた、あるいは朝鮮学校襲撃事件の法廷で在特会側がした筋の通らない理屈を分析し、既に用語として存在する「沈黙効果」「複合差別」などと結びつけ理解しようとしていきます。 この部分は秀逸で、読むうちに、私自身の経験の中から、差別者がよく使う理屈が差別という枠に収まらず、学校で、職場で、相手を黙らせ我意を通そうとするやり口として何度も起こっていた事に気づかされました。 いくら知識として知っていても、日常起こっている事例に活かすこともなく見逃してしまっては、それらに味方していたのと同じです。 私もこの本で社会が今まで積み上げてきた理論を現実に活かせる様に勉強したいと思います。 差別と戦おうと決意した著者の周りには、同じく差別と戦おうとする人々が何人も現れます。 在特会側の人間を心配したりする李さんと同じような暖かみと柔らかさをもった人達です。 何故このように赦せるのか。 どうしてこんなに他人との違いを当たり前の様に受け止められるのか、類は友を呼ぶということなのかと不思議でした。 しかしそれは差別と戦うには、あるいは差別から身を守るには、差別の根本と正反対の、寛容や公平さ、知識と理論、相手に対する想像力などを身につけざるを得ないからだと思い至りました。 好むと好まざるとに関わらず。 著者は外国人児童の支援学級にボランティアとして参加しているのですが、そこで母親がフィリピン籍の女の子と、著者がかわした会話は象徴的です。 お互いの違いを認めていればこそ同じ部分を発見した時に嬉しいし楽しい。 同じ事が前提になっている社会なら、違いは指弾されるだけ。 発見も親近感も楽しさも、起こりようがありません。 京都朝鮮学校襲撃事件の法廷で、民族教育に触れた部分では、私自身の日本語に対する愛着に気づかされました。 日本に住んで日本語を使う日本人の私ですが、この言葉や文字が、私の曾祖父母やそのまた曾祖父母も使っていて、代々受け継がれ、私の血や骨の中に刻み込まれているようないとおしさを私は初めて感じました。 日本語はすごいとか、日本文化は素晴らしいとか日々聞かされているにも関わらず、文化や言葉を身近な、自分の中に流れるものの様に感じることが出来たのがこの本でだったのは、皮肉と言えます。 最終章では李さんのご両親はじめ様々な在日韓国朝鮮人の半生が綴られています。 どの人生も一つきり、みな違います。 しかし同化圧力の元で、同化した人と、自分らしくと考えた人の間に亀裂も走りました。 私達も同じです。 日本人だからといって皆同じ訳ではありません。 当たり前ですが一人一人皆違うのです。 しかし違う事を声高に言えないことが多々あります。 社会がマイノリティにあからさまに押しつけていることを、マジョリティもまた自分自身に知らずに押しつけているのではないでしょうか。 違う文化を認め違う民族の人々と共生する為には、どこの国でもそうですが歴史の清算は避けて通れない問題です。 私は今までそういう行為は身を切るように辛い大変なものだと思っていました。 しかし清算した後の社会がこの本の端々に現れるような暖かいものになるのなら、それほど厳しく辛いものではないのかもしれないと思いました。 ドイツ偉いなどと思っていましたが、結局自国をより快適にするための近道だと知って行っていたのなら、なんかずるい(著者の真似)。 今の社会に息苦しさ、窮屈さを感じている方に是非読んで頂きたい本です。 そして読後、このアマゾンのレビュー欄をもう一度見て下さい。 ここには著者が指摘した差別者ロジックの生きた見本があります。 そして見えにくい差別への荷担も存在していることにお気が付かれるでしょう。 この社会をどうすれば良いのか、この本で著者の李信恵さんと一緒に考えてみませんか。 「社会的なもののために」(ナカニシヤ出版)とは、私が思うに"平等と連帯の基盤たる〈社会的なもの〉の正負両面、そして再生できるかについて、その道の専門家達が知恵と知識と情熱を動員して熱く語り倒した本です。 私がこの本を知ったのはFBでした。 是非読みたいと思い、絶対に読もうと心に誓ったものの、難しい専門書だろうとかなり敷居が高く感じられていました。 それがひょんな事からこの本を頂いてしまい、私如きが頂いてよいのか戸惑いつつも読み始めたのでした。 そうしたところ、大変わかりやすく、その上対談の熱気に巻き込まれ、ぐんぐん読み進んでしまったのです。 それでもどの章でも社会思想史が網羅されているというか、その知識が前提なのに何故私でも読みやすかったかと申しますと、 お薦め理由その1 脚注の出来がとてもよい。 簡潔でわかりやすい注でした。 この注にはほんと助けられました。 この注には著者や編集者の方々は大変ご苦労されたようですが、実にわかりやすかったです。 世の中には読んだら余計にわからなくなる注とか、子供でも知っている様な事しか書いてない注とか(入門書ではなかったのに)、更にひどいのはある注は1行で、別の注は30行で内容は著者のオノレワールド炸裂(注なんですから著者の考えではなく一般的な事実を書いて欲しい・・・)という注があるのに、この本の注は見事でした。 参考文献一覧だけでも読む価値のある本はありますが、この本は注だけでも読む価値があると思いました。 巻末に索引付けて欲しいくらいです。 理由その2 わかりやすい。 入門書としても社会人の勉強としても良い。 良い本は読み手に対する間口が広いことが良くあります。 専門家が自分の分野について書いたものの方が入門書よりわかりやすく、また有益だったりするのはままある事だと思います。 学生の教材として書かれる入門書はどうしても歴史を網羅しすぎるというか、枝葉の理論も書かれていて却って読むと混乱しますが、この本はポイントを絞って深く書かれているのでこの分野の思想史の流れを追いやすく理解しやすいです。 勿論勉強するには両方必要ですが、省かれたであろう枝葉の理論や他の理論の勉強は、この本の豊富な注や参考文献も手がかりにすればよりよく深く学べると思います。 理由その3 対談なのでわかりやすい。 各章冒頭に基調説明がありそれについて対談があるので、不明な部分などはその場で説明を求められてますし、何より一つの事柄に対しても複数の人間が語るので著者一人の書くものよりわかりやすいです。 なんというか、わからない部分は違う参考書を読んでみろ受験生的感想で恐縮ですが、大変わかりやすかったことは事実です(汗) それで読めば今必要とされている内容だと私には思えたのです。 お薦め理由その4 今の日本について語られている。 「はじめに」で、1938年、日本に厚労省が誕生したとき、その前身が社会局という名だったにも関わらず何故「社会省」ではなく、書経からわざわざ探し出してきた馴染みのない厚生省と名付けられた事が書かれています。 もし厚生省ではなく『社会省』だったらその後の日本社会はどうなっていたのかと考えざるを得ませんでした。 勿論日本だけではなく様々な時代、様々な国での「社会的なもの」について話されるのですが、対談にもそれが日本とどう繋がっているのかという視座がはっきり感じられました。 もちろん全体としては『社会的なもの』の歩み(我ながら陳腐な言い方だわ)が議論されているのですが、その中から時に合わせ鏡のように今の日本が浮かび上がって来る事がままありました。 例えば第一章 社会的なものとしての公共サーヴィス 図書館は誰のものか?などは、納税の対価としてしか考えられていない図書館に気づかされてちょっとぎょっとしました。 お薦め理由その5 トドメ 今、社会的なものとは何なのか知っておく必要があるのではないか。 民主党政権下で「子供手当」に何故所得制限をつけないか、またつけてはいけないのか、私は上手く説明出来ませんでした。 自分の中の社会的なものに対する空白・無知をひとしお感じた瞬間でした。 今民主党から自民党に政権が戻り、これからの日本は社会保障などの様々な社会的なものを他の諸々と一緒に捨てる可能性が高いと思います。 ならば社会的なものが長い人類の歴史の中でどのように考えられ、現在の形になったのか、今だからこそ知っておくべきだとも思います。 「社会的なるもの」がどのように積み上げられてきたものなのか、日本の歴史も(第五章に詳しい)含めて、捨て去るならその成り立ちと中味をきちんと理解してから捨てるべきではないかと思います。 この本はやがて出る論文の前哨戦というか序章という位置づけなのだそうです。 この後に来る本は私には歯が立たないでしょう。 でも誰でも読める形で今この本が出たことは大変幸運だったと思います。 勿論素養のある沢山の方々もこの本について学ぶ事が多いとおっしゃているので、素養のある方にも十分お薦めできます。 様々な人が様々な立場視点から、それぞれ汲み取ることが出来る本だと思います。 以上が素養ゼロの私がこの本をお薦めする5つの理由です。 ようやく「マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法」を読む事ができました。 いわゆる伝記本で興味深い記述も多々あるのですが、内容は「ええーーっ!ほんと?」と思うような事から「え~、ほんまかいな~」な事まで、かなりのレンジに富んでおりました。 その中で、彼女、マルタは自分が天才的なピアニストであると周りから思われるのが嫌だった、注目の的になるのがかなり苦痛であったという記述があり、大昔、彼女のコンサートでの出来事をまざまざと思い出し、私ははたと膝を打ったのでした。 今思えば、あの時彼女はそういう心境だったのだと。 彼女のコンサートには、81、84、87と三回行きまして、多分87年のクレーメルとのデュオの時だった気がするのですが(84年かも)、楽屋で彼女に挨拶を述べるために(マルタ・アルゲリッチにですよ!)観客は一列に並んでいたのです。 私は楽屋へ行って良いものかどうか酷く迷い悩んでしまい、勇気を振り絞って楽屋にいった時は一番最後でした。 長々待っていよいよ私の番になり、彼女の前に進み出た時、入り口近くの壁際に立っていたマルタ・アルゲリッチは、一瞬だけ、微かに、潜むように壁と柱の隅に身を寄せたのです。 その時彼女は大ピアニストというより、思いっきりバツの悪いことに狼狽える表情。 この本を読んで初めて、あの時挨拶に来たファンの賛辞が彼女にとっては居心地の悪いものだったのだと理解できました。 ピアニスト、マルタ・アルゲリッチは、でもとても感じよく、にこやかに一人一人と言葉を交わしていたのです。 そして頑張り抜いた最後の最後が、NHKホールでポゴレリチを追跡した()この私だったのです。 これは危ない。 そしてその時私が発した言葉は 長野にはとても良い温泉がたくさんあります。 大きく安堵の吐息をつき、急に表情がぱあっと明るくなって 大笑いしながら満面の笑みで、「いいわ、いいわ、もちろんよ~」みたいな返答をしてくれ(推定です。 緊張の余りなんと言われたか覚えていません)、握手して頂いたのです。 サインもして頂きました。 まるで長年の友達にでも対するような、気さくで温かい態度でした。 他にも何か色々話しかけられた気もするのですが、緊張のあまりもう何が何だか・・・。 あのマルタ・アルゲリッチがこんなに温かい人柄だと判って、私は天にも昇る心地でしたが、それでも彼女の最初の表情はずっと謎でした。 そしてこの本を読んでその謎がようやく解けました。 最初に居たのは出来れば逃げ出したいマルティータだったのだと。 そしてそれも彼女なのだと。 音楽家ってタフでないと務まらないとは思っていましたけど、タフとは限らないところに大変さがあったんですね。 これが私が過去なんども「姐さんと握手した~」と吹聴していた()握手事件の顛末です。 温泉は温泉でも『別府』という展開ですし。 ウェブで読んで、本でも読んで、何度でも読みたい本でした。 この本が素晴らしいのは軽妙な語り口やとんでもない面白さ、格好つけずにありのままを書いてそれ自体が現在「困っているひと達」の参考になっていること等色々あるのですが、何より一番の理由は、難民を支援し、その難しさを知り、支援を続ける為に、真に支援するとはどういうことなのかを常に考え続けていた人が、自身の闘病を通して社会のあり方そのものを問うている事が、単なる闘病記の枠を越えて広く社会に訴える作品になった理由だとおもうのです。 病名が判って(それまでも大変だったわけですが)、難病な自分が生きていくには自分を支える仕組みが当然あるはずと大野さんは考えます。 しかしそれは驚くほど少なく、しかもそれを受けるには、申請に気の遠くなるような労力を必要とするものでした。 病室のベッドで山のような書類と格闘する難病人大野さんに主治医の一人、パパ(はパパでも星飛雄馬のパパ)先生はお説教します。 彼女だけでなく彼女のパパ、ママにまで。 曰く「社会の制度や障害の制度や他人をむやみに頼ってはなりません。 そういった精神が治療の妨げになります」と。 最初は私も大野さんと同じように反発しましたた。 病人シバいても無理だってと。 でも今読み返すと、日本で普通に生活出来ない病気、治らない病気に罹ったら最後、頼れるものは家族や友人だけなのかもしれません。 その人達に山ほどの手間を掛けさせ、役所に行かせ、さて、それに見合う助けを得ることが出来るのか? 大野さんはたまたま東京に住んでいたので障害者2級でタクシー券が出ました(それを受けられると理解できたのは大野さんが院生でムズイ文章でもくじけなかったからでしょう)。 しかしとある難病マダムの住む自治体では、受けられるのは高速のETC割引きだけ。 それさえないマダムもいるのです。 斯様に福祉は財政状況による地域格差が激しい。 これは福祉は余った金でやるということ、お金がなくなれば(今まさしくそうなのですが)福祉は削るという事です。 戦後焼け野原で何もなかった頃の考え方が見直されずに続いているのだと思います。 高度経済成長期もバブルの時も、この考え方が変わらなかったため、福祉に予算をつける時、お金がない時に削れないと困るという理由から、恒久的財源が必要になるような施策にはとても慎重だったと私は思います。 そして自己申請主義を守り通し、必要な人達の前に山ほどのハードルを置いて、資格のある人さえはねつけて来たとも。 余った金でしかしない福祉なら、金がなくなったら一体どうなるのか?その答えの一つが彼女も苦しめられた3ヶ月で退院の制度でしょう。 パパ先生のお説教は、そんな心許ない保障ならば、いっそないものと心に決めろということなのかと考えてしまった今回です。 事実自治体が財政破綻した時、福祉や水道料金などを削り支出を抑えさえすれば、建設債だけは発行できるのです。 もし住んでる自治体が破綻したりしかかったりしたら・・・。 しかしこの様に保障が手薄な社会で、人が一度難病になってしまうと、その人達の背負うものはとてつもなく巨大で深くなってしまうのです。 大野さんの心身もマリアナ海溝に落ち込むが如き状態になりました。 これが自宅療養だったら病人と家族は、きっと諸共その海溝の奥底に落ちて行くに違いないでしょう。 難民支援に明け暮れていた頃の大野さんは、国境近くにあるキャンプからチェンマイに戻った時、シャワーとシズラーのサラダバーで「支援者」である自分自身から離脱する儀式をしていたそうです。 その儀式があったればこそ彼女は支援を続ける事ができたのだと思います。 でも難病人の家族や友人にはシズラーはなく、いつもいつも、途切れる事なく続く、「助ける側の」、「頼られる側の」自分がいるだけなのです。 これは美しい愛や絆や思いやりだけで引き受けられるものでしょうか。 もし家族や友人が耐えきれずポキリと折れたら? 多分それは患者の死を意味するでしょう。 こう考えるとパパ先生のお説教「自立せい!」「頼るな!」は、一度難に遭えば身近な人にすがるより生きる道のない日本で生き延びる、ただ一つのライフハックなのかも知れません。 パパ先生にシバかれたベテラン患者さん達はそれに呼応して「生き仏」の様な病のエリートになっています。 でも、ひょっとしたら、生き仏エリートになれた人しか生き残れなかったのかも知れません。 生き残れる難病患者にも適正を求める社会なのかもしれないのです。 私はこの本を一人でも多くの人に読んで頂いて、今の日本の社会のあり方以外に道は本当にないのか、皆さんと一緒に考えたいと思っています。 特に震災復興のため公共事業投資が叫ばれる今、日本の福祉と公共投資のバランスがこれで良いのかどうかも含めて。 大野さんは重病の中この本を書き、ボールを私たちに投げました。 そのボールを私はしっかり受け止めたいと思います。 今受け止めなくてもまた次のボールが何処かから来るなどと考えては絶対にならないと、この本を読んで改めて感じています。 先日通っている医院の待合室で、『家庭画報」をじっくり読んでしまいました。 『家庭画報』と言えば、信じられないお値段のお品紹介や観光地など目もくれない旅行記事という、並外れたセレブ力と高飛車さ加減で、歯医者さんの待合室でたまたま手に取った若き日の私を心底震撼させた雑誌なのでした。 あの飛びっぷり、他の追随を許さなかったなあ・・・。 そんな畏れ多い雑誌を久々に手に取り緊張気味の私。 どんな恐ろしい世界が繰り広げられているのかと思いきや、意外にもあれれ???だったのでした。 有名人の母と娘記事では、他者は絶対マネできない特殊ぶりは影を潜め(ないこともないのに何故か強調しない)「完璧な専業主婦」などという、妙に射程距離の短い文言があったり、「今人気のバラと暮らす」では、紹介されたお宅こそ、「な、何これ?」的な衝撃を与えるものの、そこに続く「貴女もバラの世界へどうぞ」なお買い物の手引きには、銘店ではあるのでしょうが、ネット販売可みたいな使えるお店がずらずらと載っているだけなのです。 かつての『家庭画報』ならそれこそ「やはりこの店の品数と品質は・・・」の一言を添えて、「英国園芸家協会会員限定種苗店(所在地ロンドン郊外)」みたいな(あるかないか知りません、私がいま適当に作ったので)、そんなお店でどうやって買い物しろと?と叫びたくなる店揃えだった様な気がするんですけど。 現在のは優雅に笑ったマダムの目だけ笑わず値札みてる様な、実用性というか現実味が滲み出すぎている風に思えるわけです。 昔の(20数年前です)のあの飛びっぷりは何処へ行ってしまったのかしら。 世知辛い今の時勢を反映してしまったのかしら、あの『家庭画報』が・・・。 などとつらつら考えてみたら、私が読んだ頃はバブル直前だったのですね。 料理ののったお皿の値段が一万数千円とか(勿論一枚で!)。 そんな、今思えばちょっとどうかと思う時代の雑誌と、現在の雑誌を比べて、地味、とか地に足が着きすぎ、とか文句言ったら申し訳ない気もします。 でも、ちょっと懐かしいんですよね。 読んでるだけなら、 それを手本に実行しようとしさえしなければ、 その突飛ぶりがもの凄く面白い雑誌だったんですけど・・・。 私、当時でさえ、あの雑誌はお笑いの部類であり、これを本気で受け止めるような人は、たとえ大富豪であろうといないに違いないと思っていました。 でもこれも今考えると、ひょっとしたら真面目に受け止める読者がいたかもしれない不安を感じます。 大金持ちでは多分無く、大金持ちを目指して闘志を燃やしている人達なんかで・・・。 本当にいたのかも。 でなければ、バブルなんて起こりようがないもの・・・。 あの時代、みんなで血道を上げて「上」を、それも「上」の形だけを目指していた感じがありますもの。 あの当時型から入ってではなく、型しか入るものが無かったかのように。 あれから20年、今漸く型から出ることが出来ていたらいいのですけど。 私どうだろ。 『家庭画報』はさすがに住む世界が違うのでマネしようがないから無事でしたが、もっと身近なものだとはまっているかも。 ynet. com 'Murakami mustn't accept Jerusalem Prize' () ここでは P-Navi infoのビーさんが パレスチナフォーラムが村上氏に宛てたオープンレター()がかなり長く引用され、またパレスチナフォーラムの主張も載せられた後、ブックフェアのベテラン製作責任者Zeev Birger氏にこの様に述べさせています。 ( 済みません、土下座して謝ります。 何を血迷ったのかパレスチナフォーラムとパレスチナ情報センターとを昨夜取り違えてしまいました。 英語で間違えるならまだしも、日本語で考えていて間違えるとは。 本当に申し訳ありませんでした。 ) "the people behind the letter are apparently unfamiliar with the facts and are unaware of literature's role in bringing people closer together. "Had they bothered to study the facts they would have learned that the fair has been promoting serious and non-political cultural dialogue for the past 40 years," この手紙の背後にいる人々は、どうも事実に疎く、そして人々をよって結ばせる文学の役割に気が付いていない様だ。 もし彼らが事実を学ぶ労を厭わないでいてさえくれたら、このフェアは真摯で、非政治的、文化的対話を過去40年にわたって促進してきた事が判るだろうに。 なるほど。 調べれば判るのか。 と言うわけで、調べさせて頂きました。 まずはハアレツ紙記事から 24回エルサレム国際ブックフェアは40カ国から出版業者、エージェント、編集者、作家など1200人を集めて行われるとの事。 「文学カフェ」という(恒例らしい)イスラエルの作家と外国から招かれた作家が語り合うプログラムもあるそうです。 そして検索で見つけたのが次の二つでした。 天気が良かったのでブックフェアに夫と出かけてみましたという一般参加者からの報告もあったのですが、ブックフェアそのものに招待された参加者の記事が良かろうと絞ったところ、私に見つけられたのは次の二つでした。 なのでこの組み合わせは意図的なものではありません。 まず今年のブックフェアのリアルレポート() PWという雑誌??のウェブ版?(Reed Bisinessというアメリカの出版会社らしいです)が、数人のブックフェア会員(つまり招待された編集者など。 このフェアにはフェローシップ制度がある)に頼んだ感想や経験談が載せられています。 まずフェアの代表製作責任者Yoel Makov氏の暖かい出迎えを褒め、イスラエルとパレスチナの複雑な関係や、最近の選挙についてのセンシティブな話題はいつでも供されたとの一文の後、ディナーに遠足に水泳などなど楽しいプログラムについての感想と、もてなし側をも含めた色々な人々との会話の充実が述べられています。 エルサレムでは勿論村上春樹) Paratyはかつて植民地貿易の地であり、エルサレムは聖書の地である事。 そして今の21世紀の資本主義が陰鬱なスパイラルに出版界を引きずり込んでいる時、このような上辺だけの場所で出版人が会合をする目的は作家を見つけたり取引権やe-readersやそれよりはやや軽い会話をする為と書かれています。 さて、次(実はこちらの方を先に見つけてました) The Guardian, Saturday 26 February 2005 のAida Edemariam 氏の記事()の後半部分です。 05年のブックフェアでイスラエルとパレスチナの作家達をイスラエル占領下のヨルダン、西岸地区の中間地帯(No man's land)へ一緒に連れて来るという試みが行われたが、パレスチナ側の作家は殆ど現れず、参加した一人(ここまでは要旨です)、 Sayed Kashua said that in addition to all the daily challenges, there are few presses, little publicity. Hence they find themselves submitting to a grand irony: to ensure being heard, they must write in Hebrew. Sayed Kashua氏が言うには、日常の難題のその上に、あまり報道陣がおらず、殆ど世間に知られなかった。 したがって、彼らは大いなる皮肉-確実に聴いてもらう為にはヘブライ語で書かなければならない-に屈した事を知った。 記事終わり まずリアルレポートですが、最初のレポートは多分ブックフェアのこぼれ話的読み物を要求されての記事でしょう。 楽しそうな状況が伝わってきます。 そして二番目は、ブックフェアの眼目について。 どちらも人と会うというブックフェアの眼目を落とさずきちんと書いていますし、良いコントラストといえるでしょう。 普通のブックフェアならば。 しかしイスラエルはほんの半月前の停戦までハマスのロケット攻撃に曝され、自衛の為のやむを得ない反撃をしていた(イスラエルの主張です)はずなのです。 その地に足を踏み入れて、自分の命の危険をまるで感じていないかの様な記事になっています。 ガザは1000人以上の死者が出ています。 生死の境が近くで繰り広げられていたにも関わらず、それらが全く語られないだけならまだしも、語らない理由さえ語られないことで(普通なら触れるでしょ?やっと平穏を取り戻したとかなんとか)、このレポート自体に不思議な、ある種の非現実的な雰囲気を含ませたように思います。 これがフェアの雰囲気なのか、レポーターの状態なのか私には判りかねますが。 次のAida Edemariam 氏の記事ですが、イスラエルとパレスチナの作家を一緒に連れてくる試みというのがBirger氏の言うような対話の促進を目的としたものであるならば、その場へ報道陣を連れてくる責任はフェア側にあるでしょう。 パレスチナ人の作家が勝手に記者会見を開いた訳ではないので、ヘブライ語で語らなかったという方向へ持っていくのは皮肉にしても無理があるばかりでなく、この皮肉のため普通なら落ち度とも言えるフェア側の不手際をひどく見えにくくしてしまっています。 デイリーな小記事を連ねたものなので、記事と言うよりは日記に近いかもしれませんし、売れない作家に接する機会も多い仕事柄、聞き手がいなかったという作家の苦情は慣れっこだった事もありましょう。 しかしその傍らでは「文学カフェ」があり、イスラエルと外国の作家(05年は判りませんが07年はフランスから招かれました)との対話が行われているのです。 この方はカフェに招待された外国人作家にヘブライ語が出来るかお訊きになられたのでしょうか? リアルレポートも、05年のフェアの記事も、普通だったら目の前にぶら下がっているような出来事、避けるにしてももう少し配慮をするような大きな出来事(戦争と交流とは名ばかりの催し)への素通りが共通しているようです。 これはこのフェアの伝統なのでしょうか。 もう一つ皮肉を言えば「人々を結ぶ文学の役割」でBirger氏やイスラエルが過去40年にわたって結ぼうとしてきたのは、誰でもない、自分たちだけのお友達関係だったのではないかとさえ思えます。 どう考えても国家戦略としてのブックフェアにしか見えません。 フェアの主催はイスラエル外務省ですし。 ここで「ねこねこブログ」のねこねこさんがわざわざアップして下さった、筒井康隆の「文学部唯野教授の女性問答」の一部を引用させて頂きます()。 政治的、ということでは、だから筒井先生だって例外じゃないんだよね。 政治的には無党派で、時には無政府主義者だなんて言われたりもしてるけど、(政治体制側の出した)金沢市の出してる泉鏡花文学賞貰ってるんだしさ。 もう、どんな批評家だって、作家だって、否応なしに政治的にならざるを得ないんです。 でも別にそれがいけないってわけじゃないの。 いちばんいけないのはむしろ、文学理論の中には政治に左右されない純粋なものがあり得るって考え方です。 何度も言うけど、無自覚に政治を無視したりしていると共犯関係がもっと密接になっちまうんだよね。 ぼくがマルクス主義批評を評価するのは、あなたの言う「逆説的に」とは違うかもしれないけど、そうした立場(文学の逃れられない政治性を自覚している立場)からです。 Birger氏もリアルレポートを書いたフェアの会員もEdemariam氏 もそれぞれの立場、考えからそれぞれの発言をしたと思います。 それがいけないわけではない。 やっぱ声上げといて良かったわ。 そしてそのブックフェアに受賞しに村上春樹氏は出かけたのでありました。 彼は出版仲良しさん達の真ん中で踊ったのか?踊らされたのか? 踊るつもりだったのなら度胸ありすぎ。 というかすごいかも(汗) 追記 PW(publishers weeklyの略らしい)サイトで楽しそうな遠足レポを書いた方はドイツから来たという立場上、ああいう書き方しか出来なかったのだろうと思っていました。 私でもああなるだろうと。 でもさっきふと思ったんですが、あれだけ楽しげに遠足だの景色だの(死海が見渡せるなら他もみえるのでは?)ワインだのごちそうだのおもてなしだのと書いてあると、レポを装った告発レジスタンス記事?などとも読めそうな気がしてきました。 皆様結構したたかかも。 出版人ってそうなのかもね。 それから村上春樹の受賞スピーチの一節(注:会場にはこの会員達がいたわけです) "You are the biggest reason why I am here. " やっぱり意味深 追記その2 ハアレツ紙が掲載した村上春樹の受賞スピーチ()の全訳が出ています。 47トピックス【日本語全訳】村上春樹「エルサレム賞」受賞スピーチ() それから受賞スピーチの感想をブログに書いた方々に声を大にして言いたいのですが、 会場はクローズなものであり、招待客の多くはブックフェアに来た出版人と思われます。 つまり受賞会場にいた人=イスラエルの国民ではありません。 あの受賞スピーチを聴いたイスラエル人はとても少なかった可能性があるのです。 関連記事 「村上春樹のエルサレム賞受賞 アーサー・ミラーの場合を見る」 () 「村上春樹の利用法」() 長い前置きです。 村上春樹氏のエルサレム賞受賞について、私はmojimojiさんの記事()や更にtoledさん他ののP-Navi info記事()の英訳(とスペイン語訳とフランス語訳)記事()にも賛同したのですが、それは何が何でも止めて欲しいと村上氏に要求したいというよりは、出来れば出ないでくれたら胸をなで下ろすだろうという私の考えの表明の意味しかないつもりでした。 mojimojiさんの記事もその様に読めましたし。 つまりある考えの表明の様な。 ある意味チャンスですよ、村上さん。 事と次第によっては、こちらのリストに載ることになるのでしょう。 どうにかして村上春樹氏の耳に入らないかと思うわけですが、どうしたらいいんだろ? 確かに最後に村上氏の耳に入らないかと書かれてはいますが、話題にして目に付かせる緩さに安心できました。 この記事に賛同した人の中には同じ様に考えた人も多いのではと思います。 ただ話の流れからそうは思われてなさそうなのをみて、私の考えについてだけは、自分が説明不足だったと今は反省しています(mojimojiさんやtoldさんには当然それぞれの考えがおありだと思います)。 繰り返しになりますが、私は村上氏に自分の考え通りに行動してもらうことを要求しているのではなく、彼の今回の受賞に対してパレスチナの現在を考えると決して手放しで喜べない、という意見表明をしたいだけなのです。 そう言う考えもあるのだと。 Aは息も絶え絶えだ。 果たしてCはどう振舞うのか、多くのひとが注目している」 これに集約できると思います。 特に今はイスラエルのガザ攻撃がちょっと停止したばかりです。 この時期に「エルサレム賞」とパレスチナ問題を全く離して考えることは難しいと思います。 そしてこの賞について調べてみたところ、この賞に付随した部分で、今のパレスチナのおかれている状況と大変似た部分がある事が判りました(やっと本題です)。 05年の受賞者は劇作家のアーサー・ミラーです。 彼は先約があるとして授賞式には出席せず、受賞スピーチを録画して送ったのですが、これは当然予測された事ではあったのですが、その内容はイスラエルのパレスチナ占領を批判するものであり、たまたまウルトラ保守だったエルサレム市長はそれに対し癇癪(Fit of temper)を起こした というオマケが付きました。 これだけならば良くある事ですが、問題はその出来事について言及している米紙の記事がどう考えても少ない様に思える事なのです。 ニューヨークタイムズは、「エルサレム賞」についてはほぼ毎回受賞者決定時に報道しているにも関わらず、またグレアムグリーンの受賞については、授賞式でグリーンがそれに相応しいかという抗議があったと話が読書欄とはいえ出ていますが 、ミラーの受賞インタビューに関する記事は見つかりませんでした。 またミラーの死に6ページに及ぶ追悼文を掲載したにも関わらず 、その中でもこの事には触れていません。 ワシントンポストでも記事はありませんでした(あったらごめんなさい)。 アーサー・ミラーに関しての検索もしてみましたが、彼の経歴には「2003年 『エルサレム賞』受賞」とだけあるのみです。 enウィキペディアにも書かれていませんでした。 先に挙げた記事はそれぞれ、オブザーバー紙(英)、ガーディアン紙(英)、左翼の雄ともいえる雑誌ネイション(米)のものです。 これは無視できる些事なのでしょうか。 ブックマークでもコメントしましたが、E. サイードは「イスラエルと世界(主に米英)はあたかもパレスチナ人がいなかった様にふるまい、そのナラティブ(物語)を奪いとっている」という趣旨の発言をあちこちでしていたのですが、ミラーの行動に対する反応もこれに近いのではないでしょうか。 「エルサレム賞」が悪い賞だとは思えません(調べて余計にそう思う)。 しかし賞の趣旨とは裏腹に、それが利用されている向きも否定できないと思います。 「どうぞ授賞式には何でもなさって下さい。 ただし伝えるのは私の意向で」 ソンタグは何を言うかは明白でしたし、受け入れを表明した方がイメージアップに繋がるでしょう。 では何故、やはり苦言を呈しそうだったミラーは駄目だったのか? 穿ち過ぎかもしれませんが、この時の市長の対応を衆目に晒したくなかったのではないでしょうか。 ミラーのスピーチはこの賞の中に忍び込んだある種の欺瞞をはぎ取ったのかもしれませんが、それが知られる事がないならば、彼の行為に何の意味がありましょう。 この姿は私には一般人でも家庭人でもなくテロリストとしての存在しか望まれないパレスチナ人の姿と重なります。 少し前のNYTで、読者がガザ在住のパレスチナ人レポーターに質問する記事中に「(一般人の被害が出ていると報道されている事に対して)どうやって一般人とテロリストを区別出来るのですか?区別しているのですか?」という質問がありました。 テロリスト以外のパレスチナ人は想定の範囲外かの様です。 何故そうなのか。 パレスチナ人に対してテロ以外の部分について殆ど報道されていないからです。 パレスチナ問題は今までずっと、この報道の不均衡( 主特に米国内が酷いですが)という問題が付いて回りました。 そしてアーサー・ミラーの受賞スピーチも、それと似た不均衡が見られます。 作家のナラティブを黙殺し、都合の良い受賞のみを伝える不均衡が。 米国に住みながらも、しようと思えばネットなどの情報や本、雑誌などに普通の米国民よりは接する機会の多いであろう村上氏が、他ならぬナラティブを紡ぐ作家としてこの賞をどう踊るのか、または踊らされるのか、踊るつもりが踊らされたようにしか見えなくなるのか、ご本人にとっては難しい判断だと思います。 勿論その判断を私は尊重しますが、それでも私はこの受賞を喜ぶ気になれませんし、喜ぶ記事に賛同することもできません。 何をやってもナラティブを都合良く改造してしまう文学賞に対してなぞ。 どの記事で読んだのか忘れてしまったのですが、授賞式は招待客のみのクローズなものだそうですし。 授賞式に出席して、ただ受賞して帰ってくるのが村上春樹らしいと仰る方もいらっしゃるのですが、この賞に関してはそれをすると「作家」としてどうよ?と。 まあ、アーサー・ミラーの件だけでそう決めつけるのは短絡ですが。 追記終わり。 すみません。 そしてミラーはビデオスピーチだったので、市長とスピーチライターは事前にこれを見ている筈とか (そうしないとお返事スピーチが書けないので)。 受賞スピーチの全文 雑誌ネ-ション() ついでにネーションのソンタグの記事() 「行くな!受けるな!と散々言われた」というソンタグのエルサレムポストでのインタビューを引用して、 「はい、私たちがそう言いました」と書いてあります。 ソンタグについてはニューヨークタイムズでは受賞を伝える短文とこの記事だけがヒットした(多分。 漏れてたら済みません)() その「この記事」には、批判はするつもりというソンタグの言葉と上に挙げた受賞拒否の圧力がすごくて大変だったというエルサレムポストのインタビューだけが載っていたのでした。 ニューヨークタイムズの記事() オブザーバー紙の編集委員がグリーンの作品にある「アンチ・セミティズム」を非難した、という記事です。 nofrillsさんよりブックマークコメント()でご指摘を頂きました。 その通りです。 オブライエン氏は「グリーンの作品が社会の中での個人の自由についてだったなんて、自力では思いもしなかったろう」と言った???のであって、「アンチ・セミティズム」は受賞後に議論が起こったと書かれておりました。 お詫びして訂正させて頂きます。 訳して下さって本当にありがとうございます。 助かりました。 そして更に、nofrillsさんが調べて下さって判ったのですが、このコナー・クルーズ・オブライエン氏、 サイードの「ペンと剣」に登場しています(ちくま学芸文庫59p) その部分の抜粋もnofrillsさんの記事に載せられていますので、是非どうぞ。 ニューヨークタイムズの追悼文()• 2008. 2007. 2007. 2007. 2007. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2005. 2005. 2005. 2005. 2005. 2005. 2005. 2005.

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[B! 東浩紀] 東浩紀 Hiroki Azuma on Twitter:

しいたげられるを使った短文

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しいたげられるを使った短文

私は、私の流儀に従って、 日頃 ( ひごろ )尊敬する大音楽家の列伝を書いた。 それは、あくまでも私の生活を通して見た大作曲家で、私の 抱懐 ( ほうかい )する尊崇と、愛着と、 驚嘆 ( きょうたん )と、そして時には少しばかりの批判とを、なんの 蔽 ( おお )うところもなく、思うがままに書き連ねたものである。 私はかつて考証のために書かなかった。 事実の 羅列 ( られつ )のためにも書かなかったつもりである。 私は大音楽家達に対する心持を、散文詩のように、少しばかりの陶酔と、 詠嘆 ( えいたん )をさえ交えて書いた。 それは六十歳の青年の、せめてもの情熱であり、科学や芸術に対して日本人の持つ若さの表現であるかも知れない。 私の狙いはそこであった。 それから、もう一つの望みは、一般青年のために、日頃関心を持った作曲家の伝記を通して、私のささやかな人生観と芸術論を説きたかったのである。 この記述の第一の目的は、読んで感銘の深いものであり、面白いものであるべきであった。 その目的さえ果せば、読者諸君は次の段階に進んで、それぞれの大音楽家の詳伝を読まれ、その芸術に対する理解を深められることであろう。 芸術は 畢竟 ( ひっきょう )作者その人である。 個性なくして芸術はあり得ず、創作者その人を知らずして作品の真髄を 把握 ( はあく )することは甚だむつかしい。 本書を青年子弟のために書いた 所以 ( ゆえん )である。 この稿のうち十二篇の伝記は、婦人公論に記載したもので、他の五篇は新たに書き加えたものである。 作品及びレコードに関する 厖大 ( ぼうだい )な記述と、別伝数十ページことごとく書き下しで、そのために私はひと夏五十余日を費さなければならなかった。 レコードは代表作の優秀盤きわめて少数に限定して、極力 網羅 ( もうら )主義を避けた。 全部のレコードを書くのは、読者の選択の困難を増すばかりで、全く書かないと同じ結果になりはしないかと恐れたためである。 母型や材料の輸入難を考え合せると今日のレコード選択標準は、向年五年、十年、あるいは十数年間は大した変化のないことと思う。 今度ほど私はレコード選択について、安らかな心持で書いたことはない。 あらえびす記 [#改丁] [#ページの左右中央] [#改ページ] 「お前の一番好きな作曲家は?」と聞かれたら、私はなんの 躊躇 ( ちゅうちょ )もなく「ヘンデルとそしてシューベルト」と 応 ( こた )えるだろう。 「お前の一番大事なレコードは何か?」と言われたら、ヘンデルの「 救世主 ( メシア )」全曲十八枚を 挙 ( あ )げることも間違いはあるまい。 現に最近成城から高井戸へ引越した私は、一万枚以上のレコードの収集を、何の不安もなくトラックに積んで送り出したにかかわらず、ビーチャム 卿 ( きょう )の指揮する「救世主」十八枚のレコードは、二つの箱に納め、私の腕に抱えて、旧居から新宅へと運んだくらいである。 このレコードに対して、私にはきわめて個人的な思い出があり、何物にも代え 難 ( がた )い心持ちになっているが、それにしても、ヘンデルの人間とヘンデルの音楽に、私の興味と愛着を誘うものがなければ、「 救世主 ( メシア )」のレコードに対して、これほどまでの執着は感じなかったことであろう。 ヘンデルは古典作曲家中の巨峰である。 バッハが「西洋音楽の父」であるならば、ヘンデルは「西洋音楽の母」でなければならない。 この二人は偶然同じ年に生まれ、バッハの音楽が理知的で対位法的であるのに対して、ヘンデルの音楽が感情的で旋律的であることが、まことに面白い対照でもあったのである。 バッハはこの上もなく尊い。 が、ヘンデルがなかったならば、我らの持っている音楽の国の 淋 ( さび )しさはどれほどであろう。 私は論議することをやめて、しばらく情熱漢ヘンデルの伝記を通じて、その人間味を見ようと思う。 ゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデル( Georg Friedrich H ndel)は一六八五年二月二十三日、富裕な理髪兼外科医の二番目の子として、ハルレの町に生まれた。 ヘンデルの音楽的才能と音楽愛は、多くの天才と同じように幼年時代から目覚めたが、父親は愛児が音楽を職業として選ぶことを好まず、音楽に携わること、楽器を 弄 ( もてあそ )ぶことを厳禁してしまった。 音楽を奪われた少年ヘンデルが、夜な夜な屋根裏の物置の中に通い、月の光をたよりに、そこに隠されたクラヴィコードを弾いて勉強したという逸話は、 泰西 ( たいせい )名画の題材として、記憶している人も少なくはあるまい。 七歳のとき、ワイセンフェルス公爵の御前でオルガンを 奏 ( ひ )き、公の 御感 ( ぎょかん )に入って、公爵自身ヘンデルの父に、息子の音楽修業を承諾させたという話もある。 十一歳のとき父を失ってからは、父の望みの法律研究を捨てるに忍びず、一たびハルレ大学の法律部に籍を置いたが、十七歳のときついに法律を捨てて教会のオルガン弾きの地位に納まり、やがて本格的な音楽修業を思い立って、ドイツオペラの都ハンブルクに、彼自身の姿を見出したのは、 翌 ( あく )る十八歳の春であった。 穏やかな 長面 ( ながおもて )、大きな真面目な眼、直な鼻、豊かな額、厚いが強い唇、 頬 ( ほお )や 顎 ( あご )はがっしりと端正で、四角帽を 被 ( かぶ )った彼の 風采 ( ふうさい )を、時の人は「力に富み、意志に強かった」と伝えている。 ハンブルクではカイゼル、マッテゾン、ブクステフーデなどが楽壇を支配し、いずれもヘンデルより年長で、若きヘンデルにとっては 恰好 ( かっこう )な指導者であり、先輩であった。 しかしヘンデルの才能と天分が次第に三人の先輩を抜いて、いつまでも保護者らしい顔をされるのに我慢が出来なくなってしまったのはやむを得ないことであった。 最初にヘンデルと問題を起したのはマッテゾンであった。 些々 ( ささ )たる事から誤解を大きくして二人はハンブルク市場で決闘をする羽目にまで立ち至ったのである。 マッテゾンの剣は危うくヘンデルの胸を貫こうとして、大きな金属製のボタンに留って折れ、ヘンデルの命は真に一髪の危機を免れ、次の瞬間二人は我を忘れて抱き合っていた。 争いの種も憎しみも、死線を超えて春の霜の如く消え失せたのである。 続いてヘンデルとの間に大きな 溝 ( みぞ )を作ったのは、ハンブルクのオペラの中心人物なるカイゼルであった。 カイゼルの 落目 ( おちめ )と嫉妬は、ハンブルクのオペラまでも滅茶滅茶なものにしてしまった。 フローレンスからローマへ、ローマからヴェニスへ、青年ヘンデルの音楽の旅はしばらく続いた。 「ヘンデルは決してイタリー音楽に心酔したのではなかった」とロマン・ローランは言っている。 ドイツ人ヘンデルにはドイツ人に共通の負けじ魂ときかん気がある。 が、イタリーの音楽界から、ヘンデルが学び得たところは決して少なくはない。 彼の 夥 ( おびただ )しいオペラの豪華雄麗さに、イタリー的なものが多分に含まれていることは言わずもあれ、彼の晩年を飾る 聖譚曲 ( オラトリオ )の傑作に、イタリー風の 艶麗 ( えんれい )な色彩感を 採 ( と )り入れ、存分に美しい旋律を氾濫させたのは、ヘンデルのイタリー修業の 賜物 ( たまもの )でないとは言えなかったわけである。 さりながら、イタリー旅行当初のヘンデルは、作曲家としてよりはむしろ演奏技術家として盛名を 馳 ( は )せたことも事実である。 イタリーの誇りとも言うべきスカルラッティ父子と 相識 ( あいし )り、 伜 ( せがれ )ドメニコ・スカルラッティと、オルガンの演奏を競って勝ち、二人は水魚の思いがあったという逸話も、この頃の消息を伝えたものである。 ナポリに遊んでローマに帰ったヘンデルは、歌劇「アグリッピーナ」でイタリー人を歓喜と狂乱の中に投げ込んだ。 聴衆は「親愛なるサクソン人万歳」と絶叫した。 当時イタリーに滞在していたハノーヴァの司教ステファンはヘンデルにハノーヴァ宮廷の楽長の地位を提供し、ヘンデルは直ちに応じた。 しばらくのハノーヴァ滞在の後、ヘンデルは早くから 憧憬 ( しょうけい )の的であったイギリスに向った。 二十五歳の秋である。 イギリスの楽壇はパーセルの死後全く窒息状態で、首都ロンドンはたった一人の作曲家も持たず、ことごとくイタリー音楽とイタリー楽人の 蹂躙 ( じゅうりん )に任せておく有様であった。 ヘンデルは音楽をお好きなうえ、 自 ( みずか )らクラヴサンをよく演奏した女王アンに 謁 ( えっ )した後、超人的に天才を発揮してわずかに十四日間で歌劇「リナルド」を書き下して上演した。 成功は記録的であった。 イタリーオペラを武器とするヘンデルの勝利はめざましくもまた 華 ( はな )やかだったのである。 その成功が機縁となってイギリス定住の決心にまで発展し、ハノーヴァ王家に解任を求めて、時々帰任するという約束の下に英国に落着くことになったのである。 ヘンデルの英国における発展は 未曾有 ( みぞう )のものであった。 外国人にして王室作曲官となり、アン女王の御覚え目出たいにつけても、ハノーヴァ王家に対する気まずさがないではなかった。 その不愉快な立場がアン女王の死によって、ついに法のつかぬ破局に導かれたのである。 アン女王に代って英国の王位についたのは、ハノーヴァ家のゲオルク 即 ( すなわ )ち後のジョージ一世だったのである。 さきにハノーヴァ王家の好意に 反 ( そむ )いたヘンデルが、宮廷から遠ざけられたのもまた 余儀 ( よぎ )ないことである。 ジョージ一世即位後間もなく、盛典を祝う意味も兼ねて、テームズ河に船遊びを催されたことがあった。 善美を尽した御座船が中流に浮んで、 貴顕 ( きけん )淑女雲の如く 斡旋 ( あっせん )する中に、ジョージ一世は玉杯を挙げて四方の風物を眺めながら、水と共にテームズを降った。 このとき御座船近く用意された船の中から、 嚠喨 ( りゅうりょう )として楽の音が起った。 幾十人の奏する大管弦楽は、水を渡り 蒼空 ( あおぞら )に響いて、壮麗雄大、言葉にも尽せぬ情趣を 醸 ( かも )し出したのである。 ジョージ一世御感のあまり、近くに伺候するキルマンセッグ 男爵 ( だんしゃく )を呼んで、「あれは 誰 ( だれ )が作り、誰が指揮しているのじゃ」と仰せられた。 キルマンセッグ男爵は進み 出 ( い )でて、恐る恐る「ヘンデルにござります。 陰ながら今日の御盛典を祝して、あの音楽を指揮しております」と申し上げた。 ジョージ一世が即座にヘンデルの罪を許し、謁見仰せつけて、アン女王以上に優遇したことは、歴史上の美談の一つとして伝えられている。 この間の消息を、ジョージ一世の音楽愛好と器量の広大さに帰して「王は自分自らを罰することなくしては、ヘンデルを罰することは出来なかった」と伝える人もあった。 英国におけるヘンデルの地位は次第に変化してきた。 かつては王家の 庇護 ( ひご )の下に一賓客的な安穏な日を送ってきたヘンデルの脈管に、一七二〇年三十五歳の働き盛りの血潮が燃えさかると、象牙の塔を出でて大衆と共に戦うことに、芸術家としての天分と生活の意義とを見出したのである。 彼は 赤手空拳 ( せきしゅくうけん )で大衆の中へと飛び出した。 彼の芸術は、万人に属するものでなければならぬと観じたのである。 彼は作曲家であり、指揮者であると共に、演出家であり、そして資本家でもあった。 この新しい境遇が、異邦人ヘンデルにとってどんなに恐るべきものであったかは誰にでも想像されよう。 彼は二度破産をし、三度殺されかけた。 二度必死の病に倒れ、新聞記者と三文文士と、音楽批評家と貴婦人とを相手に二十余年間の戦いを 闘 ( たたか )い続けなければならなかった。 彼の真の天職にして、不滅の生命を盛られた芸術「 聖譚曲 ( オラトリオ )」に到達するまで、ヘンデルの戦いは文字通り死物狂いだったのである。 ヘンデルの最初の敵としてクローズアップされたのは、イタリー人ボノンチーニであった。 彼はヘンデルよりも早熟で、ヘンデルよりも流行作家的で、ヘンデルよりも巧者だった。 「 熊 ( くま )や 雉 ( きじ )やまたは名人上手達の勝負事を大好きなイギリス人」はこの必死のゲームに好奇心の全部を 賭 ( か )けた。 その挑戦に対して敢然として応じたヘンデルは見事に勝つことが出来たが、その次に控えたオペラのスターの悪闘には、さしものヘンデルも手を焼いてしまった。 その選手はファウスティーナとクッツォーニと言った。 二人の女優は二匹の猛獣のように争い続け、ウェールズ王女臨場の日の舞台の上で、血だらけな 掴 ( つか )み合いを始めてしまった。 二匹の猛獣は疲らせるよりほかに引分けようがなかった。 指揮者のヘンデルは、その争いを急速に終らせるために、盛んにティンパニを 叩 ( たた )かせた。 ある時は女優のクッツォーニはどうしてもヘンデルの書いたアリアを歌うことを拒んだ。 ヘンデルはいきなりスターの 胴中 ( どうなか )を 引抱 ( ひっかか )えると、窓から往来へ放り出そうとした。 「あなたは女悪魔さ。 そいつはよくわかっているが、この 俺 ( おれ )が悪魔の王だってことを見せてあげようよ」そう言って、ヘンデルは皮肉な微笑を、 強靭 ( きょうじん )な感じのする 頬 ( ほお )に浮べた。 続いてハッセとポルポラがヘンデルの敵に回った。 艱難 ( かんなん )は後から後からと続いた。 一番深刻にヘンデルを悩ましたのは、経済的な 破綻 ( はたん )で、続いてはその巨大な肉体を病床に投げ込んだ重病であった。 しかしヘンデルはその間にも名作「アルキーナ」を作り、 僅 ( きん )々十日間で「アレキサンドルの祭」を書いた。 一七三七年春、五十二歳のヘンデルはとうとう中風にやられてしまった。 右半身がきかなくなり、頭さえも 冒 ( おか )されたのであるが、災禍はそればかりではない。 同時に彼の劇場は破産してしまったのである。 失意のドン底に投げ込まれながら、温泉場に送られたヘンデルは、なんという 奇蹟 ( きせき )、秋の末には回復して、再び闘いの場へ登場したのである。 しかし災禍はそれっきりヘンデルを見捨てたわけではない。 債権者は日々彼を追求して、 牢獄 ( ろうごく )の 扉 ( とびら )が巨人の背に迫ることも少なくはなかった。 ヘンデルの創作力はまことに超人的であった。 一つのオペラを二週間で書くことは珍しくなく、時には二つのオペラを同時に書くことさえあった。 音楽の記譜法は彼のためには まだる過ぎて、一種の速記法を必要とするほどであった。 「彼は呼吸するように創作した」とさえ伝えられている。 この驚くべき天才の 奔騰 ( ほんとう )は、五十一曲の歌劇の創作となった。 これこそ 人間業 ( にんげんわざ )以上の仕事である。 が、五十三歳のヘンデルは、当時のイタリー風のオペラの馬鹿馬鹿しい堕落に対して、考えなければならない時に直面したのである。 その頃のオペラの堕落ぶりは舞台に馬や鳥や、ライオンまでも出したというサーカス化の一面だけでもほぼ想像がつこう。 五十三歳のヘンデルが、老来 益々 ( ますます )盛んな情熱を傾け尽して、 聖譚曲 ( オラトリオ )「サウル」を書いたのは、まさに天来の啓示による「新しい道の発見」であったと言ってよい。 ヘンデルの聖譚曲の価値が当時 素直 ( すなお )に受け入れられなかったことは事実であるが、「時」がヘンデルに力を貸して、最後の勝利の栄冠はついに彼の頭上を飾ったのである。 五十五歳のヘンデルは、続いて器楽曲の傑作「 大協奏曲 ( コンチェルト・グロッソ )」十二曲を書いた。 彼の人格と人間愛とを 彫 ( きざ )みつけた作品である。 が、社会は決してヘンデルに寛大であったわけではない。 反対派の 跳梁 ( ちょうりょう )は益々 辛辣 ( しんらつ )をきわめ、街の浮浪児を雇って、彼の演奏会のビラを 剥 ( は )がす者があり、彼の演奏会の日には他のイタリーオペラへ行くのが上流社会の一つの流行でさえあった。 貴婦人達はヘンデルの演奏会の日にパーティを開いたり、お祭騒ぎをしたことさえある。 ヘンデルは空っぽのホールを 眺 ( なが )めて、「この方がおれの音楽がかえって立派に聴える」と負け惜しみを言わなければならなかった。 ヘンデルは幾度か破滅に 瀕 ( ひん )して、とうとうイギリスに 愛想 ( あいそ )を尽かしてしまった。 三十年来住み 馴 ( な )れたイギリスを去る決心をして、最後の演奏会を開いたのは一七四一年の春である。 アイルランドの総督が永久に去り行くヘンデルを惜しんで、ダブリンに招いてしばらくコンサートを指揮させた時のことである。 ヘンデルはついに、友人ジュネンの編集した聖書の言葉に付して、 畢世 ( ひっせい )の大傑作、聖譚曲「 救世主 ( メシア )」を作曲したのである。 「救世主」がいかなるものであるかはここに詳説する行数を持たないが、とにもかくにもこれこそは聖書の最良の注解であり、人類の持てる最高の宗教楽であることはなんの疑いもない。 聴衆の心は感激の涙で洗われた。 熱狂は嵐のようであった。 演奏がすんで廊下に出ると、一人の貴族がヘンデルの肩を 叩 ( たた )いて言った。 「非常に面白かった」と。 ヘンデルは 怫然 ( ふつぜん )色をなして、「それは残念でした。 私は皆さんを面白がらせるつもりでこの曲を書いたのではない。 「救世主」の成功は圧倒的であった。 書き下し当時の感激を、二百年の後まで生々しく伝える音楽は少ないが、ヘンデルの「救世主」の呼ぶ感激に至っては、年と共に級数的にその熱度を 昂 ( たか )むるばかりである。 この 雄篇 ( ゆうへん )をヘンデルはわずかに二十四日間で仕上げた。 そればかりではない。 ヘンデルはこの曲の出版を禁じて、この演奏によって生み出される利益を全部慈善事業に寄付したのである。 一七五〇年から十年間に、「救世主」が養老院のために働いた金額は実に六千五百九十五ポンドと言われている。 一生独身で通したヘンデル、激情家で皮肉屋で大食で 疳癪 ( かんしゃく )持ちで、そのくせ、悲しいアリアを涙を流しながら書いたヘンデルは、破産の直後でさえも慈善事業に背を見せるようなことをしなかった。 ヘンデルの性格は、我らに最も訴える人間的な弱さと強さを持っている。 彼が激怒すると管弦団の全楽員は震え上った。 宮廷の女官達さえ 叱 ( しか )り飛ばして 憚 ( はばか )らなかった。 が、その一面、 諧謔 ( かいぎゃく )に富んだ話術家で、戦闘的で情熱家で、ボーイが朝のコーヒーを持って行くと、徹夜のランプの下に、涙しながら作曲しているのを見ることさえあった。 「 救世主 ( メシア )」がロンドンで成功するまでには、なお数年の歳月を必要とした。 彼が二度目の破産と敵の反撃のために、虚脱に陥って、八か月の静養をしたのは六十歳になってからのことである。 チャールズ・エドワードの反乱で、国家的な事変がたまたまヘンデルを救って、二つの愛国的オラトリオを作らせ、人気の絶頂に押し上げられなかったならば、ヘンデルは本当にこの時死んでいたのかも知れない。 三十五年間にわたる長い長い苦闘の後、ヘンデルはついに勝った。 その後の数作が光明と勝利に輝やくのも無理はない。 「ソロモン」、「花火の音楽」などはその例である。 が、巨人ヘンデルにも最期の時が来た、一七五一年「エフタ」の作曲中その眼が次第に視力を失って、 辛 ( から )くも完成したとき、彼は全く盲目になっていた。 六十六歳の春である。 世界は真っ暗になった。 ヘンデルの広大な創作力も終える時が来たのである。 一七五九年 遺言書 ( ゆいごんしょ )に「貧しき音楽家救済のために一千ポンド」を 遺 ( のこ )して、静かにして偉大なる死を待った。 彼の 遺骸 ( いがい )は彼の望みの如くウェストミンスターに葬られ、異邦人にして英国の栄誉のためにその名を刻まれたのである。 ベートーヴェンが言ったように、「ここに真理があった」のである。 彼ほど男性的な、彼ほど情熱的な作曲家はかつてなかった。 人間愛と信仰とがその作品を通じて、二百年後の今日まで世界の人類に呼びかける。 [#改ページ] ヘンデルのレコードは決して多くない。 それは五十歳を越えるまで専念した歌劇は今日ほとんど演奏されず、晩年の精力を集中した聖譚曲は、一つ一つがきわめて長大で、幾通りものレコードに吹込まれることは、事情が許さないからであろう。 その中で、 畢世 ( ひっせい )の大傑作「 救世主 ( メシア )」の全曲に近いレコードを聴くことの出来るのは、なんという幸せであろう。 「救世主」のうちから、一部分の合唱やアリアを入れたレコードは少なくないが、部分的な出来から言っても、この全曲レコードに及ぶものは一つもない。 これは実に出来の良いレコードである。 例えばこの曲のクライマックスとも言うべき「ハレルヤ・コーラス」にしても、ブルノ・キッテル指揮のがわずかに追従し得るだけで、あとはほとんど問題にならない。 十八枚三十六面は長大に過ぎて一般の収集に適しないが、折を得て聴く機会だけは作っておくべきであると思う。 合奏協奏曲というのは、「コンチェルト・グロッソ」の訳語で、このレコードはヘンデルの円熟期の傑作コンチェルト・グロッソ十二曲のうち六曲を吹込んだものであり、ボイド・ニールは世間的に 華々 ( はなばな )しい人気を持った団体ではないが、きわめて芸術的な楽団で、この演奏も、少しく暗いにしても、きわめて良心的なものであることに疑いはない。 コンチェルト・グロッソは他にもいろいろレコードされているが、互いに一得一失あり、結局まとまったボイド・ニールが一番良い。 和 ( なご )やかにも楽しい曲である。 古典の邪念のない美しさを愛する人には最もよき 消閑 ( しょうかん )のレコードだろう。 それから、ヘンデルがジョージ一世の 勘気 ( かんき )を許されたという、有名な組曲「水上の音楽」は、二十幾曲のうち十幾曲だけ入っている。 吹込みは 甚 ( はなは )だ新しくないが、今でも噂に上るレコードである。 一枚物、二枚物ではランドフスカのクラヴサンで「調子のよい 鍛冶屋 ( かじや )」(ビクターJE一九〇)が面白い。 同じ曲をコルトーがピアノで弾いたのもある(ビクターJD一六七四)。 ヴァイオリンでカール・フレッシュのひいた勇しくも楽しい「行進曲」などは、いつまでも名盤の声価を保つ傑作だろう(ビクターEW六七)。 同じフレッシュのヴァイオリンで「ソナタ第五番イ長調」がポリドールの鑑賞会レコード第三集に入っている。 吹込みはよくないが、重要なレコードの一つだ。 同じ曲をエネスコのひいたのもコロムビアにある。 新しいところではメニューインのひいた「ソナタ第六番」(ビクターVD八一〇一)などが 挙 ( あ )げられよう。 オルガンではビクターの愛好家協会第四集にデュプレのひいた「協奏曲第二番変ロ長調」が入っている。 これは名品と言ってよい。 ヘンデルのオルガンはビクターにもポリドールにもあるが、吹込みが古かったり、演奏があまりよくなかったり、特に挙ぐるほどのレコードはない。 ピアノでは同じ愛好家協会の第一集に入ったフィッシャーの「組曲」を推すべきだろう。 気品の高い曲で、端麗な演奏が人をひきつける。 歌は「感謝の歌」をバリトンのヒュッシュ(ビクターJD一五八三)とソプラノのラシャンスカ(愛好家協会第五集、「アリオーソ」の題目で)が入れている。 後者はエルマンとフォイアーマンとゼルキンが助奏しているが、歌は前者ヒュッシュの方がうまい。 「ラルゴー」はヘンデルの看板のような歌だが、ポリドールのシュルスヌス(六〇一八三)かビクターのジーリ(JD一七一)などがよかろう。 [#改丁] [#ページの左右中央] [#改ページ] 音楽の父なるヨハン・セバスティアン・バッハを語る時は、私も私の家の子供達も襟を正さずにはいない。 私の 居室 ( きょしつ )には、かつて一枚の英傑の肖像画をも置いたことがないが、フランスの若い友人から送って来た、バッハの小さい肖像画だけは、長く私の書斎に飾って、 融 ( と )け込むような親しさと、その前に 拝跪 ( はいき )したいような敬意を感じたものである。 一片の肖像画ばかりではない。 音楽に対する私の 嗜好 ( しこう )も、いつでもバッハに始まって、バッハに 還 ( かえ )っていく。 私の座右に置くレコードは時にシューベルトになり、時にブラームスになり、時にヘンデルになるが、 恒久不変 ( こうきゅうふへん )の感激で、私の生活を 和 ( なご )めてくれ、不断の 慰藉 ( いしゃ )を投げかけてくれるのは、一応小むずかしき 外貌 ( がいぼう )を持つ、バッハの理知的な音楽だったのである。 「バッハは西洋音楽の 祖師 ( そし )である」と言ったならば、一応大袈裟に響くかも知れない。 しかしこの言葉は決して私の発明ではなく、十九世紀の 音詩人 ( おんしじん )にして大評論家なる、ロバート・シューマンの言葉の意訳である。 シューマンはこう言う、「宗教が祖師に負う所あるが 如 ( ごと )く、音楽はその大半をバッハに負う」と。 だが、これでもまだバッハを 褒 ( ほ )め尽したとは言い難い。 パウル・モルゾックはさらに一歩を進めて、「バッハは音楽の旧約聖書である。 十九世紀の名指揮者ハンス・フォン・ビューローは、バッハの四十八の前奏曲と 遁走曲 ( とんそうきょく )に対して、「世界のあらゆる音楽が 亡 ( ほろ )びてもこの四十八さえあれば、容易に今我らの持つところの音楽を再現することが出来る」と極言している。 バッハを「音楽の父」と称する言葉が、決して単なる形容詞でないことを知るべきである。 バッハがなかったならば、ベートーヴェンもブラームスも生まれなかったであろうし、おそらく西洋音楽は、今日あるが如き形では存在しなかったであろう。 バッハの偉大さはその「才能」の点だけでも、あらゆる天才達の上位に置かるべきものである。 が、バッハの真の尊さは、単なる音楽的才能や、近代音楽の建設者としての功績ばかりではない。 バッハは、音楽を通じて最もよく神に仕えた人であり、名利の外に、その大芸術を完成した人である。 バッハの如くよき父は少なく、バッハの如くよき夫も少なかったであろう。 人間バッハの良さ、高さ、尊さに、二百数十年を隔てて、私は心からの敬慕を 捧 ( ささ )げずにはいられない。 バッハを生んだ家系は「良き血統」として優生学上の有名な例であることは、その方面に興味と知識とを持つ人にはことごとく知られていることである。 偉人天才は一代にしてなるに 非 ( あら )ず、幾代、幾十代の注意と修養とよき結婚の 賜物 ( たまもの )であることは、「バッハの家系」を見ただけでも解るだろう(バッハの家系表は、遺伝学、優生学、進化論等の著書には必ず掲げられている)。 遠祖ファイト・バッハはハンガリーに 赴 ( い )ってパン屋を開いているうち、十六世紀の中頃ルーテル派の信仰を 護 ( まも )るために、家財を売り払ってハンガリーを立ち去らなければならなかったと伝えられている。 ファイトから七代の孫にあたるヨハン・セバスティアン・バッハが、その生涯をルーテル派の信仰に 委 ( ゆだ )ね、清貧に甘んじて 敬虔 ( けいけん )な生活を続けた 由来 ( ゆらい )はきわめて深いものがあると言わなければならない。 ヨハン・セバスティアン・バッハ( Johann Sebastian Bach)は、一六八五年三月二十一日、チューリンゲンのアイゼナッハに、音楽好きの父親の子として、想像し得る限りのよき中流家庭に生まれた。 ルーテル派の敬虔な信仰と、アイゼナッハの美しい風光と、父親と兄との音楽的教養は、バッハ後年の偉大なる才能と、 惇厚柔和 ( とんこうにゅうわ )な風格を 育 ( はぐ )くんでいったのである。 十歳のとき父を失ったヨハン・セバスティアンは、オールドルフのオルガン奏者なる兄クリストフの 許 ( もと )に引き取られて、クラヴィーアの 稽古 ( けいこ )を 授 ( さず )けられた。 少年バッハの限りなき音楽的向上心は、定まる課目では 素 ( もと )より足るべくもない。 十四歳年長の兄クリストフの書斎に 夥 ( おびただ )しい楽譜の収集があるのを知ると、厳格な兄の許しを受けることの困難さを知っている少年バッハは、夜な夜な兄の書斎に忍んで、その小さい手を利用して、格子の外から楽譜を引き出し、月の光をたよりに、六か月もかかって、兄の所蔵する作曲集をことごとく筆写してしまった。 後年バッハが両眼の明を失ったのは、この少年時代の無分別な視力の 濫費 ( らんぴ )に原因するとさえ言われている。 兄のクリストフは、 末弟 ( ばってい )のこの出過ぎた向上心を許しはしなかった。 夥 ( おびただ )しい楽譜の筆写を発見すると、 小弟 ( しょうてい )の手からそれを取り上げて、六か月の苦心の結果を火に投じてしまったのである。 しかしこのやかましい兄の 許 ( もと )における五年間のオールドルフの生活は、彼の作曲の才能の芽生えにはよき温床であった。 十五歳のとき、少年バッハは早くも職を求めてリュウネブルクの聖ミハエリス教会の合唱隊に入らなければならなかった。 彼の美しいボーイ・ソプラノは、二年間の確固たる地位を約束したばかりでなく、教会付属学校の図書室には、ドイツ、オランダ、イタリーの傑作曲楽譜が夥しく用意され、彼の飽くなき知識欲に資したことは、なんという幸せであったことであろう。 それよりも、少年バッハを夢中にさせたのは、オルガンという楽器に親しむ機会であった。 バッハには二十五歳の年長ではあったが、有名なゲオルク・ベームは聖ヨハネ教会の 風琴手 ( ふうきんしゅ )で、バッハと年齢の隔りを超えて良き知己であり、ベームの師にしてオランダの名風琴手ヤン・アダム・ラインケンは、三十マイルを隔てて、ハンブルクにおり、少年バッハは事情の許す限り、長い退屈な旅をして、この人の演奏を聴きに出かけたのである。 一度はこんなこともあった。 十五歳になったばかりのバッハが、ラインケンのオルガンを聴きたいばかりに、なんの用意もなくリュウネブルクを飛び出したが、途中まで行った時は、激しい空腹のために、もはや一歩も動くことが出来なくなっていた。 ラインケンのオルガンの魅力が、どんなに少年バッハを鼓舞したところで、一文なしでハンブルクへ行くことは、もはや諦めるより他はなかったのである。 バッハは疲労と失望とにさいなまれながら、泣きたいような心持ちである家の壁にもたれていた。 なにか窓から投げられたものがあった。 バッハの頭をかすめて地上に落ちたのを見ると、うまそうに焼いた一匹の 鰯 ( いわし )で、その鰯の口には、 燦然 ( さんぜん )たる一個の金貨が 哺 ( くわ )えさせてあった。 誰かが少年バッハの失望しぬいた姿を あわれと見て、こんな冗談をしたのであろう。 バッハはその金貨でハンブルクへ行って、憧れのラインケンを聴いたことは言うまでもない。 十八歳の秋、ザンゲルハウゼンの教会に 風琴手 ( ふうきんしゅ )の試験を抜群の成績で通過したが、あまりに年少だったために採用されなかった。 翌年ワイマールで室内管弦団に加わり、その年の秋、久しい徒弟生活は終って、アルンシュタットの教会にオルガン奏者としての椅子につくことが出来た。 若きバッハの 猛精進 ( もうしょうじん )は、その頃から拍車を加えられた。 彼は練習に専念するあまり、教会関係者を困惑させたことはひと通りでない。 彼の演奏はしばしば伝統を離れて、自由な飛躍を 遂 ( と )げ、美しい即興曲を 奏 ( ひ )いて長老達を驚かしたりした。 一七〇七年にはとうとうここをも去ってミュウルハウゼンの聖ブラジウス教会の風琴手となり、翌年二十三歳のバッハは、 従妹 ( いとこ )に当るマリア・バルバラと結婚した。 式に列したものは、彼とそして彼女だけであった。 そして彼自身は、自分達の祝福のためにオルガンを奏いた。 この新家庭はきわめて幸福であったにしても、バッハをめぐる外界の空気には、 甚 ( はなは )だ面白からぬものがあった。 清教徒とルーテル派との信仰の争闘が、バッハに安住を許さない情勢になったばかりでなく、彼の 抱懐 ( ほうかい )する教会音楽改良意見が、物議の的とならずにはいなかったのである。 バッハはついにワイマールに去った。 続いてウィルヘルム・エルンスト公爵は、バッハの教会音楽改革計画を支持し、バッハはここに 根城 ( ねじろ )を 据 ( す )えて、古今 未曾有 ( みぞう )の対位法形式の創造者としての彼の天分を伸ばすことが出来たのである。 彼のうちにはかつて何人にも認めることが出来ない生命の光があった。 彼の 宝玉 ( ほうぎょく )の如きオルガン傑作曲は、ウィルヘルム公の一風変った 礼拝堂 ( らいはいどう )の不調和なオルガンで初演された。 彼の名声はやがてヘンデルと東西 呼応 ( こおう )し得るほど有名になった。 バッハがドレスデンに旅行したとき、フランス人名風琴手マルシャンに競演を挑まれたのはこの頃のことである。 バッハはもちろん敵に 背後 ( うしろ )を見せなかったが、挑戦者なるマルシャンの方が、いざという 間際 ( まぎわ )になって 臆病風 ( おくびょうかぜ )に誘われて姿を隠してしまった。 一七一七年、三十一歳のバッハの名声は、ドイツ全土に響き渡った。 レオポルド大公はバッハを 擢 ( ぬき )んでて、宮廷礼拝堂管弦団の楽長に任じ、バッハは夫人と大勢の子供達をつれて、ケエテンに出発した。 ケエテンにおけるバッハは、その大きな生涯を通観すると、五年間の寄り道であったような観がないでもない。 そこの教会には精魂を打ち込むオルガンのなかったことが、オルガン 即 ( すなわ )ちバッハの観のあった彼にとっては、重大な失望であったに違いない。 その代り、彼の率いた小楽団は、練達なる器楽士のみの集団であり、仏伊の通俗楽に 通暁 ( つうぎょう )した彼にとっては、その 豊饒 ( ほうじょう )なる創作力を傾けて、美しき組曲、序曲、その他の器楽曲を生産せしむる唯一の機会でもあったのである。 バッハの非教会的な、美しき器楽曲がケエテン時代の特産であったことが、バッハの作品を多彩ならしめ、今日我ら音楽愛好家に幸いしたことの少なくなかったことは特筆に値するだろう。 そこで彼は愛妻バルバラを失い、二度目の妻アンナ・マグダレーナ・ウィルケンと再婚した。 そこで彼は一代の傑作器楽曲「ブランデンブルク協奏曲」六曲を書いた。 が大公の愛が音楽から婦人に移るのを見、子供達に本当のルーテル教徒の教育を授ける機会のないことを知ったバッハは、一七二三年ケエテンを去ってライプチッヒに向い、聖トーマス学校の合唱長の椅子につくことになったのである。 三十八歳のバッハには、新しい天地が開けていった。 バッハの生涯のうち、ライプチッヒにおける二十七年間は、最も意義の深い期間であり、最も光栄ある時代でもあったのである。 その天才はいやが上にも円熟し、その信仰は火の如く燃えた。 トーマス・シューレの合唱長として、二つの教会の楽長となったバッハは、ここに始めて、その真の姿を 名残 ( なごり )なきまで発揮することが出来たのである。 バッハの就任した聖トーマス学校は、十三世紀以来の伝統を有する 由緒 ( ゆいしょ )の深いもので、その学生は食物と教育とを支給されて、四つの市立教会の聖歌隊を勤めた。 学校には言うまでもなく、歴代の合唱長によって作曲され、増加された曲目が用意されてあったが、バッハは新しいスタイルの音楽を加えるために、非常に多くの曲目を自作しなければならなかったのである。 一合唱長として、一 風琴 ( ふうきん )手として、ライプチッヒにある間のバッハは、数十年間、全く神を讃美するための音楽に没頭したと言っても決して過言ではない。 二つの教会で、日曜日と祭日に 大礼拝 ( だいらいはい )が挙行され、カンタータ一曲が聖歌隊と風琴と管弦楽とで演奏されたのである。 時にはオルガンだけの伴奏で演奏されることもあったが、時には、長大な受難楽やオラトリオが演奏されることもあった。 バッハは、単に一合唱長として、毎月毎週、その要求を 充 ( み )たすために作曲したのである。 彼の作曲したカンタータは、三百曲の多きに上っている。 その一曲の総譜数十ページから数百ページに及び、演奏数時間にさえ及ぶものがあった(クリスマス・オラトリオの如きは、五度の日曜にわたらなければ、全曲の演奏は出来なかった)。 が、バッハはなんの求むるところもなく、半生を挙げてそれを続けたのである。 彼は名声を喜ぶようなあさはかな人間ではなかった。 もとより金のためにはたった一小節も作曲したわけではない。 ただ神を讃美するために、自分の職責を 全 ( まっと )うするために、珠玉にも比ぶべきカンタータを、毎週一曲ずつ作り捨てたのである。 作り捨てたという言葉は、この場合最も適切な響きを持つ。 バッハのカンタータは出版するためでもなく、人に見せるためでもなく、金に代えるためでもなかった。 彼は自分の楽譜を人に見せることを嫌い、そのために甚だ不利な立場におかれたとさえ伝えられている。 バッハの作品で、生前印刷出版されたものはほとんどない。 彼は天才のおもむくまま、神に 捧 ( ささ )ぐる祈りのまま、幾百曲となく作り捨てたのである。 芸術は 斯 ( かく )の如き動機において作ることになって始めて尊い。 彼の音楽が後世俗楽者流の企て及ばざる高貴なものを持っているのは、その天才に起因するばかりでなく、実はこの心ばえに原因するものと言うべきであろう。 名利に超然とする人はあり得るが、その芸術的作品をさえ、神に捧ぐる以外に執着を持たなかった人は、少なくとも音楽の分野においては、ヨハン・セバスティアン・バッハ以外にあることを聴かない。 幸いにして、彼の二度目の夫人は音楽を解し、写譜をよくした、夫バッハの作り捨てて 顧 ( かえり )みなかったカンタータ三百曲のうち、百九十曲までは、十三人の子供を養育しながら写譜しておいたのである。 バッハの偉大さを考える人は、その偉大なる業績を、二百年後の我らにまで伝えてくれた二度目の夫人、アンナ・マグダレーナの内助の功に感謝を捧げなければならない。 バッハの音楽に「神性」を見出すのは即ちそのためである。 後世の芸術に携わるものが、神を対象としたバッハに比べて、その心構えにおいてなんという違いであろう。 芸術が神性を失い、人間性を失い、今や獣性をさえ帯びんとしているのも当然のことである。 我らの世紀は「悪魔」のために作った音楽のあまりに多きに 堪 ( た )えざらんとしている。 その間にバッハは、今日の調律法の常識なる平均律を支持するために、あらゆる調子を通して、二十四曲の「前奏曲と遁走曲」をふた通り書いた。 対位法と 遁走法 ( とんそうほう )のために「フーガの技法」を書いた。 夥 ( おびただ )しいオルガン曲のほかに、ヴァイオリンや、チェロのために数十曲の 珠玉篇 ( しゅぎよくへん )を作った。 一七五〇年七月二十八日、十三人の子供達に囲まれて、晩年盲目になったバッハは、安らかな永遠の眠りに入ったのである。 バッハを「西洋音楽の父」という言葉ほどふさわしい形容詞はない。 彼の音楽は理知的で、対位法的で、近代音楽の形の上に確固たる 礎石 ( そせき )を与えたばかりでなく、音楽に内面的なものを与え、ドイツ魂の裏づけをした最初の人でもあったのである。 バッハの音楽は、一応むずかしい 外貌 ( がいぼう )を持っているようではあるが、その底には 掬 ( く )めども尽きぬ人間愛が流れている。 すべての音楽愛好者は、一度は必ずバッハに 還 ( かえ )っていく。 バッハは西洋音楽のメッカであると言っても、なんの不都合があろう。 現に私は、その「ブランデンブルク協奏曲」と「平均律ピアノ曲」と「カンタータ」の数曲と「組曲」と「ソナタ」と「オルガン曲」のある物のレコードを、座右から離さずに、この数年を過してしまった。 バッハは最もよき 慰藉 ( いしゃ )であり、最もよき師父である。 悲しみにも、 歓 ( よろこ )びにも、私は自分の心の反影をバッハの音楽に求める。 二百年を隔てて、バッハの音楽は、我らの心に不断の光と歓びと、そして 慎 ( つつし )みとを与えずにはおかない。 [#改ページ] バッハの音楽を、レコードによって聴こうとする人のために、その代表的な作品が、いかにレコードされているかを簡単に記述しようと思う。 バッハの作品は、決して通俗な音楽でないにかかわらず、そのレコードの数はベートーヴェン、モーツァルトに次ぐの 夥 ( おびただ )しさである。 それを一々詳述することは、不可能でもあり、かつ意味のないことでもあるので、ここでは厳選主義に従い、昭和十六年度の日本において、容易に聴くことの出来るレコードのうちから、最も優秀なものを掲げるに止めたい。 それは実にバッハの全レコード数から言えば、十分の一に足らざる少数の珠玉盤である。 バッハの二百に近いカンタータのうち、レコードされているのは果していくつあるだろう。 第四番と第百四十番のカンタータは、全曲近いものがビクターに入っているが、それは残念なことに演奏があまり 上手 ( じょうず )でなく、その上カタロニア語で歌われていることや、吹込みの 甚 ( はなは )だしく古いことが、甚だしい物足りなさを感じさせるだろう。 バッハのレコードは多いといっても、バッハの夥しい全作品から見ればさしたる数ではない。 その全生涯の大部分を 捧 ( さき )げ尽して書いた、最も貴重なる作品「カンタータ」でさえその有様である。 もっとも、一部分だけ 抽 ( ぬ )いて吹込んだものは相当たくさん入っている。 そのうちからきわめて興味の深いものだけを掲げるとしたら、コロムビアの、ティルの独唱した「わが心をとりたまえ」(第六五番)、「ああ不思議なる愛」(第八五番)(JW四五)、ラインハルト合唱団の「 吾等 ( われら )病める足を持ちて 雄々 ( おお )しくも急げり」(第七八番)(J八六四〇)、以上二枚は傑出したレコードと言えるだろう。 いずれもカンタータの一節を採ったものであるが、バッハの作品の気高さと、 浄 ( きよ )らかな情熱を知ることが出来るだろう。 前者も優れたものであるが、わけても後者の牧歌的なデュエット・アリアは少年聖歌隊の演奏で、限りなく美しい。 他に「音楽史第二巻」の最後の一枚に「主よ人の希求する 歓 ( よろこ )びよ」が入っている。 バッハ・カンタータ 倶楽部 ( くらぶ )の演奏で、一枚だけ手に入れることは困難であろうが、優れたレコードである。 前者は古い吹込みであるが、シューマン-ハインクの傑作レコードの一つで、親しみ深いレコードである。 後者はカンタータではなくむしろ宗教的な小歌曲に属すべきだが、カサルスのチェロで弾いたレコードと共に、気高い哀愁が人の心を打つ。 稚拙な趣のうちに、 古朴 ( こぼく )な風格を持ったもので、参考用にも、愛聴用にも重要なレコードであるが、この曲をピアノに編曲した通常聴くところの「平均律ピアノ曲」は、ビクターのレコードで、エドウィン・フィッシャーの演奏した「バッハ協会」レコード第一集から第五集までをもって代表レコードとしなければなるまい。 フィッシャーは当代第一流のバッハ弾きで、その端正にして滋味に富んだ演奏風格は、まことに当代独歩の感があるだろう。 バッハのレコード中最も重要なる大物として推さなければなるまい。 この「バッハ協会」のレコードの第六集と第七集は、バッハの無伴奏チェロの組曲「第二番ニ短調、第三番ハ長調」 並 ( ならび )に「第一番ト長調、第六番ニ長調」を入れたもので、チェロは当代の巨匠カサルス、名曲の名演奏として、後世に 遺 ( のこ )さるべきレコードの一つである。 スペインの生んだ大チェリスト、パウ・カサルスのことと、カサルスが青年時代からこの組曲に興味を持ち、生涯を傾け尽した研究の後、六十幾歳にして始めて録音した心境に至っては、また別に説く折もあろう。 管弦楽の組曲も四曲入っている。 メンゲルベルクが手慣れた管弦楽団アムステルダムのコンセルトヘボウを指揮している良さであろう。 この四つの組曲のうち、後に有名な「G線上のアリア」に編曲された、オリジナルのアリアを含む第三組曲(ニ長調)も美しいものであるが、なんと言っても第二のフリュートの組曲の輝かしさをもって第一とするだろう。 バッハの「美しい曲」を代表する傑作である。 これらはいずれもよき演奏であり、もってバッハがイタリー古典と別に、ヴァイオリン音楽にドイツ的な基礎を定めた、雄大壮麗な趣を知るべきである。 ほかに第二のホ長調の協奏曲にはH・M・Vの旧盤にティボーの名演奏があり、市価数百金と称せられ、複協奏曲にはビクターの旧盤にクライスラーとジンバリストの組合せによる名盤がある。 コロムビアのシゲティーもビクターのハイフェッツも名演奏ではあるが、私は少年メニューインの 掴 ( つか )んだバッハ魂の雄大端正さに 左袒 ( さたん )する。 ハイフェッツに技巧の驚くべき 冴 ( さえ )はあっても、メニューインの 天賦 ( てんぷ )の輝きには及び難いかも知れない。 私の好みはメニューインに傾き過ぎたきらいもあるが、バッハをひいては、この若い天才ヴァイオリニストに及ぶ人は 甚 ( はなは )だ少ない。 「チェンバロとヴァイオリンのソナタ」もいくつかレコードされている。 そのうちで演奏も録音も甚だよくないが、コロムビアのデュボア(ヴァイオリン)とマース(ピアノ)の入れた第四、第五、第六の三曲が記憶されてよい。 わけても「第五」のヘ短調のソナタは 荘厳 ( そうごん )な美しい曲である(これらはチェンバロの代りにピアノを用いていることは言うまでもない)。 もう一つ、ブッシュ(ヴァイオリン)とゼルキン(ピアノ)の入れた「ソナタ=ト長調」がある(ビクターDB一四三四)。 たった一枚物であることと、手堅い演奏で推賞されている。 遁走曲 ( とんそうきょく )の名人であったバッハが、その最後の努力を傾けて書いた「対位法十四曲」と「カノン四曲」の大集成で、西洋音楽の経典として千古に 遺 ( のこ )さるべき 珠玉篇 ( しゅぎょくへん )である。 この演奏は至難中の至難とされているが、 無味乾燥 ( むみかんそう )なるべき対位法の教科書であるにかかわらず、名手による演奏効果はまことに抜群の芸術境で、その 端厳優麗 ( たんげんゆうれい )なる趣は言葉に尽せない。 レコードは二種類入っている。 前者は優麗で美しく、後者は学究的で 蒼古 ( そうこ )な趣がある。 この種のレコードはいずれをいずれと優劣は定め難い。 バッハの全作品中にも、「 弥撒 ( ミサ )ロ短調」は厳然としてエヴェレストの観を呈する。 おそらく古今の宗教音楽中、芸術的な点において、高遠荘重なる点において、ベートーヴェンの「荘厳弥撤」を除いては、バッハのロ短調の大弥撤と日を同じうして語るに足るものもあるまいと思う。 この弥撤の特色はルーテル派の新教徒たりしバッハが、旧教の礼拝楽なる弥撤の形式を 仮 ( か )りて作った点で、この曲にはバッハの 溌剌 ( はつらつ )たる信仰と、情熱とが盛られていると言ってよい。 レコードはやや吹込みの古きを我慢すれば、ビクターにアルバート・コーツがフィルハーモニック合唱団とロンドン交響管弦団を指揮した名盤がある。 受難楽の全曲はビクターに聖バルトロマイ教会聖歌隊の「 馬太 ( マタイ )伝による受難楽」が入っているが、演奏はあまりよくない。 H・M・Vには幾枚かの「馬太受難楽」があり、ポリドールにはブルノ・キッテルの指揮した「馬太受難楽」の「吾等涙もてうずくまりぬ」と「されば捕われぬ吾主エスは」等が二枚に入っているが、吹込みの古さを我慢すれば良いレコードである(六〇一〇四、六〇一〇五)。 「クリスマス 聖譚曲 ( オラトリオ )」のうちからは「神に栄光あれ」と「感謝に満ちて」が、ゲオルク・シューマンの指揮で、ベルリン・ジング・アカデミー合唱団のがビクターに入っている(JH六三)。 「フランス組曲」は六曲のうち最後のホ長調のものがランドフスカのクラヴサンでビクター愛好家協会レコードに 採 ( と )られている。 「イギリス組曲」も六曲のうち第二番のイ短調のが、ランドフスカの演奏でバッハ協会の第五集に含まれているが、これなどは名盤にかぞえられるものだろう。 ランドフスカのクラヴサン曲で、バッハのものをたった一枚味わうために、私は「幻想曲ハ短調」をすすめたい(ビクターDA一一二九)。 十インチ一枚両面だが、バッハの天才と神性と、その想像力と美しさは 名残 ( なごり )なく発揮される。 バッハはその生涯の大半を教会のオルガンひきとして暮し、その職業に満足して、神への讃美と芸術への精進に余念もなかった。 したがってその作品にオルガン曲は 夥 ( おびただ )しく、神来の名曲も 甚 ( はなは )だ少なくないが、ここには 煩 ( はん )を避けて、そのレコードされた曲のうち最も代表的なものを掲げるに止めておく。 シュヴァイツァー博士のことについては、筆者の旧著にも詳述し、津川主一氏にはバッハ伝の訳もあり、ここには重複を避けるが、この音楽家にして宗教家、人道の戦士を兼ねたシュヴァイツァー博士が、バッハの 真面目 ( しんめんぼく )を伝うる熱情に燃えて、二百年前の機構のオルガンを捜し出し、バッハの真精神に還って演奏した第一集の「トッカータとフーガ、三曲の前奏曲とフーガ、一曲の幻想曲とフーガ、並びに小フーガ=ト短調」と第二集の「十三曲のコラール」は、 素朴 ( そぼく )、 蒼古 ( そうこ )、純正、端麗さにおいて、まさに二百年前のバッハの世界を 偲 ( しの )ばしむるものがある。 素 ( もと )より 華 ( はな )やかなヴァーチュオーゾの演奏ではないが、かかる演奏こそは真にバッハを尊敬し、バッハを愛するものの聴かんことを望むものであろう。 シュヴァイツァー博士を除けば、ビクターのデュプレに 優 ( すぐ )れたレコードがある。 オルガン曲を他の楽器に編曲したものはここでは採らない。 [#改丁] [#ページの左右中央] [#改ページ] 「 父 ( パパ )ハイドン」という言葉がある。 この言葉の持つ柔らかな感触と、 溢 ( あふ )れるような親しみは、ヨーゼフ・ハイドンの人柄なり、その音楽なりに、なんの誇張も食い違いもなくピタリとするのだろう。 ハイドンの音楽のよさは、その温かい情愛と、純粋な形式から来るもので、そこにはロマン派の音楽を特色づける、無意味な誇張や、感情の爆発がなく、近代楽における個性の過大な強調や、灰色の 鬱陶 ( うっとう )しさもない。 あるものはただ、 整頓 ( せいとん )した形式と、美しい旋律と、そして誰にでも呼びかけ、どんな時でも、我らの心持を 和 ( なご )めずにはおかない、やさしき愛情であったのである。 私個人のことを言わしてもらえるならば、仕事に疲れたとき、物事が意に満たぬとき、悲しみ溢るるとき、ハイドンの音楽ほど我々を慰めてくれるものはない。 私はハイドンの室内楽(わけても弦楽四重奏曲)のレコードの一、二を、必ず座右に備えておき、父ハイドンの慈愛に溢れた音楽を、私の実生活に受け入れる 術 ( すべ )に成功しているつもりである。 これはレコード音楽の恩恵であると共に、ハイドンの音楽の本当の 嬉 ( うれ )しさである。 ハイドンの音楽には、 眩耀的 ( げんようてき )なものがなく、爆発的なものもないが、その和やかさと健康さが、結局我々には最もよき心の友となり得るのであろう。 ヨーゼフ・ハイドン( Franz Josef Haydn)は一七三二年三月三十一日から四月一日へかけての夜、ハンブルクから四里ほど離れたローラウの町で生まれた。 祖父の代から車造りで、父のマシアスも母のマリアも、勤勉で清潔好きで、熱心な信仰の持主で、後のハイドンのよき性格と習慣とを作ったばかりでなく、宗教音楽史上の一大巨峰とも言うべき、 聖譚曲 ( オラトリオ )「創造」を作ったハイドンの信仰は、この 敬虔 ( けいけん )な両親の 賜物 ( たまもの )であったと言われている。 少年ハイドンの楽才はモーツァルトのように 奇蹟的 ( きせきてき )ではなかったが、かなり早くから 芽生 ( めば )え、六歳のとき早くも遠縁の音楽家フランクの家庭に託されて、基礎的な教育を受け、「食物よりは 鞭 ( むち )の方を余計 貰 ( もら )った」にしても、後年の偉大なるハイドンを築き上げる 素地 ( そち )を作ったのである。 ウィーンの教会のボーイ・ソプラノに編入されたのは八歳のときで、しばらくは作曲家ロイターの監督の下に音楽の修業を積んだ。 マリア・テレジアの別荘に合唱団の一員として伺候し、精一杯の茶目振りを発揮して、マリア・テレジアに「あのブロンドの 大頭 ( おおあたま )」と指摘され、鞭のお仕置を受けたことなどもあった。 それから春風秋雨四十何年、エステルハツィ城で老女王マリア・テレジアに謁見したとき、楽聖ハイドンはこのことを申し上げて、共に大笑いをしたということである。 一七四九年、声変りがして教会の合唱隊から追い出され、十八歳の少年が着のみ着のままで街に 彷徨 ( ほうこう )しなければならなかった。 飢えと寒さにさいなまれながら、町のベンチで一夜を明かしたり、友人に見出されて、その貧しい家庭に居候をしたこともあった。 両親はそれを聴いて心を傷めたが、貧しい車大工の手ではどうすることも出来ず、「牧師になって困惑を切り抜けるように」と勧めるほかはなかった。 だがハイドンは、腹一杯食いたさの 奴隷的 ( どれいてき )な欲求にかられながらも、さすがにそのために牧師になる気にはなれなかった。 ハイドンは流浪のある日、教会の合唱団長に採用を拒絶されてしまったので、人知れずその合唱団の中に 交 ( まじ )り、いざ独唱というとき、独唱者の手から楽譜を奪い取って、朗々と歌い出したことがある。 腹はひどく減っていたが、正確で声もよかったし、表情たっぷりでもあった。 指揮者も合唱者達も非常に驚いたが、その巧みな独唱に圧倒されて心からの 賞讃 ( しょうさん )を送り、お陰様でハイドンは、ひさしぶりの 御馳走 ( ごちそう )にありついて、たらふく詰めこむことができた。 その 頃 ( ころ ) 組紐業 ( くみひもぎょう )のブルフホルツという人が、ハイドンの窮乏を 憐 ( あわれ )んで百五十フロリン貸してくれたが、後年ハイドンはその恩に 酬 ( むく )いるために、遺言状で指定してブルフホルツの孫娘に遺産をわけてやった。 ハイドンは音楽家としては、珍しく幸福な人であった。 友人に愛され、才能に恵まれ、生活も豊かに、長命をした上に、一つの職業を失えば、必ず次の職業が用意され、その名声は階段的に、次第次第に積み重ねられていったのである。 その性格と 耳疾 ( じしつ )の故に一生悩み続けたベートーヴェンや、その天才の故に不幸だったモーツァルトやシューベルトに比べて、なんという大きな違いであろう。 そのハイドンにも、生涯にたった二つの不幸はあった。 その一つは夫人が有名な じゃじゃ馬であったことと、青年時代に 嘗 ( な )めた、たった一度の失職苦である。 しかし、その苦労も決して長くは続かなかった。 作曲家ボルボラの助手として作曲にいそしみ、二十六歳の頃は、モルツィン伯の 礼拝堂 ( らいはいどう )の音楽長として、最初の交響曲を作曲していた。 二十八歳の時、ハイドンはマリア・アンナ・アロイジア・アッポロニアと結婚した。 それはハイドンにとっては、一生の不作を背負い込む不幸であった。 最初ハイドンはマリアの妹娘を恋したが、妹娘はハイドンの愛に 酬 ( むく )いずに僧院に入ってしまったので、小説的ないきがかりで、愛してもいない、三歳年上の姉のマリアと結婚したのである。 夫人のマリアは 頑迷 ( がんめい )で虚栄心が強くて、芸術などには全く理解がなく、夫のハイドンをして「彼女にとって、夫が靴屋であろうと芸術家であろうと同じことだ」と 嘆声 ( たんせい )を 漏 ( もら )さしめたが、人のいいハイドンは、四十年間この不愉快な婦人の 傍 ( そば )にじっと 辛抱 ( しんぼう )して変らなかった。 翌年ハイドンはアイゼンシュタットのエステルハツィ 侯 ( こう )に招かれて、礼拝堂の第二音楽長になり、その半生を託した地位におかれた。 翌一七六二年侯が死んで、弟ニコラウスが継いだが、このニコラウスは 派手 ( はで )で、 寛達 ( かんたつ )で、音楽好きで、心からハイドンを抱擁し、次第にその地位を引き上げて、間もなく第一音楽長として、三十年間の生活の根をそこに 据 ( す )えさせてしまった人である。 ハンガリーにおける三十年間の生活は、ハイドンをしてウィーンの中央楽壇に遠ざからしめたが、その代り生活は安定し、作品は印刷され、その名声はきわめて徐々にではあったが、次第に全欧に広まっていった。 この 隠遁的 ( いんとんてき )な安住の地位に対する、ハイドンの悩みは、時々イタリーに飛んで行きたい熱望となったにしても、ニコラウス侯の優遇はそれを拒んで、ついウカウカと三十年の歳月は過ぎてしまったのである。 エステルハツィの宮殿は、善尽し美尽したものであり、その楽員達はこの上もなく優遇されたが、ただ宮廷の規則がやかましかったために、楽員達は容易にお暇が貰えず、訪ねて来る家族も一昼夜以上は留め置くことが出来なかった。 ハイドンはこの楽員の 淋 ( さび )しさと悩みを訴えるために、有名な「 告別交響曲 ( アブシート・シンフォニー )」を作ったと言われている。 曲は第四楽章の 終曲 ( フィナーレ )に入ると、自分のパートのなくなった楽員は、一人ずつ、一人ずつ、譜面台の前の 蝋燭 ( ろうそく )を消してステージから去り、最後に第一ヴァイオリンが二人と指揮者だけが残って、 哀 ( あわ )れ深い曲を終るのである。 ステージの淋しさは気も 滅入 ( めい )るばかりであった。 聡明 ( そうめい )なエステルハツィ侯はハイドンの 諷諌 ( ふうかん )の意を悟って、楽員に暇をやったことは言うまでもない。 ハイドンの 悪戯 ( いたずら )っ 気 ( け )は、マリア・テレジアにお 仕置 ( しおき )されて以来、死ぬまで続いた。 諧謔好 ( かいぎゃくず )きで、陽気で、邪念のないハイドンは、子供好きで有名でもあった。 街を歩くと、大勢の子供達はハイドンの後からついて来て離れなかった。 ある日ハイドンは、町の 玩具屋 ( おもちゃや )へ行ってあらゆる 鳴物 ( なりもの )の玩具を求め、それを自分の楽員達に配って、新作の交響曲を演奏させた。 楽員達が 仰天 ( ぎょうてん )したのも無理のないことであった。 真物 ( ほんもの )の楽器はヴァイオリンと一 挺 ( ちょう )のコントラ・バスだけ、あとはデンデン 太鼓 ( だいこ )に、 鳩笛 ( はとぶえ )に、ガラガラといった 玩具 ( おもちゃ )ばかり、しかもその効果は想像以上にすばらしく、童心に通う前人未発の見事な芸術であったのである。 今日に残るハイドンの「 玩具交響曲 ( トイ・シンフォニー )」がそれである。 一七九〇年ニコラウス侯が死んで、ハイドンは二千フロリンの年金を約束されてエステルハツィ城から解雇された。 一七六一年から実に三十年、ハイドンは五十九歳で始めて自由になったのである。 俗に、「剃刀四重奏曲」というのがそれである。 こんな関係から、ハイドンはサロモンの勧誘を入れてロンドン行を決心し、一七九〇年の暮、ウィーンを出発して翌年正月ロンドンに 初見参 ( はつけんざん )をした。 ロンドンの歓迎は全く想像以上であった。 ハイドンはオクスフォード大学から贈られた博士号のお礼に、「オクスフォード交響曲」を作って指揮したりした。 翌年ハイドンは栄誉と名声とを 担 ( にな )ってウィーンの新居に帰ったが、イギリスでつけた 箔 ( はく )がウィーンにまで重大な影響を及ぼし、ウィーンの人達はこの時あわてて、「我らの大作曲家のロンドンで作曲した交響曲を聴こう」とひしめいた。 一七九四年、六十三歳のハイドンは再びロンドンを訪ねた。 エステルハツィの地方的存在にしかすぎなかったハイドンは、今は世界的の名声と人気を背負って、 颯爽 ( さっそう )として舞台に立ったのである。 そこで六つの交響曲が作曲され、「軍隊交響曲」その他が指揮された。 ハイドンがサロモンの望みによって作曲した「サロモン・セット」一連の交響曲には、非常な傑作があり、老来 益々 ( ますます ) 旺 ( さか )んなハイドンの、全才能の大燃焼とも言うべき感がある。 わけてもサロモン・セット三番目の「ト長調の交響曲」は一に「 驚愕交響曲 ( サープライズ・シンフォニー )」とも呼ばれ、ハイドンの無邪気な逸話を伝えている。 当時の演奏会のプログラムは、今日のそれに幾倍する恐ろしいもので、 貴顕淑女達 ( きけんしゅくじょたち )が、曲の半ばについうつらうつらと 居睡 ( いねむ )りすることが普通であった。 ハイドンは、この交響曲の第二楽章の眠りを誘うアンダンテの途中で、いきなりドカンと全管弦のフォルテで聴衆の眠りを驚かして喜んだのであると伝えられる。 今日の常識から見れば、決して驚くほどの変化ではないが、たまたまもって十八世紀末のイギリスの宮廷の 長閑 ( のどか )な空気が 偲 ( しの )ばれて面白い。 二度目のロンドン行のとき、サロモンから得た二つの 聖譚曲 ( オラトリオ )の歌詞と、ヘンデルの「 救世主 ( メシア )」を聴いたときの感激は、ハイドンをして一代の名篇「創造」を作らせる原因になった。 ヘンデルの「 救世主 ( メシア )」に対してハイドンは涙を流して、「ヘンデルは最大の音楽家だ」と言ったと伝えられている。 正直で善良なハイドンの魂が、ヘンデルに鼓舞されて、最後の大飛躍を 遂 ( と )げたことは想像に難くない。 ロンドンから帰ると、サロモンから受け取ったミルトンの「 失楽園 ( パラダイス・ロスト )」から編集した歌詞に手を加えて独訳させ、 畢生 ( ひっせい )の情熱を傾注してその作曲にとりかかった。 「この曲を作っている時ほど、自分は敬神的であったことはない」と言った、ハイドンの言葉はもっともなことである。 この 聖譚曲 ( オラトリオ )の 敬虔雄麗 ( けいけんゆうれい )な美しさは、古今、ヘンデルの「 救世主 ( メシア )」と比較されるだけで、幾多の人の心の 糧 ( かて )となったかわからないのである。 続いて「四季」と「七つの言葉」が作曲され、音楽家としてのハイドンの労作は終った。 長い 隠棲 ( いんせい )の後一八〇八年、七十七歳のハイドンは、自作「創造」の演奏に臨んだ。 老大作曲家の最後の思い出だったのである。 肱掛椅子 ( ひじかけいす )のまま会場に運ばれたハイドンは、演奏の進行と共に、次第に 昂奮 ( こうふん )が加わり、「そこに光ぞ現れける」の一節に至ると、感激のあまり立ち上って天の一角を指し、「 彼方 ( かなた )より」と絶叫して人事不省に陥った。 その後病床に親しんだハイドンは、翌一八〇九年五月、フランス軍がウィーンに侵入してハイドンの家近く 砲丸 ( たま )が落ちて来たとき、起き上って 着物 ( きもの )を 換 ( か )えさせ、驚き騒ぐ家人達に、「恐れることはない。 ここにハイドンがいる限り、何事も起る 気遣 ( きづか )いはない」と言いながら、ピアノの前へ行って、自作のオーストリア国歌を三度繰り返して弾いた。 ハイドンの作ったオーストリアの国歌は世界の数ある国歌のうちでも、芸術的な美しい国歌として有名である。 ハイドンの自信の通り、侵入して来たフランスの軍隊は、ハイドンの家へはどうもしないばかりでなく、フランスの士官達はわざわざ老ハイドンを訪ねて敬意を表した。 ハイドンはバッハが「 馬太伝 ( マタイでん )受難楽」を作った年に生まれ、ベートーヴェンが「田園交響曲」を完成した年に死んだ。 まさにこの二つの曲が暗示するように、バッハの対位法的な古典とベートーヴェンの情熱的なロマン派の音楽を 繋 ( つな )ぐ人だったのである。 ハイドンは旋律家であると共に、ソナタ形式の完成者で、同時にケルビーニの後を受けて、弦楽四重奏曲の基礎的な形を整え、バッハの子供達の仕事を 承 ( う )けて、近代音楽の最高形式なる、 交響曲 ( シンフォニー )の四楽章形式を定めた最初の人である。 ハイドンなくしては、モーツァルトもベートーヴェンも、今日あるが如き形では存在しなかったであろう。 ハイドンは、古典音楽の最後の巨人であるが、同時に、近代音楽のスタートを開いた人でもあり、その功績は 夥 ( おびただ )しい作品と共に百代の後までも伝えられるであろう。 彼の作曲は、均整美と明朗性が特色で、主観に 溺 ( おぼ )れるようなことはかつてなく、安らかさと明るさが全曲を支配している。 おそらくハイドンの人間としての良さが、その作品の上に反映するのであろう。 代表作は 聖譚曲 ( オラトリオ )「創造」「四季」、それに百に余るシンフォニーのうちから「 驚愕 ( サープライズ )」「軍隊」「 告別 ( アブシート )」「オクスフォード」などが挙げられるだろう。 弦楽四重奏曲は、ハイドン独特の境地で、七十七曲のうちから「セレナーデ」(作品三ノ五)「皇帝」「 雲雀 ( ひばり )」その他十数曲を挙げられるだろう。 座右に置いて、生活の慰安に鼓舞に、ハイドンの音楽ほど 恰好 ( かっこう )なものはない。 誰にでも、なんの 躊躇 ( ちゅうちょ )もなくすすめられるのがハイドンの音楽であるとも言えるだろう。 [#改ページ] ハイドンのレコードは、バッハの三分の一、ヘンデルの三倍くらいの数であろう。 ハイドンの音楽はその穏雅平明さの 故 ( ゆえ )に、閑居に慰安に、 瞑想 ( めいそう )に 団欒 ( だんらん )に、最もよき伴奏を勤めてくれるに違いない。 万人に愛せられることが、パパ・ハイドンの音楽の良さであると言うべきである。 ハイドンの 夥 ( おびただ )しいシンフォニーの中から、最も有名な「 驚愕 ( サープライズ )シンフォニー」を選ぶとしてクーセヴィツキーと、ブレッヒと、ホレンシュタインといずれを 採 ( と )るべきか 甚 ( はなは )だむずかしい。 新しい吹込みは演奏が気に入らず、演奏のやや良きものは吹込みがあまりに古い。 これらの一つ一つは名盤にかぞえられるもので、ハイドンの良さを満喫させるであろう。 その他に私は、パパ・ハイドンの 真面目 ( しんめんぼく )を発揮するものとして「 玩具 ( トイ )シンフォニー」を挙げておきたい。 たった一枚両面のレコードだが、街へ行って 玩具 ( おもちゃ )の鳴物を買い集め、驚き 呆 ( あき )れる楽員に演奏させたという、ハイドンの茶目気分が 横溢 ( おういつ )して楽しいことである。 コロムビアに入っている、ワインガルトナー指揮のレコードが最も長い(J七九八二)。 弦楽四重奏曲の形式を整え、幾十曲の名作を 遺 ( のこ )して、後世のために室内楽の宝庫を打ち建てたハイドンの功績は大きい。 H・M・Vのプロ・アルテ四重奏団はハイドン・ソサエティの名の下に、ハイドンの弦楽四重奏曲をかたっぱしからレコードし、六枚ずつ七集まで発売され、日本ビクターは第三巻から第七巻まで出しているが、プロ・アルテの冷たい演奏に、多少の反対者はあるにしても、この業績は尊敬しなければならぬ。 ことにハイドンの如き古典の 精粋 ( せいすい )とも言うべき弦楽四重奏曲を、あまりにも甘美にセンチメンタルに演奏することは避けるべきで、私はむしろプロ・アルテの 素気 ( そっけ )なさに賛意を持つ場合の方が多いのである。 この第一楽章に示された高雅な雲雀の歌の美しさは、春の 野辺 ( のべ )の 麗 ( うらら )かさを 彷彿 ( ほうふつ )させるもので、今は亡きカペエの傑作レコードの一つである。 それはしかし、ハイドン・ソサエティ第四巻のプロ・アルテといずれをいずれとも言い難い。 世界最高の芸術的な団体というと、カサルス(チェロ)、ティボー(ヴァイオリン)、コルトー(ピアノ)の組合せに成るカサルス・トリオを挙げなければなるまい。 そのおのおのの芸術家が第一流人中の一流人であるばかりでなく、カサルスを盟主とする、この三巨匠の有機的な結合は、比類のない芸術的表現を持っているからである。 不思議と言ってもよいことは、ハイドン一代の傑作、聖譚曲「天地創造」と「四季」のレコードの少ないことである。 ビクターに前者が一枚(JB五四)、後者が一枚(C二三八三)、コロムビアにも「創造」が一面あったが、これではいかにも心細い。 この後しばらくは全曲入る見込もあるまいから、せめて 先頃 ( さきごろ ) 新響 ( しんきょう )の演奏した「四季」でも入れておいてもらいたかったと思う。 [#改丁] [#ページの左右中央] [#改ページ] 「モーツァルトは音楽によって世界を征服した」と、ロマン・ローランは言っている。 この言葉は一応 奇矯 ( ききょう )に聞こえるが、静かに考えると、非常に 含蓄 ( がんちく )の深い、適切無比な形容詞であることに気がつくだろう。 考えようによっては、ベートーヴェンも、音楽によって世界を征服したと言えるかも知れない。 しかし、ベートーヴェンの征服は、力ずくであり、侵略的であり、帝国主義的である。 ベートーヴェンの音楽は美しく強大ではあるが、世界の 隅々 ( すみずみ )には、いつの世にも、少なからざる「ベートーヴェン嫌い」のあることを無視するわけにはいかない。 そこへいくと、モーツァルトの音楽は、大地を潤す春雨の如く、なんの障害も抵抗もなく、世界の人の心に、しみじみと受け入れられ、モーツァルトにその意志が毛頭なかったにしても、一世紀半にわたって、音楽的に世界を征服していったのである。 この世の中の芸術的作品は数限りもなく、その種類も 夥 ( おびただ )しいことであるが、少なくとも人間の手で作られたものの内で音楽の分野においては、モーツァルトの作品ほど美しいものは断じてあり得ない。 音楽はきわめて官能的な芸術で、鑑賞者の 好悪 ( こうお )に支配されることの大きいものであるが、それにもかかわらず、私はかつてモーツァルトの音楽を嫌いだと公言し得る人間のあることを知らないほどである。 モーツァルトの美しさは、なんに例えたものであろう。 それは真に 玲瓏 ( れいろう )たる美しさであり、邪念のない愛情と光明とに満ち 溢 ( あふ )れた美しさである。 モーツァルトの音楽はきわめてヨーロッパ的であり、同時に、古典音楽の最後の人らしい、 絢爛 ( けんらん ) 無比 ( むひ )なものである。 モーツァルトの音楽は美の 大氾濫 ( だいはんらん )であったと同時に、冷たい 焔 ( ほのお )のような不思議な 気魄 ( きはく )を持ったものである。 モーツァルトは決して健康な肉体の所有者ではなかったが、その音楽は「健康そのもの」であったとも言われている。 美しくて健康で、その上「 人懐 ( ひとなつ )かしさ」に燃えているモーツァルトの音楽が、直ちにもって、家庭の音楽であることは言うまでもない。 この古典音楽の最後の巨人の作品と、音楽的傾向を語るために、私はしばらくモーツァルトの数奇なる伝記を振り返って見ようと思う。 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト( Wolfgang Amadeus Mozart)は一七五六年一月二十七日、オーストリアのザルツブルクに生まれた。 父のレオポルトは音楽家で野心的で、その娘ナンネル(マリア・アンナ)と、ナンネルの弟ヴォルフガングを、天才少女少年に仕立てる術を心得ていたのである。 父親の教育はきわめて巧妙であったらしく、サーカスの獣を馴らす 鞭 ( むち )の方法にさえ例えられているが、幸いにしてモーツァルト姉弟は、全欧のジャーナリズムにやんやと持て 囃 ( はや )される天才児になったばかりでなく、弟のヴォルフガングは、その驚くべき天才の芽生えを少しも傷つけることなく、生涯音楽に対する情熱を持ち続ける 素地 ( したじ )を作ることが出来たのである。 モーツァルトの天才は、早熟な大音楽家達の間にも、全くズバ抜けたものであった。 後世音楽の部門において、天才と言えば、必ずモーツァルトを例に引き出すのも決して無理のないことである。 例えば、五歳の年上なる姉のナンネルの 稽古 ( けいこ )を見て、ピアノを鳴らすことに興味を持ったのは、彼がわずかに三歳の時であったと言われている。 四歳の時には、一度聴いた曲を、何の間違いもなく弾いたうえ、姉の五線紙の上に、自作の「メヌエット」を書いて人を驚かせ、六歳の時は「コンチェルト」を書き、七歳で最初の「ソナタ」を発表し、父の友人のヴァイオリンを弾き 試 ( こころ )みて、「おじさんのヴァイオリンは、僕のより八分の一音だけ低くなっていますよ」と注意し、大人達が試みに比べてみて、まさにその通りであったという超神童的な逸話が伝えられている。 十一歳で 聖譚曲 ( オラトリオ )を書き、十二歳で 歌劇 ( オペラ )を作曲し、十四歳で 交響曲 ( シンフォニー )を作った早熟のモーツァルトは、数学には熱中することが出来たが、少年らしい遊戯に対しては、少しも興味を持たなかった。 モーツァルトの少年時代を知っている音楽家アンドレ・シャハトナアは、その頃のモーツァルトについて、「彼は全身これ火であった。 そして万事に興味を抱いた。 もし教育が悪かったならば、手におえない悪漢となったであろう」と言っている。 幸いにして、危険な 凝 ( こ )り性の性格の一面に善良で慈悲深い性格を持ち、絶えず人から愛されることを要求するモーツァルトでもあった。 彼は、自分を愛してくれる者には、誰にでも容易になついた。 そして一度友人になった者を生涯見棄てないという美しい徳を持っていた。 幼年の頃のモーツァルトが、自分を愛しているかどうかを、一日に十 遍 ( ぺん )も人に尋ね、愛していると聴いてニコニコし、冗談にもしろ愛していないと言われると、涙を浮べて悲しんだという小さい逸話がたまたまモーツァルトの一生涯を支配した「正直さ」と「愛に対する餓え」であったと言うべきである。 十一歳の姉ナンネルと、六歳の弟ヴォルフガングは一時ヨーロッパの好話題になった。 演奏旅行は九回にわたり、 姉弟 ( きょうだい )の人気はいやが上にも高まるばかりであったが、この旅行のためにモーツァルトの健康は一生涯 害 ( そこ )なわれたことも事実である。 その頃のモーツァルトのおもかげについて、大詩人ゲーテは後年、「私よりも七つ歳下のモーツァルトを見た。 少年モーツァルトの無邪気ぶりは 微笑 ( はほえ )ましい。 ある時はシェーンブルン宮殿の床に 滑 ( すべ )って、小さい公女に助け起され、「あなた親切ね。 十三歳の時ローマのシスティン教会で、合唱隊が門外不出の秘曲「ミゼレーレ」を歌うのを聴いた時、モーツァルトは宿へ帰って来てそっくりそのまま暗記で書き、二度目には、ほんの少しばかり訂正しただけで、完全に秘曲を写譜してしまった。 法王はそれを聴いておおいに驚いたが、モーツァルトを罰する代りに、迎えて 勲爵士 ( くんしゃくし )に列したと言われている。 モーツァルトの天才ぶりの鮮やさは後にも先にも類がない。 三十五年の短い生涯の間に、二十一曲の 歌劇 ( オペラ )、四十一曲の 交響曲 ( シンフォニー )、五十八の教会音楽、七十余の管弦楽曲、四十に余る室内楽、九十八のピアノ曲、四十二のヴァイオリン・ソナタ、二十二のピアノ・ソナタ等々実に一千にのぼる曲を書いている。 不断の楽想は泉の如く 湧 ( わ )いて、 咳唾 ( がいだ )ことごとく 珠 ( たま )の感であった。 古今、真の天才というものを求めたならば、音楽界においては、モーツァルトとシューベルトと、それからショパンを推さなければなるまい。 バッハやベートーヴェンやワグナーは、単なる天才ではなく、むしろ英雄的な存在で、築き上げられた巨人型であると言うべきである。 この 不世出 ( ふせいしゅつ )の天才を持ちながら、モーツァルトの生涯はあまりにも不遇であった。 十七歳のとき旅から帰って、イタリーからフランスへと真剣な音楽の勉強を続け、故郷ザルツブルクの大僧正に仕えたが、大僧正の没後、この後継者の無理解に腹を据え兼ね、自暴自棄の 振舞 ( ふるまい )があって職を奪われ、それから三十五歳でこの世を去るまで、モーツァルトには、職業らしい職業さえ与えるものがなかったのである。 抜目 ( ぬけめ )なくモーツァルトを働かせた父親に対して、モーツァルトは誠に「よき子」であったが、ザルツブルクを去った時と、二十七歳で結婚した時だけは、父親母親、姉達の猛烈な反対を受けなければならなかった。 夫人コンスタンツェはモーツァルトの初恋アロイジア・ウェーバーの妹で、ウィーンの踊り子であったが単にモーツァルトの愛情の浪費の対象であったにすぎず、あまりに無知で、夫モーツァルトに対して、理解も尊敬も払ってはいなかった。 モーツァルトの死後、天下 翕然 ( きゅうぜん )としてモーツァルトを惜しみ、旧居を 訪 ( と )う 憧憬者 ( しょうけいしゃ )の多いのに驚いて、始めて自分が十年 同棲 ( どうせい )した夫が、不世出の大天才であったことを「わずかに悟った」にすぎなかったと言われている。 コンスタンツエは経済観念というものを持たなかった。 モーツァルトもその点においてはコンスタンツェに劣るものではない。 二人は石炭のない冬の夜を、踊りあかして辛くも寒さを 紛 ( まぎ )らせることさえあった。 モーツァルトはしばしば窮乏のドン底に追いやられ、音楽時計のためにアダジオを書き、数フロリンの金のためにソナタを書いた。 そして、「俺は金が欲しいから作曲する。 食わなきゃならないからな」と 自暴 ( やけ )なことを言ったりした。 その疾苦のうちに 沈湎 ( ちんめん )しながらも、モーツァルトは、妻のコンスタンツェと友人達を愛し続けた。 「最も真実な友は貧しい人達だ。 ベートーヴェンは「金のために書かない」と豪語し、モーツァルトは「金が欲しいから書く」と言った。 その言葉は全く正反対で、ベートーヴェンの 潔 ( いさぎ )よさに比べて、モーツァルトの心事を疑うものがあるかも知れない。 が、それは大変な間違いである。 後世の批評者達はベートーヴェンにはやや虚勢と見得があり、モーツァルトには、偽悪的な自暴な調子があることを 洞察 ( どうさつ )しなければならない。 モーツァルトの邪念のない 玲瓏 ( れいろう )たる音楽を聴いて、誰がいったいモーツァルトが金のために書いたと思う者があるだろう。 あの 聖 ( きよ )らかな美しい音楽は、決して金のためなどを考える卑しい動機から生れ出る性質のものではない。 貧苦と不遇のうちに、モーツァルトの芸術を救ったものは、実に彼の強大なる自尊心であった。 少年時代のモーツァルトが、「愛されること」を望んだのも自尊心の現れであり、青年時代にザルツブルクの卑しい地位に我慢の出来なかったのもまた自尊心の発露である。 彼の心は小児の如く純粋で、いささかの妥協も、卑怯な譲歩も考えることが出来なかった。 これは一応自慢らしく聞こえるが、実は甚だ 謙遜 ( けんそん )した言葉であると言っても差しつかえはない。 百五十年後の今日から見ればモーツァルトのような天才は、百年に一人どころか、千年に一人も生まれそうにないのである。 「君達は生れ変っても僕のようになれっこはないよ。 「 従僕 ( じゅうぼく )にしろ伯爵にしろ僕を侮辱したが最後、 賎民 ( せんみん )だ」これもモーツァルトの自尊心の爆発した言葉であった。 さる公爵に招かれた時、 饗宴 ( きょうえん )の席から 除 ( の )け者にされたモーツァルトが 雇人達 ( やといにんたち )と一緒に食事をさせられて、「雇人扱いにされた」という屈辱感と激怒のため酔っ払いのように 蹌踉 ( そうろう )として帰り、翌る日もまだ平静な心持になれなかったとさえ伝えられている。 ベートーヴェンも強大な自尊心の持主であった。 この自尊心はしばしば芸術家に共通する性格で、その高貴なる作品を生み出すために、きわめて重要な資格であったのかも知れない。 モーツァルトの音楽が、いかなる大衆にもそのまま受け入れられるにもかかわらず、その高貴なる冷美さを失わないのは、低俗な趣味に 阿 ( おもね )りきれない、絶大な自尊心があったためではなかったであろうか。 モーツァルトはこうしてその珠玉の作品を書いた。 その日常は陽気であったし、いつでも笑いたい衝動に駆られている様子であったが、死期の近づくにつれて、作品は次第に暗さを加え、何がなし、宿命的な恐怖が背に迫るものがあった。 後期の室内楽、ト短調の 交響曲 ( シンフォニー )などはその例である。 モーツァルトの健康は著しく衰えていったが、劇場主は 耽溺 ( たんでき )生活へ 引摺 ( ひきず )り込んで、明るく愉快な作品を書かせることに専念し、妻のコンスタンツェはまた、子供と一緒に転地して夫のモーツァルトに限りなき浪費の財源を要求してやまなかった。 ある夏の日、灰色の服装をした背の高い厳粛な男がモーツァルトを訪ね、一曲の 鎮魂曲 ( レクイエム )(死者の霊を 弔 ( とむら )う曲)を依頼して、 夥 ( おびただ )しい謝礼を約束した。 それは地獄の使いのように無気味な男で、注文主の名さえ言わなかったが、金の欲しさに他を 顧 ( かえり )みる 暇 ( いとま )のないモーツァルトは、その注文を引き受けて一世一代の 鎮魂曲 ( レクイエム )の作曲にとりかかった。 健康が次第に悪くなると共に、モーツァルトは、地獄の使いと約束して、「自分のために葬式の音楽を作っているのだ」という強迫観念に 囚 ( とら )えられるようになった。 それにもかかわらず、 鎮魂曲 ( レクイエム )に熱中したモーツァルトは、わずかにその第二曲までと、以下四分の三のノートを完成したのみで、一七九一年十二月五日の暁、 顛倒 ( てんとう )してなすことを知らぬコンスタンツェを後に 遺 ( のこ )して死んでしまった。 死後、 鎮魂曲 ( レクイエム )はフランベルク伯爵が自分の名で夫人の死を 悼 ( いた )む鎮魂曲を発表するため、 家扶 ( かふ )を 遣 ( つかわ )してモーツァルトに代作を依頼したのだと解ったが、それはしかし後の祭であった。 翌日モーツァルトの 遺骸 ( いがい )は共同墓地に葬られたが、荒れ狂う風雨に恐れて、 柩 ( ひつぎ )を送ったわずかばかりの友人達も、町の城門から帰ってしまい、二人の人足が彼らの哀れな仕事を風雨の中に続けた。 モーツァルトの墓には、花も墓石も、十字架さえもなく、貧民よりもひどい取扱いでしばらくはどこにモーツァルトが葬られたかさえ判らなかったと言われている。 が、モーツァルトの一千に上る作品は、天にそそり立つ大記念碑として、すべての人の前に 巍然 ( ぎぜん )として立っているではないか。 百五十年を隔てた今日、モーツァルトの 葬 ( とむら )いの貧しさを 嘆 ( なげ )く人がどこにあろう。 モーツァルトほど愛せられ、親しまれる音楽家は、たった一人もこの世界には生まれなかったのである。 モーツァルトの音楽は、古典音楽の絶頂におかれたもので、その形式美の 絢爛 ( けんらん )たる点においては 何人 ( なんびと )も及ぶところではない。 清澄 ( せいちょう )で、明朗で、光輝と愛情に恵まれ、 豊醇優麗 ( ほうじゅんゆうれい )を極めるのがモーツァルトの音楽の特色であると言ってもよい。 晩年の作品に一脈の暗さを加え、意志的なもの、または燃焼的なものを感じさせるのは、ベートーヴェンの出現に対して、予言的な役目を勤めるものと言っても差しつかえはない。 傑作は最後の三つの 交響曲 ( シンフォニー )(三十九番変ホ長調、四十番ト短調、四十一番「ジュピター」)、歌劇「魔笛」「フィガロの結婚」並びに 夥 ( おびただ )しい室内楽で、わけても最後の三つの 交響曲 ( シンフォニー )は、 僅々 ( きんきん )六週間で作曲したという、超人的な逸話をさえ残している。 モーツァルトの全貌を知らんとするには、それらの傑作を 玩味 ( がんみ )すべきものであるが、単に一般家庭人が、モーツァルトの美しさ、愛らしさ、 燦然 ( さんぜん )たる天才の 片鱗 ( へんりん )を知らんとするためには、子守唄の一曲、トルコ行進曲の一曲、ないし 小夜曲 ( セレナーデ )の一曲を味わうだけでも充分だろう。 それはまことに、人生を楽しくする音楽である。 光輝と愉悦に満ちた音楽である。 三十五歳で不遇のうちに死んだモーツァルトの遺産が、なんと後世の生活を 豊饒 ( ほうじょう )にし、張り合いのあるものにしたことであろうか。 [#改ページ] モーツァルトの 玲瓏 ( れいろう )たる音楽は、人類への大きな恩恵の一つである。 モーツァルトはいかなる場所、いかなる時にも、われわれの光明であり 慰藉 ( いしゃ )であるだろう。 飛行隊の軍人達が、激しい練習や実戦に疲れ、ヘトヘトになって基地に帰ったとき、一番先に蓄音機に飛びついて聴くのは、モーツァルトの音楽であるという記事を読んだことがある。 さもありそうなことであると思う。 日々の労苦を 犒 ( ねぎら )う音楽として、モーツァルトの作品以上のものはあり得ない。 それはサロンやステージのものであるよりも、炉辺に休憩室にある方がふさわしく、そしてより多く人類に役立つことであろう。 光輝と魅力と、美しきと愛らしさを 撒 ( ま )き散らすモーツァルトの音楽こそは、我らの生活に最も深き縁故を持つものと言うべきである。 モーツァルトのシンフォニーのレコードは、まず最後の三大傑作「ジュピター」と「ト短調」と「変ホ長調」の三つを用意しなければなるまい。 これこそ本当にジュピター的威容と、美しきを兼ね備えたものと言えるだろう。 わけても後者は、ウィーン・フィルハーモニー管弦団を指揮したもので、ワルターのレコード中でも傑作に属し、豊かな情緒と洗練された美しさを持ち、 優婉瑰麗 ( ゆうえんかいれい )を極めたものである。 モーツァルトには「ヴァイオリン協奏曲」だけでも幾組のレコードがあるかわからない。 第三番の「ヴァイオリン協奏曲ト長調K二一六」はメニューインとフーベルマンのがあるが前者のビクター盤はモーツァルトの甘美さに乏しく、後者のコロムビア盤は透明な端正さを欠くかも知れない。 第四番の「ヴァイオリン協奏曲ニ長調K二一八」はシゲティーとクライスラーがふた通りある。 前者のコロムビア盤は暗くて、モーツァルトらしい爽快さに乏しく、後者の新しいビクター盤は老境の枯淡味が救い難いまでに行き過ぎている。 クライスラーには電気以前の吹込みでこの曲の名盤があったが、今は手に入れる見込もない。 第五番の「ヴァイオリン協奏曲(トルコ風)イ長調K二一九」はヴォルフシュタールとハイフェッツとダーメンとある。 その技巧は冷たいまでに冴えて、人間離れのするほど美しい。 第六番の「ヴァイオリン協奏曲変ホ長調K二六八」はティボーとデュボアのがある。 第七番の「ヴァイオリン協奏曲ニ長調」はビクターにメニューインのがある。 ほかにモーツァルト十歳の時の作品という「ヴァイオリン協奏曲(アデライデ)ニ長調」をメニューインのひいたのもある。 重要性はなくとも充分に可愛らしい曲ではある。 「ピアノ協奏曲」は 夥 ( おびただ )しいレコードがあるが、そのうちからきわめて傑出した二、三を挙げるに止めたい。 「ピアノ協奏曲第九番変ホ長調K二七一」は甘美な若々しい曲で、ギーゼキングのは胸の 透 ( す )く演奏である。 プロフェッサーらしい 生真面目 ( きまじめ )な演奏だが、端正でいかにも美しい。 亡くなった小ニキシュの同じ曲もあるが、形見という以上に重要性はない。 「ピアノ協奏曲(戴冠式)第二六番ニ長調K五三七」は、クラヴサンのランドフスカ夫人が、女流ピアニストとしても第一流であることが証拠立てられる。 最後に「ピアノ協奏曲第二七番変ロ長調K五九五」はシュナーベルが弾いている。 曲もモーツァルトの晩年を特色づける深味がある。 演奏は一風変ったもので、シュナーベルのモーツァルトを聴く興味である。 モーツァルトの美しい「フリュート協奏曲」が三つレコードされている。 「フリュート協奏曲第一番ト長調K三一三」も美しいが、同じく名人モイーズが吹いているので、録音は古いが「フリュート協奏曲第二番ニ長調K三一四」の方が 遙 ( はる )かに面白い。 同じ曲を第二、第三楽章だけたった一枚に入れたアマディオのフリュートも、またすばらしい(ビクターJH二〇六)。 モイーズのフリュートはフランス風の堅い透明な音で、これに対してアマディオは、イタリー風の柔らかい甘い音なのも面白い比較である。 フリュートはモイーズ、ハープはラスキーヌ、二人の名人の息が揃っているうえ、この曲の 耀灼的 ( ようしゃくてき )な美しさは、この世のものとも覚えない。 天才モーツァルトの 真面目 ( しんめんぼく )はここにあると言いたいようである。 ゴールドベルク(ヴァイオリン)、クラウス(ピアノ)の組合せはかつて日本でも聴かれたが、この二人のモーツァルトは、新鮮で透明で、一種の高雅な感じを持った演奏である。 それは豪華ではなく、ステージ向きではないが、ワックスに録音して、近々と聴くためには、誠に現代人好みの良いモーツァルトであると思う。 二人の組合せのモーツァルトは、コロムビアに「ソナタ=変ロ長調K三七八」「ソナタ=ハ長調K二九六」「ソナタ=ト長調K三七九」「ソナタ=変ホ長調K四八一」とかなりたくさん入っているが、いずれも特色的な良いものである。 私は女流ヴァイオリニストのモリーニがケントネル(ピアノ)と入れた「ソナタ=変ロ長調K四五四」を愛する。 これも申し分なく良いレコードだが、親しみはかえって前者にあるだろう。 しかし親しみということは 上手 ( じょうず )という意味ではない。 演奏も録音もハイフェッツの方に充分の 勝味 ( かちみ )のあることは言うまでもない。 メニューイン 兄妹 ( きょうだい )は「ソナタ=イ長調K五二六」を入れている。 妹のピアノを引き立てるために、兄のメニューインが損をしているのはいたしかたもない。 同じ曲をポリドールのフレッシュのひいているのは、先のヘンデルのソナタと一緒にアルバムに入っているが、録音の悪さのうちから、老教授の 風貌 ( ふうぼう )が見えて面白い。 モーツァルトの簡素なピアノ・ソナタは楽しい限りだが、ここには代表的な二、三のレコードだけを掲げておく。 前者は端麗で 燦然 ( さんぜん )としている。 古典ひきの最上の風格と言ってよく、後者は重厚で熱っぽいが、一脈の親しみを感じさせる。 私はむしろフィッシャーを 採 ( と )るが、ケンプを好む人も少なくあるまい。 この新人ピアニストの古典には、古い伝統の 穀 ( から )を破った、新しいリアリズムの生命があるのであろう。 清楚 ( せいそ )なうちに情熱を盛った、不思議なモーツァルトである。 他に「ソナタ=変ロ長調」のギーゼキングがある。 この世の中に、これほど無条件な美しさを持った音楽はない。 それはハイドンの室内楽を母体として、さらに特殊の芸術境を開いたたものであるが、ハイドンとは全く異なった、もっと華麗で、もっと明朗で、そしてもっと美しい珠玉篇の驚くべき連発だったのである。 晩年の作品にはト短調のシンフォニーにおける如く、歓楽きわまって哀愁生ずるの趣はあるにしても、その美しさを 損 ( そこ )ねる性質のものではなく、かえって深い陰影を加えて、モーツァルトの境地をさらに一段と引き上げたものであったのである。 レナー四重奏団はモーツァルトを四曲入れているが、いずれも十年以上の古い吹込みで、今日論ずるのは気の毒なくらいである。 この曲はモーツァルトの四重奏曲中でも荘重なもので、レナーの繊麗な柔美さは、発売当時われわれの血を 湧 ( わ )かしたものである。 良い弦楽四重奏の演奏を聴く機会を持たなかったわれわれにとって、それは実に魔法的な美しさであったからである。 カペエ四重奏団のモーツァルトが出ることによって、レナーは 甚 ( はなは )だしくその声価を 堕 ( おと )した。 それは一見きわめて平明簡素であるが、 遍 ( あま )ねき光と、 滴 ( したた )る滋味とは、聴く者を最も高い陶酔境に導かずにはおかない。 他にプロ・アルテ、コーリッシュ、クレトリーその他の四重奏団のモーツァルトもあるが、それは以上数曲を味聴してのうえのことである。 「フリュートと弦楽のための四重奏曲イ長調K二九八」は若々しく美しい曲だ。 ルネ・ル・ロアとパスキエ三重奏団の手頃なレコードが愛好家協会の四集にある。 「ピアノと弦楽のための四重奏曲ト短調K四七八」のシュナーベルとプロ・アルテの組合せも参考に掲げておく。 五重奏曲では「弦楽五重奏曲ト短調K五一六」はモーツァルト晩年の憂愁を盛った曲で、普通ヴィオラの五重奏曲中の傑作とされている。 吹込みはプロ・アルテの方が遙かに新しい。 五重奏曲中の魅力は、「クラリネット五重奏曲イ長調K五八一」である。 ブラームスのクラリネットの五重奏曲と共に、この楽器のために作られた傑作で、その 纏綿 ( てんめん )たる美しさは比類もない。 レコードは三通り入っている。 この三つのうち、ジャズの指揮者であり、クラリネット吹きであるベニー・グッドマン即ちベンジャミン・グッドマンとブダペスト四重奏団のが評判がよく、これを激賞する人も少なくないが、古いファン達には、今でもレナーとドゥレーパーの組合せに愛着を感じ、これでなければこの曲を聴いたような気にならない人の多いことも事実である。 それはレナーの甘美な 纏綿 ( てんめん )性とドゥレーパーのクラリネットの思いのほかなるうまさによるもので、ベニー・グッドマンには、上手とは言っても、いかにもジャズ吹きらしいキメの荒さと情緒の欠乏とが免れないからであろう。 ピアノ三重奏曲が三つ四つレコードされている。 夥 ( おびただ )しい序曲やドイツ舞曲やセレナーデや、 嬉遊 ( きゆう )曲の中から、最も優れたものをいくつか挙げてみる。 「ドイツ舞曲」もたくさん入っているが、コロムビアに入っているワルター指揮の第一番から三番までの三曲だけに止めよう(J五五七七)。 嬉遊曲(ディヴェルティスマン)もきわめて愛すべきものであるが、取り立てて言うほどのレコードは記憶しない。 モーツァルトは当時の音楽家の風習に従って、歌劇の作曲に心血を注ぎ、現に「魔笛」のために死期を早めたことはモーツァルトの伝記を読むものの 傷心事 ( しょうしんじ )であるが、死後百幾十年に、これだけの全曲レコードを有することは、いささかの慰めではあるまいか。 この演奏は世界のモーツァルト歌手を集めたと言われる英国のグリンドボーンにおけるモーツァルト祭の録音で、管弦団も歌い手も、手堅い立派なものである。 フランス語の歌詞だが、きわめて練達な演奏であり、これでモーツァルトの歌劇の良さを味わえないことはない。 歌劇の一枚物のアリアはここに省略する。 モーツァルトの宗教音楽で、最も重要な作品「 鎮魂曲 ( レクイエム )」の全曲レコードが日本で手に入れる見込のないのは惜しいことである。 この全曲に近いレコードはジョーゼフ・メッツナーの指揮で、ザルツブルク・ドームの合唱団と管弦団がクリストシャルのレコードに六枚入っているが、日本には二組くらいしか来ていないはずである。 演奏は最上のものでないが、独唱者のうちに今は亡き名歌手のリヒアルト・マイヤーなどが加わっている。 コロムビアには「ミサ」と「レクイエム」のうちから、二、三枚のレコードが入っているが取り立てて言うほどのことはない。 経文歌 ( モテット )の「アレルヤ」は映画「オーケストラの少女」のディアナ・ダービンで一般に知られたが、ダービンよりはコロムビアのギンスターがうまく、ギンスターよりはH・M・Vのエリザベト・シューマンがよく、シューマンより、ビクターのオネーギンが上手で、最後にオネーギンよりも、旧盤のファーラーの方が魅力がある。 モーツァルトの歌曲は 甚 ( はなは )だ少ない。 その中での傑作はビクターに入っている、エリザベト・シューマンの「子守唄」(E五五五)であろう。 シューマンのモーツァルトは 極付 ( きわめつき )のものであるが、あの子守唄をこんなによく歌っている例を私は知らない。 清らかな声と、柔らかな愛情とがわれわれの魂までも 和 ( なご )めてくれるだろう。 「 菫 ( すみれ )」はモーツァルトの歌曲のうちでも、佳作の一つとされているが、ビクターのオネーギン(一五五六)は豊かな美しさに恵まれる。 「秘めごと」のロッテ・レーマンも上手な例の一つとして挙げなければなるまい(ビクターJE三〇)。 [#改丁] [#ページの左右中央] [#改ページ] ベートーヴェンは音楽家中の英雄であったばかりでなく、英雄中の英雄であり、ある意味においては、征服者中の征服者でもあった。 ナポレオンとベートーヴェンは、生前いろいろの因縁があり、よく比較され対照されるが、ナポレオンは生きている当時こそ「帝王の帝王」であったかも知れないが、百何十年か 経 ( た )った今となっては、功業の跡、夢の如く 亡 ( う )せて、その 事蹟 ( じせき )は、ドラゴン退治の伝説の英雄となんの選ぶところがない。 それに比べてわがベートーヴェンは、なんというすばらしい恩恵を人類に 遺 ( のこ )していったことであろう。 ベートーヴェンが死んで百十四年になるが、その作っておいた 夥 ( おびただ )しい音楽は、実演で、ラジオで、あるいはレコードで、一瞬といえども止む時なく、この 渾円球上 ( こんえんきゅうじょう )の大気を 揺 ( ゆる )がせ、十幾億の人類の慰藉となり、感激となり、光明となっているのである。 人類生活における芸術の影響は、漫然と考えたよりは 遙 ( はる )かに大きいものであるが、その中でもベートーヴェンの音楽の如く広大で、ベートーヴェンの音楽の如く強烈なものは滅多にあり得ない。 私の若い友人なる学生の一人に、ベートーヴェンの「第五シンフォニー」のレコードを求めて、繰り返し繰り返し二百回聴いたというのがある。 同じレコードを二百回、三百回と繰り返して聴くのは、決して良い趣味ではないが、とにもかくにも、ベートーヴェンの音楽の感激度の高さとその説得力の強大さには、万々心得ているように思いながら、幾度も幾度も驚きを 新 ( あらた )にするのである。 人類の歴史始まって以来、芸術の種類も数も夥しいことであるが、 未 ( いま )だ [#「 未 ( いま )だ」は底本では「 末 ( いま )だ」]かつて、ベートーヴェンの音楽に匹敵する「力」を持ったものを私は聴いたことがない。 世界いずれの国においても、音楽と言えば 即 ( すなわ )ちベートーヴェンである。 コンサートも、ラジオも、レコードも、いやしくも音楽に関するものの三分の一はベートーヴェンの名によって占められると言っても間違いではない。 この世からもしベートーヴェンの作品を取り去ったならば、気圧を取り去った空気の中に生存するように、我らは精神的の たよりなさを感じずにはいないだろう。 一七七〇年十二月ドイツのボンの町に、音楽家の血統をうけてルードヴィッヒ・ファン・ベートーヴェン( Ludwig van Beethoven)は生まれた。 父はボンの宮廷楽手で、性格が弱い上に 酒癖 ( しゅへき )があり、決して善良なる指導者ではなかった。 その一例は、わが児を天才少年に仕立ててひと 儲 ( もう )けするために、昼夜兼行の 苛酷 ( かこく )なピアノの練習を強い、危うくベートーヴェンに芽生えた音楽愛を枯らすところであったが、なんの幸いか、ベートーヴェンは、この残酷なレッスンによって、十歳の神童になる代りに、百代の英雄音楽家としての 素地 ( そち )を築き上げることが出来たのである。 父の酒癖はどんなに少年ベートーヴェンを苦しめたか解らない。 街の悪童の 漫罵 ( まんば )の中に、 泥酔 ( でいすい )した父親を背負って帰る屈辱感が、ベートーヴェンの負けじ魂を一層 頑 ( かたくな )なものにし、 荊 ( いばら )の道を渋面作って踏み破る最初のスタートになったのであろう。 そのうえ、十七歳のとき、愛情のほかにはなんにも持たなかった、善良にして無知な母親を失ってからは、ベートーヴェンの細腕に、酒毒のために職を失った父親と、幼い弟達の生活を全部引き受けなければならなかった。 ベートーヴェンの天才はその逆境のうちに芽ぐみ、十三歳でボンの宮廷のオルガン弾きに任命され、十六歳の時には最初のシンフォニー「イエナ」を作っている。 モーツァルトに 逢 ( あ )ったのは、それから間もなく、最初のウィーン訪問の時であった。 当時盛名全欧を圧したモーツァルトにとっては 田舎 ( いなか )少年ベートーヴェンの訪ねて来たことはたいした問題ではなく、その面前で弾いた「即興曲」も前から用意したものと思ったか、通り一遍の賞讃の辞を与えたにすぎなかった。 少年ベートーヴェンは、モーツァルトの冷い態度に憤激し、主題の提出を 乞 ( こ )い受けて、即座に豪壮 絢爛 ( けんらん ) 極 ( きわ )まる変奏曲をつけ、弾き終ると、驚き呆れるモーツァルトを 尻目 ( しりめ )に、 闥 ( たつ )を 鎖 ( とざ )して外へ出てしまった。 その後ろ姿を指差したモーツァルトは、「今に彼の名は世界に響き渡るだろう」と友人を顧みて叫んだと伝えられる。 父の死に 遭 ( あ )ったベートーヴェンは、いよいよ志を定めて音楽の都ウィーンに定住することになった。 二十二歳の時である。 その頃のベートーヴェンは、まだ若くもあり、野心的でもあった。 仕事の性質上社交界に出入することが多かったので、努めて都振りに馴れようとし、その頃の流行に従って、モミ上げを長くしたり、 鬚 ( ひげ )を蓄えたり、ダンスの稽古までしたと言われる。 ベートーヴェンのハイカラ姿は、想像するだけでも苦笑を禁じ得ないが、幸いにしてベートーヴェンは流行紳士の生活が板につかないことを自覚し、間もなくその 都雅 ( とが )な生活を捨てて、本来の 田舎漢 ( いなかもの )に 還 ( かえ )った。 「 熱情 ( アパショナタ )ソナタ」や「運命シンフォニー」や「皇帝協奏曲」は、この芸術的大燃焼に何もかも投げ込んだ境地にだけ生まれたのである。 ベートーヴェンの自尊心は、あらゆる芸術家中にも 類 ( たぐい )を見ないほど巨大なものであった。 その 狷介不羈 ( けんかいふき )な魂と、 傲岸不屈 ( ごうがんふくつ )な態度は、時には全ウィーン人を敵としながら、全世界の人を 膝下 ( しっか )に 踞 ( ひざまず )かしめたのである。 ハイドンはこれを「 蒙古王 ( もうこおう )」と言って敬遠し、ゲーテは「手におえない野人」と舌を 揮 ( ふる )って驚いた。 その演奏会に、 喃々 ( なんなん ) 私語 ( しご )する貴婦人達を 叱 ( しった )して、「こんな 豚共 ( ぶたども )に 聴 ( き )かせるピアノではない」とピアノの 蓋 ( ふた )を 閉 ( とざ )してサッサと帰ったこともあり、普仏戦争当時、 戦塵 ( せんじん )を避けたリヒノフスキー邸で、フランス軍の将校のためにピアノの演奏を迫られ、 敢然 ( かんぜん ) 峻拒 ( しゅんきょ )して二百キロを歩んでウィーンに帰ったことなどもあった。 彼は召使と争い、隣人と争い、劇場支配人と争い、パトロンの貴族と争い、ほとんど争い続けてその生涯を過ごした。 ゲーテと散歩して、ウィーンの宮廷の貴人達と 逢 ( あ )った時は、「あの人達は、我らに対してどんな態度をとられるか、こうしてみようではないか」と帽子の 庇 ( ひさし )を下げ上着のボタンをかけ、まっすぐに貴人達の中に突き進んだ。 一行の中のプリンセスは、その傍若無人なベートーヴェンを見て、微笑して 挨拶 ( あいさつ )をされ、道を開いて通してやったが、振り返って見るとゲーテは道の傍に 恭 ( うやうや )しく中腰を 屈 ( かが )め、 慇懃 ( いんぎん ) 極 ( きわ )まる態度で貴人達をやり過していた。 「貴方は偉い人だが、あの人達に対して 丁寧 ( ていねい )すぎますね」と追い付いた大ゲーテに対して、ベートーヴェンはこう言った。 ワイマールの 賓臣 ( ひんしん )で、大詩人で大政治家で、社会的地位の高いゲーテは、ベートーヴェンの 野蛮 ( やばん )さに苦笑したことであろう。 ナポレオンが一挙フランス革命の血の惨劇に終止符を打ったとき、ベートーヴェンはその英雄魂に傾倒して「第三交響曲」を作って献じようとした。 既にフランス大使を通じてその手続までも採ったが、たまたまナポレオンが執政官として事実上フランスの専制君主となったと聴き「彼もまた唯の野心家だ」と総譜のタイトルを破って 戸棚 ( とだな )の中に 投 ( ほう )り込んだ。 が後日ナポレオンが没落してセント・ヘレナに流されたとき、その楽譜を取り出して、「俺はこれあることを予期していたよ」と、第二楽章の葬送行進曲を傍人に指差して示したということである。 ベートーヴェンはナポレオンの没落を予言し得るはずはない。 おそらく第三交響曲の第二楽章として書いた、「勝利の悲哀」とも言うべき葬行曲が、偶然ナポレオンの没落という事実と対応したのであろう。 ベートーヴェンの 傲岸 ( ごうがん )さは数限りなく逸話を持っている。 が、その性格の底流を成すものは、人並すぐれた「人間愛」であり、人 なつかしさであったということも見逃してはいけない。 ベートーヴェンの伝記者は、彼が友達好きであり、 淋 ( さび )しがり屋であり、そして愛情の豊かな人間であったと言っている。 その淋しがり屋の友達好きが、何故に孤独の穀の中に 潜 ( ひそ )まって、世間を 白眼 ( はくがん )で見なければならなかったか。 音楽家が聴覚を失うということは、想像を絶する恐怖である。 ベートーヴェンの耳疾は二十歳を越して間もなく徴候を現し、二十七、八歳の時はもはや隠すことの出来ない状態となり、三十四歳の時はピアノの弾奏を断念し、三十八歳の時はほとんど耳が聴こえない状態になってしまった。 平常人より良い聴官を持っていなければならぬ音楽家が、次第に耳が遠くなりつつあることを発見し、それを承服しなければならないということは、 五分試 ( ごぶだめ )し一寸試しの虐殺に 逢 ( あ )うようなものである。 ベートーヴェンも最初は耳疾を隠していたが、ついには社交を断念して、故意に「人 嫌 ( ぎら )い」にならなければならなかった。 その頃の心境を彼はこう友人に書いている。 この耳が聴えたら、どんなに幸福だろう。 私はすべての人を避けていなければならぬ。 またこうも書いた、「私はしばしば私という存在を造物主に 呪 ( のろ )った。 我も人も許した第一流の音楽家が次第に聴覚を失いつつあるのである。 世の中にこれほど恐ろしいことはない。 三十歳の時、ベートーヴェンは最初の 遺言状 ( ゆいごんじょう )を書き、その後二度まで自殺を企てた。 ベートーヴェンはこう書いた。 が、この苦悩は巨人を殺すために与えられた 笞 ( むち )ではなかった。 絶望と孤独が、 散々 ( さんざん )に大きな魂をさいなみ続けた末、巨人は 豁然 ( かつぜん )として大悟したのである。 それはプルタークの英雄伝から教えられた思想であった。 即ちベートーヴェンはその使命の高遠さと、芸術の不滅を信じて、辛くも自殺を思い 止 ( とどま )ったのである。 運命と人間との 争闘 ( そうとう )を描いたと言われる「第五シンフォニー」はこの頃作られた。 辛辣苛酷 ( しんらつかこく )な運命の しいたげの下に、か細き うめきをあげる人間が、その意志の力をもって、ついに運命に打ち勝ち、 勝鬨 ( かちどき )も高らかに最後の勝利へと突き進むのがこの曲の内容である。 ベートーヴェンは「 人生のための芸術 ( アート・フォア・ライフ )」の最初のスタートを開いた音楽人である。 ベートーヴェン以前の音楽は、形式の 整頓 ( せいとん )と、限りなき美しさの欲求のために書かれた、多分に娯楽的要素を含む音楽が主流であったが、ベートーヴェンに至って、音楽に人生観と哲学とを採り入れ、自己の精神内容と経験とを、直ちに音楽的表現に役立てて、切れば血の出るような曲を作ったのである。 ベートーヴェンにおいては、生活は 即 ( すなわ )ち音楽であり、音楽は即ち自伝であった。 その作品を「金のために書かない」とベートーヴェンは豪語したが、むしろ、技巧や作為のために書かなかったと言った方が適当かも知れない。 彼の音楽はそれぞれの書かれた時代の心境の反映で、たった一つも、「こしらえ物」はなく、ことごとくが生命の宿った、血の通う音楽であったからである。 「第五」と「 熱情 ( アパショナタ )ソナタ」の後、ベートーヴェンはしばらく明るく 和 ( なご )やかなもの、華麗で壮大なものを書いた。 「田園交響曲」「ヴァイオリン協奏曲」「皇帝協奏曲」などはそのよき例である。 ウィーンの郊外を、一日に二度ずつひと回りして雨の日も風の日もよさなかったベートーヴェンは、「余は人間よりも自然を愛する」と放言し、神の栄光が自然を通して、より高く発揚されると信じていたのである。 世にも美しい自然讃美の音楽「田園交響曲」が生まれたのはこの心境からであった。 「荘厳 弥撒 ( ミサ )」と「第九交響曲」は、ベートーヴェンの最後の二大傑作であった。 一つは「心より出ず、再び心に 赴 ( おもむ )かんことを」と書いた 頭書 ( とうしょ )の如く、ベートーヴェンの信仰の結晶であり、一つは巨人の持っている人間愛の雄大壮麗な現れであったと言うべきである。 わけても「第九交響曲」の如きは、人類の持てる芸術の最高のもので、その 気高 ( けだか )き力強さは言語に絶する。 運命の 虐 ( しいた )げ、悪との闘争、あらゆる苦悩の最後に、勝利の歓喜がわれわれを待っているのである。 音楽 ( おんがく )がこれほど雄大な形式を持ったことはかつてなく、芸術がこれほど人に訴えたことはかつてない。 後年ワグナーが失意と貧困とにさいなまれて、自暴自棄の心持になり切ったとき、「第九交響曲」を聴いて大熱を発するほど感激し、 奮然 ( ふんぜん ) 起 ( た )ってあの大成功への道を 歩 ( あゆ )んだという有名な逸話がある。 「第九」以後のベートーヴェンは、次第にその晩年を特色づけた閑寂な境地に入っていった。 耳疾も、孤独も、不平も、何もかも征服して、大きな 諦観 ( ていかん )が巨人の魂を 和 ( なご )めたのである。 わけても 甥 ( おい )のカールの 厄介 ( やっかい )な問題が片づいた後は心の声を五線紙に表現するために、弦楽四重奏曲の形式をかりることに余念もなかった。 外界の音と絶った大音楽家が、四つの弦楽器のために作曲した後期の四重奏曲はまことに 尊 ( とうと )い(作品一二七、一三〇、一三一、一三二、一三五)。 これなどは経済的にはベートーヴェンを救わなかったが、後世のわれわれにとっては何物にも 換 ( か )え難き珠玉である。 官能を断ち、世を断ったベートーヴェンの心の声が、弦楽四重奏曲という形をかりて、大諦観の 聖 ( きよ )らかな美しさを、心行くまで描くのである。 ベートーヴェンは孤独で貧乏であった。 その日の物に困ることはなくとも、決して裕福な生活をするほどの収入を得たこともなく、パトロンが 幾干 ( いくばく )の年金を出したことがあったにしても、晩年はそれさえも絶え、いろいろ運動があったにもかかわらずウィーンの政府は進んでこの巨人の生活を保護してはくれなかった。 ベートーヴェンは 風采 ( ふうさい )が上らないうえに、浮浪人と間違えられ、拘留されたことがあるほど粗野な様子をしていた。 若い頃女優のマグダレーナ・ウィルマンに結婚を申し込んで、「醜いから」との理由で断られたのを手始めに、テレーゼ・フォン・ブルンスウィックや、「月光ソナタ」を献じたジュリエッタとも交渉を持ったが、テレーゼの写真を死ぬまで持っていて、「永遠の恋人」という伝説を残しただけで、誰とも結婚はしなかった。 ベートーヴェンは一般の婦人に好まれるような 質 ( たち )の人間ではなく、彼の英雄魂はまた、「女のために一生を棒にふる人間ではなかった」と伝記者パウル・ベッカーは言っている。 そのうえベートーヴェンの音楽は、当時容易に解されず、ゲーテは「第五交響曲」に恐怖し、弟子達でさえも「第九」に不満を持っていた。 ベートーヴェンがついに住み 馴 ( な )れたウィーンに断念して、ヘンデルやハイドンの故智に 倣 ( なら )って英国に安住の地を 見出 ( みいだ )そうとしたのもまたやむを得ないことである。 一八二七年三月二十六日、春雷の 猛 ( たけ )り 荒 ( すさ )ぶ日、「喜劇はおわった、諸君、喝采し給え」、そう言って死んだ。 翌々日の葬儀は会葬者数万、軍隊が出動して整理にあたったが、ベートーヴェンは、果してそれを喜んだかどうか解らない。 ベートーヴェンの作品は 夥 ( おびただ )しく、その半分は人に知らるる傑作佳作である。 そのうちから真に代表的なものを選ぶとすれば、九つのシンフォニーのうち「第五」「第六」「第九」、三十二のピアノ・ソナタの中「 熱情 ( アパショナタ )」「ワルドシュタイン」「作品一〇九」「一一〇」「一一一」、十篇のヴァイオリン・ピアノ・ソナタのうち「クロイツェル」、十六の弦楽四重奏曲のうち「作品一三一」「一三二」「一三五」、ほかに「皇帝協奏曲」「ヴァイオリン協奏曲」「大公トリオ」、それに「 荘厳弥撒 ( ミサ・ソレムニス )」を数うべきであろう。 ベートーヴェンの伝記とベートーヴェンの音楽については、なかなか語り尽せない。 が、あらゆる芸術の分野においても、これほど強大な力と、情熱とを持った作品はないことだけは確信し得るだろう。 それは地上に生を受けて、芸術を知るもののみが経験する、大きな 歓 ( よろこ )びでもあると言ってもよい。 [#改ページ] 私はいよいよベートーヴェンのレコードに到達した。 ベートーヴェンに対する尊崇は、日本だけの現象ではないが、ベートーヴェンなくんば西洋音楽なしの感あるは、多少の行き過ぎにしても、一方音楽の普及力、並びに文化に対する 浸透力 ( しんとうりょく )の方面から言えば、まことに結構なことであったと思う。 その英雄的な魂と、力と熱の音楽は、とにもかくにも、どんな人でも一度は 引摺 ( ひきず )って行かなければ承知しなかったのである。 私はここにレコードのことについてだけ語るつもりであるが、世界の芸術的レコード(いわゆる名曲レコード)の約二割はベートーヴェンであり、レコード売上高の半分はベートーヴェンであるだろう。 ベートーヴェンは常に音楽界の独壇場であり、レコード雑誌の問答欄の半分の投書は、ベートーヴェンの第五シンフォニーとヴァイオリン協奏曲のレコードの選択で持ち切っていると言ってよい。 その 夥 ( おびただ )しいレコードの中から、本当に優れたものを選り出すのは、至難中の至難事ではあるが、その中から私は代表作品の代表レコードだけを挙げて行こうと思う。 最初は九つのシンフォニーである。 これだけでも全部のレコードを網羅したら、数十ページの記述を必要とするだろうが、私は出来るだけ一曲一レコード主義で話を進めていきたい。 「第三シンフォニー(英雄)変ホ長調作品五五」は重要作品で、レコードの数も 夥 ( おびただ )しいが、最近ビクターからN・B・Cを指揮したトスカニーニと、コロムビアから米国の管弦楽団を指揮したワルターと、テレフンケンからコンセルトヘボウを指揮したメンゲルベルクと、三種のレコードが日本でプレスされることになっている。 そのいずれが良いか、たぶんこの書が 上梓 ( じょうし )されるころは興味の深い話題となっていることであろう。 今まで日本で売出されているのでは、ビクターのメンゲルベルクとコロムビアのワインガルトナーが問題になっていた。 「第五シンフォニー=ハ短調作品六七」は大変だ。 電気吹込み以後のレコードだけでも、少なくとも十二、三組はあり、その一つ一つが世界の大指揮者達が、腕に 捻 ( より )をかけて録音したものである。 しかし「時の力」は少しでも古いもの、劣ったものを 淘汰 ( とうた )して、今では第一線に立つ「第五」のレコードというものは、ワインガルトナーと、メンゲルベルクと、トスカニーニと、フルトヴェングラー指揮の四種のレコードに限定しても差しつかえないものであろう。 このうちからさらに長い生命のある「第五」を選ぶとなると、結局、十人の七、八人までは、トスカニーニとフルトヴェングラーに指を屈するだろう。 これほど神経の行きわたった「第五」はないが、トスカニーニのに比べては、現実性が 稀薄 ( きはく )で、芝居気を感じさせるかも知れない。 しかしこの二つは 併 ( あわ )せ聴いて決して損をしたような心持にはなるまいと思う。 「第六シンフォニー(田園)へ長調作品六八」は、九つのシンフォニーのうちでも最も人に親しまれる。 この和やかな牧歌的なシンフォニーを、これほど美しく演奏した例はかつてない。 それはきわめてウィーン風であると共に、ワルターの持つ独特の情緒が、美しい微光と愛情になって、全曲を柔らかに押し包んでいく。 これに比べるとトスカニーニのは壮大 雄渾 ( ゆうこん )で荒々しく、ワインガルトナーは吹込みが古く、パレーは冷たい。 その中で古いシャルクが今でも一部の人に愛せられていることもつけ加えておかなければなるまい。 それは管弦団の張り切った良さと、それを制御するトスカニーニの気力が、壮烈を極めて見事というも愚かである。 ワインガルトナーの「第七」は充分美しいが、優麗に過ぎてやや物足りない。 「第八シンフォニー=へ長調作品九三」は、コンセルトヘボウをマスターする、テレフンケンのメンゲルベルクの老巧さを第一とするだろう。 それから、やや古い吹込みではあるが、コロムビアのワインガルトナーも捨て難い名盤である。 「第九シンフォニー(合唱)ニ短調作品一二五」は、ベートーヴェンの幾百の作品中の最高峰であり、何人も打たれずにはおられない名篇であるが、レコードは案外多くはなく、七、八年前に出たウィーン・フィルハーモニーの管弦団と、ウィーン国立歌劇場合唱団を指揮したワインガルトナーのコロムビア・レコードを 凌 ( しの )ぐものがまだ現れない。 この演奏はあまりにも 瑰麗 ( かいれい )であり、ワインガルトナー風に隠健であるが、その代り 渾然 ( こんぜん )たる 完璧 ( かんぺき )の出来で、この精神的内容の 熾烈 ( しれつ )な曲を、きわめて優雅なクライマックスに導いていく手際は非凡である。 合唱者独唱者も第一流で、わけてもバリトンのマイヤーが傑出する。 テレフンケンのヨッフムはそれに比べると強烈で若々しくて、別の良さを持つだろう。 ベートーヴェンの序曲は十二もあるが、その中で「レオノーレ第三」と「コリオラン」と「エグモント」が有名でもあり優れてもいる。 「レオノーレ第三」は歌劇「フィデリオ」のために書いた四つの序曲のうちの一つで、ベートーヴェンの特色の最もよく発揮された傑作の一つである。 続いて、同じコロムビアのメンゲルベルクが良い。 「コリオラン」序曲は少し古いがメンゲルベルク指揮コンセルトヘボウ管弦団以外に良いのはない(コロムビアJ八〇四二)。 世界名盤集にワルターの指揮したのがあるが、ロンドン交響楽団は少し質が落ちる。 「エグモント」序曲はたくさんある。 その中でベルリン・フィルハーモニーを指揮したポリドールのフルトヴェングラーは、物々しいが一番良かろう(四五一〇五並びに名曲集)。 吹込みはやや古いがメンゲルベルクの指揮のレコードも傑作で、これはビクターとコロムビアと二種類ある。 ベートーヴェンの三十二曲のピアノ・ソナタは、この楽器に打ち込んだベートーヴェンの魂の記録とも言うべく、九つのシンフォニーに次ぐ重要作品である。 一つ一つのレコードについて書くと大変なページを要するので、私は重要と思われている作品について代表的なレコードを挙げることにする。 三十二曲全部ひいたのは、ビクターの「ベートーヴェン・ピアノ・ソナタ協会」のレコードだけ。 演奏者はベートーヴェン弾きとして当代の第一人者アルトゥール・シュナーベル、十三集八十一枚という大物である。 これはレコード界の一大偉観で、ベートーヴェンのピアノ・ソナタのスタンダードを示すものともいうべく、きわめて端正な解釈と、練達無比な技巧とで大金字塔を築き上げた感である。 一曲一曲比べ聴いても、シュナーベルと違ったベートーヴェンを弾く人はあるが、シュナーベル以上の人は容易にあり得ない。 プロフェッサーらしい厳格さと、ヴァーチュオーゾの壮麗さを兼ねて、誰にでも 堪能 ( たんのう )させる演奏であり、きわめて高度の完成感を持った演奏でもある。 なお有名なソナタの一つ一つについて 優 ( すぐ )れたレコードを挙げていくと、「 悲愴 ( パセティック )ソナタ作品一三」にはポリドールのケンプの情熱は挙げられて良い(六五〇二四)。 ただしこのレコードの吹込みは非常によくない。 「作品一〇九番のソナタ=ホ長調」「作品一一〇番のソナタ=変イ長調」「作品一一一番のソナタ=ハ短調」は、残念ながらシュナーベルに比較するものがない。 その中ではケンプのがやや特色的な良さを持つだろう。 わけても最後のハ短調のソナタにおけるシュナーベルは名演奏で、吹込みはやや古いが実に 燦然 ( さんぜん )たるものだ。 この十六曲の四重奏曲を通してこそ、ベートーヴェンの本来の 象 ( すがた )を知ることが出来るだろう。 わけても作品一二七番以後の晩年の作品は、完全に聴覚を失って後に到達したベートーヴェン最後の心境で、その中には芸術を通して 淳化 ( じゅんか )されたベートーヴェンの 大諦観 ( だいていかん )が盛られていると言ってよい。 十六曲の弦楽四重奏曲はいろいろにレコードされているが、一九二九年に物故した、フランスの名匠カペエの率いたカペエ弦楽四重奏団の入れたレコードが最もよく、それに次いではブッシュ弦楽四重奏団とレナー弦楽四重奏団のものが優れている。 カペエ四重奏団のものはもはや十二、三年前の吹込みで、録音の古さは 覆 ( おお )うべくもないが、その 磨 ( みが )き抜かれた芸術境は、最高至純の域に達したもので、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲に残した五組のレコードは、まことに世界音楽界の至宝と言ってよい。 この十六の弦楽四重奏曲を備える人は、原則としてカペエを 採 ( と )り、カペエのないものはブッシュを、ブッシュのないものはレナーを採れば大した間違いはない。 作品一八の六つの四重奏曲のうち、第一番はブッシュを、第五番はカペエを私はすすめる。 この曲は演奏が困難で、容易にベートーヴェンの深さと美しさに徹しないものだが、ブッシュの手堅いが熱の 籠 ( こも )った演奏は見事にそれを征服している。 作品一三一の「四重奏曲 嬰 ( えい )ハ短調」は後の二曲と共にベートーヴェンの最大傑作だが、演奏はカペエとブッシュと二つの名盤がある。 作品一三二「四重奏曲イ短調」のカペエは 幽婉 ( ゆうえん )、美妙の名演奏だ。 ブッシュのビクター・レコードも、総体としては見事な出来である。 この雄大壮麗な趣や、透徹した美しさはレナーの及ぶところではない、名レコードと言ってよい。 ヴァイオリン・ピアノ・ソナタは十曲ある。 十曲全部レコードしたのはビクターにクライスラーとルップの入れた「ベートーヴェン・ヴァイオリン・ソナタ協会」レコードが四集二十七枚あるが、権威的なものであるにしても、ややクライスラーの老いを感じさせる。 一、二曲の収集を望む人は、まず「スプリング」と称する「ソナタ=ヘ長調作品二四」と「クロイツェル・ソナタ=イ長調作品四七」の二つから聴くがよい。 冷たいほどの美しい演奏である。 ビクターのブッシュとゼルキンも名演奏だが、あまりに情愛がない。 「クロイツェル・ソナタ」はおよそベートーヴェンの作品中でも 妖婉 ( ようえん )華麗極まるものだが、私は昔のコロムビアに入ったフーベルマンとフリートマンに今でも 驚嘆的 ( きょうたんてき )なものを感じている。 しかしそれはもう古くて問題にならないとすると、やはりクライスラーとルップを 採 ( と )るべきであろうか。 もっともこのレコードはティボーとコルトーのビクター盤が今でも一般に愛聴されている。 これは穏雅なフランス風の演奏で、一番親しめるからであろう。 録音は 甚 ( はなは )だ古い。 チェロのソナタは三曲入っている。 カサルス(チェロ)とシュルホーフ(ピアノ)の「チェロ・ソナタ=イ長調作品六九」は絶対的な名盤で、吹込みの古いにかかわらず、この広大な 気魄 ( きはく )と、堂々たる威容に帽子を脱がせる。 もう一つ「チェロ・ソナタ=ハ長調作品一〇二ノ一」はビクター愛好家協会の第三集にあるレコードだが、この曲は最後のチェロのソナタ(ニ長調)と共に、ベートーヴェンの晩年の心境を描いたもので、やや苦渋ではあるが、情熱的な深さを持った曲である。 カサルス(チェロ)とホルスゾフスキー(ピアノ)の演奏は通俗さはないが見事なものである。 ピアティゴルスキー(チェロ)とシュナーベル(ピアノ)は「チェロ・ソナタ=ト短調作品五ノ二」を入れているが、あまり 冴 ( さ )えない。 五つの「ピアノ協奏曲」は無条件にビクターのシュナーベル演奏のものに 左袒 ( さたん )する。 管弦楽を指揮したサージェントが、甚だ不満足であるとしても、 甚 ( はなはだ )しくシュナーベルの黄金盤を 害 ( そこ )ねるとは言われない。 わけても第四番と第五番(皇帝)が傑出している。 第四番にはバックハウスの 優 ( すぐ )れたレコードもあるが、常識的にはやはりシュナーベルを揃えるのが穏当だろう。 「第一」と「第五」はギーゼキングのもあるが、異色のある演奏で、現代人好みではあろうが、なんとなく物足りない。 ここにシュナーベルのレコードの番号だけを掲げておく。 ベートーヴェンの作品中でも最も人に愛される曲であり、その 灼熱的 ( しゃくねつてき )な美しさは人を鼓舞してやまない。 それは実に心細い録音ではあるが、四十歳台のクライスラーの絶頂的な芸術境をレコードしたもので、その豊麗な美しさや、 滴 ( したた )るばかりの情愛は、全く比ぶべきものもない。 管弦楽はベルリン国立歌劇場のそれ、指揮はブレッヒ、最初H・M・Vでこのレコードの輸入された当時の感激を私はまだ忘れることは出来ない。 二度目にクライスラーがこの曲をレコードしたのは、それから七、八年後のことである。 技巧的にはさしたる衰えもないが、もはやさきの日の輝きがなく、滋味はあっても美しさにおいて同日をもって語ることは出来ない。 コロムビアのシゲティー、パルロフォンのヴォルフシュタールなどクライスラーに続いて忘れ難いレコードである。 「 荘厳弥撒 ( ミサ・ソレムニス )」は、「第九シンフォニー」「後期の四重奏曲」と共に、ベートーヴェン晩年の貴重な作品で、おそらく人間の創り出せる古今の芸術作品中の最高位に置かるべきものである。 「心より出ず、再び心に 赴 ( おもむ )かんことを」と頭書したベートーヴェンの心境も尊い。 有名なブルノ・キッテルが、ベルリン・フィルハーモニー管弦団とブルノ・キッテル合唱団を指揮したもので、独唱者も非常に良い。 吹込みはもはや十二、三年前のものだが、このレコードばかりは少しも値打を下げないような気がする。 歌曲のうちでは、ロッテ・レーマンの歌った「フィデリオ」第一幕の「レオノーレの詠唱」(コロムビアJW三〇)、「エグモント」の「太鼓が鳴った」「喜びと悲しみ」(コロムビアJ五五五〇)などがすぐれている。 ポリドールのバリトン歌手シュルスヌスの歌った「アデライデ」は歌も歌い手もベートーヴェンの歌曲では第一位のレコードだろう(六〇一八四)。 「神の 稜威 ( みいつ )」はヒュッシュやタウバーの独唱、ベルリン独唱者連盟の合唱などがあるが、私は旧盤のシュワルツをいつでも思い出す。 「暗き墓場」はシャリアピンとシュルスヌスといずれも巧者だ。 [#改丁] [#ページの左右中央] [#改ページ] 音楽を口にする者で、「未完成交響曲」や「冬の旅」の美しさを知らないものがあろうか。 それは小むずかしい理屈で 捏 ( こ )ね上げた音楽ではない。 初夏の 薫風 ( くんぷう )に歌う鳥のように、心から 湧 ( わ )き出ずる旋律を、すばらしい天才で処置し、五線紙に留めて百千年の後に 遺 ( のこ )した人類への恩恵そのものだったのである。 「未完成交響曲」を作り、「 菩提樹 ( ぼだいじゅ )」を作り、「 鱒 ( ます )の五重奏曲」を作り、「アヴェ・マリア」や「魔王」を作った、フランツ・シューベルトこそは、いつの世にも我らの身近に生きつつある、万人の心の友であったと言って、なんの誇張があろう。 十九世紀のロシアの大ピアニストにして、 旋毛曲 ( つむじまが )りのルービンシュタインは、シューベルトの「白鳥の歌」の一つなる「 憩 ( いこ )いの地」を聴いてこう言った。 「もう一度、いや千度でも(その歌を繰り返してくれ)。 バッハ、ベートーヴェンと共に、シューベルトこそは、まことにドイツ音楽の三大巨峰である」と。 この言葉には少しの誇張もない。 我らの精神生活に食い込んで、 朝 ( あした )に 夕 ( ゆうべ )に、 浄 ( きよ )らかな 慰藉 ( いしゃ )と感激とをもたらす音楽は、シューベルトをもって第一とすることはおそらく何人も異論のないところであろう。 シューベルトの音楽にはバッハの儀容も、ベートーヴェンの威厳もなく、モーツァルトの 絢爛 ( けんらん )さもブラームスの端正さもないが、 懐 ( なつ )かしさと優しさと、 泌 ( し )み出る愛情と輝く美しさは、人間に音楽あって以来、かつて例を見ざる 比 ( たぐい )のものである。 これを人文史上のオアシスと言うもよく、芸術の中の芸術と見るもまた 妨 ( さまた )げない。 シューベルトこそは 真 ( まこと )に人間の母の生んだもののうち、最もよき魂であり、百世変ることなき、人類の友であると言えるだろう。 シューベルトは「彼自身世界一と自任しない唯一の作曲家であった」と言われている。 彼は自分の天才を少しも知らなかったほどの謙遜な魂の持主で、たまたまその歌がやんやと言われると、「それは歌い手のフォーグルがうまいせいだ」と信じていた。 現にその日記に「その 喝采 ( かっさい )の大部分はゲーテの詩のためであろう」と書いているほどである。 人に示すために書くのでない日記にまでも、シューベルトの 床 ( ゆか )しさ謙虚さがこう反映せずにはいない。 これを「俺は百年に一度生まれる天才」と信じて疑わなかったモーツァルトに比べて、なんという大きな性格の違いであろう。 シューベルトの優しく美しき音楽は、この小児の如き心根に 胚胎 ( はいたい )したのである。 春の 陽 ( ひ )の如く、聴く者の心を和めずにおかないのも、また 所以 ( ゆえ )ありと言うべきである。 フランツ・シューベルト( Franz Schubert)は一七九七年、貧しい小学校長の第十三番目の子として、音楽の都ウィーンに生まれた。 父親の俸給はわずかであり、その生活は容易ならぬものであったにもかかわらず、家庭の空気は神聖できわめて音楽的であった。 シューベルトは音楽の手ほどきは、父親と兄から受け、家庭の 団欒 ( だんらん )を楽しくした家族の室内楽演奏で、チェロの父親がのべつに 外 ( はず )して、ヴィオラのシューベルトに、始終遠慮がちな注意を受けなければならなかった。 土地の合唱指揮者に音楽理論と歌唱法を教わったが、先生が教えようとすることは、小さいシューベルトはことごとく先を 潜 ( くぐ )って知っているので、間もなく先生の方から引き退るほかはなかった。 十二歳の時、兄 譲 ( ゆず )りの古帽子に、母親の手縫の服を着、小柄で弱気で、強度の近眼鏡をかけた 蒼白 ( あおじろ )い顔の少年は、宮廷楽手を養成するコンヴィクトに入り、そこではかつてベートーヴェンの先生であった、有名なサリエリとルツィカに教わった。 その頃から少年シューベルトの楽想は、噴泉の如く 奔騰 ( ほんとう )したが、それを書く紙がなかったので、先輩にして生涯のよき友人であったシュパウンは、紙を与えてシューベルトの天才の所産を書かせたりした。 十六の時声変りがして、宮廷合唱隊を去ることになったシューベルトは、もう「第一交響曲」を書き上げているほどの飛躍ぶりであった。 その後二、三年、代用教員として、父の小学校を手伝い、十七歳で「 紡車 ( つむぎぐるま )のグレートヒェン」を含む十七曲の 歌曲 ( リード )を作った。 後世に 遺 ( のこ )るシューベルトの遺産の最初のものである。 翌一八一五年は、百五十七曲の歌曲を書き、その中には「 野薔薇 ( のばら )」や、「魔王」などがあった。 わけても「魔王」はその年の暮のある日、ゲーテの詩を読んで霊感に打たれ、 憑 ( つ )かれたもののようになって、四、五時間で書き上げたが、シューベルトにはその作曲を助けてくれるピアノもなにもなかった。 ちょうどそこへ遊びに来たシュパウンは、シューベルトをつれてコンヴィクトに行き、シューベルト自身伴奏を弾きながら歌って友人達にやんやと言われた。 それから一八二八年、三十一歳の若さで死ぬまで、シューベルトは実に一千二百の作曲を遺したが、その半分以上は歌曲である。 シューベルトは、歌うために生まれて来た人のようであった。 野の鳥の如く歌ったと言ってもよい。 シューベルトの楽想は、 滾々 ( こんこん )として尽くる時がなく、手近に詩集があれば、取り上げては直ちにそれに作曲した。 驚くべき天才の 奔騰 ( ほんとう )のために、 偶々 ( たまたま )そのはけ口を座右の詩に求めたのかも知れない。 シューベルトにおいては、作曲は少しも労苦ではなく、旋律と和声の噴泉が、絶えず 湧 ( わ )き上って、その 奔注 ( ほんちゅう )の道を求めていたのである。 シューベルトは 歌劇 ( オペラ )、 交響曲 ( シンフォニー )、 弥撒 ( ミサ )、室内楽、 歌曲 ( リード )、その他あらゆる形式の作曲をし、かつてその天才の泉の 涸渇 ( こかつ )する気色も見せなかった。 万有還金という言葉があるが、シューベルトにとっては万有還楽である。 森羅万象 ( しんらばんしょう )ことごとく音楽の題材ならざるはなく、その思想の動きがすべて旋律と和声とを持っていたと言っても 差 ( さ )しつかえはない。 十九歳のシューベルトはライバッハの音楽学校長の 椅子 ( いす )を 狙 ( ねら )って、才能の 遙 ( はる )かに低い候補者に打ち負け、それから三十一歳まで、完全にその生涯を無職で押し通さなければならなかった。 その間家庭教師になったり、 幾何 ( いくばく )の作曲料が入ったりしたが、ボヘミアン生活にはなんの変りもなく、いつの間にやら、彼をめぐって「シューベルト組」なる仲間が出来、他愛もないことに騒ぎ暮す日が際限もなく続くのであった。 無名の詩人達は、シューベルトの友人であったばかりに、その詩に作曲してもらって、百代の名を残した。 中にはシューベルトを助けた者もあるが、多くはシューベルトのたまたま 儲 ( もう )けた数フロリンを、酒とソーセージにしてしまう場合の方が多かった。 シューベルトは誰にでも愛されたらしい。 その謙虚な人なつかしい性格を、一度逢った者は忘れることが出来なかった。 シュパウンは後に社会的地位を得て物質的にシューベルトを後援し、遙か年長の歌い手フォーグルはシューベルトに対して、「君は見込がある、が喜劇役者でなさすぎる。 そんなに美しい思想を濫費してはいけない」と言いながらも、シューベルトの歌の魅力を忘れることが出来ず、機会あるごとにそれを歌って社会に紹介してくれた。 フォーグルの言った「音楽になった言葉と詩」「音楽の着物を着た思想」を、多くの人は次第に理解していったのである。 ショオベルはシューベルトの貧困がその伸び行く天才の芽を枯らすことを怖れて、自分の家に引き取って、金になりそうもない作曲を続けさせるために、その生活費を支弁してやったこともある。 ウィーンの 碩学 ( せきがく )ワッテルロート教授、その愛嬢ウィルヘルミ、ウィルヘルミの夫ヴィッテチェックなどはいずれもシューベルトの良き友人として、生涯変ることがなかったばかりでなく、ヴィッテチェックなどはシューベルトの死後その遺稿の整理収集までやってくれた。 それらは皆、人間シューベルトの良き性格の反映と見るべきものである。 一八一八年、二十一歳のシューベルトは、ハンガリーのエステルハツィ伯の家庭教師として雇われ、多くの友人達と別れてエステルハツィ城にしばらく滞在した。 伯爵令嬢マリイエはその時十三歳、妹のカロリイネは十一歳、伯爵のバス、伯爵夫人とカロリイネのアルト、マリイエの美しいソプラノがシューベルト伴奏で楽しく歌った。 シューベルトの受けた報酬は一授業わずかに二フロリンにすぎなかったが、作曲の時間があるのと、田園の風物に親しむことの出来たのが、ウィーン児のシューベルトにとってはなかなかに楽しい経験であった。 映画「未完成交響楽」はこのハンガリー時代のシューベルトに題材を採り、巧みに劇化したものであるが、実際はシューベルトの相手として、二人の令嬢は少し若過ぎたかも知れない。 シューベルトのハンガリー時代も、そう長くは続かなかった。 それから幾年かの間、ウィーンでどうして暮したか。 シューベルトの経済生活には時々わからないことがある。 出版屋は愚劣な流行作家のものを出版するのに忙しいという口実で、十二曲をわずかに百六十フロリンで引き受けても、シューベルトは文句を言えなかった。 その中の「さすらい人」一曲だけでも、出版屋は一八二二年から四十年間に二万七千フロリンを 儲 ( もう )けている。 畢生 ( ひっせい )の大傑作「冬の旅」二十四曲は、一曲わずかに一フロリンずつで買われた。 珠玉を 鐚銭 ( びたせん )に代える如きものであるが、出版屋はそれをさえ恩に着せた。 窮乏と困苦の年は続いた。 シューベルトは 生粋 ( きっすい )のウィーン児で、金持や貴族に自分を買い 被 ( かぶ )らせて生活を安易にする 術 ( すべ )は知らなかった。 あらゆる賞讃や注目から身を 退 ( ひ )いて、いつでもその貧しい友人の中に 晏如 ( あんじょ )として暮しているシューベルトだったのである。 シューベルトの弱気は非凡であったが、そのベートーヴェン崇拝も容易なものではなかった。 一人でこの老大家を訪ねることなどは思いも寄らず、一八二二年楽譜屋につれて行ってもらって始めて逢ったが、この老大家が鉛筆と紙を出してくれたのに、一句も書くことは出来なかった。 ベートーヴェンはシューベルトの持って来た作品に目を通して、和声の誤りを二、三指摘したが、若きシューベルトは、それさえもきまりが悪くなってコソコソと逃げ出してしまった。 ベートーヴェンは其曲を愛好して 甥 ( おい )のカールに演奏して聴かせ、「シューベルトは神聖な火を持っている」と言っていた。 五年後もう一度シューベルトが訪ねたときは、ベートーヴェンはもう死の床に横たわって口もきけないほどの容態であった。 シューベルトはこの瀕死の老大家をながめて、手を組んだまま一語もきかずに、涙を浮べて帰った。 それから十四日経って、ベートーヴェンは死んだ。 シューベルトは三十八人の 炬火持 ( たいまつもち )の一人として、 棺側 ( かんそく )に従ってこの巨人の 遺骸 ( いがい )を送ったが、その頃からシューベルトもまた健康がすぐれなかった。 翌一八二八年夏、 眩暈 ( めまい )と頭痛に悩まされ、医者に勧められて郊外に移り、十月の末のある日友人と夕食を 摂 ( と )っていて、「食べるものが毒のようだ」と、ナイフとフォークを投げ出した。 それが致命的な病気の徴候だったのである。 十一月になって十一日間も飲食しない日もあった。 ヘンリー・フィンクが言ったように、それは「金さえあれば伸ばすことの出来る命」であったかも知れない。 遺言 ( ゆいごん )によって、ベートーヴェンの墓の 側 ( かたわら )に葬られたが、それが三十一歳で 夭折 ( ようせつ )した、 稀代 ( きだい )の天才のせめてもの満足であったことであろう。 その中には不朽の名作ハ長調の「交響曲」の手写譜が交っていたのはあまりにも痛ましい皮肉である。 シューベルトの貧しさと、その人間的な良さはひと通り書いた。 シューベルトの天才は全く人間離れのしたものであった。 友人達と郊外を散歩して旗亭に休んだ時、棚の上のシェークスピア全集の中から 詩篇 ( しへん )を抜き出して、「僕は今すばらしい楽想が浮んだが五線紙がないかなア」と言い出した。 友人がさっそくメニューの裏に鉛筆で五線を引いてやると、その上にサラサラと書いたのが、有名な「聴け聴け 雲雀 ( ひばり )」の高朗な名歌曲であった。 ある夜飛び起きて、興の趣くまま「 鱒 ( ます )」の曲を書いたが、吸取紙の代りに使う 砂壺 ( すなつぼ )とインキ壺を間違えて、書いた楽譜の上へインキを振りかけたのが、今日までの貴重なシューベルトの遺品として残っている。 「一寸法師」は友人と話しながら書き、「美しき水車小屋の 乙女 ( おとめ )」は、友人の家を訪ねて、その留守の室で読んだ、ミュラーの詩に魅せられ、詩集を無断で拝借して来て作曲したものであった。 この 奔騰 ( ほんとう )する天才の 奇蹟 ( きせき )は、第一交響曲の完成に十年を要し、第九交響曲の合唱部の 主題 ( テーマ )を三十年ノートに秘めておいた、ベートーヴェンの努力ぶりと比較して、なんという興味の深い相違であろう。 シューベルトは詩から詩へ、楽想から楽想へと動いていった。 一つの作曲をおわれば、ケロリと忘れて次の作曲に取りかかるのが、シューベルトの流儀だったのである。 友人の歌手フォーグルがシューベルトの作曲した 歌曲 ( リード )に少しばかり手を入れて二週間目に持って行って見せると、「これはちょっと悪くないネ、誰の作ったのだ」と言った。 自分の作曲をすっかり忘れていたのである。 シューベルトは霊感に身を 委 ( ゆだ )ねて、奔流の如く作曲したのである。 十八年間一千二百曲の生産は、名誉も金も代償として考えたものではなかった。 傑作中の傑作「冬の旅」二十四曲の歌に作曲した時のことを、良き友シュパウンはこう書き残している。 「シューベルトは気むずかしく沈んでいた。 どうしたのか尋ねると、今に判るよと言った。 ある日シューベルトは、ショオベルの家へ行って、冬の旅二十四曲全部を歌って聴かせた。 われわれはその歌の 陰惨 ( いんさん )さに途方にくれた。 ショオベルは 菩提樹 ( ぼだいじゅ )一つだけが気に入る歌だというと、シューベルトは、僕は僕の作ったほかのどんな歌よりもこの全部が好きだ、いつか君達も好きになる時が来るだろうよと言った」 なんというそれは悲しい自信であったことか、二十四 顆 ( か )の夜光の 珠 ( たま )に比ぶべき「冬の旅」は、作曲当時、その友人達にも理解されなかったのである。 「冬の旅」二十四曲に 優 ( まさ )る歌がこの世の中に果してあり得るだろうか。 人間の作ったもののうちで、あの中の一つ、「お休み」や「菩提樹」や「春の夢」や「道しるべ」や「 辻 ( つじ )音楽師」に匹敵する美しい歌が他にあったであろうか。 続いてレルシュタープとハイネの詩に作曲した十四曲の歌は、シューベルトの死後「白鳥の歌」(告別の歌の意)として出版され、今さら世の人々は、 薄幸 ( はっこう )な天才シューベルトに辛かりしことをひしひしと後悔した。 「白鳥の歌」の十四曲中、「アトラス」「都会」「セレナード」「 憩 ( いこ )いの地」「海辺にて」「 影法師 ( かげぼうし )」などはわけても珠玉的である。 ドイツのリードはシューベルトによって完成された。 シューベルト以前にも 歌曲 ( リード )はあったが、モーツァルトもベートーヴェンも、歌曲における限りは、あまり傑作を持たない。 シューベルトはドイツのアクセントに 深甚 ( しんじん )な注意を払い、ドイツ語の詩の美しさを生かして全く新しい歌曲を創始したのである。 シューベルトは旋律の宝庫であったばかりでなく、転調の名人でもあった。 さらに伴奏部に背景としての重要な役目を持たせ、ここに詩と歌と伴奏との三位一体の理想を異現し、音楽と詩との有機的な結合を果したのである。 シューベルトの歌曲は全く独自の美しきに溢れる。 この世にシューベルトの音楽のあることはなんという幸福なことであろう。 「鱒の五重奏曲」「死と乙女の四重奏曲」を始め多くの室内楽、 可憐 ( かれん )なピアノの「即興曲」まで、シューベルトの音楽は、いつでもわれわれの身近に、愛と美と輝きとを、惜しみなく 撒 ( ま )き散らしてくれるのである。 [#改ページ] シューベルトの音楽が、いかにわれわれに親しい存在であるかは繰り返して書いた。 そこには 比 ( たぐ )い 稀 ( まれ )なる美しさと、 溢 ( あふ )るるばかりの愛情とがある。 が物々しい重圧も、いわゆる名曲的な 威嚇 ( いかく )もなく、直ちにわれわれの 肺腑 ( はいふ )に入って、シューベルトと共に歌わせなければやまない良さがあるのである。 シューベルトのレコードの量は、ベートーヴェンに次いで 夥 ( おびただ )しく、おそらくモーツァルトやバッハにも勝るであろうが、そのうちから私は最も代表的なもの、最も興味の深いものを、十中の一、二だけ抜くに止めておく。 「未完成シンフォニー」のレコードは、筆者の知れる限りでは、三十年前から入っているはずである。 世界にはおそらく、二十組以上の「未完成」レコードがあるだろう。 およそ人間の手で作られた音楽のうちで、これより偉大なるもの、これより立派なものはあるかも知れないが、これほど美しいものは 滅多 ( めった )にあり得ない。 「未完成」のレコードが百種あったところで、われわれは少しも驚くに当らない。 それはいささかの芝居気もなく、平明枯淡な演奏ではあるが、柔らかな愛情と、ロマンティックな夢のうちに、そっと我らの心を押し包んでくれるからである。 それに続いて私はさらに甘美で、さらに感傷的なテレフンケンのクライバー指揮を挙げるだろう。 「交響曲ハ長調」は長いシンフォニーとして知られているが、今日の常識から見れば、それほど長いわけではなく、かえって私はこのシンフォニーの美しさから言えば、短か過ぎるようにさえ感ずるのである。 他に四、五種入っているが、あるいは古く、あるいは面白くない。 「ピアノ三重奏曲」は二つ、そのうち「三重奏曲変ロ長調作品九九」の方が美しく、レコードも四、五種入っている。 ほかにポリドールにナイ三重奏団、コロムビアにヘス三重奏団のが入っている。 弦楽四重奏曲では「死と 乙女 ( おとめ )」の四重奏曲と言われる「弦楽四重奏曲ニ短調」にレコードは集中されている。 第二楽章に歌曲「死と乙女」が 採 ( と )り入れられ、美しいがこの上もなく物悲しい変奏曲となっているためで、弦楽四重奏曲ではベートーヴェンを除けば、これほど美しくこれほど人を打つ曲を作った人はない。 五重奏曲は「ピアノ五重奏曲イ長調( 鱒 ( ます ))作品一一四」一つでも充分シューベルトを代表する。 第四楽章の歌曲「フォレルレ」を主題として作った変奏曲が美しいからでもある。 「弦楽五重奏曲ハ長調作品一六三」は第二チェロを加えた五重奏曲で、スケールの大きい、厚壮な五重奏曲である。 「ピアノ・ソナタ=イ長調(遺作)」はシューベルトのピアノ・ソナタ中の傑出したもので、その晩年の深さが、華麗な形式のうちに秘められている。 「幻想曲(さすらい人)ハ長調作品一五」は、第二楽章に歌曲「さすらい人」から 採 ( と )った主題と変奏を持っている、シューベルトらしい良い情熱を持った曲で、レコードはビクターにフィッシャーのがある。 「即興曲」はシューベルトの無邪気さと 奔逸 ( ほんいつ )する天才の現れで興味が深い。 ビクターにはフィッシャーの演奏で二集入っている。 これもまたシューベルトの天才の一面を語るもので、邪念のない美しさにほほ 笑 ( え )ませるだろう。 「行進曲」は、ビクターにシュナーベル 親子 ( おやこ )の連奏で五曲入っている。 以上三つのピアノ曲、「即興曲」と「楽興の時」と「行進曲」はいろいろのレコードがあり、ヴァイオリンやチェロや管弦楽に編曲したものもあるが、フィッシャーとシュナーベルと、同父子のレコードで充分だと思う。 わずかに行進曲のうちの「軍隊行進曲」をタウジッヒが独奏用に編曲したのが、ポリドールにブライロフスキーの佳作がある(四〇五〇八)。 ヴァイオリン・ピアノ・ソナタも幾つかレコードされているが、結局「大幻想曲ハ長調作品一五九」以外には大したものはない。 チェロのソナタには「イ短調(アルペジオ)」がある。 今は 亡 ( ほろ )びたアルペジオという楽器のために書いたもので、コロムビアにはチェロの協奏曲に編曲したのもあるが、どちらも面白い。 甘美な面白い曲だ。 シューベルトの良さはやはり歌であり、その天才の輝きは、リードを通して千古の魅力となるであろう。 この二十曲一連のロマンティックな歌を、これほど巧みに、しかも正直に歌って、 平坦 ( へいたん )なうちに繊細な美しさと、深沈たる悲しみを出し得る人はない。 「冬の旅」二十四曲は「美しき水車小屋の乙女」以上に歌も 優 ( すぐ )れているが、これを歌っているヒュッシュの 出来栄 ( できばえ )はさらにすばらしい。 この歌はシューベルトの死の暗示であったと言われるきわめて陰惨なものであるが、ヒュッシュの演奏はリードの約束に厳格に相応したものでありながら、しかもその表現は限りなく深々として、身につまされる美しきを持っている。 「冬の旅」の中で一、二曲ヒュッシュと 並 ( なら )んで推賞すべきレコードがある。 それは後の 条 ( くだり )に。 「白鳥の歌」は「冬の旅」よりも陰惨だ。 そのうち「 憩 ( いこ )いの地」や「影法師」や「 海辺 ( うみべ )にて」は聴くに堪えないものがあるが、歌の良さもまた格別である。 悲劇的な芸術の美しさとして、これに匹敵するものは決して沢山ない。 ドゥハンは決して巧者な人ではないが、素直で端的で、「憩いの地」のようなものは非常に良い。 一枚物のレコードでは、歌手の方から分類すると、ポリドールの名テナー歌手スレザークでは電気の初期に入ったものほどよく、わけても「 菩提樹 ( ぼだいじゅ )」と「セレナード」と「海辺にて」と「君こそ安らいなれ」と「 焦燥 ( しょうそう )」が絶品である(ポリドール、スレザーク愛唱曲集)。 これほど行届いた愛情と、巧みな技巧で歌われたシューベルトはない。 同じポリドールのバリトン歌手シュルスヌスは、 派手 ( はで )な調子で陶酔的な心持で歌う歌が良い。 「魔王」「セレナード」「さすらい人」などは代表的なレコードだろう(ポリドール、シュルスヌス愛唱曲集)。 女流ではメゾ・ソプラノのエレナ・ゲルハルトが傑出している。

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