飛鳥文化 仏像 特徴。 飛鳥寺と飛鳥大仏、日本最古の大仏が鎮座する、かつての日本の中心地を訪れる歴史旅

【中学歴史】聖徳太子の政治まとめ!やったことは何??

飛鳥文化 仏像 特徴

飛鳥時代前期の仏像の特徴 飛鳥時代に仏教が伝わり、鳥仏師(止利仏師)らが来日して多数の仏像を残しました。 飛鳥時代の仏像は大別すると、前期(推古天皇時代)と後期(舒明・皇極天皇時代)とに分けられます。 前期の仏像の一番の特徴は、目は杏仁型、口は仰月形(薄い唇で、口角が上がった形)になっており、左右対象そして平面的な感じが強くなっています。 人間的な表情とは違って、図案化されたような硬い表情ともいえます。 代表的なものとして、飛鳥大仏や法隆寺の釈迦三尊像などがあげられ、この頃の像の表情は「アルカイックスマイル」といわれる、顔の表情を極力抑えながら唇の両端をわずかに上げて、口元だけ微笑んでいるという特色があります。 飛鳥時代後期の仏像の特徴 飛鳥時代後期に造られた仏像はまだ写実性は薄いものの、前期に造られた仏像よりも表情に人間味を増し穏やかな顔になっていきます。 前期に造られた仏像は正面から見ることだけを意識して造られていましたが、後期のものはやや側面感が強くなっています。 表情の硬さは減ってきていますが、アルカイックスマイルの名残はまだ残っています。 代表的なものとしては、中宮寺の弥勒菩薩像等があげられ、この像はかつての50円切手の図案でした。 この頃から表情に立体感が出て、仏像の格好も自由なスタイルになってきます。 台座に腰を下ろし、左足を下げて右足を曲げて左膝の上に置き、右手で頬杖を突く形の「半跏思惟像」など、表情にもスタイルにも自由度が増していきました。 飛鳥時代の仏像の価値 飛鳥時代に造られて現存している仏像のほとんどが国宝となっており、実際に価格査定ができないことから、売買することは不可能です。 2008年に運慶作の重要文化財クラスの仏像がニューヨークのオークションに出されたことがありました。 その時は日本の宗教団体が14億円で落札したとされています。 その頃にはその仏像は未調査であったために、文化庁の指定が遅れていて、あやうく重文クラスの仏像が海外に流出するという事態になった事が報じられました。 現在では国宝を含む指定文化財は「文化財保護法」という法律によって海外への流出は原則禁止となっています。 仮に国宝級の仏像が売りに出されることがあったとしたら、数十億円・数百億円以上になる事は必至ですが、仏像が宗教的な意味合いが高いことから、他の宗教の国には高値では取引されないとも推測できます。 国宝である飛鳥時代の仏像は、そのもの自体の価値だけではなく、1000年以上の昔から日本という国を見続けていたという意味での「日本の宝」なのではないでしょうか。

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飛鳥文化(あすかぶんか)とは

飛鳥文化 仏像 特徴

高句麗が南下をはじめ、新羅、百済が圧迫されます。 当時の朝鮮半島は下図の状況でした。 大伴金村は百済を救助するために、ヤマト政権が支配していた 加耶西部を百済に割譲します。 これが 任那4県割譲です。 これに対して、 百済は有効の印として儒教の 五経博士を日本に送ります。 五経とは儒教の経典で、「詩経(しきょう)・書経(しょきょう)・礼記(らいき)・易経(えききょう)・春秋(しゅんじゅう)」の5つを指しています。 しかし、高句麗に圧迫された新羅の加耶への進出が止まらなかったので、ヤマト政権は軍隊を朝鮮半島に上陸させようとしましたが、そこで起こったのが筑紫国造(福岡県)であった 磐井の乱(527年)です。 527年| 磐井の乱…筑紫国造磐井が新羅と結んで反乱 『日本書紀』には、磐井は新羅から賄賂をもらって乱を起こしたと記されています。 これにより、ヤマト政権軍は朝鮮半島に上陸できませんでした。 この磐井の乱を鎮圧したのが 大伴金村ろ 物部麁鹿火(あらかび)です。 福岡県の 岩戸山古墳は筑紫国造岩井の墓だとされていることも復習しましょう。 石人・石馬で有名ですね。 継体天皇の後は安閑天皇、宣化天皇と続き、そして欽明天皇の即位です。 欽明天皇の頃 欽明朝のポイントは、朝鮮半島南部の情勢と有力豪族の勢力争い、そして仏教公伝です。 大伴金村が行った 任那4県割譲の意味がなかったことの責任をとり、 540年に大伴金村は失脚します。 これにより 物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがります。 540年| 任那4県割譲で 大伴金村の失脚、 物部氏と蘇我氏の台頭 そして、欽明天皇の治世で最も大きな出来事が 仏教公伝です。 百済の聖明王からヤマト政権の欽明天皇に伝えられました。 『日本書紀』によると 552年に仏教が伝わったとされています (壬申説)が、 『上宮聖徳法王帝説』と 『元興寺縁起』によると、 538年に仏教公伝とされています (戊午説)。 欽明天皇は 蘇我稲目にこれを託して仏教を興すように命じています。 これにより、 仏教を積極的に導入しようとする蘇我氏と、仏教の導入に懐疑的な物部氏の確執が生じます、これが 崇仏論争です。 これは子の蘇我馬子と物部守屋の代で決着がつきます。 馬子が丁未(ていび)の乱で物部氏を滅ぼしたことで決着がつきます。 552年| 仏教公伝(壬申説)『日本書紀』• 538年| 仏教公伝(戊午説)『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』 欽明天皇の願いは任那復興でしたが、それは叶わず崩御します。 その後は敏達天皇、用明天皇と続き、蘇我馬子によって擁立される崇峻天皇が登場します。 崇峻天皇の頃 崇峻天皇は蘇我馬子によって擁立されたわけですから、蘇我氏の絶頂期をむかえているわけです。 蘇我氏は連ではなく臣でしたね。 また、渡来人とも結びつき、大陸の進んだ文化の受容を積極的に推進します。 もちろん崇仏派です。 物部氏と崇仏か廃仏かで争っていましたが、 蘇我馬子が物部守屋を丁未(ていび)の乱で滅ぼし、権力の絶頂期をむかえます。 南北朝で混沌としていた中国では、 隋がついに統一を果たします。 崇峻天皇は蘇我馬子によって擁立されましたが、軋轢が生まれたことで馬子らの手によって暗殺されてしまいます。 587年| 三蔵を掌握し、 大臣 蘇我馬子(財政担当)が 大連 物部守屋(軍事担当)を滅ぼす。 589年| 隋が南北朝を統一• ここは下記の「聖徳太子」で詳述しています。 594年| 仏法興隆の詔• 600年|倭国の使者が隋に到着(『隋書』倭国伝のみ記載)• 603年| 冠位十二階の制…(徳・仁・礼・信・義・智)位階は個人に対して1代限り• 604年| 憲法十七条…豪族たちに国家の官僚としての自覚を求める「和を以て貴しとなし」「驚く三宝 仏教 を敬へ」• 607年| 遣隋使の派遣… 小野妹子の派遣(『隋書』倭国伝・『日本書紀』ともに記載)• 618年|障が滅び、 唐がおこる• 620年| 『天皇記』『国記』の成立… 厩戸王と馬子が編集しはじめたとされる歴史書 舒明天皇の頃 推古天皇の崩御後、蘇我蝦夷によって擁立されています。 政治権力の中枢はまだ蘇我氏です。 隋に変わって唐が起こったので、遣隋使から遣唐使に変わっています。 この第1回遣唐使として派遣されたのが犬上御田鍬です。 ちなみに614年の最後の遣隋使も犬上御田鍬です。 630年|最初の 遣唐使の派遣… 犬上御田鉄の派遣 このとき、のちの大化の改新前後で活躍する、 高向玄理・南淵請安・僧旻が帰国します。 聖徳太子 厩戸王(聖徳太子)は、最初の女帝である推古天皇の甥、用明天皇の第2皇子で、推古天皇の皇太子、摂政となり、蘇我馬子と協力して、中国や朝鮮に学び、大王(天皇)中心の政治を、次のような政治を行いました。 冠位十二階の制 『日本書紀』憲法十七条 皇太子、親ら肇めて憲法十七条をつくる。 一に曰く、和を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。 人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。 或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。 然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。 何事か成らざらん。 二に曰く、篤く三宝を敬へ。 三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。 則ち四生の終帰、万国の禁宗なり。 はなはだ悪しきもの少なし。 よく教えうるをもって従う。 それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか枉(ま)がるを直さん。 三に曰く、詔を承りては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。 天覆い、地載せて、四の時順り行き、万気通ずるを得るなり。 地天を覆わんと欲せば、則ち壊るることを致さんのみ。 こころもって君言えば臣承(うけたま)わり、上行けば下靡(なび)く。 故に詔を承りては必ず慎め。 謹まずんばおのずから敗れん。 四に曰く、群臣百寮(まえつきみたちつかさつかさ)、礼を以て本とせよ。 其れ民を治むるが本、必ず礼にあり。 上礼なきときは、下斉(ととのは)ず。 下礼無きときは、必ず罪有り。 ここをもって群臣礼あれば位次乱れず、百姓礼あれば、国家自(おのず)から治まる。 第1条、和を大事にし、争うことが無いようにせよ。 … 第2条、仏教を尊重せよ。 三宝とは仏と法と僧である。 … 第3条、天皇の命令が出たらこれを謹んで尊重せよ。 天皇は天であり、臣下は地である。 … 遣隋使 『隋書』倭国伝 ~607年の遣隋使~ 大業三年、其の王多利思比孤、使を遣して朝貢す。 … 其の国書に曰く、 「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや云々」と。 帝、之を覧て悦ばず、鴻臚卿に謂ひて曰く、「蛮夷の書、無礼なる者有り、復た以て聞する勿れ」と。 明年、上、文林郎 裴清を遣して倭国に使せしむ。 西暦607年、倭の王、多利思比孤が使者を派遣し、朝貢してきた。 その国書には、 「太陽の出る所に住む天子から、太陽の沈む所に住む天子に手紙を出します。 お元気ですか」とあった。 煬帝はこれを見て不快になった。 外交の担当者に、蛮夷のこの手紙は無礼だ、二度とこんな手紙を受け取るなと命じた。 しかし、翌年、煬帝は文林 裴世清を使者として倭国に派遣しました。 中国を統一した隋にこのような無礼な手紙を出すのは、一種のかけでもあったと思います。 しかし、当時、隋は 高句麗との戦いで苦労していたから事なきを得ました。 この608年の答礼使は、『日本書紀』にも記述があります。 『日本書紀』 ~608年の答礼使~ 推古天皇十六年九月辛巳、唐客 裴世清罷り帰る。 即ち復た 小野妹子臣を以て大使と為し、…唐客に副へて遣す。 …其の辞に日く「東天皇、敬しみて西皇帝に白す。 …」と。 西暦608年9月、中国から来た 裴世清が帰国した。 そこでもう一度、 小野妹子を大使として、…これにそえて派遣することになった。 …妹子が持って行った国書には、「東の天皇から西の皇帝に手紙を差し上げます。 …」とあった。 このとき小野妹子と一緒に隋に渡ったのが 高向玄理(たかむこのげんり)と 僧旻(そうみん)、 南淵請安(みなみぶちのしょうあん)の3人です。 のちに帰国し、国政改革に影響を与えます。 飛鳥文化 飛鳥文化は、聖徳太子や蘇我馬子を中核とするヤマト政権が、仏教を保護し信仰をすすめたことから、都のおかれた飛鳥地方で、天皇や豪族を中心としたわが国最初の仏教文化である飛鳥文化が栄えました。 推古朝の前後を指します。 特に、仏教の伝来が、どう日本の政治や社会・文化に与えたかについてはしっかり押さえておきましょう。 仏教の影響ですね。 豪族達も氏寺を建立し始めます。 建立した豪族や人物まで覚えておきましょう。 飛鳥寺(法興寺)…596年に蘇我馬子の命で建てられる。 日本最初の寺。 礎石の上に柱を立て、屋根に瓦を葺いた本格的な寺院。 のちに平城京に移って元興寺と名称が変わります。 法隆寺(斑鳩寺)…現存する世界最古の木造建築で、聖徳太子によって建立。 国際色豊かなエンタシスの柱が特徴。 若草伽藍跡が見つかったことで、法隆寺再建説浮上。 四天王寺…聖徳太子が、物部守屋と蘇我馬子の合戦を祈って建立。 広隆寺…秦氏が聖徳太子から賜った仏像を安置したことで始まる。 中宮寺…聖徳太子が母親の住居を、その死後に寺にしたもの。 百済大寺…舒明天皇の命により建立、。 のちに大官大寺、平城京の大安寺に名称が変わります。 法隆寺金堂・五重塔…世界最古の木造建築物。 重厚でどっしりとしたつくりが特徴。 飛鳥時代の仏像 南北朝時代の影響を受けています。 北魏様式は「厳しく、整った」表情、南梁様式は「柔和でやわらかな」表情がポイントです。 法隆寺金堂釈迦三尊像…北魏様式で製作者は鞍作鳥(止利仏師)、金銅象で座像• 法隆寺夢殿救世観音像…北魏様式、木像で立像、宝珠を持っている• 法隆寺百済観音像…南陵様式、木造で立像、水瓶を持っている• 中宮寺半跏思惟像…南陵様式、木造、頭に宝珠を乗せている• 広隆寺半跏思惟像…南陵様式、木造、宝冠をかぶっている• 飛鳥寺釈迦如来像…北魏様式で鞍作鳥(止利仏師)作、現存最古の仏像 飛鳥時代の絵画・工芸 高句麗の僧である 曇徴が紙、絵の具を伝え、絵画・工芸も発達。 代表的なものは、次の2つです。 法隆寺玉虫厨子…「捨身飼虎図」が描かれている。 中宮寺天寿国繍帳…「天寿国曼荼羅」とも呼ばれる。 飛鳥時代の書物 厩戸王(聖徳太子)が記した仏教の注釈書「 三経義疏」三経とは法華経(ほっけきょう)勝鬘経(しょうまんきょう)、維摩経(ゆいまきょう)を指します。 厩戸王(聖徳太子)に仏教を教えたのが 高句麗の僧である 恵慈(えじ)であることも覚えておきましょう。 百済の僧観である 観勒が暦法・天文を伝えたこともおさえておきましょう。 仏教の伝来 仏教の伝来は古墳文化で学習しました。 もう一度復習しておきましょう。 『扶桑略記』仏教私伝 第廿七代継体天皇即位十六年壬寅、大唐の漢人案部村 司馬達人、此の年春二月に入朝す。 即ち草堂を大和国高市郡坂田原に結びて、本尊を安置し、帰依礼拝す。 世を挙げて皆云ふ、「是れ大唐の神なり」と。 継体天皇の16年、中国からやってきた 司馬達人がヤマト政権に使えることとなり、小さなお堂を大和国高市郡の坂田原に建て、仏像を安置して礼拝した。 これを見た人々は「あれは中国の神」を拝んでいるのだと言った。 この司馬達人の孫が 鞍作鳥(くらつくりのとり)だとされています。 鞍作鳥は 止利仏師(とりぶっし)とも呼ばれます。 飛鳥文化を代表する、法隆寺金堂釈迦三尊像の作者です。 (6)この時期には渡来人や遣隋使などで多くの文化が日本に伝わった。 (6)この時期には渡来人や遣隋使などで多くの文化が日本に伝わった。

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中学歴史で習う飛鳥文化のまとめと特徴

飛鳥文化 仏像 特徴

このことについては追々説明いたします。 仏教文化の一分野である「仏教美術」が、本格的に始まるのが「飛鳥時代」で日本美 術の始まりともいえます。 その美術史の飛鳥時代を、ここでは「仏教」が公伝された538年 欽明天皇七 から「大化の改新」の645年 大化元 までとします。 「大和」とは奈良県の一定地域だったのが奈良県全部ひいては日本全土を表わすよ うになりました。 最初中国で命名された国名は「倭 わ 」でありました。 が、この倭 は見下した言葉だったので「和」と変え「わ、やまと」と読みました。 それが「大和 や まと 」となったのは2字政令 後述 の影響か、それとも、中国では隋、唐を大隋、 大唐と呼称されたのを真似たのかも知れません。 しかし、後の時代でも日本海で出 没した日本人の海賊を、韓国、中国では「倭寇 わこう 」と呼び倭を使用しております。 「飛鳥 あすか 」という地名ですが、天平時代まで「明日香」でしたが、「地名、年 号」を2字にする政令に従って「飛鳥 とぶとり の明日香」と歌によく詠まれていた 句の枕詞 まくらことば の飛鳥を、地名に充当し読み方だけ踏襲したのです。 です から、飛鳥、斑鳩 いかるが などと読み辛いですね。 好きな字の使用が許されまし たが1字、3字、4字の地名を古の人々が考えて2字の地名としたのであります。 これらの地名は当時の歴史と関係ある2字で貴重な遺産と言えます。 2字年号の例外としては天平時代の「天平感宝」「天平勝宝」「天平宝字」「天平神護」「神護景雲」の4字年号があります。 「明日香村」は「高市村」「阪合村」「飛鳥村」の3村が合併して誕生いたしましたが和 を重んじて「飛鳥村」としなかったのでしょう。 3村合併から25年後に飛鳥寺跡の 発掘調査の際に3金堂式の伽藍形式が発見され人々を驚かせました。 「飛鳥ブーム」 が最高潮に達したのは「高松塚の壁画」発見で日本中が沸き立った時でしょう。 とこ ろが、合併当時、飛鳥を訪れる人は少ない時代でしたから妥協で「明日香村」となり ました。 現代人は「明日香」とは古代に使用された由緒ある地名と知らないで新しく 考え出された地名だと思われておりますだけに。 「飛鳥村」にしなかったのは返す返 すも残念ですね。 明日香は大和政権発祥地すなわち我が国の発祥地でもあるうえ我が国最初の国際 都市でもありました。 明日香の村里は自然に恵まれた文化発祥の地で日本人の心の ふるさととも言えましょう。 我が国最古銭は「和同開珎」と言われておりましたがそれより古いお金「富本銭 ふ もんせん 」が見つかりました。 ただ流通していたのは明日香村周辺に限られており ました。 「和同開珎」の読み方は「わどうかいほう」と習いましたが今は「わどうかい ちん」と読むらしいですね。 最近、明日香で硬い花崗岩を「亀の形」に刻んだ石造物が発見されましたがそれ以 外に岩石で制作された「 猿石」「鬼の俎 まないた 」「亀石」「 酒船石 さかふねいし 」 「 鬼の雪隠 せっちん 」「 石舞台古墳」などが明日香には存在いたします。 これらから、飛鳥時代は他の時代の「木の文化」と違って歴史上特異な「巨石文化」 の時代と言えます。 当時の「帝」は祭政一致でありましたので雨乞い等の宗教的な行 事で使われたのでしょうか。 「聖徳太子」が飛鳥の地を離れて斑鳩の地に「法隆寺」を築かれて仏教文化が大き く花開いたのであります。 それは、仏教公伝から約1世紀を経ておりました。 その 聖徳太子ですが、当時、豪族社会の中で豪族たちの猛反発を買うのが予想されなが ら「冠位十二階」、「十七条憲法」を実施、さらには小野妹子に隋へ持参させた国書で は「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。 恙無きや。 」とするなど意気 軒昂な性格の人だったようです。 その意味でも聖徳太子は仏法興隆に多大な貢献さ れたばかりでなく政治家としての手腕も発揮されたようで「律令体制」の基礎を築い た功労者とも言えるでしょう。 仏教とともに渡来したのに中国の「呉音」があります。 中国では「お経」をサンスク リット語 梵語 から呉音に訳しましたが我が国では呉音のお経をそのまま丸暗記い たしました。 ところが、平安時代に現在の字音の基礎となる中国の「漢音」を遣唐使 が持ち帰りましたので朝廷は呉音から漢音の使用に変更いたしました。 それなのに 仏教界はお経を呉音のまま丸暗記して、お経を呉音で読経 どきょう しておりまし た関係上変更には従いませんでした。 その結果が、外国の方が日本の漢字は呉音と 漢音の2通りの読み方があるので難しいと言われる要因となっております。 例えば 数字の「一、二」は呉音では「いち、に」で漢音では「いつ、じ」でありますので「一期 一会」は呉音では「いちごいちえ」ですが漢音では「いっきいっかい」となります。 私はガイドの際、法隆寺大講堂で「講師」を「こうじ」と読みますと説明しておりま す。 我が国では不思議なことに「陰陽師」のルビを見て抵抗無く「おんみょうじ」と読 まれますが現代の漢音読みでは「いんようし」となります。 また、古代の天皇名はほ とんど呉音で読みます。 皆さんも「東大寺」を発願された「聖武天皇」を漢音読みの 「せいぶてんのう」とは読まれないでしょう。 とは言え、「せいぶてんのう」と読まれ る時代が間もなく来るような気もしますが。 飛鳥時代は「氏族仏教」で一族の繁栄と誇りを競って造営した「古墳文化」から煌 びやかな「寺院文化」と変貌しました。 当然、彫像も「埴輪」から「仏像」の制作へと変 わりました。 飛鳥時代に建立された寺院は個人の病気平癒を祈願したものが多く、国家鎮護の 寺院は存在いたしません。 渡来人とともに小仏像がもたらされ、仏教公伝は538年ですがそれ以前から渡 来人は仏教を信仰しておりました。 その538年に我が国に「仏像と経典」が百済の 聖明王 父親は武寧王陵で有名な武寧王 から欽明帝に送られました。 欽明帝は気に 入られたようですが、まだ帝と言っても豪族社会の首長程度で律令制度も確立して おらず朝廷は絶対権力ではありませんでした。 そこで、有力な豪族に仏像を拝みお 経を唱える べきかどうかを尋ねた所、礼拝に賛意を示したのが渡来人の蘇我氏だけ だったので争いを避けて仏教信仰は見送りになりました。 このことは聖徳太子なら いざ知らず蘇我氏が仏教に精通していたとは考えられないだけに宗教闘争ではなく ただ単に政治闘争になることを恐れた結果でしょう。 我が国では宗教戦争は存在せず、明治の「神仏分離令」が「廃仏毀釈運動」にまで拡大いたしましたがこれも政治闘 争です。 当時活躍した下級武士の旧弊打破運動で従来の「神」の上に「仏」があるので はなく、神の下に仏があると言う善し悪しは別として今までの制度を変えることだ けが目的でした。 もし、宗教戦争ならばどちらが消えなければならず、それどころ かちゃっかりと「僧」が「神官」への鞍替えが起きました。 飛鳥時代には年号がなく十干十二支 じっかんじゅうにし の干支 かんし・えと で表示されていたため干支表示で少し疑問が起こりますと還暦でお解かりのように ワンサイクルが60年のため60年の違いが出て、色んな期日の決定に混乱を来た しているのが飛鳥時代です。 ところが逆に、仏師の名前が分かる仏像もあり、その貴重な仏像に は「飛鳥寺の本尊」「法隆寺金堂中央の本尊」「法隆寺金堂の四天王像」があります。 こ れらの作者は総て渡来人で、渡来人は有能な技術者であるだけでなく優れた工具も 持参したことでしょう。 「下らない」とは中世に「上方」で造られたものは「ブランド 物」であるが他の地域で造られた物は詰まらないと言う意味ですが、飛鳥時代にも 「百済ない」と言われ、厚遇で迎えられた百済人は優れた技術者だったようです。 私 たちの時代は渡来人ではなく帰化人と教えられましたが当時は戸籍制度がないので 渡来人となります。 飛鳥時代の仏像の服装はインドでは考えられない厚着です。 中国の皇帝の服装で あると言う説は最近は否定され中国の南朝の仏像様式だと言われておりますが私は 中国の皇帝の服装だと考えます。 しかし偉そうな事を言っても、先程での「呉音」は 中国南朝の音で呉音と南朝の仏像様式が一緒に渡来したのかも知れません。 飛鳥時代の仏像が影響を受けたカンダーラで造られた仏像は、髪は天然パーマの ウェーブ状、顔は面長、パッチリとした人間の眼で後の時代のように瞑想するよう な半眼でないうえ、鼻は鼻翼が大きくまるでギリシャ人をモデルにしたような「釈 迦如来像」であります。 上座部仏教 小乗仏教のことで、小乗仏教は大乗仏教が命名した差別用語で現在 は使わないようになっております。 のミャンマ、タイ、スリランカは釈迦如来だ けを信仰の対象に崇拝しておりますが我が国では釈迦如来が他の如来と同じように 空想上の人物と信じ実在された人物であることを知っている人は少ないようです。 飛鳥時代に造像された仏像は、釈迦如来、薬師如来、観世音菩薩 観自在菩薩 、 弥勒菩薩ぐらいで種類は限られております。 天部では仁王、四天王などです。 像の 素材は「銅」、「木」が多く、木の素材は後の時代の「桧」と違って「樟」です。 韓国では 金銅像が盛んに造られ木彫像は殆ど無いのに、我が国では樟材の木彫像が、「法隆 寺」などに数多く残されているのは制作が渡来人にせよ、仏教伝来以前の神道で巨 木に神が宿るという言い伝えと良質な木材が豊富にあったからでしょう。 当初の仏像は黄金に輝くか艶やかな極彩色で飾られておりましたが世界の黄金崇 拝に反して金メッキの剥落、彩色の剥落退色した仏像が好まれる我が国です。 我々は「仏像」を信仰の対象として拝むのでなく美術品として鑑賞しておりますが 仏像は通常、正面から拝むものなので「正面鑑賞性」で充分です。 古代寺院、例えば「法隆寺金堂」の場合、連子窓も無く照明もなく扉は常時閉じられていた思われます がもし法要の際、開扉したとしても自然光のみで現在の金堂の明るさと同じです。 それか、燈油に芯を浸して火を灯したものでそれは薄暗い照明であったことでしょ う。 しかも、法要はその薄暗い金堂内では行われず、時代劇の裁判での白州 しら す と同じく、金堂前の白州で行われる「庭儀」で仏像は正面から僅かに見える状態 でありました。 仏像を目の前で礼拝出来るようになるのは平安時代に国家鎮護のた めの吉祥 悔過 きちじょうけか が金堂内で行われるようになってからです。 右繞礼 拝 うにょうらいはい という仏を右回りで礼拝する作法もありますが。 薄彫りから 丸彫りの像で魅力ある感動を与える美術品となったのは衆生を感動させて仏教に帰 依させる目的からでしょう。 釈迦如来像 安居院 「 飛鳥寺 」 現在の安居院 あんごいん の「飛鳥大仏」は後世の補修が拙く原型を 留めないので超国宝となるべきところ残 念ながら重要文化財の指定に留まってお ります。 なぜ、銅像がそこまで手を加え なければならなかったのか疑問が起こり ます。 多分、百済から渡来した中に仏師 がいなかったのが原因でしょう。 飛鳥寺の計画時には請来された仏像が あったので仏師が来朝しませんでしたが、 やはり新しい仏像制作の要望が起きたの ではないのでしょうか。 そこで、畑違い の「馬の鞍造り」に従事した渡来人「止利 仏師」が動員されたため、満足な出来栄え の仏像が制作できなかったのでしょう。 止利仏師はこれ以降も、金銅像の制作だけに関わっておりましたが、鋳造の技法 も進歩して「法隆寺金堂本尊」などの優品を残しております。 「飛鳥大仏」は大変痛ましいお姿ですが私の知り合いの方などは愛着を感じて古 都奈良では一番好きな仏像だと言われますのも日本人の感性でしょうね。 釈迦三尊像 法隆寺 「光背」は創像当時の想像図です。 法隆寺の本尊「釈迦三尊像」は発願 からたった13ヶ月で完成させたと いう通常では考えることの出来ない 話ですがそれを可能にしたのは聖徳 太子一族の結束でしょう。 叔母に当 たる「推古女帝」にお願いし勅願で造 像すればよいのにそれもせずしかも 急を要するのであればもう少し小さ い造型の仏像でよかったのにそれす らしなかったのは太子一族の必死の 思いがあればこそで、この執念が不 可能を可能にしたのでしょう。 また、670年の落雷火災の際に も落雷にあったのは五重塔だったの で金堂に類焼するまで時間的余裕が ありましたので持ち出すことが出来 たのでしょう。 「夢殿」を「上宮王院」と呼ばれるように太子一族のことを上宮王家の人々と呼び ます。 「釈迦三尊」の「三尊」ですが真ん中の主尊を「中尊」と言い両脇のお供を「脇侍、 脇士、挟侍、一生補処 いっしょうふしょ 」と言います。 法隆寺の釈迦三尊像は普 通脇侍は普賢菩薩、文殊菩薩ですが薬王菩薩、薬上菩薩と珍しい取り合わせです。 「脇侍 わきじ 」と言っても水戸黄門の助さん、格さんではなく脇侍は将来如来に 昇格する可能性がある仏さんです。 助さん、格さんはいくら頑張っても殿様には なれないでしょう。 他に三尊と言えば薬師三尊、阿弥陀三尊などがあります。 「止利仏師」は百済系渡来人の出世頭だった蘇我氏の庇護が厚かったので大化の 改新で蘇我宗家が亡ぶと同時に歴史の舞台から消えていきました。 飛鳥時代と言えば気の遠くなるような長い年月でその年月を経た仏像を、顕教 のお陰で身近に古都奈良で拝めるとはなんと幸せなことでしょう。 それが奈良を 訪れる多くの方が修学旅行以来の訪れとは悲しい話ですね。 私は今秋より平日の ガイドを実施いたしますとともに3年以内に「古都奈良の魅力」の語り部として全 国津々浦々を行脚して回る所存です。

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