機 皇帝 あめ の かく のみ か づち。 天岩戸とは

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機 皇帝 あめ の かく のみ か づち

日本語千夜一話 小林昭美-247 【あ・あが(吾・我)】 朝 露(あさつゆ)の既夜須伎(けやすき・消) 我(あが)身 (み)比等(ひと)國(くに)に須疑(すぎ)かてぬかも意夜(おや)の目(め)を保利(ほり) (万885) 出 (いで)て由伎斯(ゆきし)日(ひ)をかぞへつつ家布(けふ・今日)々々(けふ)と 阿(あ・我)を麻多周(またす)らむ知々(ち ち)波々(はは)らはも (万 890) 吾(あ)を待(まつ)と君(きみ)が沾(ぬ れ)けむあしひきの山(やま)の四附(しづく)に成(なら)益(まし)物(もの)を (万108) 最初の歌(万885)の「我」は朝鮮語では我 nae である。 二番目の歌(万890)の「吾」は吾 na である。 三番目の歌(万108)の「吾」は吾 jeo である。 吾 jeo は「私」の謙譲語である。 私 na は私 nae であらわれることもある。 助詞 ga (日本語の「が」と同じ)が付くと nae ga になり、助詞 nun (日本語の「は」にあたる)や reul (日本語の「を」にあたる)が付くと na nun などとなる。 古代中国語の「我」は我 [ngai] であり、「吾」は吾 [nga] である。 朝鮮語の na 、 nae は中国語の我 [ngai] あるいは吾 [nga] と同源である。 疑母 [ng-] は鼻音であり [n-] あるいは [m-] と調音の方法が同じである。 中国語の疑母 [ng] が朝鮮語でnであらわれる例としては、我 [ngai]na 、眼 [ngean]nun 、牙 [ngea]eo geum ni 、などをあげることができる。 疑母 [ng-] は日本語や朝鮮語では語頭にたつことがない音であ り、介音 [-i-] があとに来る場合などは脱落することもある。 は朝鮮漢字音 例:我 [ngai] あ a 、吾 [nga] あ o 、魚 [ngia] うお eo 、御 [ngia] お eo 、牛 [ngiua] うし u 、 日 本語の牛(うし)は「牛」の朝鮮漢字音牛 u に訓(古来からの朝鮮語)の牛 so を重ねたものである。 日本語の我・吾(あ・あれ・わ・われ)、朝鮮語の我 a,na,nae ・吾 o,na,nae はいずれも古代中国語の我 [ngai] あるいは吾 [nga] から転移したものである。 朝鮮語の「私」は na であり、「お前」は neo であり、日本人には区別しにくい。 na は古代中国語の我 [ngai] あるいは吾 [nga] の転移したものであり、 neo は古代中国語の汝 [njia] の転移したものである。 【あさ(朝)】 朝日(あさひ)弖流(てる)佐太(さた)の岡 邊(をかへ)に群(むれ)居(ゐ)つつ吾等(わが)哭(なく)涙(なみだ)息(やむ)時(とき)も無(なし) (万177) 朝鮮語で朝のことを a chim という。 大野晋は『日本語の起源』(旧版)のなか で、日本語の朝 asa と朝鮮語の a chim とは子音に音韻対応があるとしている。 また、『岩 波古語辞典』でも、「朝鮮語の朝 a chim と同源か」としている。 金思燁『韓語訳萬葉集』では「朝日」 a chim hae と 訳されている。 hae は日本語の日(ひ)と同源である。 は 日本語では「豈(あに)図らんや」のように反語的に使われる。 朝鮮語にも a ni ということばはあるが、金思燁の『韓訳萬葉集』で は日本語の豈(あに)は朝鮮語の a ni とは訳されていない。 朝鮮語の a ni は否定の意味で使われる。 照 (てる)月(つき)の 光(ひかり)も 不 レ 見(みえず)、、 (万317) 三 空(みそら)去(ゆく)名(な)の惜(をしけく)も吾(われ)は 無 (なし)不 レ 相(あはぬ)日(ひ)數多(まねく)年(と し)の経(へぬれ)ば (万 2879) 最初 の歌(万317)では「照る月の光も不 レ 見(みえず)」は金思燁の『韓訳萬葉集では「 tal pich (月光) ko po i ji (見える) a ni (否定) ha go 」と訳されている。 a ni は否定に使われている。 二番目の歌(万 2879)では「惜しけくも無(な)し」は「 a khap ji (惜 しい) ko a ni (否定)」の「無し」に a ni が使われている。 また、「相(あは)ぬ日」は「 man na ji (会う) a ni (否定) ha neun nal (日)」と訳されており、否定の「ぬ」に a ni が あてられている。 豈(あに)は日本語では反語的に使われ、朝鮮語 では否定に使われるが、中国語の「豈」の翻訳語である「あに」は朝鮮語の a ni の 転用である可能性がある。 【あはび(鰒)】 野 嶋(のじま)の海子(あま)の 海底(わたのそこ) 奥(おき)つ伊久利(いくり)に 鰒珠(あはびたま) さはに潜(かづき)出 (で)、、 (万 933) 朝鮮語の鮑(あはび)は jeon pok (全鰒)である。 「鮑」の中国語音は鮑 [peu] であり、「鰒」は鰒 [biuk] である。 日本語の鮑(あはび)は中国語の鮑 [peu] から派生したことばであろう。 「あは+び」は「鮑 [peu] +鰒 [biuk] 」ではあるまいか。 日本語の「あはび」も朝鮮語の jeon pok (全鰒)も 中国語の鮑 [peu]あるいは 鰒 [biuk] から派生したことばであろう。 【あふひ(葵)】 成 (なし・梨)棗(なつめ)寸三(きみ・黍)に粟(あは)嗣(つぎ)延(はふ)田葛(くず)の後(のち)も将 レ 相 (あはむ)と 葵(あふひ)花 (はな)咲(さく) (万 3834) 「葵(あふひ)」の朝鮮語は葵 a uk i である。 日本語の「あふひ(葵)」は朝鮮語の葵 a uk i と同系のことばであろう。 【あま(海部・海人)】 然 (しか)の 海部(あま)の礒 (いそ)に苅(かり)干(ほす)名告(なのり)藻(そ)の名(な)は告(のり)てしを何如(なにか)相(あひ)難(がた)き (万3177) 然 (しかの) 海人(あま)は軍 布(め)苅(かり)塩(しほ)焼(やき)無 レ 暇 (いとまなみ)髪梳(くしげ)の小櫛(をぐし)取(とり)も不 レ 見 (みな)くに (万 278) 大 王(おほきみ)の塩(しほ)焼(やく) 海部(あま)の 藤衣(ふぢころも)穢(なれ)は雖 レ 為 (すれども)弥(いや)めづらしも (万2971) 金思燁『韓語訳萬葉集』では最初の歌(万 3177)の「海部(あま)」は eo pu <漁夫>と訳している。 中国語の漁夫 [ngia piua] であり、朝鮮漢字音は漁夫 eo pu は漁 [ngia] の頭音が脱落したものである。 朝鮮語では濁音が語 頭にくることはないので中国語の疑母 [ng-] は次に [-i-] 介音がくるときは規則的に脱落する。 魚 [ngia] の朝鮮漢字音は魚 eo であり、日本語の魚(うを)と同源である。 二番目の歌(万278)の「海人(あま)」は hae nyoe と訳している。 hae nyeo は hae <海> nyeo <女>である。 三番目の歌(万2971)の「海人(あま)」は pa tas<海の> sa ram <人>と訳している。 [m -] の前に母音「あ」が添加された例としては網[miuang]あみ、をあげることができる。 日本語と朝鮮語では海部(あま)にあたることばは違うが、いずれも中国語の海部・海人・漁夫・海女などに由来することばが使われている。 【いかに(如何)】 二 人(ふたり)行(ゆけ)ど去(ゆき)過(すぎ)難(がた)き秋山(あきやま)を 如 何(いかにか)君(きみ)が獨(ひとり)越(こゆら)む (万106) 古代中国語の「如何」は如何 [njia-hai] で、日本語では「いか」「いかが」「いかに」など と使う。 「如」の現代朝鮮語は如 yeo であり、 「如何」の朝 鮮漢字音は如何 yeo ha である。 古代中国語の日母 [nj-] は朝鮮漢字音では規則的に脱落する。 日本語の如何(いか)は「如」の頭音が脱 落したものであり、朝鮮語読みである。 記紀万葉の時代の史(ふひと)は朝鮮半島出身の人 が多く、八世紀の日本語は朝鮮語の影響を受けている。 日母 [nj-] の朝鮮漢字音の例:日 il 、潤 yun 、熱 yeol 、若 yak 、柔 yu 、譲 yang 、入 ip 、 日本語の潤(うるおふ)、熱(あつい)、若(わ かい)、柔(やはら)、譲(ゆづる)、入(いる)なども日母 [nj-] の脱落したものである。 古代日本語の音韻構造は朝 鮮語に近かった。 【いさな(鯨)】 鯨 魚(いさな)取(とり)海(うみ)や死(しに)為(す)る山(やま)や死(しに)為(す)る死(しぬれ)こそ海(うみ)は潮 (しほ)干(ひ)て山(やま) は枯(かれ)為(す)れ (万 3852) 鯨の 朝鮮漢字音は鯨 kyeong である。 朝鮮語の訓(古来の朝鮮語)は ko rae である。 鯨の古代中国語音は鯨 [gyang] であり、 朝鮮語の ko rae も中国語の鯨 [gyang] と関係のあることばであろう。 中国語の鯨は古代朝 鮮では ko raeとして受け入れられ、やがて kyeongに変化したものと思われる。 日本語の鯨(いさな)の「な」は「さかな」の 「な」であり、魚 [ngia] の転移したものである。 「いさな」の「いさ」は不 明である。 日本語も朝鮮語もそれぞれ、中国語の語彙と関係のあるところは注目に値する。 【いな(否)】 否 (いな)も諾(を)も隋 レ 欲 (ほしきまにまに)可 レ 赦 (ゆるすべき)皃(かたちは)所 レ 見 (みゆ)や我(われ)も将 レ 依 (よりなむ) (万 3796) この歌の「否(いな)も諾(を)も」の部分は金 思燁の『韓訳萬葉集』では「 e 」 ra go mal hae do 「 a ni o 」 ra go と訳されている。 「 e 」は「はい(肯定)」であり「 a ni 」は「いな(否定)」である。 朝鮮語の a ni は日本語の「豈(あに)図らんや」の「あに」と同 系統のことばであろう。 日本語の「あに」は打消しであり反語である。 一方、朝鮮語の a ni は否定であるが使われ方が近い。 【いにしへ(古・古部・去家)】 淡 海(あふみ)の海(み)夕浪(ゆふなみ)千鳥(ちどり)汝(なが)鳴(なけ)ば情(こころ)もしのに 古(いにしへ)所 レ 念 (おもほゆ) (万 266) 阿 騎(あき)の野(の)に宿(やどる)旅人(たびびと)打(うち)靡(なびき)寐(い)も宿(ね)らめやも 古部(いにしへ)念(おもふ)に (万46) 去 家(いにしへ)の倭文旗(しつはた)帯(おび)を結(むすび)垂(たれ)孰(たれと)云(いふ)人(ひと)も君(きみ)には不 レ 益 (まさじ) (万 2628) 「いにしへ」は朝鮮語では yeot <昔> il <日>である。 日本語の「いにしへ」の「へ」は朝鮮語の 訓(古来の朝鮮語)は日 hae である可能性がある。。 日本語の「いにしへ」は「去(いにし)日 hae 」ではあるまいか。 【いひ(飯)】 飯 (いひ)喫(はめ)ど味(うまく)も不 レ 在 (あらず)雖 二 行 徃 一 (ゆ きゆけど)安(やす)くも不 レ 有 (あらず)赤根(あかね)さす君(きみ)が情(こころ)し忘(わすれ)かねつも (万3857) 朝鮮語の飯(いひ)は飯 pap である。 飯 pap は中国語の飯 [piuan] と関係のあることばではあろう。 日本語の飯(い ひ)の「ひ」は朝鮮語の飯 pap と関係がある可能性がある。 中国語の飯 [piuan] 、 朝鮮語の飯 pap 、日本語の飯(いひ)は似ている部分が多い。 しか し、音韻対応は不 十分である。 同源であるとすれば、どこかでミッシング・リングができてしまったのであろう。 【いふ(言)】 乞 (いで)如何(いかに)吾(わが)幾許(ここだく)戀(こふ)る吾妹子(わぎもこ)が不 レ 相 (あはじ)と 言(いへ)る事 (こと)も有(あら)莫(な)くに (万2889) 朝鮮語の「いふ」は mal-ha-da である。 mal は朝鮮語で「ことば」の意味である。 mal は動詞にも使われる。 mal-ha-da は「言う」「話す」である。 朝鮮語の mal は中国語の言 [ngian] と関係のあることばではあるまいか。 中国語の疑母 [ng-] は調音の方法が [m-] と同じであり、韻尾の [-n] は [-l] と調音の位置が同じ(歯茎の裏)であり、転移しや すい。 朝鮮語の mal は中国語の言 [ngian] と関係のあることばではあるまいか。 現代の朝鮮漢 字音では中国語の 疑 母 [ng-] は規則的に脱落するが、 朝鮮語の訓(古来の朝鮮語)では中国語の 疑母 [ng-] が n であ らわれる例がみられる。 内は朝鮮語 例:我 [ngai] na 、眼[ngean] nun 、 また、日本語の訓でも 疑母 [ng-] [ngea]がナ行またはマ行であらわれるものがある。 例:魚 [ngia]な、額 [ngeak]ぬか、訛 [nguai]な まり、願 [ngiuan]ねがふ、偽 [nguai]にせ、 芽 [ngea]め、 眼 [ngean]め、御 [ngia]み、雅 [ngea]美 ・みやび、迎 [ngyang]む かへる、 古代中国語の言 [ngian] は日本語では言(こと)である。 疑母 [ng-] は調音の位置が [k-] と同じであり、韻尾の [-n] は [-t] と調音の位置が同じである。 古代中国語の言 [ngian] は日本語では「こと」になり、朝鮮語では mal になった可能性がある。 一方、朝鮮語訳には ip <口>ということばがある。 「口にする」というよ うな使い方もあり、日本語の「いふ(言)」は朝鮮語の ip と同系のことばではないかという説もある。 ヨーロッパの言語でも英語の language 、ラテン語の lingua <ことば>は tongue <舌>と関係のあることばである。 【いま(今)】 秋 (あき)去(さら) ば今(いま) も見如(みるごと)妻戀(つまごひ)に鹿(か)将 レ 鳴 (なかむ)山(やま)そ高野原(たかのはら)の宇倍(うへ) (万84) 朝鮮語の「今(いま)」は ji keum である。 ji keum とは中国語の ji <只> keum <今>の音読みである。 【いも(妹)】 妹 (いも)が名(な)も吾(わが)名(な)も立(たた)ば惜(をしみ)こそ布仕(ふじ)の高嶺(たかね)の燎(もえ)つつ渡(わ たれ) (万 2697) 朝鮮語には im ということばがあって、意味は「恋慕う人」であ る。 金思燁は『韓訳萬葉集』ではこの歌の「妹(いも)」を im <恋慕う人>と訳している。 日本語の「いも」は唐代の漢字音に依拠 している。 語頭の「い」は夢(いめ)、梅(うめ)、馬(うま)などのように母音が添加されたものである。 万葉集の時代の「妹(いも)」は現代日本語の妹 (いもうと)より意味の範囲が広く、男から妻や恋人・姉妹など親しい女性を呼ぶのにも使われ、女どうしで親しんで呼ぶときにも使われている。 金思燁の『韓 訳萬葉集』では、その意味に応じて「妹(いも)」は nim <恋人>(万508)、 nae nim <私の恋人>(万1856)、 keu tae <そなた>(万91)、 cheo nyeo <私(謙譲語)の女>(万1886)、 ma nu ra <妻>(万2982)などがあてられいている。 【う(鵜)】 上 瀬(かみつせ)に 鵜(う)を八頭(やつか)漬(づけ) 下瀬(しもつせ)に 鵜 (う)を八頭(やつか)漬(づけ) 上瀬(かみつせ)の 年魚(あゆ)を 令 レ 咋 (くはしめ)、、 (万 3330) 金思燁の『韓訳萬葉集』の朝鮮語訳では「鵜」は ka ma u ji である。 朝鮮語の ka ma u ji の u は「烏」である。 朝鮮語には ka ma u ji<烏>、 kal ka ma gwi <鴉>、 kha ma gwi などのことばがあり、いずれも鴉の類である。 ka ma、 kal ma、 kha maはいずれも鴉の古音、牙 [ngea]から派生したものであろう。 「 鵜 」「鴉」「烏」の古代中国語音は 鵜 [dyei] 、鴉 [ea] 、烏 [a] であり、朝鮮漢字音は 鵜 je 、 鴉 a 、烏 o である。 日本語の「う(鵜)」は中国語の鴉 [ea] 、烏 [a] に近い。 「烏」「鴉」は日本語では「からす」にも使われる。 「隹」は「鳥」と同義である。 【うし(牛)】 馬 (うま)にこそ 布毛太志(ふもだし・紐)可久(かく・掛)物(もの) 牛(うし)にこそ 鼻(はな)縄(なは)はくれ、、 (万3886) 朝鮮語では牛のことを牛 so という。 現代の朝鮮語では漢字を使う場合は必ず音読み で、訓読はしない。 しかし、かつては漢文を訓読する場合に両 点といって中国語+朝鮮語訳を併記する方法がしばしば用いられていた。 朝鮮語研究の第一人者である小倉進平は「國語及朝鮮語のために」(『小倉進平博士著 作集(四)』所収)で次のように述べている。 朝鮮語では訓と音とを必ず併唱する。 例えば國語で「人」「犬」なる漢字を讀む場合には「人」は 「 ひとといふ 字」、「犬」は「 いぬといふ字」と訓でこそいふが、更に進んで之を「 ひとの じ んの 字」、「 いぬの けんの字」といふ風に唱へるこ とをしない。 然るに朝鮮語にありては「人」なる漢 字を讀む場合には、必ず sa ram in 、 「犬」なる漢字を讀む場合には、必ず kae kyeon と 音訓併唱する ことを必要條件とするのである。 (ハングルの部分はローマ字に改めた) 日本でも『千字文』の冒頭にある「天地玄黄 宇 宙洪荒」を「テンチのあめつちは クエンクワウとくろく・きなり。 ウチウのおほぞらは コウクワウとおほいにおほきなり」などと読んだ。 これも朝鮮半島の 両点と同じく音訓両読で、「文選読み」といった。 【うた(歌)】 は しきやし老夫(おきな)の 歌(うた)に おほほしき九(ここの)の兒等(こら)やかまけて将 レ 居 (をらむ) (万 3794) 朝鮮語の「歌」は no rae である。 日本語の祝詞(のりと)は朝鮮語の no rae と同系のことばである可能性がある。 万葉集には 「のる(告)」ということばが数多く使われている。 万葉集の時代の日本語「のる(告)」は朝鮮語の no rae と同源である可能性がある。 例:家告(のら)せ(万1)、名告(のら)さね (万1)、 その名は謂(のら)じ(万2407)、妾(あ)が名は教(のら)じ(万 1727)、 【うま(馬)】 玉 (たま)きはる内(うち)の大野(おほの)に 馬(うま) 數(なめ)て朝(あさ)布麻須(ふます)らむ其(その)草(くさ)深野(ふかの) (万4) 朝鮮語の馬は mal である。 アルタイ系騎馬民族のことばは mal が多い。 モンゴル語では馬のことを moir という。 中国語の馬 [mea] はアルタイ系のことばからの借用である可能性があ る。 日本語の「うま」は中国語の馬 [mea] の語頭に母音を添加したものである。 【うまし(味)】 飯 (いひ)喫(はめ)ど 味(うまく)も 不 レ 在 (あらず)雖 二 行 徃 一 (ゆ きゆけど)安(やす)くも不 レ 有 (あらず)赤根(あかね)さす君(きみ)が情(こころ)し忘(わすれ)かねつも (万3857) 朝鮮語では「うまい」ことを mat という。 朝鮮漢字音では韻尾 [-t] は失われて味 mi である。 日本語で中国語の頭音 m の前に母音が添加される例としては、梅(うめ)、 馬(うま)などをあげることができる。 【うみ(海)】 渡 津海(わたつみ)の豊旗雲(とよはたくも)に伊理比(いりひ)紗(さ)し今夜(こよひ)の月夜(つくよ)清明(きよらけく)こ そ (万 15) 淡 海(あふみ)の海(み)夕浪(ゆふなみ)千鳥(ちどり)汝(なが)鳴(なけ)ば情(こころ)もしのに古(いにしへ)所 レ 念 (おもほゆ) (万 266) 一番目の歌(万15)の「わたつみの」は金思燁 の『韓訳萬葉集』では han pa da <大海>と訳されている。 「わたつみ」は「海」に かかる枕詞である。 「わた+つ+み」は「朝鮮語の海 pa da + つ(助詞)+日本語の海(うみ)」の両点(二か国語併記)である。 この歌は中大兄(なかのおほえ)、後の天智天皇 の歌とされているが、朝鮮語との同源語と思われることばが多く使われている。 例: pa da (海・わた)、 pheol (幡・はた)、 ku reum (雲・くも)、 ip(入・いる)、sa(射・さす)、 hae (日・ひ)、 pam (晩・ばん<夜>)、 tal (月・つき)、 二番目の歌(万266)の「うみ(海)」は ho su <湖水>と訳されている。 この歌は柿本人麻呂の歌 で「淡海(あふみ)の海(うみ)」は琵琶湖のことである。 万葉集の時代の日本語では湖も海と呼ばれていたことがわかる。 人麻呂は近江に都があった時代のこ とを懐かしく思い、偲んでいる。 【うめ(梅)】 梅 枝(うめがえ)に鳴(なき)て移徙(うつろふ)鸎(うぐひす)の翼(はね)白妙(しろたへ)に沫雪(あわゆき)そ落(ふる) (万1840) この歌の「梅」は金思燁の『韓訳萬葉集』では mae hwa <梅の花>とされている。 「梅」はこの場合「梅の 花」のことである。 梅は中国から渡来した花で万葉集では桜を詠んだ 歌よりも梅をうたった歌のほうが圧倒的に多い。 万葉集では「烏梅」「宇梅」「于梅」「宇米」「有米」などと語頭に母音を添加して表記されていることが多 い。 【うを(宇乎<魚>)】 思 可能宇良(しかのうら)に伊射里(いざり・漁)する安麻(あま・海人)伊敝妣等(いへびと・家人)の麻知(まち・待)古布(こふ・戀)らむにあかし都流 (つる・釣) 宇乎(うを・魚) (万3653) この歌の「宇乎」は魚(うを)である。 朝鮮漢字 音の「魚」は魚 eo である。 日本語の 「うを(魚)」は音義ともに朝鮮漢字音の 魚 eo に近い。 日本語の「うを」も朝鮮漢字音の 魚 eo も、中国語の魚 [ngia] の頭音の脱落したものである。 日本語の訓でも中国語音の疑母 [ng-] が脱落した例がみられる。 例:御 [ngia] お、我 [ngai] あ、吾 [nga] あ、顎 [ngak] あご、牛 [ngiu] うし、仰 [ngiang] あふぐ、 これらの漢字の朝鮮漢字音は次の通りである。 例:御 eo 、我 a 、吾 o 、顎 ak 、牛 u 、仰 ang 、 漢字音の転移のしかたは日本語と朝鮮語で似てい る。 このことは日本語の祖語と朝鮮語の祖語の音韻構造が似ていたことを示唆している。 朝鮮語の「魚」の訓(古来の朝鮮語)は mul ko gi である。 朝鮮語では魚も肉も ko gi という。 肉と魚を区別するときは mul ko gi ということもある。 mul は水である。 金思燁の『韓訳萬葉集』では「宇乎 (うを)」を ko gi と訳している。 【え・えだ(枝)】 梅 枝(うめがえ)に鳴(なき)て移徙(うつろふ)鸎(うぐひす)の翼(はね)白妙(しろたへ)に沫雪(あわゆき)そ落(ふる) (万1840) 朝鮮語の「えだ」は ka ji である。 ka ji の ji は枝 [tjie] の朝鮮漢字音である。 ka ji の ka は枝の上古音である可能性がある。 中国語の声符 「支」には枝 [tjie] と技 [gie] というふたつの読みがある。 支 [gie] が古く、支 [tjie] のほうが新しい。 朝鮮語には両点といって、二つの 読み方を併記する方法が新羅の郷歌などにみられる。 ka ji は 朝鮮漢字音の技 ki と枝 ji を併記したものである可能性がある。 【おき(奥)】 淡 海(あふみの)海(み) 奥(おきつ)白 浪(しらなみ)雖 レ 不 レ 知 (しらずとも)妹所(いもがりと)云(いはば)七日(なぬか)越(こえ)來(こむ) (万2435) 現代の日本語では沖(おき)と書くが万葉集の時 代には「奥」あるいは「澳」である。 「奥」の日本漢字音は奥(オウ)であるが、古代中国語音は奥 [uk] である。 日本語の訓、奥(おく)は古代中国語音の 痕跡を留めている。 朝鮮語の「おき(沖)」は nan pa da <灘 海>で、複合語である。 【おきな(老人・翁)】 は しきやし 老夫(おきな)の歌 (うた)におほほしき九(ここの)兒等(こら)やかまけて将 レ 居 (をらむ) (万 3794) 昔 (むかし) 有 二 老 翁 一 (お きな有き) 号(名を) 曰 二 竹 取翁 一 也 (竹 取のおきなと云う) (万 3791題詞) 「おきな」は朝鮮語では老人 no in である。 no in は 中国語の老 [lu] 人 [njien] が転移したものである。 朝鮮語では [l-] が語頭に立つことはない。 日母 [nj-]は朝鮮語では規則的に脱落する。 金思燁の『韓訳萬葉集』 では最初の歌(万3794)の「老人(おきな)」も、二番目の歌の「老翁(おきな)」も「竹取の翁」の翁(おきな)もすべて no in <老人>と訳している。 古代の日本語でも [l-] がナ行に転移したものがみられる。 [l-] と [n-] は調音の位置が同じであり転移しやすい。 来母 [l-] がナ行に転移する例:梨(なし)、練(ねる)、浪 (なみ)、 古代の日本語でも中国語の日母 [nj-] が脱落した例がみられる。 u ri は一人称で日本語の俺(おれ)と同源である。 im は君臣、親子、師弟などの慕う人であり、 im keum は成句で「王」である。 日本語の「おほきみ」には我王 tae kun <大君>(万3324)、 im keum nim (万3668)などもあてられている。 朝鮮漢字音 の「君」は君 kun である。 im keum nim の nim は「王さま」の「さま」にあたることばである。 一番目の歌(万3337)は日本語では「母父 (おもちち)」と読みならわされている。 日本語の母(おも)は朝鮮語の母 eo meo と 同源であろう。 古代日本語ではマ行音の前に母音を添加 することが多い。 例:妹(いも)、梅(うめ)、馬(うま)、など 二番目の歌(万2925)の乳母(おも)・於毛 (おも)の朝鮮 語訳は乳母 yu mo である。 yu は中国語の乳 [njia] の頭音が脱落したものである。 朝鮮漢字音では中国 語の日母 [nj-] は規則的に脱落する。 日本語では母(おも)と乳母 (おも)も同じであり、弁別されていない。 【かさ(笠)】 人 (ひと)皆(みな) の笠(かさ)に 縫(ぬふと)云(いふ)有間(ありま)菅(すげ)在(あり)て後(のち)にも相(あはむ)とぞ念(おもふ) (万3064) 朝鮮語の「笠」は kat である。 「笠」は昔、成年男子が頭にかぶった冠で ある。 日本語の「笠」も古語では、頭上にかぶり、あるいはかざすもので、菅を材料とするものもを菅笠といった。 日本語の「かさ(笠)」は朝鮮語の kat と同源であろう。 【かすみ(霞)】 清 (きよき)湍(せ)に千鳥(ちどり)妻(つま)喚(よび)山際(やまのま)に 霞 (かすみ)立(たつ)らむ甘南備(かむなび)の里(さと) (万1125) 朝鮮語の霞(かすみ)は an ke である。 an ke の ke は中国語の霞 [hea] であろう。 日本語の霞(かすみ)は中国語の「霞 [hea] +つ(助詞)+霧 [miu] 」ではあるまいか。 霞と霧は実体は同じで、朝鮮語 では霞も霧も an ke である。 【かぜ(風)】 綵 女(うねめ)の袖(そで)吹(ふき)反(かへす)明日香(あすか) 風 (かぜ)京都(みやこ)を遠(とほ)み無用(いたづら)に布久(ふく) (万51) 朝鮮語の風は pa ram である。 李思敬の『音韵』(商務印書館)によると、 「風」の上古音には pl という複子音の声母があったのではないかとい う。 日本語の嵐(あ らし)というのもその傍証になる。 また、朝鮮語の風が pa ram で あるのも、それを示唆している。 日本語の風(かぜ)につい ては不明である。 しかし、日本語の嵐(あらし)は音が嵐(ラン)であり、朝鮮語の pa ram と 同系のことばであろう。 【かたし(堅)】 在 有(ありあり)て後(のち)も将 レ 相 (あはむ)と言(こと)耳(のみ)を 堅(かたく)要 (いひ・云)つつ相(あふと)は無(なし)に (万3113) 大野晋は古典文学大系のなかで「 kata (堅)は朝鮮語の kut (堅)と同源か」としている。 金思燁の『韓訳萬葉 集』では「言(こと)のみを堅(かたく)言ひつつ」を「 mal <言(こと)> na ja mal <言う> man <のみ> kut ke <堅く> yak sok <約束> ko seo <~して>」としている。 「堅」の朝鮮漢字音は堅 kyeon であり、訓(古来の朝鮮語)は kul eul である。 古代中国語の「堅」は堅 [kyen] である。 朝鮮語の音、堅 kyeon も、訓、堅 kul eul も中国語の堅 [kyen] と同源であろう。 堅 kul eul のほうが古く、堅 kyeon のほうが新しい形である。 日本語の堅(かたし)も中国語の堅 [kyen] と同源であろう。 韻尾の [-n] は [-t] と調音の位置が同じであり転移しやすい。 【かたる(語)】 母 父(おもちち)に 妻(つま)に子等(こども)に 語 (かたらひ)て 立(たち)にし日(ひ)より、、 (万443) 朝鮮語の「かたる(語)」は mal ha da である。 mal は「ことば(言)」 ha da は動詞の活用語尾である。 mal 名詞にも動詞にも用いられる。 mal は中国語の言 [ngian] と関係のあることばであろう。 中国語の疑母 [ng-] は [m-] と調音の方法が同じ(鼻音)であり、転移しやす い。 また、韻尾の [-n] は [-l] とは調音の位置が同じ(歯茎の裏)であり、転移し やすい。 日本語の「かたる」あるいは「こと」も中国語の 言 [ngian] と関係のあることばであろう。 日本語の場合は中国 語の言 [ngian] の頭音 [ng-] が カ行に転移 した。 また、韻尾の [-n] は [-t] と調音の位置が同じ(歯茎の裏)であり、タ行であ らわれた。 日本語でも「かたる」は言葉(ことば)の「こと」と音義ともに近く、 中国語の 言 [ngian] 名詞と同源であろう。 【かち(歩行)】 馬 (うま)替(かは・買)ば妹(いも) 歩行(かち)将 レ 有 (ならむ)よしゑやし石(いし)は雖 レ 履 (ふむとも)吾(わ)は二(ふたり)行(ゆかむ) (万3317) 朝鮮語の「歩行(かち)」にあたることばは keol である。 朝鮮語では中国語の韻尾 [-t] は規則的に -l であらわれる。 例えば万年筆 man-nyeon-ppil 、地下鉄 ji-ha-cheol 、の如くである。 [-t] と [-l] は調音の位置が同じ(歯茎の裏)であり、転移しや すい。 現代の日本語でも「かち」は「御徒町」などとし て使われている。 【かに(蟹)】 難 波(なには)の小江(をえ)に 廬(いほ)作(つくり) なまりて居(をる) 葦(あし) 河尓(がに・蟹)を 王(おほきみ)召(め す)と、、 (万 3886) この歌の「河尓」は「蟹」である。 朝鮮語では 「かに」のことを ke という。 古代中国語の「蟹」は蟹 [he] である。 喉音 [h-] は調音の位置が後口蓋音 [k-] に近く、音価も近い。 日本語の蟹(かに)、朝鮮語の 蟹 ke はいずれも中国語の蟹 [he] と同系のことばである。 日本語の「か+に」の 「に」は小さいものにつける愛称であろう。 【かは(川・河)】 秋 (あき)去(され)ば 川霧(かはぎり)立 (たてる) 天川(あまのがは)河(かはに)向 (むき)居(ゐ)て戀(こふる)夜(よそ)多(おほき) (万2030) 川 瀬(かはのせ)の石(いし)迹(ふみ)渡(わたり)ぬばたまの黒馬(くろま)の來(く)夜(よ)は常(つね)に有(あら)ぬか も (万 3313) 吉 野(よしの)なる夏實(なつみ)の 河(かは)の川淀(か はよど)に鴨(かも)ぞ鳴(なく)なる山陰(かげ)にして (万375) 一番目の歌(万2030)の「川」の朝鮮語訳は ka ram である。 ka ram は日本語の川(かは)と音義とも近い。 ka ram の ka は中国語の河 [hai] と同系のことばであろう。 「天の川」は eun ha である。 eun は「銀」、 ha は「河」の朝鮮漢字音読みである。 二番目の歌(万3313)の韓国語訳は「川の瀬 kang yeo ul 」である。 kang は江 [kong] の朝鮮漢字音読みである。 yoe ul は早瀬である。 三番目の歌(万375)の「夏實の河」の「河」 は ka ram 、「川淀(かはよど)」 naet mul となっている。 nae は川、 mul は水である。 アイヌ語では沢ことを「ナイ」という。 北海道の 地名には「ナイ」のついた地名がいくつもみられる。 山田秀一の『アイヌ語の地名を歩く』(北海道新聞社)にはその例がいくつもあげられている。 朝鮮語の nae はアイヌ語の「ナイ」と同源である可能性がある。 例:真駒内、幌内、稚内、振内、小樽ナイ川、 【かはづ(河津・蝦)】 上 邊(かみへ)には 千鳥(ちどり)數(しば)鳴(なく) 下邊(しもへ)には 河 津(かはづ)都麻(つま)喚(よぶ)、、 (万920) 朝 (あさ)霞(かすみ)鹿火屋(かひや)が下(した)に鳴(なく) 蝦 (かはづ)聲(こゑ)だに聞(きか)ば吾(われ)将 レ 戀 (こひめ)やも (万 2265) 「河津(かはづ)」は「蛙」である。 「かはづ」 の朝鮮語は kae ku ri である。 kae ku ri の kae は中国語の蝦 [kea] と同源であろう。 【かまめ(加萬目・鷗)】 海 原(うなばら)は 加萬目(かまめ)立 (たち)多都(たつ) うまし國そ 蜻嶋(あきづしま) 八間跡(やまと)の國は、、 (万2) 「加萬目(かまめ)」は「鷗」である。 『和名 抄』には「鷗 可毛米(かも め) 、 水鳥也。 一名江鷰」とある。 朝鮮語の鷗は kal mae である。 日本語の「かまめ」あるいは「かもめ」は 朝鮮語の kal mae と同系のことばであろう。 古代中国語の鷗は鷗 [io] である。 古代中国語の喉音 [x-]は破裂音であり、日本語のカ行に近い。 【かみ(神)】 韓 國(からくに)の 虎(とらと)云(いふ) 神(かみ)を 生取(いけどり)に、、 (万3885) 皇 (おほきみ)は 神(かみ)に し坐(ませ)ば真木(まき)の立(たつ)荒山中(あらやまなか)に海(うみを)成(なす)かも (万241) 朝鮮語の「かみ」は keum nim である。 「神」の朝 鮮漢字音は神 sin であり、訓(古来の朝鮮語)は神 keum である。 日本語の「かみ」は朝鮮語の keumと同系のことばであろう。 nim は「、、さま」にあたることばである。 「虎と云(ふ)神」では虎も神にされている。 本 居宣長は『古事記傳』で古事記の時代の「神」について次のように述べている。 迦微(かみ)と申す名義(なのこゝろ)未だ思ひ得ず。 さて凡 そ迦微(かみ)とは、古 御 典等(い にしへのふみども)に見えたる天地の諸(もろもろ)の神たちを始めて、其(そ)を祀(まつ)れ る社に坐す御霊(みたま)をも申し、又人はさら に も云ず、鳥(とり)獣(けもの)木草のたぐひ 海山など其餘(そのほか)何(なに)にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳のありて、可 畏(かし こ)き物を迦微(かみ)とは云なり。 虎も神であ り、天皇も神であるとすると「神」とは何かという疑問が、当然わいてくる。 日本語の「かみ」には「式部郷(かみ)」(万312題詞)、「右馬頭(かみ)」 (万390左注)、「衛門督(かみ)」(万4262題詞)、「因幡守(かみ)」(万4515題詞)などもあり、役所の首長にももちいられた。 中国語の「神」には鬼神もあり、日本語の 「もののけ」に近いものも「神」と呼ばれた。 アイヌ語では神は「カムイ」である。 【かめ(龜)】 我 國(わがくに)は 常世(とこよ)に成(なら)む 圖(ふみ)負(おへ)る 神(くすしき) 龜(かめ)も 新代(あらたよ)と 泉(いづ み)の河(かは) に、、 (万 50) この歌の意味は「わが国は不老不死の理想郷だと いう甲羅に模様のある不思議な亀が泉の河にあらわれた」というのである。 亀は吉兆のしるしとされていた。 朝鮮語の亀は keo buk である。 藤堂明保の『学研漢和大辞典』によれば亀には三 つの読み方があるという。 1.支韻:キ(呉音)、キ(漢音) 2.尤韻:ク(呉音)、キュウ(漢音) 3.眞韻:コン(呉音)、キン(漢音) 日本語の亀(かめ)は眞韻の音を継承していると いえる。 「亀は万年」というのも、「亀」が「久」と音が通じるからであろう。 【かも(鴨)】 葦 邊(あしべ)行(ゆく) 鴨(かも)の 羽我比(はがひ)に霜(しも)零(ふり)て寒(さむき)暮夕(ゆふべ)は倭(やまと)し所 レ 念 (おもほゆ) (万 64) 前 玉(さきたま)の小埼(をざき)の沼(ぬま)に 鴨(か も)ぞ翼(はね)きる己(おのが)尾(を)に零(ふり)置(おけ)る霜(しも)を掃(はらふ)とに有 (あら)し (万 1744) 一番目の歌(万64)の「鴨(かも)」の朝鮮語 訳には kal mae gi があてられている。 kal mae gi は「かまめ(加萬目)」(万2)にも用いられてい る。 二番目の歌(万1744)では鴨は o ri と訳されている。 o ri は「あひる」あるいは「かも」である。 o ri は中国語の鴎 [o] と同系のことばであろう。 鴎 [o] と鴨 [eap] は音義ともに近い。 動物や植物の名前は現代の生物 学的分類と必ずしも一致しないことが多い。 【から(韓)】 韓 國(からくに)の虎(とらと)云(いふ)神(かみ)を生取(いけどり)に、、 (万3885) 絹 帯(きぬのおび)を 引帯(ひきおび)成(なす) 韓帯 (からおび)に取為(とらせ)、、 (万3791) 一番目の歌(万3885)の「韓國(からく に)」の朝鮮語訳は韓国 han kuk と朝鮮漢字音読みになっている。 二番目の歌(万3791)の「韓國(からく に)」の朝鮮語訳は韓帯 ka ra thi で ある。 帯 thi は帯(おび)の朝鮮漢字音読みおである。 韓国の古代中国語音は韓 [han] である。 頭音の [h-] は朝鮮語では韓 han であらわれるが、訓(古来の中国語音)では韓 ka ra で、 喉音 h は k に転移している。 朝鮮語の祖語には喉音 h- はなかった可能性がある。 また、韻尾の [-n] は朝鮮漢字音では韓 han で -n であらわれるが、訓(古来の朝鮮語)では ra に転移している。 日本語でも音は韓(カン)であり訓は韓(から) である。 は 韓帯 ka ra thi の は韓 ka ra が古い時代の朝鮮語音に対応しているとすれば、日本語の韓(から)は朝鮮語に近い。 日本語では韓(朝鮮)も漢(中国)も「から」である。 「唐物」と書いて「からもの」と読まることもある。 唐代になっても中国の国名は漢(から)のまま 残った。 【からす(烏)】 暁 (あかとき)と 夜烏(よがらす)雖 レ 鳴 (なけど)此(この)山上(をか)の木末(こぬれ)の於(うへ)は未(いまだ)静(しづけ)し (万1263) 朝 烏(あさがらす)早(はやく)忽(な)鳴(なきそ)吾(わが)背子(せこ)が旦開(あさけ)の容儀(すがた)見(みれ)が悲 (かなし)も (万 3095) 一番目の歌(万1263)の烏(からす)の朝鮮 語訳は kha ma gwi である。 二番目の歌(万3095)の「朝烏」の朝鮮語訳 は a chim <朝> ui kha chi <かささぎ>と訳されている。 kha ma gwi の kha は中国語の鴉 [ea] である。 ui kha chi <かささぎ> は「か らす」に近い鳥で、中国、朝鮮半島に多く分布する鳥であるが、九州地方にも棲息する。 「烏」の朝鮮漢字 音は烏 o であり、「鴉」は鴉 a であり、音義ともに近い。 日本語の「からす」は「鴉 [ngea] +隹 sae 」であろう。 「からす」の「す」は朝鮮語の sae である。 【かり(鴈)】 離 レ 家 (いへさかり)旅(たび)にし在(あれ)ば秋風(あきかぜの)寒(さむき)暮(ゆふへ)に 鴈(かり)喧(なき)度(わたる) (万1161) 万葉集では「鴈」という漢字が用いられているが 発音も意味も「雁」と同じである。 朝鮮語の雁は ki reo gi で ある。 雁の中国語音は雁・鴈 [ngean] である。 朝鮮語の ki reo gi は雁 [ngean] から派生したもので あろう。 頭音の [ng-] は [k-] と調音の位置が同じ(後口蓋)であり、朝鮮語には 濁音ではじまる音節はないので清音に転移した。 また、韻尾の [-n] は [-l] と調音の位置が同じ(歯茎の裏)であり、転移しや すい。 現代の朝鮮漢字音では雁 [ngean] は頭音 [ng-] が脱落して雁 an である。 【き(城)】 天 皇(おほきみ)の 等保(とほ)の朝廷(みかど)と しらぬひ 筑紫國(つくしのくに)は 安多(あた・賊)麻毛流(まもる) 於佐倍(おさへ)の 城 (き)そと 聞(きこし)食(をす)、、 (万4331) 日本の故地名 などには「城(き)」ということばがしばしば出てくる。 水城(みづき)、磐城(いはき)、稲城(いなぎ)、頸城(くびき)、結城(ゆふき)、城崎(きのさ き)、茨城(いばらぎ)などである。 「き」は百済のことばで「城」を意味するという。 李基文の『韓国語の歴史』によれば「城(き)」は百済語だという。 悦城県 ハ本百済ノ悦 己県、儒城県ハ本百済ノ奴斯只県、潔城県ハ本百済ノ結己郡。 48 金沢庄三郎は「地名人名等に関する日鮮語の比 較」などのなかで次のように述べている。 我國の古語に城をキといふ。 これは柵壁其他の防備物を以て四 邊を取り圍んだ一郭の地 の 名で、馬 を放養するをウマキ(牧)、稲を貯積するイナギ(稲城)などのキがそれである。 キと並んでシ キという語もあり、磯城島(しきしま)、百磯城(ももしき)をはじめとして、飛鳥(あすか)、出雲の須賀(すが)、近江の滋賀、信濃の佐久(さく)、薩摩 の揖宿(いぶすき)などもその系列のことばであるという。 (金沢庄三郎「地名人名等に関する日鮮語の比較」による) 【きみ(君・公)】 吾 (わが)念(おもふ) 公(きみ)は 虚蝉(うつせみ)の 世人(よのひと)有(なれ)ば 大 王(おほきみ)の 命(みこと)恐(かしこみ)、、 (万1453) 二 人(ふたり)行(ゆけ)ど去(ゆき)過(すぎ)難(がた)き秋山(あきやま)を如何(いかにか) 君(きみ)が獨(ひとり)越(こゆら)む (万106) 愛 (はしき)やし榮(さかえ)し 君(きみ)の 伊座(いまし)せば昨日(きのふ)も今日(けふ)も吾(あ)を召(めさ)ましを (万454) 如 レ 夢 (いめのごと)所レ念(おもほゆる)かも愛(はしき)やし 君 (きみ)が使(つかひ)の麻祢久(まねく・數)通(かよへ)ば (万787) 最初の歌(万1453)には「公(きみ)」と 「大王(おほきみ)」が出てくる。 この歌の「公(きみ)」は金思燁の『韓訳萬葉集』では keu tae <そなた>が使われている。 また、「大王(おほき み)」は im keum<王・君主>と訳されている。 二番目の歌(万 106)では「君」は ne <二人称・君・お前>と訳されている。 三番目の歌(万454)の「君」は nim <恋人・いとしい人>である。 四番目の歌(万787)では tang sin <あなた・お前さん>と訳されている。 tang sin は漢字で書けば「当身」で、現代の朝鮮語でも日常 的に使われている。 日本語の君(きみ)は中国語と同源だが、 現代日本語の二人称の君(きみ)ほど親しみをこめたことばではない。 天子、あるいは主君という意味合いが強い。 女性が男性の恋人を呼ぶときにも君(きみ) が使われることがある。 このほかにも、「きみ」にあたる朝鮮語としては jeo nim <私(謙譲語)の恋人>(万1887)、 keu nim <彼の人>(万3318)などがある。 また、「大 君」は音で tae kun (万 3325)な朝鮮漢字音が使われている例もある。 【きり(霧)】 春 山(はるやまの) 霧(きりに)惑 在(まとへる)鸎(うぐひすも)我(われに)益(まさりて)物(もの)念(おもはめ)や (万1892) 朝鮮語の霧は an ke である。 朝鮮語では霧も霞も an ke である。 an ke の ke は中国語の霞 [hea] と関係のあることばであろう。 日本語でも霞と霧は実態は同じもので、 『時代別国語大辞典~上代編~』によると、「霞は春、霧は秋にいわれることが多い」という。 【くし(君志・<串>)】 籠 (こ)もよ 美籠(みこ)母乳(もち) 布久毛(ふく し・掘串)もよ 美夫君志 (みぶくし・串)持(もち) 此(この)岳(をか)に 菜(な)採(つ ま)す兒(こ)、、 (万 1) 大野晋は岩波の『日本古典文学大系・萬葉集一』 の頭注で「クシは朝鮮語 kos (串)と同源」としている。 金思燁もまた『韓訳萬 葉集』で「串」の訓は kot であると注に記している。 串の古代中国語音は串 [hoan] であり、朝鮮漢字音は串 hwan である。 朝鮮語の訓(古来の朝鮮語)の串 kot も、日本語の串(くし)も中国語の串 [hoan] ときれいに音韻対応しているわけではないが、意味 が同じであり、同系のことばである可能性がある。 【くしろ(釧)】 珠 (たま)手次(だすき) 不 レ 懸 (かけぬ)時(とき)無(なく) 口(くち)不 レ 息 (やまず) 吾(わが)戀(こふる)兒(こ)を 玉釧 (たまくしろ) 手(て)に取(とり)持(もち)て、、 (万1792) 「釧」の朝鮮語は ku seul であり、日本語の釧(くしろ)と同源である。 北海道の 地名の釧路は釧だけでは釧(くしろ)と読めなくなってしまったため「路」を付け加えて読みやすくしたものである。 朝鮮語の ku seul は「珠(たま)」(万12)、「玉の緒」(万 3081)にも用いられている。 【くち(口)】 珠 (たま)手次(だすき) 不レ懸(かけぬ)時(とき)無(なく) 口(くち)不レ息(やまず)、、 (万1792) 波 流(はる)の野(の)に久佐(くさ)波牟(はむ・喫)古麻(こま・駒)の 久 知(くち・口)夜麻受(やまず)安(あ・吾)を思努布(しのぶ)らむ伊敝(い へ・家)の兒(こ)ろはも (万 3532) 「口(くち)」は朝鮮語の訓では口 ip であり、音では口 ku である。 上記の歌ではいずれも ip と訳されている。 日本語の「云う」は朝鮮語の ip と同系のことばではないかと云われている。 古代中国語の「口」は口 [kho] である。 中国語の口語では「口」のことを「嘴 zui 」という。 日本語の「口(くち)」も中国語の「口 [kho] +嘴 [tziue] 」と同系のことばであろう。 大野晋の『日本語の起源』(旧版)によれば朝鮮 語の南部方言では「口」のことを口 kul というという p. 178。 朝鮮語では中国語の韻尾 [-t] は規則的に -l に転移するから、朝鮮語の南部方言の口 kul も日本語の口(くち)と同源であろう。 【くつ(久都・靴)】 信 濃道(しなのぢ)は伊麻(いま・今)の波里美知(はりみち)可 里 婆祢( か りばね)に安思(あし・足)布麻(ふま)しなむ久都(くつ・靴)波氣(はけ)和我(わが)世(せ・背) (万 3399東歌) 金思燁の『韓訳萬葉集』では「久都」は ku du と訳されていて、日本語の靴(くつ)に音義ともに 近い。 日 本語の「くつ」は朝鮮語の ku du と同源語であろう。 靴(くつ)にあたる朝鮮語は、 sin <靴・履物>(万3791)、 sin pal< 履物>(万1807)などと訳されている例もあ る。 万葉集の時代には靴は渡来人や貴族が儀礼用に履 くもので、庶民は裸足だったらしい。 皮製のほか木製、布製のものもあった。 正倉院には女子用の錦張りで刺繍のあるものが使わっている。 古墳などから出土す るもののなかには漆塗りのものもあるという。 日本語の「くに」とは頭音は対応するが、 韻尾は対応していない。 確かに、朝鮮半島には紀元 前にすでに樂浪郡など漢の植民地がおかれていて、それぞれの郡は「くに」と意識されたかもしれない。 中国人からすると山跡(やまと)も郡(くに)のひとつ であった可能性がないとはいえない。 金思燁の『韓訳萬葉集』では「山跡(やまと)の 國」は ya ma to <大和> na ra <国>」と訳されている。 朝鮮語は na ra は國である。 古代日本の首都である奈良も朝鮮語の na ra と同源ではないかといわれている。 【くま(熊)】 荒 熊(あらくま)の住(すむと)云(いふ)山(やま)の師齒迫山(しはせやま)責(せめ)て雖 レ 問 (とふとも)汝(なが)名(な)は不 レ 告 (のらじ) (万 2696) 朝鮮語の「くま」は kom である。 中国語の喉音 [h-] は日本語にはない発音であるが、調音の位置が日本 語のカ行(後口蓋音)に近く、日本語の訓ではカ行であらわれることが多い。 日本漢字音では喉音 [h-] は脱落して熊(ユウ) となっている。 ア行音は上代中国語の喉音 [h-][k-] などが介音 [-i-] などの影響で脱落したものである。 「雲」の朝鮮漢字音 は雲 un である。 「雲」は日本語では音が雲(ウン)、訓が雲(く も)であり、朝鮮語と酷似している。 中国語の喉音 [h-] は介音 [-i-] の発達によって脱落した。 それが日本漢字音の雲 (ウン)、朝鮮漢字音の雲 un に反映されているのであろう。 韻尾 [-n] は日本語ではナ行またはマ行であらわれることが多 い。 ナ行・マ行はいずれも鼻音であり、調音の方法が同じである。 このことは古代朝鮮語が 開音節(母音で終わる音節)であったことを示唆しているといえる。 【くも(久毛・蜘蟵)】 可 麻度(かまど)には 火気(ほけ)布伎(ふき・吹)多弖受(たてず) 許之伎(こしき・甑)には 久毛(くも・蜘蟵)の須(す・巣)かきて、、 (万892) 久毛(くも)は音表記であるが、漢字では蜘蟵 (くも)である。 朝鮮語の「くも」は keo-mi であり、音義ともに日本語に近い。 日本語の「く も」は朝鮮語と同源であろう。 【くろ(黒・玄)】 居 (ゐ)明(あかし)て君(きみ)をば将 レ 待 (またむ)ぬばたまの吾(わが) 黒髪(くろかみ)に 霜(しも)は零(ふれ)ども (万 89) ぬ ばたまの 玄髪山(くろかみやま)を 朝(あさ)越(こえ)て山下(やました)露(つゆ)に沾(ぬれに)けるかも (万1241) 朝鮮語で「くろい」は keom eul である。 語幹の keom は日本語の「くろ」に近い。 喉音 [h-][x-] は日本語にはない音であり、調音の位置が日本語の カ行に近いため、日本語ではカ行であらわれることが多い。 玄 [hyuen] の韻尾 [-n] は調音の位置が [-l] と同じ(歯茎の裏)であり転移しやすい。 【けぶり(煙)】 山 常(やまと)には 村山(むらやま)有(あれ)ど 取(とり)よろふ 天乃香具山(あめのかぐやま) 騰(のぼり)立(たち) 國見(くにみ)を為(す れ)ば 國原(くにはら)は 煙(けぶり)立 (たち)たつ、、 (万 2) 「煙」の朝鮮漢字音は煙 yeon である。 朝鮮語の訓(古来の朝鮮語)は煙 yeon gi である。 yeon gi は yeon <煙> gi <氣>であろう。 古代中国語の「煙」は煙 [yen] である。 朝鮮語の「煙」は音 yeon も訓 yeon gi も中国語から派生したことばである。 訓のほうが古 く、音のほうが新しい。 「煙」の日本漢字音は煙(エ ン)、訓は煙(けぶり)である。 頭音の [h-] は唐代になると介音 [-y-] の発達によって失われて煙(エン)になった。 古代中国語の煙 [yen] 、日本漢字音の煙(エン・けむり)、 朝鮮語の煙 yeon gi はいずれも同源 である。 【こ(子・兒)】 憶 良(おくら)等(ら)は今(いま)は将 レ 罷 (まからむ) 子(こ)将 レ 哭 (なくらむ)其(そを)被(おふ・負)母(はは)も吾(われ)を将 レ 待 (まつらむ)そ (万 337) 父 母(ちちはは)に不 レ 令 レ 知 (しらせぬ) 子(こ)故(ゆ ゑ)三宅道(みやけぢ)の夏野(なつのの)草(くさ)を菜積(なづみ)來(くる)かも (万3296) 山 際(やまのま)従(ゆ)出雲(いづもの) 兒等(こら)は 霧有(きりなれ)や吉野山(よしののやまの)嶺(みね)にたなびく (万429) 念 有(おもへり)し 妹(いも)には雖 レ 有 (あれど) 憑有(たのめり)し 兒等(こら) には雖 レ 有 (あれど) 世間(よのなか)を 背(そむき)し不 レ 得 (えね)ば、、 (万 210) 一番目の歌(万337)の「子(こ)」は a i と訳されている。 a i の i は中国語の兒 [njie] の頭音が脱落したものであろう。 朝鮮漢字音では中 国語の日母 [nj-] は規則的に脱落する。 例:日本 il bon 、熱 yeol 、入 ip 、など 朝鮮語の a i は小兒(わらは)の訳として用いられることもある (万3842)。 また、 a i は ae と一音節になってあらわれることもある(万 3222)。 二番目の歌(万3296)の「子」は a ga である。 中国語の「兒」と同じ声符を持った漢字に 睨 [ngie] がある。 中国語の兒 [njie] は兒 [ngie] に音価が近かった。 a ga の ga は兒 [ngie] と同系のことばである。 日本語の「赤ちゃん」は朝 鮮語の a ga と同系のことばであろう。 三番目の歌(万429)の「兒(こ)」は a ga ssi <お嬢さん>と訳されている。 a ga ssi は未婚の女性の呼称である。 朝鮮語には a gi <赤ちゃん>ということばもある。 日本書紀歌謡に 「いざ、阿藝(あぎ)、怒(の)に比蘆(ひる)つみに、、」という歌があり、「あぎ(我君・我兒)」は古代日本語では二人称に親しく呼びかけることばであ る。 日本語の「阿藝(あぎ)」も朝鮮語の a gi あるいは a i と同系のことばであろう。 四番目の歌(万210)の「兒(こ)」は a nae <妻、家内>と訳されている。 この場合「兒 (こ)」は前の「妹(いも)」を受けていると思われるので a nae と 訳したのであろう。 朝鮮語で「つま(妻)」は a nae と呼ばれることもある。 日本語の「姉(あね)」は 朝鮮語の a nae の意味が転移したものである可能性がある。 【こと(言)】 謂 (いふ) 言(こと)の恐(か しこき)國(くに)そ紅(くれなゐ)の色(いろに)莫(な)出(いで)そ念(おもひ)死(しぬ)とも (万683) 言 (ことに)出(いでて)云(いはば)忌々(ゆゆしみ)山川(やまかは)のたぎつ心(こころを)塞(せか)耐(へ)在(たりけ り) (万 2432) 最初の歌(万 683)の「謂(いふ)言(こと)」 は金思燁の『韓訳萬葉集』では は mal と訳している。 朝鮮語の「言(こと)」あるいは「ことば」は mal である。 朝鮮語では mal は名詞にも動詞(言う)にも使われる。 二番目の歌(万2432)では「言(こと)」は ip 、「言(いふ)」には mal をあてている。 朝鮮語の ip は「口」であり「言(こと)」にも用いられる。 日 本語の「云う」は朝鮮語の ip と同源であるという。 古代中国語音は言 [ngian] である。 朝鮮語の mal は中国語の言 [ngian] の転移したものであろう。 中国語の疑母 [ng-] は朝鮮語の [m-] と調音の方法が同じ(鼻音)であり、転移しやす い。 また、韻尾の [-n] は [-l] と調音の位置が同じであり、転移しやすい。 中国語の言 [ngian]は日本語では言(こと)に転移 するが、朝鮮語では言 mal に転移する。 転移する方向 は違っているが、いずれも音韻転移の法則にあっている。 中国語の疑母 [ng-]は調音の位置が日本語のカ行音と同じ(後口蓋)であり、転移しやすい。 また、韻尾の [-n] は [-t] と調音の位置が同じであり、転移しやすい。 日本語でも中国語の [ng-] がマ行であらわれる例がある。 また、 韻尾の [-n] がラ行であらわれる例もある。 中国語の言 [ngian] が日本語では言(こと)になり、朝鮮語では言 mal に 転移している。 同じ漢字文化圏でも受け入れる側のことばの音韻構造により、転移のしかたが異なる。 また、何時の時代の音を受け入れたかによっても、発音は 異なる。 中国と日本、あるいは中国と朝鮮の交流の歴史は三千年にも及ぶ。 唐代の中国語音に準拠したもの以外はすべて訓(「やまとことば」あるいは古来から の朝鮮語)だと考えることはできない。 音韻の転移には一定の法則がある。 中国の音韻学 者 王力は『同源字典』のなかで「音近ければ義近し」といっている。 調音の位置が同じ音は転移しやすい。 また、調音の方法が同じ音は音価も近く転移しやす い。 次の表では横の列は調音の位置が同じものであ り、縦の列は調音の方法が同じ音を並べてある。 清 音 有気音 濁 音 鼻濁音 清濁音 後口蓋音 [k] [kh-] [g-] [ng] 歯茎 音 [t] [th-] [d-] [n] [l] 唇 音 [p] [ph-] [b-] [m] 日本語の言(こと)への転移は音韻法則に合って いる。 言 [ngian] の頭音 [ng-] は [k-] と調音の位置が同じ(後口蓋)であり、韻尾の [-n] は [t] と調音の位置が同じ(歯茎の裏)である。 また、朝鮮語の言 mal への転移も音韻法則に合っている。 言 [ngian] の頭音 [ng-] は [m-] と調音の方法が同じ(鼻濁音)であり、韻尾の [-n] と [-l] は調音の位置が同じ(歯茎の裏)である。 【こひ(戀)】 大 夫(ますらを)や 片戀(かたこひ)将 レ 為 (せむと)嘆(なげけ)ども鬼(しこ)の益卜雄(ますらを)なほ戀(こひ)にけり (万117) 葦 邊(あしべ)徃(ゆく)鴨(かも)の羽音(はおと)の聲(おと)耳(のみに)聞(きき)つつもとな 戀(こひ)度(わたる)かも (万3090) 何 時(いつはしも) 不 レ 戀 (こひぬ)時(ときとは)雖 レ 不 レ 有 (あらねども)夕方(ゆふがた)任(まけて) 戀(こひ は)無乏(すべなし) (万2373) 最初の歌(万117)の「戀」は金思燁の 『韓訳萬葉集』では sa rang と訳されている。 朝鮮語の「戀」は sa rang である。 二番目の歌(万3090)の「戀」は keu ri と訳されている。 朝鮮語の keu ri は「恋こがれる」という意味である。 日本語の「こ ひ」は朝鮮語の keu ri に音義ともに近い。 三番目の歌(万2373)の「戀(こひ)ぬ時」 の「戀」は keu rip <恋しい>、「戀は無乏(すべなし)」の「戀」は sa rang と訳している。 sa rang は名詞形であり、 keu ri あういは keu rip は形容詞や動詞に使われる。 【こほり(郡)】 「右 の一首朝夷(あさひなの) 郡(こほり)上 丁丸子の連(むらじ)大歳(おほとし)のなり」 (万 4353左注) 「右 は、 郡司(こほりのつかさ) 巳下子弟巳上の諸人多く集 二 此 會 一 (こ の會につどふ) 」 (万4071左注) 万葉集には日本語の郡(こほり)を詠み込んだ歌 はないが、漢文の注には「郡」が使われていて、「こほり」と読みならわされている。 朝鮮語で「郡」にあたることばに ko-eul がある。 日本語の郡(こほり)は朝鮮語の ko eul と同系のことばであろう。 韻尾の [-n] は日本語ではラ行であらわれることが多い。 朝鮮半島には紀元前 108 年、漢の武帝によって楽浪郡、帯方郡など四郡が植 民地として置かれた。 現代の朝鮮漢字音は郡 kun であるが、楽浪郡などの時代には郡 ko eul と呼ばれた可能性がある。 金思燁の『韓訳萬葉集』では「村」(万277) や「小国(をぐに)」(万3311)にも ko eul と いうことばが使われている。 【こま(高麗)】 高 麗(こま)劔(つるぎ)己(な)が景迹(こころ)故(から)外(よそ)耳(のみに)見(み)つつや君(きみ)を戀(こひ)渡 (わたり)なむ (万 2983) 日本では高麗のことを「こま」という。 古代日本 語ではラ行音が語頭にたつことがなかったので麗 [lyai] はマ行に転移した。 漢字のなかには同じ声符をラ行 とマ行に読み分けるものがある。 [l-] と [m-] は調音の位置が近く転移しやすい。 例:陸(リク)・睦(むつ)、勵(レイ)・萬(マ ン)、 また、日本漢字音でも音でラ行であらわれることば が訓ではマ行であらわれることが多い。 例: 覧 [lam] (ラン・みる)、乱 [luan] (ラン・みだる)、 嶺 [lieng] (レイ・みね)、 戻 [lyet] (レイ・ もどる)、両 [liang] (リョウ・もろ)、椋 [liang] (リョウ・むく)、 漏 [lo] (ロウ・もる)、 「高麗」の朝鮮漢字音は高麗 ko ryeo である。 日本語の高麗(こま)は高麗 ko ryo の転移したものである。 【こり・凝】 伊 勢(いせ)の國(くに)は 奥(おき)つ藻(も)も 靡(なびき)し波(なみ)に 塩気(しほけ)のみ 香乎礼流(かをれる)國(くに)に 味凝(うまこ り) 文(あや)に乏(ともし)き 高照(たかてらす) 日(ひ)の御子(みこ) (万162) 「味(うま)こり」は「文(あや)」にかかる枕 ことばである。 大野晋は岩波古典文学大系の頭注で「コリは朝鮮語 keul (文・綾)と同源。 」としている。 朝鮮語の keul は文・文章の意味である。 「うまこり 文(あ や)」は「朝鮮語の文 keul と日本語の「文(あや)」をかけた、かけことばで ある。 金沢正三郎の『日韓古地名論考』によると、「朝 鮮では今日なほ天を ha neul cheon 、地を sta ji の如く、漢字を音訓両点でいふ」という。 ha neul <「天」の訓> cheon <「天」の朝鮮漢字音>、 sta <「地」の訓> ji <「地」の朝鮮漢字音>のごとくである。 万葉集の枕詞にも「わたつみ」<朝鮮語の海 pa da > <日本語の海(うみ)>のように両点(二か国語 併記)とみられるものがある。 「うまこり」「文(あや)」もそのひとつである。 日本でも古くは文選読みといって音訓を並べて読 むことがあった。 例えば『千字文』の最初の部分は次のように読む。 天地玄黄 テンチのあめつちは クエンクワウとくろく・きなり。 宇宙洪荒 ウチウのおほぞらは コウクワウとおほいにおほきなり。 【さけ(酒)】 中 々(なかなか)に人(ひと)と不 レ 有 (あらず)は 酒壺(さかつぼ)に 成(なり)にてしかも 酒(さけ)に 染(しみ)なむ (万 343) 朝鮮語では「酒」のことを sul という。 sul は音義ともに日本語の「さけ(酒)」に近い。 古代 中国語の酒は酒 [tsiu] である。 酒はは酢 [dzak] あるいは醋 [syak].

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機 皇帝 あめ の かく のみ か づち

この書は大正七年の五月、二三の友人とともに奈良付近の古寺を見物したときの印象記である。 大正八年に初版を出してから今年で二十八年目になる。 その間、関東大震災のとき紙型をやき、翌十三年に新版を出した。 当時すでに書きなおしたい希望もあったが、旅行当時の印象をあとから訂正するわけにも行かず、学問の書ではないということを 標榜 ( ひょうぼう )して手を加えなかった。 その後著者は京都に移り住み、 曾遊 ( そうゆう )の地をたびたび訪れるにつれて、この書をはずかしく感ずる気持ちの昂じてくるのを経験した。 そのうち 閑 ( ひま )を得てすっかり書きなおそうといく度か考えたことがある。 しかしそういう閑を見いださないうちに著者はまた東京へ帰った。 そうしてその数年後、たしか昭和十三四年のころに、この書が、再び組みなおすべき時機に達したとの通告をうけた。 著者はその機会に改訂を決意し、筆を加うべき原稿を作製してもらった。 旅行当時の印象はあとからなおせないにしても、現在の著者の考えを注の形で付け加えることができるであろうと考えたのである。 しかし仕事はそう簡単ではなかった。 幼稚であるにもせよ最初の印象記は有機的なつながりを持っている。 部分的の補修はいかにも困難である。 従って改訂のための原稿は何年たってもそのままになっていた。 そのうちに社会の情勢はこの書の刊行を不穏当とするようなふうに変わって来た。 ついには間接ながらその筋から、『古寺巡礼』の重版はしない方がよいという示唆を受けるに至った。 その時には絶版にしてからすでに五六年の年月がたっていたのである。 そういうわけでこの書は今までにもう七八年ぐらいも絶版となっていた。 この間に著者は実に思いがけないほど方々からこの書に対する要求に接した。 写したいからしばらく借してくれという交渉も一二にとどまらなかった。 近く出征する身で生還は保し難い、ついては一期の思い出に奈良を訪れるからぜひあの書を手に入れたい、という申し入れもかなりの数に達した。 この書をはずかしく感じている著者はまったく途方に暮れざるを得なかった。 かほどまでにこの書が愛されるということは著者として全くありがたいが、しかし一体それは何ゆえであろうか。 著者がこの書を書いて以来、日本美術史の研究はずっと進んでいるはずであるし、またその方面の著書も数多く現われている。 この書がかつてつとめたような手引きの役目は、もう必要がなくなっていると思われる。 著者自身も、もしそういう古美術の案内記をかくとすれば、すっかり内容の違ったものを作るであろう。 つまりこの書は時勢おくれになっているはずなのである。 にもかかわらずなおこの書が要求されるのは何ゆえであろうか。 それを考えめぐらしているうちにふと思い当たったのは、この書のうちに今の著者がもはや持っていないもの、すなわち若さや情熱があるということであった。 十年間の京都在住のうちに著者はいく度も新しい『古寺巡礼』の起稿を思わぬではなかったが、しかしそれを実現させる力はなかった。 ということは、最初の場合のような若い情熱がもはや著者にはなくなっていたということなのである。 このことに気づくとともに著者は現在の自分の見方や意見をもってこの書を改修することの不可をさとった。 この書の取り柄が若い情熱にあるとすれば、それは幼稚であることと不可分である。 幼稚であったからこそあのころはあのような空想にふけることができたのである。 今はどれほど努力してみたところで、あのころのような自由な想像力の飛翔にめぐまれることはない。 そう考えると、三十年前に古美術から受けた深い感銘や、それに刺戟されたさまざまの関心は、そのまま大切に保存しなくてはならないということになる。 こういう方針のもとに著者は自由に旧版に手を加えてこの改訂版を作った。 文章は添えた部分よりも削った部分の方が多いと思うが、それは当時の気持ちを一層はっきりさせるためである。 * 荒井寛方氏の労作、この後五六年を経て、大正十二年の関東大震災の際、東京帝国大学文学部の美術史研究室において 烏有 ( うゆう )に帰した。 アジャンター壁画の模写から受けた印象のうちで、最も忘られないものの一つは、あの一種独特な色調である。 色の明るさや濃淡の工合が我々の見なれているものとはひどく違う。 恐らくそこに熱国の風物の反映があるのであろう。 あれは濡れた感じのまるでない色調である。 中でも不思議に感じたのは、山の中にキンナラの夫婦がいて雲の中で天人が楽を奏しているという構図の、五六世紀ごろの画であった。 人物も植物も非常に濃い色で描かれているにかかわらず、妙に冷たい、沈んだ感じを持っている。 たとえば木の葉などは、黒ずむばかりの濃い緑に塗られていながら、どんな深い森の幽暗な樹陰でもこんなではあるまいと思われるほどに、光や空気の感じを欠いている。 熱国の強烈な色彩というものを、華やかに輝く光と結びつけて考えている我々には、これらの画の色調はかなり予想外であった。 しかし考えてみると、雪山を理想郷とするインド人が冷たい色に対する特殊な好尚を持っているということには、少しも不自然なところはない。 インドの土地を知らない者には、あのニュアンスの少ない、空気の感じのまるでない色が、どれほど写実になっているのか判断することはできないが、少なくともあの色調によって、五六世紀ごろのインド人に普通であった情調を推測することはできると思う。 当時のインド人はギリシア人のごとく快活ではなかったのであろう。 このことは色調からばかりでなく、壁画に描かれた多くの顔の表情からも、推測することができる。 男も女も、大抵は憂欝な表情をその顔に浮かべているのである。 ことに女の顔の病的な美しさは、その有力な証拠になる。 キレの長い、瞳を上へつるしあげた大きい眼には、何となく物すごい、ヒステリカルな暗さが現われている。 脂肪が少ないために異常に鋭くなっている顔の輪郭の線や、眼、鼻、唇などを刻み出す細かい微妙な線などには、豊かという感じがまるで欠けていると共に、妖艶な、すご味のある、奇妙な美しさがあふれている。 これを 健 ( すこ )やかな、豊かな、調和そのものであるようなギリシア女の画に比べて見ると両者の相違はきわめて明瞭にわかると思う。 次に目に残っているのはインド独特の写実である。 どの壁の画であったか、一丈ぐらいの、乳の大きい女の裸体像があった。 確かにそこには、肉体を鋭く凝視し、その中から強い魅力の秘密をつかみ出そうとする眼が働いている。 ところでこの写実は、一つの人体において試みられているほどには、画面全体に行きわたっていないのである。 構図は恐ろしく非現実的で、突飛な物の形が雑然と並んでいる。 もちろん部分的には、まとまりのいい、無理のない構図もあるが、(また仏伝図や 本生図 ( ほんしょうず )には統一のある立派な構図を持ったものもあるらしいが、)大体としては、きわめて象徴的な、気ままな、お 伽噺 ( とぎばなし )めいたやり方で満足しているように見える。 これをポムペイなどで発見されたローマのギリシア風の画と比べて見るのは、非常に興味の深いことであるが、今は十分の準備がない。 ただ気づかないでいられないのは、写実ということについて、両者の気分が非常に違っていることである。 目で見たものをそのまま写生したくなるのは、画家の本能にあることと思われるが、その本能がここでは働き方を異にしている。 ギリシア風の画家はどんなに想像の材料を描く場合でも、自然らしく見せることを忘れず、写実の地盤を離れることがない。 しかしインドの画家は、一々の人体を非常に精妙に描きながら、その人体の位置についてはほとんど自然を無視したやり方をする。 たとえば空中を飛んでいる天人の体が、いかにも巧妙に、浮動しているごとく描いてあるかと思うと、それが地の上を歩いている人のすぐ頭の上に、まるで両者の関係を顧慮することなしに置いてある。 これは画家が画面全体の幻影を自然のごとく心中に思い浮かべていなかった証拠であろう。 構図は芸術家の幻影から来ないで、描こうとする物語の約束から出ている。 この種のことは大乗神話を描いた仏教の経典にも認められると思う。 ギリシア風の画とアジャンター壁画との関係は、美術史の問題として研究の価値があるばかりでなく、当時の世界文化の交錯を知るためにも、明らかにしなくてはならない。 またたといこの画の作者が純インド人であったとしても、こういう画の流派がインドを父としギリシアを母として生まれたものであることは、ある点まで認めなくてはなるまい。 ギリシアの芸術的精神を摂取しなくては、この種のインド芸術は生まれなかったであろう。 ただその 咀嚼 ( そしゃく )の程度がガンダーラ芸術よりもはるかに強かったために著しく独自な芸術となり得たのであろう。 アジャンター壁画の模写はもう一つ興味のある問題を提出した。 あのような画がどうして宗教画として必要であったのであろうか。 文芸復興期の宗教画はキリスト教の内部に古代の芸術が復活したものとして説くこともできるし、中世に反抗する人間性の解放として説くこともできるが、アジャンター壁画はどう説明していいであろうか。 ことに問題となるのは天人や 菩薩 ( ぼさつ )として現わされた女の顔や体の描き方、あるいは恋愛の場面などに描かれた 蠱惑的 ( こわくてき )な女の描き方である。 文芸復興期のマドンナは豊かな肉体と優美な顔とをもって描かれているが、しかしそこには、美の 権化 ( ごんげ )としてのアフロディテの表現の上に、さらに永遠の処女としての侵し難い清らかさ、救世主の母としての無限の慈愛を現わそうとする努力があり、またあるものはそれを現わし得ている。 しかしアジャンター壁画の菩薩には、この清らかさや慈愛を現わそうとする努力がない。 このことは特に天人や、恋愛する女や、物語の図に現われる女などに著しい。 あの高くもり上がった乳房や、太い腰部の描き方を見た人は、恐らく何人もこの見解に反対しまいと思う。 そこに現わされたのは、調和の極致であるような、美しい線と面との交響でもなく、また生の歓びを神的にまで高めたような、神秘な恍惚でもない。 直ちに触覚に迫って来る肌の柔らかさや肉のふくらみの感じである。 官能の享楽を捨離して、山中の僧院に真理と 解脱 ( げだつ )とを追究する出家者が、何ゆえに日夜この種の画に親しまなくてはならなかったのか。 人間生活を宗教的とか、知的とか、道徳的とかいうふうに截然と区別してしまうことは正しくない。 それは具体的な一つの生活をバラバラにし、生きた全体としてつかむことを不可能にする。 しかし一つの側面をその著しい特徴によって他と区別して観察するということは、それが全体の一側面であることを忘れない限り、依然として必要なことである。 この意味では、宗教的生活と享楽の生活とは、時折り不可分に結合しているにかかわらず、なお注意深い区別を受けなくてはならぬ。 仏徒の生活も、この区別から脱れることはできない。 仏教の礼拝儀式や殿堂や装飾芸術は、決して宗教的生活の本質に属するものではない。 宗教的生活はこれらのすべてを欠いてもかまわない。 また他方では、官能を 悦 ( よろこ )ばせる芸術はいうまでもなく、精神を高め心を浄化する芸術であっても、それをただ享楽するだけであるならば、かかる人を宗教的生活にひきいれることはできない。 だから仏徒の教団においても、キリスト者の教会においても、原始的な素朴な活力を持っていた間は、決して芸術と結びつかなかった。 むしろ芸術をば、その感性的な特質のゆえに、排斥する立場にあった。 これは烈しい情熱をもって宗教的生活の内に突入しようとするものにとって、きわめて自然なことである。 しかし芸術が人の精神を高め心を浄化する力を持つことは、無視さるべきでない。 たといこの美的感情移入が、享受者の実生活ではなくて、ただ空想の世界の出来事に過ぎぬとしても、それはまだ実現せられない より高き自己を自分の前に展開して見せることによって、実生活にいい刺戟を与え、実行の動機を産み出すことがある。 たとえば宗教の儀式に音楽を用いれば、それはショペンハウエルのいわゆる 一時的解脱に人を導き、法悦と解脱とへの人々の要求を強く刺戟することになるであろう。 阿弥陀経 ( あみだきょう )に描かれた浄土が、あらゆる芸術によって飾られていることは、この間の消息を語るものである。 かく芸術は、 衆生 ( しゅじょう )にその より高き自己を指示する力のゆえに、衆生救済の方便として用いられる可能性を持っていた。 仏教が芸術と結びついたのは、この可能性を実現したのである。 しかし芸術は、たとい方便として利用せられたとしても、それ自身で歩む力を持っている。 だから芸術が僧院内でそれ自身の活動を始めるということは、何も不思議なことではない。 芸術に恍惚とするものの心には、その神秘的な美の力が、いかにも浄福のように感ぜられたであろう。 宗教による解脱よりも、芸術による恍惚の方がいかに容易であるかを思えば、かかる事態は容易に起こり得たのである。 アジャンターの壁画はそれを実証している。 この壁画を描いた画家は、恐らく仏の説いた戒律に束縛せられていなかったであろう。 この僧堂に住みこの礼拝堂で仏を礼讃した人々も、恐らく官能断離の要求を強く感じてはいなかったであろう。 そうしてほのかな燈火の光に照らし出される男女さまざまの姿態や、装飾的に並んだ無数の仏像などの奇異な、強烈な刺戟によって、陶然とした酔い心地を経験していたのであろう。 それが何らか宗教的な心持ちとして受け取られたとすれば、それはこの陶酔が芸術の享楽によって与えられたのであって、在家の生活におけるがごとく、たちまち厭倦と苦痛とに変ずる直接の享楽によって起こされたのでなかったことに基づくのであろう。 これは彼らが仏を信じていなかったことを意味するのではない。 しかし彼らの信ずるのはすべてを許し何人をも成仏せしめる寛容な仏であって、戒律と 精進 ( しょうじん )とを命令する厳しい教主ではなかったであろう。 従ってあのような画と彫刻に飾られた石窟の内部が、極楽浄土の縮図として、人々に究極の浄福を予感せしめる機縁ともなり得たのであろう。 もう一つ問題となるのは、ペルシアの使臣を描いたらしい三尺ぐらいの比較的小さい画である。 この画だけは色の調子がまるで違っている。 画面全体が快く調和のとれた、温かい、ニュアンスの多い色で塗られている。 一人のペルシア人とそれを取り巻く四五人の女とを描いた構図もまた非常に巧みである。 人物の輪郭の線も他の画とはよほど違っている。 没線画と線画との間をさまよっている他の画に比べると、この画だけはよほど線の画になっているといってよい。 Z君はこの画だけが特に優れているのを不思議がって、アジャンターの中でも特殊の伝統を引いたものではなかろうか、ガンダーラや 西域 ( さいいき )の絵画と関係のあるものではないであろうか、などといっていた。 確かに、この画だけは特殊な気分と美しさを持っている。 この画にペルシアの影響が認められるというのも、こういう点に注目してのことであろう。 スタインの『古 于 ( コータン )』の中の写真に、裸の女が蓮池の中に立っている画の傍に二人の仏の描かれたのがあるが、あれなどは非常に清らかな感じのもので、インドの画とは随分気分を異にしていながら、しかもこの画とはどこか描き方に似たところがあるように思う*。 * 壁画保存の方法として画面にニスを塗ったとき、天井にあるこの画は塗り残されて新鮮な色を保っているのだそうである。 従ってこの画の色調はアジャンター壁画の本来の色調を示しているといってよい。 ペルシア使臣の画で特に目についたのは、ペルシア人の右肩にいる女の顔の誘惑的な表情であった。 これはギリシア風の美術に認められないインド独特の女の美しさで、インド人が女をいかに恐れ、いかに愛していたかを、最も代表的に示していると思う。 これは中世のウェヌスベルグの伝説に現われて来るのと同じ心持ちで、ギリシア人は全然それを知らなかった。 この心持ちを最初アレキサンドリアあたりへ輸入したのは、あるいはインドからであったかも知れない。 肉に酔うか、魂を救うか、この選択の前に立って身を 慄 ( ふる )わせている男の目にうつる女の美しさは、まさにあれである。 この画はそういう美しさを写実的に、しかし最も典型的に描き出している。 けれどもこれは宗教画ではない。 もし禁欲僧が日夜この画に親しまなくてはならなかったとしたら、この画は苦行の座の針にもひとしいものであったろう。 それは美しいが、しかし 恐ろしい、それほど蠱惑的である。 大慈大悲という言葉の妙味が思わず胸に浮かんでくる。 昨夜父は言った。 お前の今やっていることは道のためにどれだけ役にたつのか、頽廃した世道人心を救うのにどれだけ貢献することができるのか。 この問いには返事ができなかった。 五六年前ならイキナリ反撥したかも知れない。 しかし今は、父がこの問いを発する心持ちに対して、頭を下げないではいられなかった。 父は道を守ることに強い情熱を持った人である。 医は仁術なりという標語を片時も忘れず、その実行のために自己の福利と安逸とを捨てて顧みない人である。 その不肖の子は絶えず生活をフラフラさせて、わき道ばかりにそれている。 このごろは自分ながらその動揺に愛想がつきかかっている時であるだけに、父の言葉はひどくこたえた。 実をいうと古美術の 研究は自分にはわき道だと思われる。 今度の旅行も、古美術の力を享受することによって、自分の心を洗い、そうして富まそう、というに過ぎない。 もとより鑑賞のためにはいくらかの研究も必要である。 また古美術の優れた美しさを同胞に伝えるために印象記を書くということも意味のないことではない。 しかしそれは自分の中心の要求を満足させる仕事ではないのである。 雨は終日しとしとと降っていた。 煙ったように雲に半ば隠された比叡山の姿は、京都へ近づいてくる自分に、古い京のしっとりとした雰囲気をいきなり感じさせた。 (五月十七日) 今夕はT君から芝居にさそわれたのをことわって、庭の樹立の向こうに雲の去来する比叡山を眺めながら、南禅寺畔の叔父の家で夕飯を食った。 しんみりとしたよい晩であった。 がここにも、享楽の生活をさしおいてまずなすべきことが横たわっているように思う。 しかし自分の心は、放蕩者のように、美術の享楽に向かって急いでいる。 僕はあたふたとこの家を去ろうとする自分を省みて、心に底冷えを感じないではいられなかった。 夜床にはいってから、『 甲子夜話 ( かっしやわ )』をあけて見た。 「楊貴妃はじんぜうなるやせ容の人の如く想はるれど、天宝遺事に貴妃素有 二肉体 一、至 レ夏苦熱、常有 二肺渇 一、毎日含 三一玉魚児於 二口中 一、蓋藉 二其凉津 一沃 レ肺也と。 されば楊貴妃はふとりたる女なりけり」とある。 また 能は宋代の芝居から、 雅楽は唐代の 伎楽 ( ぎがく )から来たものだという林氏の説ものっている。 いかにも随筆らしくておもしろい。 水の音がしきりに聞こえている。 南禅寺の境内からここの庭へはいって、つつじの間を流れて池になり、それから水車を回して邸外へ出るのである。 蘭学者 新宮凉庭 ( しんぐうりょうてい )が、長崎から帰って、ここに順正書院という塾を開いたとき、自分が先に立って弟子たちといっしょに加茂河原から石を運んで、流れや池を造ったのだという。 家もその時のままである。 頼山陽が死ぬ前一二年の間はしょっちゅうここへ遊びに来ていた。 この部屋に山陽が寝たこともあるかも知れない。 水車はそのころから自分の家で食う米をついていたらしい。 天保時代ですらこの方面では今よりも偉かったと思わずにはいられない。 空が美しく晴れて 楓 ( かえで )の若葉が鮮やかに輝いているなかに、まるで緑に浸ったようになって、F氏の茶がかった家が隠れていた。 二階からわずかに都ホテルのあたりが見えるだけで、あとはすっかり若葉の山に取り囲まれている。 樹の種類の異なるに従って、少しずつ色の違うさまざまの若葉が、地からむくむくと湧きあがって来たように見え、まるで烈しい交響楽のように我々の感覚を圧倒してしまう。 だから五分間もそれを眺めていると、人間の世界から遠く遠く離れて来たという心持ちになる。 電車の通りから十町と離れていない所に、こういう閑静な隠れ場所があるという事は、昔からの京都の特長で、文芸などにもその影響が著しく認められると思う。 ここの建築は、もと五条坂の裏通りにあって、 清水焼 ( きよみずやき )の職工の下宿屋となっていたのを、F氏が偶然散歩の途上に見つけて、ついにここに移したのだという。 ひどく荒れていた柱や板を洗ったり磨いたりして見ると、実にしゃれた茶室や座敷が出て来た。 屋根の鬼瓦に初代道八の作があったと言われているから、たぶん文化ごろの建築であろう。 非常に繊巧なもので、すみずみまで気が配ってある。 茶室のほかに座敷が二間、二階一室で、坪数はわずかであるが、廊下や一畳二畳の小間を巧みにあしらって、心理的には非常に広く感じさせるようにできている。 簡素な味がないから、永くなれば飽きるかも知れぬが、しかし江戸時代の文化が最も繊細になったころの建築として、非常に興味深いものである。 ひる少し前から、F氏とT君と三人で博物館に行った。 大谷光瑞 ( おおたにこうずい )氏将来の 庫車 ( クチャ )・ 和 ( コータン )等の発掘品が今日は非常におもしろかった。 あの西域の壁画の破片で見ると、西域の画はアジャンターのよりもはるかに技巧が幼稚なように見える。 無造作に直線を二本引いた鼻や、乱暴に線を長く引いた眉などは、ふざけて描いたものとしか思えない。 しかし仏画をふざけて描くということはあり得ないであろう。 とすると、画家としては素人の僧侶が描いたのであろう。 鼻や眉の描き方はいかにも幼稚らしいが、画全体はかなり精神に富んだ、清らかな美しさを持ったものである。 線は乱暴にひいてあるが、しかしいかにも生き生きとした力を持っている。 たどたどしいくま取りも、写実的な、新鮮な印象を与える。 色はたくまずしてさわやかな諧調を保っている。 肉づけは後期印象派の画に見受けられるような、無技巧のおもしろさを現わしているともいえる。 こういう特徴は、アジャンターの壁画を画いたような専門家の技巧からはかえって出にくいであろう。 とすると、技巧の修練は十分でなくとも自己の幻影を描き出すには十分な熱心を持っている素人の手がそこに感ぜられるのである。 インドから中央アジアへの伝道を企てたような、信仰に熱していた僧侶たちにとってはアジャンターあたりの極度に耽美的な儀礼は、頽廃の徴候としか感ぜられなかったであろう。 そうしてガンダーラ地方の簡素な芸術の方が、むしろ心からの同感を呼び起こしたであろう。 ガンダーラの画がどういうものであったかはわからないが、彫刻と同じように、写実的な、清らかな、かなり精練されない所もある芸術だったとすると、画才のある素人にはわりにまねやすかったであろうと思われる。 専門の画家ならば、あのペルシア人かギリシア人らしい 髯 ( ひげ )のはえた男の手を、ああは画かないであろう。 あの手は指のつけねのところに、さも面倒臭くなったというふうに、横に直線が引いてある。 専門の画家が画くとすればあの直線を引く手間で普通に写実的な手を描いてしまうであろう。 前に言った鼻の画き方でもそうである。 人の顔を描き慣れているものが、すなわちどう線を引けば鼻の形が出るかという事を知りぬいているものが、ふざけてででもなければ、ああいう窮した描き方をするわけがない。 といって落書きでもなさそうである。 やはり、ガンダーラの美術に好愛を持っていた僧侶のうちの画才のあるものが、この西域の画の作者だろうと考えるほかはない。 確かにあの画は、インドの画よりも深い精神的内容を感じさせる。 それは官能の美以上の深い美しさである。 たとえばあの菩薩(?)の顔は、技巧から言えばアジャンターの画などと比べものにならないほど 拙 ( つたな )いかも知れない。 しかしこの菩薩の顔の方がはるかに強く人を感動させる。 じっと見まもっていると、奇妙な、幻想的な恍惚に引き入れられて行くほど神秘めいた深さを持っている。 無造作にくま取ったあのまぶたの感じや、微笑みかけているあの唇の感じなどは、実に何とも言えない。 同じ発掘品で、唐の影響を著しく受けていると思われる仏頭が四つある。 それを見ながら考えたことであるが、仏教美術の東漸を研究するには、 眉や眼や鼻や耳などの描き方の変遷を注意深く調べて見なくてはなるまい。 なぜなら、インドアアルヤ族、ギリシア人と東方人との混血児、特にアジア人の血の混じったもの、トルコ族、蒙古族など、異なった種族の中を伝わって来る間に、モデルの変遷によって画き方もまた変わって来たろうと思われるからである。 たとえば眉と眼との間に引く細い線がだんだんその位置を移しているのは、まぶたの厚ぼったい蒙古人やシナ人がモデルとなり始めたことを語るのではないか。 長い細い弓なりの眉もまた同じことを語っていはしないか。 ガンダーラの彫刻には明らかに蒙古人をモデルにしたらしいのがあるが、そのやり方が中央アジアでうまく利用されたことは疑いがない。 それがシナにはいってさらに強く変化させられていることは、右に言ったようなモデルの推移によって、説明がつくのではないであろうか。 種族が異なるに従って、理想の顔や体格がどういうふうに変わって来るかという問題は、文化の伝播と連関して、興味のある問題である。 たとえば仏画は、東へ来れば来るほど清らかに気高くなって行くが、このことは仏教の教義の変遷とどう関係するか。 あるいはまた当時の諸民族の内心の要求や問題とどう関係するか。 これらは考究に価する問題であろう。 シナへ来て西域の美術が一層端厳な、「仏」にふさわしいものになったということは、同じ発掘品のなかのガンダーラの仏頭と、推古天平室の中央にすわっている広隆寺の 弥勒 ( みろく )*( 釈迦 ( しゃか )?) 塑像 ( そぞう )とを比べて見ればわかる。 あの仏頭はその写実の確かさにおいて強く我々の心を捕えるものであるが、しかしあの弥勒の超自然的な偉大さにはかなわない。 一体あの弥勒は我が国の仏像のうちで最も著しくガンダーラの様式を現わしているものである。 その肉づけの写実的なことと言い、その重々しい、大きい衣のひだの、小気味のいい大胆さ自由さと言い、シナ風の装飾化の動機にわずらわされずに、端的に人体を作り出している。 特に塑像としての可能性は、極度に生かし切ってあると思う。 我が国の仏像で西洋彫刻に最も近いものは恐らくこれである。 しかもそのギリシア的な様式にもかかわらず、この仏の与える印象は完全に仏教的である。 その威厳のある力強い顔は、理想化された人ではなくして、人の形をかりた超自然者という印象を与える。 ガンダーラの仏頭が企ててなし得なかったところを、この弥勒がなしとげているのである。 ギリシア・仏教式美術がシナに来て初めて完成したということは、この弥勒の前では確かに言えると思う。 書翰紙ののせてある 卓子 ( テーブル )の側の柔らかい椅子に体をもたせかけると、いかにも自然にペンを取り上げたくなって来るという具合が、日本の風呂にはいったあととはひどく違う。 西洋の風呂は 事務的で、日本の風呂は 享楽的だ。 西洋風呂はただ体のあかを洗い落とす設備に過ぎないので、言わば便所と同様の意味のものであるが、日本の風呂は湯の肌ざわりや熱さの具合や湯のあとのさわやかな心持ちや、あるいは陶然とした気分などを味わう場所である。 だから西洋の風呂場と便所とはいっしょであるが、日本人はそれがどんなに清潔にしてあっても、やはり清潔だけではおさまらない美感の要求から、それを妥当と感じない。 この区別が興味をそそって、とりとめもなく文化史的な考察に入り込ませる。 湯を享楽するのは東洋の風だと言われている。 東洋でも熱い国では水に浴するがこれは同じ意味のものと認めてさしつかえない。 西洋にももちろんこの風がないわけではないが、それはトルコ風呂の類で、東洋の風を輸入したものであろう。 温泉なども、西洋のはおもに温泉を呑むのであって、日本のように浴して楽しむのではないらしい。 シナの古い文芸では、浴泉の享楽が酒や女の享楽と結びつき、すこぶる感覚的に歌われているが、西洋にこんな文芸はあるかどうか。 もっともローマでは入浴が盛んだった。 私宅の浴室も公衆の浴場も、純粋に享楽のために造られたもので、特に公衆浴場はぜいたくの限りがつくしてあったらしい。 大きい円天井の建物の中に、大理石を盛んに使って、冷水の池もあれば温湯の浴槽もある。 脱衣室もあれば化粧室もある。 すべてが美しい柱や彫刻や壁画で飾られている。 そのなかで人々は泳いだり、温浴したり、蒸し風呂を取ったり、雑談にふけったり、その他いろいろの娯楽をやる。 ところがそのギリシア人も、家の中で風呂にはいるなどということは、東洋人から教わったのであった。 しかも初めは戦争や運動のあとで、体の疲れを回復するために使ったに過ぎなかった。 それを享楽のためにやっているのは、『オデュッセイア』のなかに 奢侈 ( しゃし )の国として描かれているあの神話的なプァイエーケスの国である。 小アジアや南イタリアあたりの植民地が盛んにぜいたくをやるようになると、この風は一般にひろまってしまった。 やはりぜいたくや淫蕩の先駆をやるシバリスの市民が蒸し風呂などというものをはやらせた。 共同浴の風習も東洋から来たもので、温浴と共にだんだん盛んになった。 こんな惰弱な風はよろしくないといって、ヘシオドスやアリストファネスがだいぶやかましく言ったが、だめだった。 男女混浴の風もはやった。 アレキサンドロス大王がダリオス王の風呂場を見て驚いているのなども、この方面から考えるとおもしろい。 しかしこの温浴を楽しむ伝統は、中世以後のヨーロッパにはあまり栄えていない。 もちろん体を洗うのは人間として必要なことであるから、家には浴室があり、浴室の持てないものには公衆浴場があったに相違ないが、それは「必要なもの」として以上に「楽しむもの」にはならなかったらしい。 デュウラアの描いた公衆浴場の画を見ると、女どもがいかにもせわしそうな、早く用をすませてしまいたいという風をしている。 スザンナ入浴の画はずいぶんいろいろな人が描いているが、どれにもわれわれの知っている入浴の心持ちは現わされていない。 で、たとい享楽を目的とするトルコ風呂の類があるとしても、それは特別の場合で、西洋人の日常生活にあみこまれているわけでない。 西洋風呂があの構造である以上は、西洋人風呂の味を解せずと言っていいわけである。 東洋の風呂の伝統が、シナやインドでどうなっているかは知らないが、とにかく日本では栄えている。 もちろん日本の風呂の趣味も最初はシナから教わったもので、それまでは川へ行って水浴をやっていたに相違あるまい。 しかしたまたま唐の詩人の感興が日本人の性質のうちにうまく生きて、もう何世紀かの間、乞食をのぞいたあらゆる日本人の内に深くしみ込んでいる。 風呂桶がいかにきたなかろうと、日本人は風呂で用事をたすのではない、楽しむのである。 それもあくどいデカダン趣味としてではなく、日常必須の、米の飯と同じ意味の、天真な享楽としてである。 温泉の滑らかな湯に肌をひたしている女の美しさなどは、日本人でなければ好くわからないかも知れない。 湯のしみ込んだ 檜 ( ひのき )の肌の美しさなどもそうであろう。 西洋の風呂は、流し場を造って、あの 湯槽 ( ゆぶね )に湯が一杯張れるようになおしさえすればいいのである。 この改良にはさほどの手間はかからない。 それをやらないのだから西洋人は湯の趣味を持たないとしか思えない。 京都から奈良へ来る汽車は、随分きたなくガタガタゆれて不愉快なものだが、沿線の景色はそれを 償 ( つぐの )うて余りがある。 桃山から宇治あたりの、竹藪や茶畑や柿の木の多い、あのゆるやかな斜面は、いかにも平和ないい気分を持っている。 茶畑にはすっかり覆いがしてあって、あのムクムクとした色を楽しむことはできなかったが、しかし茶所らしいおもしろみがあった。 柿の木はもう若葉につつまれて、ギクギクしたあの骨組みを見せてはいなかったが、麦畑のなかに大きく枝をひろげて並び立っている具合はなかなか他では見られない。 文人画の趣味がこういう景色に 培 ( つちか )われて育ったことはいかにももっともなことである。 この沿線でもう一つおもしろく感ずるのは、時々天平の彫刻を思わせるような女の顔に出逢うことである。 これは気のせいかも知れぬが、彫刻とモデルとの関係はきわめて密接なはずだから、この地方の女の骨相と関連させて研究してみたならば、天平の彫刻がどの程度にこの土地から生い出ているかを明らかにし得るかも知れぬ。 奈良へついた時はもう薄暗かった。 この室に落ちついて、 浅茅 ( あさじ )が 原 ( はら )の向こうに見える若草山一帯の新緑(と言ってももう少し遅いが)を窓から眺めていると、いかにも京都とは違った気分が迫って来る。 奈良の方がパアッとして、大っぴらである。 T君はあの若王子の奥のひそひそとした隠れ家に二夜を過ごして来たためか、何となく奈良の景色は落ちつかないと言っていた。 確かに『万葉集』と『古今集』との相違は、景色からも感ぜられるように思う。 食堂では、南の端のストオヴの前に、一人の美人がつれなしですわっていた。 黒みがかった髪がゆったりと巻き上がりながら、白い 額 ( ひたい )を左右から 眉 ( まゆ )の上まで隠していた。 目はスペイン人らしく大きく、 頬 ( ほお )は赤かった。 襟 ( えり )の低い薄い白衣をつけて、丸い腕はほとんどムキ出しだった。 またすぐ近くの卓子には、顔色の蒼い、黒い髪を長く垂れた、フランス人らしい大男の家族が座をとった。 その男のビッコのひき方が、どうやら戦争で負傷したものらしく思えた。 四つに七つぐらいの子供にはシナ人の乳母がはだしでついていた。 妻君はまだ若くてきれいだったが、もう一人のきゃしゃな体をしたおとなしそうな娘の、いかにも清らかなきれいさにはかなわなかった。 この娘の頸は目につくほど長かった。 この格好は画でよく見たが、実物を見るのは初めてである。 われわれが巡礼しようとするのは「美術」に対してであって、衆生救済の 御仏 ( みほとけ )に対してではないのである。 たといわれわれがある仏像の前で、 心底 ( しんそこ )から頭を下げたい心持ちになったり、慈悲の光に打たれてしみじみと涙ぐんだりしたとしても、それは恐らく仏教の精神を生かした美術の力にまいったのであって、宗教的に仏に帰依したというものではなかろう。 宗教的になり切れるほどわれわれは感覚をのり超えてはいない。 だから食堂では、目を楽しませると共に舌をも楽しませていいこころもちになったのである。 食後T君と共にヴェランダへ出て、外をながめた。 池の向こうの旅館の二階では、乱酔した大勢の男が芸妓を交えてさわいでいる。 興福寺の塔の黒い影と絃歌にゆらめく燈の影とが、同じ池の面に映って若葉の間から見えるのも、おもしろくなくはなかった。 われわれはそれを見おろすような気持ちになって、静かに雑談にふけった。 顔を見るなりすぐに言い出したのは、昨夜東京で催されたシコラの演奏会のことであった。 Z君はそれをきくために出発をおくらせていたのである。 Z君は少し落ちつくと、早速気早な調子で巡礼の予定をきめにかかった。 十日ほどの間に目ぼしい所を大体回ってしまうような、欲張った計画ができあがった。 ひるから新薬師寺へ行った。 道がだんだん郊外の淋しい所へはいって行くと、石の多いでこぼこ道の左右に、破れかかった 築泥 ( ついじ )が続いている。 その上から盛んな若葉がのぞいているのなどを見ると、一層廃都らしいこころもちがする。 幼いころこういう築泥を見なれていた自分には、さらにその上に追懐から来る淡い哀愁が加わっているように思われる。 壁を多く使った 切妻 ( きりづま )風の建て方も、同じ情趣を呼び起こす。 この辺の切妻は、平の勾配が微妙で、よほど古風ないい味を持っているように思われる。 三月堂の屋根の感じが、おぼろげながら、なおこの辺の民家の屋根に残っているのである。 古代のいい建築は、そのまわりに、何かしら雰囲気といったようなものを持ちつづけて行くとみえる。 廃都らしい気分のますます濃くなって来る狭い道を、近くに麦畑の見えるあたりまで行ってわれわれはとある門の前に留まった。 しかしその門の前に立っただけでは、まだ、今までながめて来たもの以上に非常に変わった光景がわれわれを待っているだろうという気はしない。 門をはいってすぐ鼻の先に修繕のあとのツギハギに見える堂の側面が突き立っているのを見ると、初めておやというような軽い驚きを感ずる。 この感情は堂の正面へ回って少し離れた所から堂全体をながめるに及んで、このようなすぐれた建築が、どうしてこんな所に隠れているのだろうというような驚きの情に高まって行く。 そうしてそれは、美しさから受ける恍惚の心持ちに、何とも言えぬ新鮮さを添えてくれる。 この堂は 光明皇后 ( こうみょうこうごう )の 建立 ( こんりゅう )にかかるもので、幾度かの補修を受けたではあろうが、今なお朗らかな優美な調和を保っている。 天平建築の根強い 健 ( すこ )やかさも持っていないわけではない。 この堂の前に立ってまず 否応 ( いやおう )なしに感ずるのは、やはり天平建築らしい確かさだと思う。 あの簡素な構造をもってして、これほど偉大さを印象する建築は他の時代には見られない。 しかしこの堂の特徴はいかにも 軽快な感じである。 そこからくる優しさがこの堂に全面的に現われている。 それは恐らく天井を省いて化粧屋根裏とし、全体の立ち居を低くしたためであろうと思われる。 がこの新薬師寺では、堂の美しさよりも本尊の薬師像や別の堂にある 香薬師像 ( こうやくしぞう )の方がもっと注目すべきものなのである。 本堂のなかには円い仏壇があって、本尊薬師を中央に十二神将が並んでいる。 薬師のきつい顔は香で黒くくすぶって、そのなかから仏像には珍しく大きい目がギロリと光って見える。 この薬師像の面相は、正面から見ると香のくすぶり方のせいでちょっと変に見えるが、よく見ると輪郭のしっかりした実に好い顔である。 それは横へ回って横顔を見るとよくわかる。 肩から腕へかけての肉づけなども恐ろしく力強いどっしりした感じを与える。 木彫でこれほど堂々とした作は、ちょっと 外 ( ほか )にはないと思う。 全体が一本の木で刻まれているというばかりでなく、作全体に非常に緊密な統一が感ぜられる。 この像の人を圧するような力はそういう大手腕に基づくのであろう。 かつて講義の時関野博士はこの像を天平仏と見ていられたように記憶するが、われわれは弘仁仏ではなかろうかと話し合った。 衣文 ( えもん )の刻み方の 強靱 ( きょうじん )な、 溌剌 ( はつらつ )とした気持ちが、どうもそのように思わせる。 香薬師は今日は見ることができなかった*。 * 香薬師は白鳳期の傑作である。 かつて盗難に逢い、足首を切断せられたが、全体の印象を損うほどではない。 最初訪れた時はそういう騒ぎのあとで、倉の中に大事に 蔵 ( しま )ってあるとのことであった。 その後この薬師像を本尊とする御堂もでき、 御廚子 ( おずし )を開扉してもらって静かに拝むことができるようになった。 御燈明 ( おとうみょう )の光に斜め下から照らされた香薬師像は実際何とも言えぬほど結構なものである。 ほのかに微笑の浮かんでいるお顔、胴体に密着している衣文の柔らかなうねり。 どこにもわざとらしい技巧がなく、素朴なおのずからにして生まれたような感じがある。 がそれでいてどこにも隙間がない。 実に恐ろしい単純化である。 顔の肉づけなどでも、幼稚と見えるほど簡単であるが、そのくせ非常に細かな、深い感じを現わしている。 試みに顔に当たる光を動かしてさまざまの方向から照らして見るがよい。 あの簡単な肉づけから、思いもかけぬ複雑な濃淡が現われてくるであろう。 こういう仕事のできるのは、よほどの巨腕である。 そのことはまた銅の使いこなし方にも現われている。 いかにもたどたどしい 鋳造 ( ちゅうぞう )の仕方のように見えていながら、どこにも硬さや不自由さの痕がない。 実に驚くべき技術である。 この香薬師像は近年二度目の盗難に逢った。 帰りは春日公園の中の寂しい道を通った。 この古い森林はいつ見てもすばらしい。 今はちょうど若葉が美しく出そろって、その間に太古以来の太い杉や檜の直立しているのが目立つ。 藤の花が真盛りで、高い木の 梢 ( こずえ )にまで紫の色が見られた。 鹿野苑 ( ろくやおん )の幻想をここに実現しようとした人のこころもちが、今でもまだこの森の中にただよっているという気がする。 しかし一歩大通りへ出ると、まるで違った、いかにも「名所」らしい、平民的な遊楽の光景に出逢う。 そこにまた奈良でなければ見られない気分がある。 それもわるくはないが、この気分と、三月堂などの古典的な印象とが、まるで関係なしに別々になっているのは、いかにも不思議である。 興福寺の 金堂 ( こんどう )や南円堂にはいって見たが、疲れて来たのであまり印象は残らなかった。 しかし南円堂では壁の画が注意をひいた。 晩の食卓では昨夜のような光景をながめながら、Z君にアメリカのホテルの話をきいた。 * 京都府 相楽郡当尾村 ( そうらくぐんとうのおむら )にある。 奈良から東北一里半ほどである。 奈良の北の郊外はすぐ山城の国になる。 それは名義だけの区別ではなく、実際に大和とは気分が違っているように思われた。 奈良坂を越えるともう光景が一変する。 道は小山の中腹を通るのだが、その山が薄赤い砂土のきわめて痩せた感じのもので、幹の色の美しいヒョロヒョロした赤松のほかにはほとんど木らしいものはない。 それも道より下の 麓 ( ふもと )の方にところどころ群がっているきりで、あとは三尺に足りない雑木や小松が、山の肌を覆い切れない程度で、ところ 斑 ( まだら )に山にしがみついているのである。 そうしてその斑の間には今一面につつじの花が咲き乱れている。 この景色は、三笠山やその南の大和の山々とはよほど感じが違う。 しかしその乾いた、砂山めいた、はげ山の気分は、わたくしには親しいものであった。 こういう所では子供でも峰伝いに自由に遊び回れる。 ちょうど今ごろは柏餅に使う柏の若葉を、それが足りない時には 焼餅薔薇 ( やきもちばら )のすべすべした円い葉を、集めて歩く季節である。 つつじの花の桃色や薄紫も、にぎやかなお祭りらしい心持ちに子供の心を浮き立たせるであろう。 谷川へ下りて水いたずらをしてももう寒くはない。 ジイジイ蝉の声が何となき心細さをさそうまで、子供たちは山に融け入ったようになって遊ぶ。 二十年前には自分もそうであった。 それを思い出しながらわたくしは、故郷に帰ったような心持ちで、飽きずにこの景色をながめた。 この途中の感じが浄瑠璃寺へついてからもわたくしの心に妙にはたらいていた。 しかし浄瑠璃寺へすぐついたわけではない。 道はまだ大変だった。 山を出て里へ出たり、それらしいと思う山をいつか通り過ぎてまた山の間にはいったり、やがてまた旧家らしい家のあるきれいな村へ出たり、しかも雨あがりの道はひどい でこぼこで、 俥 ( くるま )に乗っているのもらくではなかった。 畑と山との美しい色の取り合わせを俥の上で賞めていたわたくしたちも、とうとう我慢がしきれなくなって、Z夫人のほかは皆その狭い田舎道に下り立った。 そうして若葉の美しい 櫟 ( くぬぎ )林のなかや穂を出しかけた麦畑の間を、汗をふきふき歩いて行った。 本道の方は崖が崩れてとても通れまいということだったのである。 しかし意気込んでかかったわりには急な坂は短く、すぐに峰づたいの 坦々 ( たんたん )たる道へ出た。 それで安心して歩いていると、この道がまたなかなか尽きそうもなくなった。 赤松の 矮林 ( わいりん )の間には相変わらずつつじが咲いている。 道傍に石地蔵の並んだ所もあった。 大きい竹藪の間に人家の見える所へも来た。 水の音がしきりに聞こえて、いかにも 幽邃 ( ゆうすい )な趣がある。 あれこそ寺だろうと思っていると、それは水車屋だった。 山の下からながめた時はるか絶頂の近くに見えた家がどうもこれらしい。 もうそんなに高くのぼったかと思う。 と同時に、一体どこまで昇ればいいのだろうと思う。 やがてべら棒に大きな岩が 道傍 ( みちばた )の崖からハミ出ている所をダラダラとのぼって行くと、急に前が開けて、水田にもなるらしい麦畑のある平地へ出た。 村がある、森がある、小山がある。 こんな山の上にあるだろうとは思いがけない、いかにも 長閑 ( のどか )な農村の光景である。 浄瑠璃寺はこの村の一隅に、この村の寺らしく納まっていた。 これも予想外だった。 しかし何とも言えぬ平和ないい心持ちだった。 こんなふうで、もう奈良坂まで帰っていていい時刻に、やっと浄瑠璃寺へついたのである。 さてこの山村の麦畑の間に立って、寺の小さい門や白い壁やその上からのぞいている松の木などの野趣に充ちた 風情 ( ふぜい )をながめた時に、わたくしはそれを前にも見たというような気持ちに襲われた。 門をはいって最初に目についたのは、本堂と塔との間にある寂しい池の、水の色と 葦 ( あし )の若芽の色とであったが、その奇妙に澄んだ、濃い、冷たい色の調子も、(それが今初めて気づいた珍しいものであったにもかかわらず)初めてだという気はしなかった。 わたくしは堂の前の白い砂の上を歩きながら、この漠然たる心持ちから脱することができなかったのである。 この心持ちは一体何であろうか。 浅い山ではあるが、とにかく山の上に、下界と切り離されたようになって、一つの長閑な村がある。 そこに自然と抱き合って、優しい小さな塔とお堂とがある。 心を潤すような愛らしさが、すべての物の上に一面に漂っている。 それは近代人の心にはあまりに淡きに過ぎ平凡に過ぎる光景ではあるが、しかしわれわれの心が和らぎと休息とを求めている時には、秘めやかな魅力をもってわれわれの心の底のある者を動かすのである。 しかるにその夢想を表現した山村の寺に面接して見ると、われわれはなおその夢想に共鳴するある者を持っていたのである。 それはわたくしには驚きであった。 しかし考えてみると、われわれはみなかつては桃源に住んでいたのである。 すなわちわれわれはかつて子供であった! これがあの心持ちの秘密なのではなかろうか。 こんな心持ちに気をとられて、本堂のなかに横に一列に並んでいる九体の仏には十分注意が集まらなかった。 Z君に言われて、横に長い 須弥壇 ( しゅみだん )の前の金具をなるほどおもしろいと思った。 仏前に一つずつ置いてある 手燭 ( てしょく )のような格好の木塊に画かれた画もおもしろかった。 色の白い地蔵様もいい作だと思った。 しかし何よりも周囲と調和した堂の外観がすばらしかった。 開いた扉の間から 金色 ( こんじき )の仏の見えるのもよかった。 あの優しい新緑の景色の内に大きい九体の仏があるというシチュエーションは、いかにも藤原末期の幻想に似つかわしい。 それが、Z夫人には気の毒だったが、今日の旅にはふさわしかった。 こんなわけで、帰りは近道をしたけれども、奈良へ帰ったのはもう四時過ぎであった。 そうしてすぐその足で、浄瑠璃寺とはまるきり気分の違った東大寺のなかへ、しかも 戒壇院 ( かいだんいん )へ 馳 ( か )けつけた時には、あの大きい松の立ち並んでいる幹に斜めの日が射し、厳重な塀に囲まれた堂脇の空地には 黄昏 ( たそがれ )を予告する寂しい陰影が漂うていた。 わたくしたちは、小さい花をつけた雑草の上に立って、大きい 鍵 ( かぎ )の響きを聞いた。 それがもう気分を緊張させる。 戒壇院はそういうところである。 堂のなかに歩み入ると、まずそのガランとした陰欝な空間の感じについで、ひどいほこりだという嘆声をつい洩らしたくなる。 そこには今までながめて来た自然とは異なり、ただ荒廃した人工が、塵に埋もれた人の心があるのみであった。 この壇上で幾百千の僧侶が生涯忘れることのないような厳粛な戒を受けたであろうに。 そう思うとこの積もった 埃 ( ほこり )は実に寂しい。 しかしその寂しさはあの潤いのある 九体寺 ( くたいじ )のさびしさではない。 このガランとした壇上の四隅に埃にまみれて 四天王 ( してんのう )が立っているのである。 しかも空前絶後と称せられる貴い四天王が。 それを見ると全く妙なアイロニイを感ずる。 わたくしはこの種の彫刻をそのあるべき所に置いて見るのが好きであるが、しかしそのあるべき所がこのようにあるまじき状態になっているとすると、どうしたらいいであろう。 戒壇の権威はもう地に 堕 ( お )ちている。 だからこそわれわれは、布をかぶせてはあるが土足のままで、この壇上を踏みあらすこともできるのである。 しかし戒壇の権威は地におちても、この四天王の偉大性は地におちはしない。 今となればそれは戒壇よりも重い。 このように埃のなかに放置すべきものではない。 四天王はその写実と類型化との手腕において実に優れた傑作である。 たとえばあの西北隅に立っている 広目天 ( こうもくてん )の眉をひそめた顔のごとき、きわめて微細な点まで注意の届いた写実で、しかも白熱した意力の緊張を最も純粋化した形に現わしたものである。 その力強い雄大な感じは、力をありたけ表出しようとする力んだ努力からではなく、自然を見つめる静かな目の鋭さと、 燻 ( いぶ )しをかけることを知っている控え目な腕の 冴 ( さ )えとから、生まれたものであろう。 だからそこには後代の護王神彫刻に見られるような誇張のあとがまるでない。 しかし筋肉を怒張させ表情のありたけを外面に現わしたそれらの 相好 ( そうごう )よりも、かすかなニュアンスによって抑揚をつけた静かなこの顔の方が、はるかに力強く意力を現わし、またはるかに明白に類型を造り出している。 この天王の骨相は、明らかに蒙古人のものである。 特に日本人として限定することもできるかも知れぬ。 わたくしはこの顔を見てすぐに知人の顔を思い出した。 目、鼻、頬、特に 顴骨 ( かんこつ )の上と耳の下などには、われわれの日常見なれている特殊の肉づきがある。 皮膚の感じもそうである。 しかしこれがシナ人でないとは断言はできぬ。 ただインド人でないことは明らかである。 発掘品から推測し得る限りでは、西域人でもないであろう。 とすると、この種の写実と類型とは、少なくとも 玉関 ( ぎょくかん )以東で発達したものといわなくてはならない。 四天王の着ている 鎧 ( よろい )も興味を引いた。 皮らしい性質がいかにも巧妙に現わされている。 両腕の肩の下のところには 豹 ( ひょう )だか 獅子 ( しし )だかの頭がついていて、その開いた口から腕を吐き出した格好になっている。 その口には 牙 ( きば )や歯が刻んである。 それがまたいかにも堅そうな印象を与える。 肩から胸当てを釣っている 具 ( びじょう )は、現今使っているものと少しも違わない。 胸から腹へかけては、体とピッタリ密着して、体が動くと共にギュウギュウと鳴りそうな感じである。 わたくしはこの像が 塑像 ( そぞう )であることをつい忘れてしまいそうであった。 一体この武具はどこの国のものであろうか。 下着が 筒袖 ( つつそで ) 股引 ( ももひき )の類であるところを見るとインドのものでないことは確かである。 またギリシアやローマの鎧も、似寄ったところはあるが、よほど違っている。 ペルシアのはかなり近いかも知れぬが、少なくともギリシアと交渉のあった古い時代には、こんな鎧はなかった。 とすると、中央アジアかシナかの風に相違ないということになる。 中央アジアは革細工の発達しそうなところであるが、しかしそこで用いられた鎧の格好はもっと単純なものであったらしい。 そうすればこの武具の様式は結局シナで発達したということにならざるを得ない。 そこで問題が起こる。 仏菩薩 ( ぶつぼさつ )はインド風あるいはギリシア・ローマ風の装いをしているのに、何ゆえ護王神の類はシナの装いをするか。 それに対してわたくしはこう答えたい。 ガンダーラの浮き彫り彫刻などで見ると、一つの構図の端の方にはギリシアの神様がいたり、哲学者らしい 髯 ( ひげ )の多い老人がいたりする。 于 ( コータン )の発掘品などにも、于 の衣服らしいのを着た人物を描き込んだのがある。 大乗経典の描いている劇的な説教の場面などを視覚的に表象しようとする場合には、仏菩薩などの姿はハッキリきまっているが、あとの大衆はどうにでも勝手に思い浮かべるほかはなかったために、国々でそれぞれ特有な幻影が生み出された、というわけであろう。 従ってシナ風の装いをした四天王や十二神将の類は、特にシナ美術の独創を現わしているかもしれない。 四天王を堂の四隅に安置するやり方も、シナの寺院建築と密接な関係があるであろう。 仏教美術がシナで屈折した度はよほど強いものらしい。 そうしてその土台となった西域の美術が、すでにインドよりもガンダーラの方をより強く生かしていたと考えられる。 日本へ来た仏教美術はもう幾度かの屈折を経たものである。 戒壇院から、三月堂へまわった。 三月堂の外観は以前から奈良で最も好きなものの一つであったが、しかし本尊の 不空羂索観音 ( ふくうけんさくかんのん )をさほどいいものとは思っていなかった。 しかるに今日は、あの美しい堂内に歩み入って静かに本尊を見上げた時、思わずはっとした。 全くそこには後光がさしているようであった。 以前にうるさいと感じたあの線条的な背光も、今日は 薄明 ( はくめい )のうちに 揺曳 ( ようえい )する神秘の光のように感ぜられ、言い現わし難い微妙な調和をもって本尊を生かしていた。 この本尊の全体にまだらに残っているあの金の光と色とは、ありふれた金色と違って特別に美しい豊潤なもののように思われる。 それにはあの堂の内部の、特にあの精巧な天井の、比類なき美しい古びかたが、非常に引き立てるようにはたらいているであろう。 が同時に、この堂の内部の美しさは、中央にほのかに輝いている金色なくしては、ととのって来ないのである。 つまり両者は、全体として一つの芸術を形造っている。 それは色と光と空気と、そうしてその内に 馳 ( は )せめぐるおおらかな線との大きな静かな交響楽なのである。 本尊の姿の釣り合いは、それだけを取って見れば、恐らく美しいとは言えないであろう。 腕肩胴などはしっかりできていると思うが、腰から下の具合がおもしろくない。 前にこの美しさがわからなかったのは豊かなものの全体を見ないで、ただ局部にのみ目をとめたためかと思われる。 推古の美術は多くを切り捨てる簡素化の極致に達したものであるが、天平の美術はすべてを生かせることをねらって部分的な 玉石混淆 ( ぎょくせきこんこう )を恐れないのである。 わたくしは心から不空羂索観音と三月堂とに頭を下げた。 そうして不空羂索観音の 渇仰者 ( かつごうしゃ )であるZ君に 冑 ( かぶと )をぬいだ。 しかし美しいのはただ本尊のみではない。 周囲の諸像も皆それぞれに美しい。 脇立 ( わきだ )ちの 梵天 ( ぼんてん )・ 帝釈 ( たいしゃく )の小さい塑像( 日光 ( にっこう )、 月光 ( がっこう )ともいわれる)が傑作であることには、恐らく誰も反対しまい。 その他の諸像には相当に異見があり、特に四天王に至ってはZ君はほとんど一顧の価値をも認めまいとしたが、しかしわたくしはこの比較的に簡素な四天王にも推服する。 特に向かって左後ろのがよい。 もちろん戒壇院の四天王ほどにすぐれた作でなく、やや硬い感じを与えるが、しかしいかにも明快率直で、この堂内に置かれてもはずかしくないと思う。 これらのことについてはホテルへ帰ってからだいぶ論じ合った。 今日はいろいろ予想外のことがあったためか皆元気が好かった。 食堂で隣りの 卓子 ( テーブル )に商人らしい四人づれの西洋人がいて、三分間に一度ぐらいのわりで無慮数十回の乾杯をやっていたが、われわれもそのこころもちに同感のできるほど興奮していた。 Z君は、三月堂の他の諸像をほとんど眼中に置かず*、ただ不空羂索観音と梵天(月光)とを、特に不空羂索観音を、天平随一の名作だと主張した。 それにはわたくしもなかなか同意はできなかった。 天平随一の名作を選ぶということであれば、わたくしはむしろ 聖林寺 ( しょうりんじ )の十一面観音を取るのである。 * 三月堂の壇上に置かれた諸像のうちでは、 塑像の日光・月光菩薩像、 吉祥天像 ( きちじょうてんぞう )などが彫刻として特にすぐれている。 しかしこれらは本来この堂に属したものではあるまい。 壇の背後の廚子中に秘蔵された 執金剛神 ( しゅうこんごうしん )も同じく塑像で、なかなかすぐれた作である。 本文では彫刻と建築との釣り合いを主として問題としたため、これらの彫刻にあまり注意を向けていないが、単に彫刻として堂から引きはなして考えるならば、これらの彫刻が最も重んぜらるべきであろう。 室へ帰ってから興奮のあとのわびしさが来た。 何かの話のついでに、生涯の仕事についてT君と話したが、自分の仕事をいよいよ大っぴらに始めるまで、根を深くおろして行くことにのみ気をくばっているT君の落ちついた心持ちがうらやましかった。 根なし草のようにフラフラしている自分は、何とか考えなおさなくてはならない。 ゲエテのように天分の豊かな人でさえ、イタリアの旅へ出た時に、自分がある一つの仕事に必要なだけ十分の時間をかけなかったことを、またその仕事に必要な手業を十分 稽古 ( けいこ )しなかったことを、悔い嘆いている。 落ちついて地道にコツコツとヤリ直しをするほかはない。 しばらくは柔らかい椅子に身を埋めてぼんやりしている。 やがて少し体が休まると、手を洗って、カラアをつけ変えて、柔らかい 絨氈 ( じゅうたん )の上を伝って、食堂に出て行く。 Z夫人はいつのまにかきれいに身仕度をして、活き活きと輝いた顔を見せる。 できるだけ腹を空かせている上に、かなりうまい料理なので、いいこころもちになってたらふく食う。 元気よくおしゃべりを始める。 今日見た芸術品について論じ合い、受けて来たばかりの印象を消化して行くのは、この時である。 が、食堂を出る時分には、腹が張った上に、工合よく疲れも出て、ひどくだるい気持ちになる。 喫煙室などへ行っても、西洋の女のはしゃいでいるのをぼんやりながめているくらいなものである。 さてそれから室へ帰って風呂にはいると、その日の印象を書きとめておくというような仕事が、全く億劫になってしまう。 印象は新鮮なうちに捕えておくに限るのであるが、それがなかなか実行し難い。 手帖の覚え書きはだんだん簡単になって行く。 博物館を午前中に見てしまおうなどというのは無理な話である。 一度にはせいぜい二体か三体ぐらい、それも静かに落ちついた心持ちで、胸の奥に沁み込むまでながめたい。 N君はそれをやっているらしい。 入り口でパッタリ逢った時に、N君はもう見おえて帰るところだった。 「このごろは大抵毎朝ここへ来ますよ、気分さえよければ」と彼は言った。 朝の早いN君のことだから、まだ露の乾かない公園のなかを歩きまわった 揚句 ( あげく )、戸が開くと同時に博物館のなかへはいって、少し汗ばんだ体にあの天井の高い室の冷やりとした空気を感じながら、幾時間でもじいっと仏像の前にたたずんでいるのであろう。 そういう気ままな生活をもう一月もつづけているN君に対して、あわただしい旅にあるわたくしは何となき一種の 面憎 ( つらにく )さを感ぜずにはいられなかった。 N君に別れて玄関の石段をのぼり切ると、正面の陳列壇のガラス戸があけてあって、壇上の聖林寺十一面観音の側に洋服を着た若い男が立っていた。 下にいる館員に向かって「肉体美」を説明しているのである。 ガラス戸のあいているのはありがたかったが、この若者はどうも邪魔になってならなかった。 やがてその男は得意そうに体をゆすぶりながら、ヒラリと 床 ( ゆか )へ飛び下りてくれたが、すぐ側でまた館員に「乳のあたりの肉体美」を説き始めた。 N君が渋面をつくって出て行ったわけがこれでわかった。 しかしわたくしたちはガラス戸のあいている機会を逃さないために、やはりこのそばを立ち去ることができなかった。 それほどガラスの凹凸や面の反射が邪魔になるのである。 それにつけても博物館の陳列の方法は何とか改善してほしい。 経費などの都合もあることで当事者ばかりの罪でもあるまいが、今のままでは看者に与える印象などはほとんど顧慮せられていない。 N君のような落ちついた見方をしていれば、ある程度までその困難に打ち 克 ( か )つこともできるであろうが、しかし誰もがそういう余裕を持つわけには行かない。 せめて一つ一つの仏像が、お互いに邪魔をし合わないで独立した印象を我々に与えるように、もう少し陳列の順序と方法とを考えれば、短時間に見て行こうとする者にも、もう少しまとまった、強い印象を与え得るかと思う。 理想的に言えば、美術館のような公共の享楽を目ざすものは、うんと 贅沢 ( ぜいたく )にしていいのである。 私人の贅沢とはわけが違う。 あの入り口正面の陳列壇などには、そのために特に一室を設けてもいいような傑作が、いくつも雑然と列べられている*。 そのためにどれほど見物が損をしているかわからない。 当事者にわかりいい言葉でいうと、「こういうことは日本の恥である。 こういうことがあるから西洋人が日本人を尊敬しないのである。 」 国宝という言葉をもっと生かしてもらいたい。 日本の古美術に対しては、われわれは日本民族の一員として、当然鑑賞の権利を持つ。 この鑑賞のために相当の設備をしないのは、国宝の意義を没すると言っていい。 * これは大正八年ごろのことで、そのころには入り口正面に向かって聖林寺の十一面観音、それと背中合わせに法隆寺の百済観音などが立っていた。 聖林寺の観音はその後数年を経て寺へ帰った。 桜井から 多武 ( とう )の 峯 ( みね )への路を十数町行ってちょっと右へはいったところである。 百済観音もまた近年は法隆寺へ帰って、 宝物殿 ( ほうもつでん )の王様になっている。 だが、聖林寺の十一面観音は偉大な作だと思う。 肩のあたりは少し気になるが、全体の印象を傷つけるほどではない。 これを三月堂のような建築のなかに安置して周囲の美しさに釣り合わせたならば、あのいきいきとした豊麗さは一層輝いて見えるであろう。 仏教の経典が仏菩薩の形像を丹念に描写していることは、人の知る通りである。 何人も阿弥陀経を指して教義の書とは呼び得ないであろう。 これは まず第一に浄土における諸仏の幻像の描写である。 また何人も法華経を指してそれが幻像の書でないとは言い得まい。 それは まず第一に仏を主人公とする大きい戯曲的な詩である。 観無量寿経のごときは、 特に詳細にこれらの幻像を描いている。 仏徒はそれに基づいてみずからの眼をもってそれらの幻像を見るべく努力した。 観仏はかれらの内生の重大な要素であった。 「仏像」がいかに刺戟の多い、生きた役目をつとめたかは、そこから容易に理解せられるであろう。 そういう心的背景のなかからわれわれの観音は生まれ出たのである。 何人が作者であるかはわからないが、しかし何人にもあれ、とにかく彼は、明らかな幻像をみずからの眼によって見た人であろう。 観世音菩薩 ( かんぜおんぼさつ )は衆生をその困難から救う絶大の力と慈悲とを持っている。 彼に救われるためには、ただ彼を念ずればいい。 彼は境に応じて、時には仏身を現じ、時には梵天の身を現ずる。 また時には人身をも現じ、時には獣身をさえも現ずる。 そうして衆生を 度脱 ( どだつ )し、衆生に 無畏 ( むい )を施す。 まず第一にそれは人間離れのした、超人的な威厳を持っていなくてはならぬ。 と同時に、最も人間らしい優しさや美しさを持っていなくてはならぬ。 それは根本においては人でない。 しかし人体をかりて現われることによって、人体を神的な清浄と美とに高めるのである。 儀規 ( ぎき )は左手に 澡瓶 ( そうへい )を 把 ( と )ることや頭上の諸面が菩薩面・ 瞋面 ( しんめん )・ 大笑面 ( たいしょうめん )等であることなどを定めているが、しかしそれは幻像の重大な部分ではない。 頭上の面はただ宝冠のごとく見えさえすればいい。 左手の瓶もただ姿勢の変化のために役立てば結構である。 重大なのはやはり超人らしさと人間らしさとの結合であって、そこに作者の幻想の 飛翔 ( ひしょう )し得る余地があるのである。 かくてわが十一面観音は、幾多の経典や幾多の仏像によって培われて来た、永い、深い、そうしてまた自由な、構想力の活動の結晶なのである。 そこにはインドの限りなくほしいままな神話の痕跡も認められる。 半裸の人体に清浄や美を看取することは、もと極東の民族の気質にはなかったであろう。 またそこには抽象的な空想のなかへ写実の美を注ぎ込んだガンダーラ人の心も認められる。 あのような肉づけの微妙さと確かさ、あのような衣のひだの真に迫った美しさ、それは極東の美術の伝統にはなかった。 また沙海のほとりに住んで雪山の 彼方 ( かなた )に地上の楽園を望んだ中央アジアの民の、烈しい憧憬の心も認められる。 写実であって、しかも人間以上のものを現わす強い理想芸術の香気は、怪物のごとき沙漠の脅迫と離して考えることができぬ。 さらにまた、極東における文化の絶頂、諸文化融合の鎔炉、あらゆるものを豊満のうちに生かし切ろうとした大唐の気分は、全身を濃い雰囲気のごとくに包んでいる。 それは異国情調を単に異国情調に終わらしめない。 憧憬を単に憧憬に終わらしめない。 人の心を奥底から掘り返し、人の体を中核にまで突き入り、そこにつかまれた人間の存在の神秘を、一挙にして一つの形像に結晶せしめようとしたのである。 このような偉大な芸術の作家が日本人であったかどうかは記録されてはいない。 しかし唐の融合文化のうちに生まれた人も、養われた人も、黄海を越えてわが風光明媚な内海にはいって来た時に、何らか心情の変移するのを感じないであろうか。 漠々たる黄土の大陸と十六の少女のように可憐な大和の山水と、その相違は何らか気分の転換を 惹起 ( じゃっき )しないであろうか。 そこに変化を認めるならば、作家の心眼に映ずる幻像にもそこばくの変化を認めずばなるまい。 たとえば顔面の表情が、大陸らしいボーッとしたところを失って、こまやかに、幾分鋭くなっているごときは、その証拠と見るわけに行かないだろうか。 われわれは聖林寺十一面観音の前に立つとき、この像がわれわれの国土にあって幻視せられたものであることを直接に感ずる。 その幻視は作者の 気禀 ( きひん )と離し難いが、われわれはその気禀にもある秘めやかな親しみを感じないではいられない。 その感じを細部にわたって説明することは容易でないが、とにかく唐の遺物に対して感ずる少しばかりの 他人らしさは、この像の前では全然感じないのである。 しかもそこには神々しい威厳と、人間のものならぬ美しさとが現わされている。 薄く開かれた瞼の間からのぞくのは、人の心と運命とを見とおす観自在の 眼 ( まなこ )である。 豊かに結ばれた唇には、 刀刃 ( とうじん )の堅きを段々に 壊 ( やぶ )り、 風濤洪水 ( ふうとうこうずい )の暴力を和やかに 鎮 ( しず )むる無限の力強さがある。 円く肉づいた頬は、肉感性の幸福を暗示するどころか、人間の淫欲を抑滅し尽くそうとするほどに気高い。 これらの相好が 黒漆 ( こくしつ )の地に浮かんだほのかな金色に輝いているところを見ると、われわれは否応なしに感じさせられる、確かにこれは観音の顔であって、人の顔ではない。 この顔をうけて立つ豊かな肉体も、観音らしい気高さを欠かない。 それはあらわな肌が黒と金に輝いているためばかりではない。 肉づけは 豊満でありながら、 肥満の感じを与えない。 四肢のしなやかさは柔らかい衣の 皺 ( ひだ )にも腕や手の円さにも十分現わされていながら、しかもその底に強剛な意力のひらめきを持っている。 ことにこの重々しかるべき五体は、重力の法則を超越するかのようにいかにも軽やかな、浮現せるごとき趣を見せている。 これらのことがすべて気高さの印象の素因なのである。 それは観音の出現が虚空での出来事であり、また運動と離し難いものであるために、定石として試みられる手法であろうが、しかしそれがこの像ほどに成功していれば、体全体に地上のものならぬ貴さを加えるように思われる。 肩より胸、あるいは腰のあたりをめぐって、腕から足に垂れる天衣の工合も、体を取り巻く曲線装飾として、あるいは肩や腕の触覚を暗示する微妙な補助手段として、きわめて成功したものである。 左右の腕の位置の変化は、天衣の左右整斉とからみあって、体全体に、流るるごとく自由な、そうして均勢を失わない、快いリズムをあたえている。 横からながめるとさらに新しい驚きがわれわれに迫ってくる。 肩から胴へ、腰から脚へと流れ下る肉づけの確かさ、力強さ。 またその釣り合いの微妙な美しさ。 これこそ真に写実の何であるかを知っている巨腕の製作である。 われわれは観音像に接するときその写実的成功のいかんを最初に問題としはしない。 にもかかわらずそこに浅薄な写実やあらわな不自然が認められると、その像の神々しさも美しさもことごとく崩れ去るように感ずる。 だからこの種の像にとっては写実的透徹は必須の条件なのである。 そのことをこの像ははっきりと示している。 しかしこの偉大な作品も五十年ほど前には路傍にころがしてあったという。 これは人から伝え聞いた話で、どれほど確実であるかはわからないが、もとこの像は 三輪山 ( みわやま )の 神宮寺 ( じんぐうじ )の本尊であって、明治維新の神仏分離の際に、 古神道 ( こしんとう )の権威におされて、路傍に放棄せられるという悲運に逢った。 この放逐せられた偶像を自分の手に引き取ろうとする篤志家は、その界隈にはなかった。 そこで幾日も幾日も、この気高い観音は、埃にまみれて雑草のなかに横たわっていた。 ある日偶然に、聖林寺という小さい真宗寺の住職がそこを通りかかって、これはもったいない、誰も拾い手がないのなら拙僧がお守をいたそう、と言って自分の寺へ運んで行った、というのである。 聖林寺観音の左右には 大安寺 ( だいあんじ )の不空羂索観音や 楊柳観音 ( ようりゅうかんのん )が立っている。 それと背中合わせにわが百済観音が、 縹渺 ( ひょうびょう )たる雰囲気を漂わしてたたずむ。 これは 虚空蔵 ( こくうぞう )と呼ぶのが正しいのかも知れぬが、伝に従ってわれわれは観音として感ずる。 その右に立っている法輪寺虚空蔵は、百済観音と同じく左手に澡瓶を把り、右の 肱 ( ひじ )を曲げ、 掌 ( たなごころ )を上に向けて開いている。 これも観音の 範疇 ( はんちゅう )に入りそうである。 さらに百済観音の左には、薬師寺(?)の、破損はひどいが 稀有 ( けう )に美しい木彫の観音があって、ヴィナスの艶美にも似た印象をわれわれに与える。 その後方には法隆寺の小さい観音が立っている。 目を転じて室の西南隅に向かうと、そこには大安寺の、 錫杖 ( しゃくじょう )を持った女らしい観音や一輪の蓮花を 携 ( たずさ )えた男らしい観音などが、ズラリと並んでいる。 さらに目を転じて室の北壁に向かうと、そこにも 唐招提寺 ( とうしょうだいじ )などの木彫の観音が、あたかも整列せしめられたごとくに、並び立っている。 室の中央には法隆寺の小さい 金銅観音 ( こんどうかんのん )が、奇妙な微笑を口元に浮かべつつ、台上のところどころにたたずんでいる。 岡寺の観音は 半跏 ( はんか )の膝に肱をついて、夢みるごとき、和やかな瞑想にふける。 それが弥勒であるとしても、われわれの受ける印象は依然として観音である。 十大弟子、天竜八部衆、二組の四天王、帝釈・梵天、 維摩 ( ゆいま )、などを除いて、目ぼしいものはみな観音である。 これは観音像がわりに動かしやすいために、自然に集まってきたというわけかも知れない。 しかし考えてみると、三月堂の不空羂索観音、聖林寺の十一面観音、薬師寺東院堂の聖観音、 中宮寺 ( ちゅうぐうじ )観音、 夢殿 ( ゆめどの )観音など、推古天平の最も偉大な作品は、同じくみな観音である。 他に 薬師如来 ( やくしにょらい )の傑作もあるが、観音の隆盛にはかなわない。 だから推古天平室に観音の多いことは、直ちに推古天平時代の観音崇拝の勢力を暗示するとみてよいであろう。 観音崇拝の流行は上代人心の動向を知るに最も都合のいいものである。 聖母崇拝と似たところがないでもない。 また阿弥陀崇拝や浄土の信仰に転向してゆく契機がすでにこの内に含まれているとも見られる。 推古、白鳳、天平と観音の様式や気分が著しく変化して行ったことも、ただ外来の影響とのみ見ず、新しいものの魅力に引きずられて行く礼拝者の新しい満足という方面からも解釈してみなくてはならない。 観音の様式の変化でまず著しいのは、聖林寺観音と百済観音との間に示されているものである。 わたくしは聖林寺観音の写実的根拠のことを言った。 写実はあらゆる造形美術の地盤として動かし難いと思う。 しかしこの写実は、 写真によって代表せられるような平板なものではない。 それは作者の性格を透過し来たることによってあらゆる種類の変化を示現し得るような、自由な、「芸術家の眼の作用」を指すのである。 芸術家は本能的に物を写したがる。 がまた本能的にその好むところを強調する自由を持っている。 この抑揚のつけ方によって、個性的な作品も生まれれば、また類型的な作品も生まれる。 時代の趨勢によっていずれか一方の作家が栄えるということはあるが、いずれの道によるも要するに芸術は個によって全を現わそうとする努力である。 われわれの観音の時代は、製作家がただ類型を造り出すのに骨を折る時代であった。 しかしその仕事においても、抑揚のつけ方は自由であった。 このことを拡大して見せているのが聖林寺観音と百済観音との対照である。 百済観音は写実的根拠を有する点において聖林寺観音に劣らない。 あの肩から腕へ、胸から胴への清らかな肉づけや、下肢に添うて柔らかに垂れている絹布のひだなどには、現実を鋭く見つめる眼のまがいなき証拠が現われている。 しかしこの作家の強調するところは聖林寺観音の作家の強調するところと、ほとんど全く違っているのである。 この相違のうしろには、民族と文化とのさまざまな転変や、それに伴う作家の変動などが見られるかもしれない。 百済観音は朝鮮を経て日本に渡来した様式の著しい一例である。 源は六朝時代のシナであって、さらにさかのぼれば西域よりガンダーラに達する。 上体がほとんど裸体のように見えるところから推すと、あるいは中インドまで達するかも知れない。 しかるにこのガンダーラもしくはインド直系であるはずの百済観音は、ガンダーラ仏あるいはインド仏に似るよりも、むしろはるかに多く漢代の石刻画を思わせる。 全体の気分も西域的ではない。 すなわちガンダーラやインドの美術はシナにはいってまず 漢化せられたのである。 もっとも漢化せられずに西域そのままの様式を持続していたもののあることは大同の石仏などの示している通りであるが、しかし百済観音が代表しているのは漢化せられた様式だけである。 そうしてこの様式こそシナにおける創作と言い得るものであろう。 シナの美術が全面的にギリシア美術の精神を生かしてきたのは、ガンダーラが 廃滅に帰した後、 恐らく二世紀以上もたってから、 玄弉 ( げんじょう )が中インドのグプタ朝の文化を大仕掛けに輸入した後のことらしい。 かく漢化の時代が先に立ち、諸文化融合の時代があとに来たために、様式の変化は歴史の進程と逆になっているが、そこにはまた六朝から唐へかけてのシナ文化の推移が語られているように思う。 百済観音をこの推移の標本とするのは、少し無理である。 竜門の浮き彫りなどに現われた直線的な衣の手法は、夢殿観音には似ているが百済観音には似ていない。 しかしここで問題としたいのは、あの直線的な手法の担っている様式的な意義なのである。 百済観音は確かにこの鋼の線条のような直線と、鋼の薄板を彎曲させたような、硬く鋭い曲線とによって貫かれている。 そこには簡素と明晰とがある。 同時に縹渺とした含蓄がある。 大ざっぱでありながら、微細な感覚を欠いているわけでもない。 形の整合をひどく気にしながらも、形そのものの美を目ざすというよりは、形によって暗示せられる何か抽象的なものを目ざしている。 従って「観音」という主題も、肉体の美しさを通して表現せられるのではなく肉体の姿によって暗示せられる何か神秘的なものをとおして表現せられるのである。 垂れ下がる衣のひだの、永遠を思わせる静けさのために、下肢の肉づけを度外しているごときは、その一例と見ることができよう。 従ってこの作家は、肉体の感覚的な性質の内へ食い入って、そこから神秘的な美しさを取り出すというよりも、表面に漂う意味ありげな形を捕えて、その形をあくまでも追究して行こうとするのである。 そこに漢の様式の特質も現われている。 しかしこの像の美しさは、それだけでは明らかにならない。 右のような漢の様式の特質を中から動かして仏教美術の創作に趣かせたものは、漢人固有の情熱でも思想でもなかった。 外蛮の盛んな侵入によって、血も情意も烈しい混乱に陥っていた当時の漢人は、和らぎと優しみとに対する心からの憧憬の上に、さらにかつて知らなかった新しい心情のひらめきを感じはじめていた。 それは地の下からおもむろに萌え出て来る春の予感に似かよったものであった。 かくしてインドや西域の文化は、ようやく漢人に 咀嚼 ( そしゃく )せられ始めたのである。 異国情調を慕う心もそれに伴って起こった。 無限の慈悲をもって衆生を抱擁する異国の神は、ついにひそやかに彼らの胸の奥に忍び込んだのであった。 抽象的な「天」が、具象的な「仏」に変化する。 その驚異をわれわれは百済観音から感受するのである。 彼らは新しい目で人体をながめ、新しい心で人情を感じた。 そこに測り難い深さが見いだされた。 そこに浄土の象徴があった。 そうしてその感動の結晶として、 漢の様式をもってする仏像が作り出されたのである。 わたくしは百済観音がシナ人の作だというのではない。 百済観音を形成している様式の意義を考えているのである。 シナではそれはいくつかの様式のうちの一つであった。 しかし日本へくるとこの様式がほとんど決定的な力を持っている。 それほど日本人はこの様式の背後にある体験に共鳴したのである。 百済観音の奇妙に神秘的な清浄な感じは、右のごとき素朴な感激を物語っている。 あの円い清らかな腕や、楚々として濁りのない滑らかな胸の美しさは、人体の美に慣れた心の所産ではなく、初めて人体に底知れぬ美しさを見いだした驚きの心の所産である。 あのかすかに微笑を帯びた、なつかしく優しい、けれども憧憬の結晶のようにほのかな、どことなく気味悪さをさえ伴った顔の表情は、慈悲ということのほかに何事も考えられなくなったういういしい心の、病理的と言っていいほどに烈しい偏執を度外しては考えられない。 このことは特に横からながめた時に強く感ぜられる。 面長 ( おもなが )な柔らかい横顔にも、薄い体の奇妙なうねり方にも。 しかし百済観音の持っている感じはこうでもしなくてはいい現わせない。 あの 深淵 ( しんえん )のように 凝止 ( ぎょうし )している生の美しさが、ただ技巧の拙なるによって生じたとは、わたくしには考えられぬ。 それは僧侶であったかも知れぬ。 三月堂の 良弁 ( ろうべん )が彫刻家としても優れていたという伝説などは、一概に 斥 ( しりぞ )けてしまうわけには行かないであろう。 良弁堂の良弁像が 良弁の自作であるという伝えは、この像が 貞観 ( じょうがん )時代の作と見られる限り、信をおきがたいものであるが、しかしそれは良弁が彫刻家でもあったことを否定すべき理由とはならない。 三月堂の建築と言い、堂内の彫刻と言い、良弁に関係のあるものがすべて第一流の傑作であることは、少なくとも良弁が非常によく芸術を解する人であり、また非常に優れた芸術家を配下に持っていた、ということの証拠である。 もしあの良弁像が自作であるならば、良弁は第一流の彫刻家であるが、もし彼の配下の彫刻家もしくはその弟子があれを 刻 ( きざ )んだとすれば、彼は天下随一の彫刻家を養成したわけである。 実際良弁像に現われたような優れた写実の腕前は、天平時代にも貞観時代にも珍しい。 あれの造れる人なら確かに三月堂や聖林寺の観音も造れたろうという気がする。 東大寺の一派が天平芸術の中核をなしているのは、確かに天才が良弁の近くにいたために相違ない。 大仏鋳造のごときもこれと離して見ることはできない。 聖武帝をこの決意に導いたのが良弁だという『 元亨釈書 ( げんこうしゃくしょ )』等の説も、恐らく真実であろう。 ただあの巨大な堂塔と巨大な 金銅仏 ( こんどうぶつ )とを 最初に幻想したのが良弁であったかあるいは他の天才であったかは知ることができぬ。 薬師寺の銅像や法隆寺の壁画ができてから三月堂の建造に至るまでには、少なくとも二十年余りの歳月がたっている。 それから大仏の鋳造が計画せられるまでには、また十年の間がある。 開眼供養 ( かいげんくよう )はなおその十年後である。 もしある天才芸術家の在世を考えるならば、この歳月によって年齢の関係をも顧みなくてはならぬ。 一人の天才の存否は時代の趨勢よりも重い。 天平後期の芸術に著しい変化が認められるのは、外来の影響のみならず、この種の芸術家が死んだということにもよるであろう。 作家の名や生活がわからないにしても、作品に個性が認められることは事実である。 三月堂の諸作や聖林寺観音などを一群として、これを興福寺の十大弟子や天竜八部衆に比べて見る。 あるいは大安寺の木彫諸作を、唐招提寺の木彫に比べて見る。 あるいはもっと詳しく、たとえば大安寺の楊柳観音・四天王の類を同じ寺の十一面観音などと比べて見る。 そこにあるのは単に技巧上の区別ではない。 明らかに作家の個性の相違である。 興福寺の諸作は 健陀羅 ( ガンダーラ )国人問答師の作と伝えられている。 その真偽はとにかくとして、あの十大弟子や八部衆が同一人の手になったことは疑うべくもない。 その作家は恐らく非常な才人であった。 そうして技巧の達人であった。 けれどもその巧妙な写実の手腕は、不幸にも深さを伴っていなかった。 従ってその作品はうまいけれども小さい。 この作家の長所は、幽玄な幻像を結晶させることにではなく、むしろ写実の警抜さに、あるいは写実をつきぬけて鮮やかな類型を造り出しているところに、認められなくてはならぬ。 釈迦の弟子とか竜王とかということを離れて、ただ単に僧侶あるいは武人の風俗描写として見るならば、これらの諸作は得難い逸品である。 竜王の顔において特にこの感が深い。 ここに看取せられるのは現実主義的な作者の 気禀 ( きひん )である。 それによって判ずれば、この作者がシナにおいて技を練ったガンダーラ人であるということは必ずしもあり得ぬことではない。 しかしわれわれの見聞した限りでは、この作に酷似する作品はシナにも西域にも見いだされない。 従ってこの作者が我が国の生み出した特異な芸術家であったということも、許されぬ想像ではない。 興味をこの想像に向ければ、「問答師」なる一つの名は愛すべく珍重すべき謎となるであろう。 大安寺の諸作は右の諸作ほど特異な才能を印象しはしない。 もっとふっくりした所もあり、また正面から大問題にぶつかって行く大きい態度も認められる。 しかし写実がやや表面に流れているという非難は避けることができない。 あの楊柳観音の横の姿などは、いかにもよく安定した美しい調和、どっしりとした力強さを印象するが、しかし何となく余韻に乏しい。 その円い腕なども、微妙な感覚を欠いている。 四天王にしても、これという欠点はなく、面相などは非常にいいが、しかし全体の感じにどこか物足りない、平凡なところがある。 道慈 ( どうじ )が大安寺を建てたのは三月堂よりも前であった。 しかしこれらの木彫がそのときにできたかどうかはわからない。 感じから言えばもっと新しい。 材料を木に取って、 乾漆 ( かんしつ )では出すことのできないキッパリした感じを出そうとしているのが、その新しい証拠である。 写実の技巧が一歩進んでいることも認めなくてはなるまい。 それらの点から考えると、三月堂派の傑作に対抗してそれ以上に出ようとする心持ちが、これらの作家になかったとは言い切れない。 しかし不幸にもその熱心は外面にとどまった。 彼らの見た幻像は三月堂派の作家のそれよりははるかに 朧 ( おぼ )ろであった。 従って、形がますます整って行くと反対に、彫像の印象はますます新鮮さを失った。 大安寺の女らしい十一面観音は、恐らくこれらの作家に学んで、さらにその道を押し進めた作家の作であろう。 頭部は後代の拙い補いだから論外として、その肢体はかなり写実的な女の体にできている。 胸部と腰部とにおいてことに著しい。 そこには肉体に対する注意がようやく独立して現われて来たことを思わせるものがある。 観音らしい威厳はないが、ヴィナス風の美しさは認められる。 この像から頭部と手とをきり離して、ただ一つの女体の像として見るならば、大安寺の他の諸像よりははるかに強い魅力を感ぜしめるであろう。 唐招提寺の破損した木彫は、右の十一面観音と非常によく似た手法のものであるが、しかし感じはもっと大まかなように思う。 唐から来た 鑑真 ( がんじん )が唐招提寺に一つの中心を造ったのは、大仏の開眼供養よりは六七年も後のことで、ここに天平時代の後期が始まるのであるが、同じく 玄宗 ( げんそう )時代の流風を伝えたにしても、三四十年前の道慈の時とは、かなり違って現われるのが当然である。 不幸にして新来の彫刻家は、 気宇 ( きう )の大なるわりに技巧が 拙 ( つたな )かった。 大自在王といい釈迦といい、豊かではあっても力が足りない。 ことに釈迦は、大腿が著しく太く衣が肌に密着している新しい様式のものであるが、どうも 弛緩 ( しかん )した感じを伴っているように思われる。 しかしそういう点にまた作家の個性が現われているのかも知れない。 このほかに法隆寺なども、有力な一派をなしていたに相違ない。 この室には塑像の四天王や梵天帝釈や、五重塔内の塑像などが出ているが、少なくともこの塑像と四天王とには共通の気分が認められる。 おっとりとした、 山気 ( やまけ )のない、自ら楽しんで作るといったふうの、非常に気持ちのいい芸風である。 女と童女との塑像で見ても明らかなように、写実としては確かな腕が現われていながら、強い幻想の空気に全体を包まれている。 多聞天や広目天もこの意味でかなり優れた作だと思う。 わたくし 一己 ( いっこ )の 好悪 ( こうお )によっていうと、興福寺の竜王よりはこの天王の方がすぐれている。 奇妙なことかも知れぬが、腕のとれた彫刻などでも、あまりに近くへよると、不思議な生気を感じて、思わずたじたじとすることがある。 ただ記憶に残っている像でも、生きている人と同様に妙な親しみやなつかしみを感じさせる。 それから考えると、昔の人が仏像を幻視したということは少しも不思議ではない。 また観音像に恋した比丘や比丘尼の心持ちも理解できるように思う。 『 日本霊異記 ( にほんりょういき )』は書き方の幼稚な書であるが、天平の人のそういう心持ちを表現している点でおもしろい。 法隆寺のものでは、金堂の 天蓋 ( てんがい )から取りおろしてこの室に列べられた 鳳凰 ( ほうおう )や天人が特に興味の深いものである。 鳳凰は大きい三枚の尾羽をうしろに高くあげて、今飛びおりたばかりの姿勢を保っているが、その尾羽のはがねのように堅そうな、それでいて鳥の羽らしく柔らかそうな感じは、全く独特である。 荒っぽくけずられた、体のわりに大きい足は、頭部の半ばを占めている偉大なくちばしと共に、奇妙にのんきな、それでいて力強い、かなり緊張した印象を与える。 簡素で、 雄勁 ( ゆうけい )で、警抜である。 百済観音について言ったような直線と直線に近い曲線とが全体を形造っているのではあるが、同時にまた簡単な水墨画に見るような自由なリズムの感じもある。 天人は 琵琶 ( びわ )を持って静かに 蓮台 ( れんだい )の上にすわっている。 素朴な点は鳳凰にゆずらない。 また鳳凰と同じく顔と手が特に大きい。 しかも誇張の感じはほとんどない。 そればかりでない、あの眼と口とは、その大きさのゆえに、一種奇妙な、蠱惑と威厳との相混じたような印象を与える。 わたくしはかつてこの像こそ日本人固有の情緒を現わしたものであろうと感じたことがあった。 しかし竜門浮き彫りの拓本などを見ると、これに似た感じがそこにもある。 従ってこの像は、漢人にも共通であるこの種の情緒を、特に好く生かせたものと見るべきであろう。 その意味でこの像はわれわれの祖先のものである。 これらのものを見ると、法隆寺の天蓋の作られた時代や、その時代の法隆寺の作者たちは、実に恐るべきものである。 法隆寺の作品はこのほかになお注意すべきものが少なくない。 維摩の塑像のごときは我々を 瞠目 ( どうもく )せしむるに足る小気味のいい傑作で、 三月堂の梵天・ 帝釈(寺伝日光・月光)や広隆寺の 釈迦(弥勒?)などと共に、ガンダーラ式手法の発展したものではないかと思う。 もっともその発展はシナ人の手によって成し遂げられたのかもしれないが、しかしわれわれはシナの遺品でこれと同じ感じのものを知らない。 従ってわれわれはこれらの像の与える感じをシナ風であるとは思わない。 むしろ日本人の方が、この写実的精神を受けついだのではないかと考えざるを得ない。 思えばこの種の大芸術は民族と文化との混融から来た一時的な花火であった。 もしこれを順当に成長させて行く力が、われわれの祖先に宿ってさえいたならば、われわれは自信をもって日本文化の権利を主張し得ただろうにと思う。 法隆寺の 銅板押出仏 ( どうばんおしだしぶつ )は小さいものではあるが、非常に美しい。 特に本尊阿弥陀のほのかに浮き出た柔らかな姿は、法隆寺壁画の阿弥陀を思わせる。 これは唐からの輸入品で、壁画となにか関係を持っているかもしれない。 もともとこの仮面は、高揚した芸術創作の欲望から生まれたものではなく、幾分戯画的気分に支配せられた、第二義的な製作欲の所産であろう。 しかし人間の感情をある表情の型によって表現する手際には、実に驚くべきものがある。 それは第一に、厳密な写実的根拠を持っている。 第二に、ある表情の急所を鋭く捕えて、一挙にそれを類型化している。 従ってそのねらい所が、深い内部的な、感情にある場合には、恐るべく立派な芸術品になるが、それに反して外面的な滑稽味や、醜い僻や、物欲に即した激情などにある場合には、あまり高い芸術的価値を感ぜしめない。 たとえば人の表情の内には猿との類似を思わせるものがある。 それを鋭く捕えて一つの型にしたところで、われわれはその巧妙な捕え方に驚くばかりで、芸術的印象をうけはしない。 しかし内心から湧き出る悲哀や歓喜の表情がある濃淡をもって一つの明白な型に仕上げてあるのを見ると、われわれは汲めどもつきぬ生の泉に出逢ったような強い喜びを感ずるのである。 仮面の表情は、単に型化せられているばかりでなく、また著しく誇張せられている。 しかしそれは、伎楽面製作の本来の動機が、表情を誇大した仮面によって、広い演伎場の多衆の看客に、遠い距離において明白な印象を与えたいという所にあるからであって、必ずしも創造力の薄弱に基づいているのではない。 従ってこれらの仮面には誇張に伴うはずの空虚な感じなどはなく、空間的関係の特殊な事情による一種異様な生気さえも現われて来るように思われる。 このことは天平の伎楽面を鎌倉時代の 地久面 ( ちきゅうめん )、 納曾利面 ( なそりめん )の類と比較して見れば明らかである。 鎌倉時代の面は創造力の弱さを暴露した作品であって、そこにはただ生命の実感と縁の少ない誇張のみがある。 それは重心が 末梢 ( まっしょう )神経へ移ったような病的な生活の反映であるといってよい。 そこに作者の現わそうとするのは、現実の深い生に触れて得られた Vision ではなく、疲れた心を襲う 荒唐 ( こうとう )な悪夢の影である。 そこには人間的なものは現われていない。 女の顔を刻んだ面すらも、天平の 天狗 ( てんぐ )の面よりはもっと非人間的である。 従って芸術としての力ははるかに弱い。 かつてわたくしはH氏のところで、天平伎楽面の傑作の一つを親しく手にとって賞玩したことがある。 その頬の肉付けの、おおらかにゆったりとした、しかもこまかい濃淡を逸していない、落ちつきのある快さ。 目や鼻や口などの思い切って大胆な、しかし自然の美しさを傷つけない巧妙な刻みかた。 皺として彫られた線のゆるやかなうねりと、顔面凹凸の滑らかな曲面の感じとの、快く調和的なリズム。 そうしてその弾力のありそうな、生気に充ちた膚肉の感じ。 それをながめていると、顔面に漂うている表情から、陶酔にやや心を 緩 ( ゆる )うしているらしい曇りのない快活な情緒が、しみじみ胸にしみ込んで来る。 生きた人に間近く接した時感ぜられる、あの、生命の放出して来るような感じが、ここにも確かに存しているように思える。 しかも相手が人間ではなくて彫刻であるために、そこに一味の気味わるさが付きまとっている。 そのときH氏が、その仮面をとって自分の顔の上につけた。 この所作によって仮面は突然に異様な生気を帯びはじめた。 ことに仮面をかぶったH氏が少しくその首を動かしてみたとき、顔面の表情が自由に動き出したかと思われるような、強い効果があった。 わたくしは予期しなかったこの印象に圧せられて、思わず驚異の眼をみはった。 仮面を畳の上に横たえ、または手にとって自分の膝の上に置いた時には、それはその本来あるべき所にあるのではない。 われわれはこれまで仮面をその作られた目的から放して、それだけで独立したものとして観察するに慣れていたのである。 普通人の顔の四倍もありそうなその仮面を、人体と結びつけて想像することは、この驚異の瞬間まではわたくしには不可能であった。 しかしさてこの仮面が、仮面としてそのあるべき所に置かれて見ると、そのばかばかしい大きさは少しも大き過ぎはしない。 むしろその大きさのゆえに人が仮面をつけたのでなくして、芸術的に造られた一つの顔が人体を獲得した、と言っていいような、近代人の想像をはずれた、おもしろい印象が作り出されるのである。 ここではじめてわたくしは、仮面を何ゆえに大きくしたかを了解した。 そうして、ギリシアの劇の仮面も同じくらいな大きさであったことを思い出し、この種の仮面の効用と大きさとの間に必然の関係のあることに思い到ったのである。 後代の仮面が天平の伎楽面に比して著しく小さくなっているのは、その用いらるる舞踏や劇に著しい変化のあったことを語るものであろう。 わたくしはこの時の強い印象によって、天平時代に伎楽面を用いた伎楽が、音楽と舞踏とから成る 所作事 ( しょさごと )であったに相違ないという考えを抱きはじめた。 いま数の多い伎楽面を一々ながめ味わってみると、このさまざまな表情のうしろにそれぞれ所作事における役割を感じ出せるように思う。 伎楽演奏の記事は『 続紀 ( しょくき )』にもところどころに現われている。 それによると、諸大寺供養の際のみならず、また宮中の儀式や饗宴の際にも演奏され、時にはその演奏自身を目的とする催しもあったらしい。 孝謙女帝が幸 二山階寺 一奏 二 林邑及呉楽 一などはこの類であろう。 しかし『続紀』は単に名を挙げるのみで、内容の記述に及んでいない。 伎楽がいかなるものでありいかにして演奏されたかは、他の書によって知るほかはない。 そこで問題となるのは、あの仮面を保存していた東大寺の『要録』である。 ここではそれに基づいて、できる限りの想像を試みてみよう。 まず舞台である。 大仏開眼供養の記事には舞台の記述がまるでないが、貞観三年の「開眼供養記」はかなり具体的にその構造をしるしている。 この開眼供養は大仏の頭が地に堕ちたのを修繕した時のことで、最初の開眼供養からすでに百年以上の年月を経たのちである。 その間に文化一般の非常な変遷があり、それに伴って音楽の大改革もあった。 従ってこの際の記述をもって直ちに天平時代の光景を推測することはできない。 しかし幾分の参考にはなるであろう。 第一に舞台は 戸外に設けられた。 すなわち大仏殿前の広場である。 これは天平時代にも同様であったらしい。 楽人たちが左右に分かれて堂前に立ったという記述からそう推測しても間違いはあるまい。 次に舞台は木造の高壇であった。 方八丈、周囲に高欄をめぐらし、四面に額をかける。 舞台上東西には宝樹八株ずつを植え、その側に 礼盤 ( らいばん )一基ずつを据える。 他に 玉幡 ( ぎょくばん )をかける高座二基、高さ三丈三尺の 標 ( ひょう )一基などが、恐らく舞台の近くに設けられたらしい。 また別に広さ二丈長さ四丈の小舞台が、大殿中層南面に造られた。 これらの構造が天平時代にもあったかどうかは疑わしい。 少なくとも開眼供養の時には、 踏歌 ( とうか )の類はじかに庭の上で演ぜられたのである。 東西発声、分 レ庭而奏(続紀)とある。 伎楽などのために別に舞台が設けられていたかとも思われるが、どうも明らかでない。 舞台の他にはなお 幄 ( あげばり )(天幕)が設けられた。 貞観の時は東西三宇ずつで、それが楽人・勅使・諸大夫等の席になっている。 天平の時には開眼師・菩提僧正以下、 講師 ( こうし )・ 読師 ( どくし )が 輿 ( こし )に乗り 白蓋 ( びゃくがい )をさして入り来たり、「堂幄」に着すとある。 また衆僧・沙弥南門より参入して「東西北幄」に着すとある。 貞観の時は東西南の歩廊及び軒廊に千僧の床を設けたが、天平の時にはまだ歩廊ができていなかったので、それだけ多くの幄舎を設ける必要があったのかも知れない。 これらの設備を含む大仏殿前の広場は、濃い単色の衣を着飾った天平の群集によって取り巻かれた。 僧尼の数は一万数百人としるされているが、他に数千の官人も参集したであろうし、また一般の民衆も、たとい式場にはいることはできなかったにしても、この大供養の見物に集まって来なかったはずはない。 そこで華やかな衣の色が一面に地を埋め、東大寺の 伽藍 ( がらん )はこの色の海の上に浮いていたことになる。 もとより大仏殿は今のように左右に寸のつまった不格好なものではなかった。 現在は正面の柱が八本であるが、最初は十二本あって、正面の大きさがほとんど倍に近かった。 またこの堂に対して、中門の外側の左右には三百二十尺の高塔ができかかっていた。 これらの堂塔の大きさは、ただ想像するだけにも骨が折れる。 この雄大な建築と、数知れぬ人の波との上に、うららかな初夏の太陽が、その恵み深い光と熱とを注いでいたのである。 開眼の式がすむ。 講読がおわる。 種々の楽が南門柱東を過ぎて参入し、堂前を二度回って左右に分かれて立つ。 そこでいよいよ舞台が衆人注意の焦点に来る。 まず現われたのは日本固有の舞踏である。 最初のは『続紀』に 五節 ( ごせちのまい )とあり、『要録』に 大歌女 ( おおうため )、大御 三十人とある。 天の岩戸の物語と結びつけられているあの「踏みとどろかす」ところの踊りであろう。 次は 楯伏舞 ( たてふしまい )四十人、これも武人の踊りで、手に 楯 ( たて )をもって節度を刻んだものらしい。 次が 踏歌 ( とうか )(あるいは女漢 躍歌 ( とうか ))百二十人、これは女が二組に分かれて歌いながら踊るのであろうが、『釈日本紀』の引用した説によると歌曲の終わりに「 万年阿良礼 ( よろずとせアラレ )」という「 繰り返し ( リフレイン )」がつくので、たぶん藤原時代以前から俗にこの踊りを 阿良礼走りと言った。 走るというのだからほぼ踊りかたの想像はつく。 これらの歌舞が一わたりすむと、その次が唐及び 高麗 ( こま )の舞楽である。 さてこれらの楽と舞とがいかなるものであったか、それを想像するのがここでの関心の焦点である。 われわれの前にある伎楽の面がこれらの舞楽のあるものに、(少なくとも三つの林邑楽に)用いられたことは疑いがないであろう。 正倉院にはこの時の面が保存せられているそうであるが、もとより同じ感じのものであろう。 衣裳もこの時のものが残っているといわれるが、詳しくはわからない。 天保四年の目録によると、長持のなかに「御衣類色々、古織物数多」や「御衣類、塵芥」などがあった。 今でも塵芥のようになった古い布地はおびただしい数量であると言われる。 その中からこの時の衣裳を取り出すのは困難であろう。 貞観供養の記録には舞女装束、唐衣、唐裳、菩薩装束などの言葉が見え、またその材料らしく 調布三百二十反、 絹八疋、 唐錦九尺、 紗一疋、 青摺衣 ( あおずりごろも )二領、 鞋 ( くつ )十足などもあげられているが、 弘法 ( こうぼう )滅後の風俗変遷を経た後の貞観時代にどれほど天平の面影を残していたかはわからない。 唐衣という言葉はその衣の起源を示すのみで、必ずしも唐風の忠実な保存を意味してはいないのである。 いわんや藤原後期の舞楽装束が、天平のそれを推測する根拠となり得ないのは言うまでもあるまい。 従って最もたしかなのは、天平の画によって想像することである。 そこに描かれている衣裳は、肉体の輪郭やふくらみをはっきりと浮かび出させ、筋肉の表情を自由に外に現われしめるような、柔らかく垂れ下がったものであるが、伎楽の衣裳もそういう類ではなかったかと思われる。 特にインドの風を現わしたものはそうでなくてはならなかったであろう。 貞観の供養にさえも菩薩などは仏像彫刻と同じような扮装をしたらしい。 まして、唐風流行の天平時代に、西域風、インド風やペルシア風などの衣裳を大胆に用いたとしても、少しも不思議はない。 舞台上の所作については、貞観の「供養記」がその幾分を伝えている。 午二剋 ( うまのにこく )に、人鳥の扮装をした東大寺林邑楽が、供物をささげ、東西二列に分かれて舞台から堂上へと静かに歩いて行く。 舞台には 一疋 ( いっぴき )の大きい白象が立っている。 その背に造られた玉台の上には、白い肌のあらわな 普賢菩薩 ( ふげんぼさつ )が、彫刻や画にある通りの姿をして、瞑想に沈んでいる。 やがて 伽陵頻伽 ( かりょうびんが )の人鳥が供物を仏前にささげて帰って来ると、 誦讃 ( じゅさん )の声につれて菩薩が舞い出す。 伽陵頻伽も二行に対立して、楽を奏しつつ舞う。 多門天王が従鬼十四人をひきいて(あるいは王卒と十二 薬叉 ( やくしゃ )とをひきいて)現われる。 弓を持つもの 鉾 ( ほこ )を持つもの、 斧 ( おの )を持つもの、棒を持つものが一人ずつある。 また同時に吉祥天女が天女二十人をひきいて現われる。 内十六人は各造花一茎をささげ、他に 如意 ( にょい )、 白払 ( びゃくほつ )、 扇 ( れいせん )等を持つものがある。 天王薬叉も天女も皆彫刻や画にある通りの扮装をしていたと考えていい。 彼らも東西二列となって舞台から仏前に至り供物をささげて再び舞台に帰ってくる。 そこで王卒・薬叉の類は舞台 辰巳角 ( たつみかど )に立つ。 天女十六人は左右に分かれて舞を舞う。 大自在天王が天人六十人をひきいて現われる。 二十人は 天衣綵花 ( てんいさいか )を盛り、四十人は音楽を調べる。 東西に別れて舞台に列び、仏を讃歌していうには、 仏身安座一国土 一切世界悉現身 身相端厳無量億 法界広大悉充満 讃歌がおわると天人らは綵花を散らし始める。 繽紛 ( ひんぷん )として花が浮動する。 次いで天人が舞う。 舞はまだ午四剋から 酉 ( とり )四剋まで続くのであるがあとは略して右の三例を考えてみよう。 前の二つは記録にも明らかに新作だとことわってあり、後の一つも華厳経の句を讃歌に使ったところから推して大仏供養のための特殊なものであったことが察せられる。 作者は唐舞師、笛師などとあるから、 雅楽寮 ( ががくりょう )の役人であったかも知れない。 舞の振りや楽の 旋律 ( せんりつ )を無視して論ずるのは無謀であるが、ただこの舞曲の構造から考えると、恐らく活人画を去ること遠くないものであったろう。 それは経典と仏像とから得た幻想のきわめて素朴な表現であって、特に芸術家の創造力を示したものではない。 貞観の初めは 恵心院源信 ( えしんいんげんしん )の晩年であって、 来迎図 ( らいごうず )に現われたような特殊な幻想がすでに力強く育っていた。 右の諸作にもこの傾向は著しく認められる。 もしこれを日本化というならば、これらの舞楽はすでに日本化せられたものである。 従ってそれらはあの大きい伎楽面に似合うよりは、むしろ後代の平凡な小さい仮面に似合うものと言ってよい。 とすれば、われわれは貞観の『供養記』からしては天平の伎楽面にふさわしい伎楽を見いだし得ないのである。 天平の伎楽と貞観の舞楽との間に右のごとき区別が生じたのは、貞観供養より先だつ二三十年、弘法滅後の 仁明帝 ( にんみょうてい )前後の時代に行なわれた音楽の大改革のゆえであろう。 この時代には高麗楽のみが栄え、伎楽も林邑楽もその独立を失った。 そうして新しく唐新楽( 羯鼓楽 ( かっこがく ))が起こり、高麗楽と共に左右楽部として 雅楽なるものを形成した。 そこで 新作改作が盛んに行なわれ、新しい 日本的外国楽が成立するに至ったのである。 この機運が 神楽 ( かぐら )や 催馬楽 ( さいばら )などにも著しく外国楽を注ぎ入れたところから見ると、当時の日本化は、外来の音楽・舞踏のうちから特に日本人(すなわち帰化人が帰化人として目立たなくなったほど混血の完了した平安中期の日本人)の趣味に合う点のみを抜き出して育てることであった。 だから偉大なものも、彼らの趣味に合わない限り、捨て去られる。 伎楽のごときはこの意味で骨抜きにされたのである。 林邑楽はインドの舞曲で、特に バラモン教の畑に育ったものらしい。 しかし仁明時代の変革でそのバラモン的香気を失ったことは、貞観供養の林邑楽を見てもわかる。 だから貞観以後百年二百年を経た時代に盛んに行なわれた舞楽は、たとい林邑の名を存していても、全く別物であったと考えなくてはならない。 『舞楽要録』によると、舞楽の最盛期であった藤原時代後半の数多い舞楽演奏は、二三の例外を除いてほとんど皆林邑楽の陵王(左) 納蘇利 ( なそり )(右)をプログラムの最後に置いている。 また 胡飲酒 ( こいんず )、 抜頭 ( ばとう )などの林邑楽をその中間に加えることもまれでない。 しかしこれらの林邑楽は、どの記録から推しても、あまりに繊細な 規矩 ( きく )に束縛されている。 貞観時代には素朴ながらも自由な幻想のはたらきが許されていた。 今やその自由さえも地を払っているのである。 鎌倉時代はあの別種な仮面を製作した時代であるから、 古 ( いにしえ )の舞曲に対する正しい理解があったとは思えないが、少なくとも藤原末の伝統は保たれていたであろう。 この時代に音楽生 藤原孝道 ( ふじわらのたかみち )によって書かれた『雑秘別録』なるものを読むと、当時の音楽界の雰囲気がうかがわれる。 孝道をしてこの書を書かしめたのは、音楽を覆いかくす「 秘伝相承 ( ひでんそうしょう )」への反抗である。 「秘蔵すなど申すは、家のならひなれば申すに及ばねども、理かなひても覚えず」というのが彼の主張であった。 しかし彼自身の関心も要するにこの種の秘伝の範囲をいでなかった。 胡飲酒について彼はいっている、「まことに舞にとりて異なる秘蔵大事の物とかや。 これを舞ひつれば 勧賞 ( けんしょう )をかぶる。 見たるにたゞ同じ 体 ( てい )にていづくに秘事あるべしとも見えねども、折々振舞ひて出入りにつけて秘蔵の事どもありとかや。 」そうして彼が熱心に物語るのは、藤原末における相伝の歴史である。 雅実 ( まさざね )の日記に「忠時こいんず舞ふ。 相伝なき事どもあり。 自由らうぜきのおのこなり」とあることなども引用せられている。 相伝が結局芸術の生命を 萎微 ( いび )させたのであるにかかわらず人々の注意はこの相伝を得ることに集まって、舞曲そのものの自由な考察には向かわなかった。 だから「すぢなきことは、ものの説はうせず、すがたは皆うすめり」といわれる。 菩薩舞のごときは、「白河院の頃までは、天王寺の舞人まひけれども、させることはなくて、 大法会 ( だいほうえ )にかりいだされけるを、むつかしがりて、のち伝はらずなりて、今はなしとかや。 」これは技巧の末に 拘泥 ( こうでい )する芸術の末路である。 舞楽として残存していたものは、もはや天平の活き活きとした大きい芸術ではない。 天平の伎楽面と鎌倉の伎楽面との間に、芸術的気禀の根本的相違を認め、また生の根をつかむ能力の比較にならぬほどな径庭を許すならば、以上のことは何らの考証なくしても是認せられるだろう。 では何によってあの天平伎楽面の用いられた舞曲を想像し得るのであるか。 それはあの伎楽面自身によってである。 天平時代にはあの伎楽面を用いて伎楽が演ぜられた。 伝説によると 菩薩あるいは 仏哲がインドの舞曲、菩薩舞・菩薩・部侶・ 抜頭楽 ( ばとうがく )の類を伝え、 開眼大会 ( かいげんだいえ )の時に演ぜられて来集貴賤を感嘆せしめた(東大寺要録二)。 岡部氏の研究によると、抜頭舞はベーダの神話にあるペドュ(Pedu)王蛇退治の物語を材料としたもので、抜頭はペドュの音訳であるか、あるいは王がアスヴィンの神からもらった名高い殺蛇の白馬(馬はパイドュ Paidu)の音訳であろうとのことである。 足利末にできた『舞曲口伝』には、「この曲は天竺の楽なり。 婆羅門 ( バラモン )伝来なり。 沙門仏哲これを伝ふ。 唐招提寺にありと云ふ。

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稗田の阿礼、太の安万侶 武田祐吉注釈校訂 古事記 校註 古事記

機 皇帝 あめ の かく のみ か づち

この書は大正七年の五月、二三の友人とともに奈良付近の古寺を見物したときの印象記である。 大正八年に初版を出してから今年で二十八年目になる。 その間、関東大震災のとき紙型をやき、翌十三年に新版を出した。 当時すでに書きなおしたい希望もあったが、旅行当時の印象をあとから訂正するわけにも行かず、学問の書ではないということを 標榜 ( ひょうぼう )して手を加えなかった。 その後著者は京都に移り住み、 曾遊 ( そうゆう )の地をたびたび訪れるにつれて、この書をはずかしく感ずる気持ちの昂じてくるのを経験した。 そのうち 閑 ( ひま )を得てすっかり書きなおそうといく度か考えたことがある。 しかしそういう閑を見いださないうちに著者はまた東京へ帰った。 そうしてその数年後、たしか昭和十三四年のころに、この書が、再び組みなおすべき時機に達したとの通告をうけた。 著者はその機会に改訂を決意し、筆を加うべき原稿を作製してもらった。 旅行当時の印象はあとからなおせないにしても、現在の著者の考えを注の形で付け加えることができるであろうと考えたのである。 しかし仕事はそう簡単ではなかった。 幼稚であるにもせよ最初の印象記は有機的なつながりを持っている。 部分的の補修はいかにも困難である。 従って改訂のための原稿は何年たってもそのままになっていた。 そのうちに社会の情勢はこの書の刊行を不穏当とするようなふうに変わって来た。 ついには間接ながらその筋から、『古寺巡礼』の重版はしない方がよいという示唆を受けるに至った。 その時には絶版にしてからすでに五六年の年月がたっていたのである。 そういうわけでこの書は今までにもう七八年ぐらいも絶版となっていた。 この間に著者は実に思いがけないほど方々からこの書に対する要求に接した。 写したいからしばらく借してくれという交渉も一二にとどまらなかった。 近く出征する身で生還は保し難い、ついては一期の思い出に奈良を訪れるからぜひあの書を手に入れたい、という申し入れもかなりの数に達した。 この書をはずかしく感じている著者はまったく途方に暮れざるを得なかった。 かほどまでにこの書が愛されるということは著者として全くありがたいが、しかし一体それは何ゆえであろうか。 著者がこの書を書いて以来、日本美術史の研究はずっと進んでいるはずであるし、またその方面の著書も数多く現われている。 この書がかつてつとめたような手引きの役目は、もう必要がなくなっていると思われる。 著者自身も、もしそういう古美術の案内記をかくとすれば、すっかり内容の違ったものを作るであろう。 つまりこの書は時勢おくれになっているはずなのである。 にもかかわらずなおこの書が要求されるのは何ゆえであろうか。 それを考えめぐらしているうちにふと思い当たったのは、この書のうちに今の著者がもはや持っていないもの、すなわち若さや情熱があるということであった。 十年間の京都在住のうちに著者はいく度も新しい『古寺巡礼』の起稿を思わぬではなかったが、しかしそれを実現させる力はなかった。 ということは、最初の場合のような若い情熱がもはや著者にはなくなっていたということなのである。 このことに気づくとともに著者は現在の自分の見方や意見をもってこの書を改修することの不可をさとった。 この書の取り柄が若い情熱にあるとすれば、それは幼稚であることと不可分である。 幼稚であったからこそあのころはあのような空想にふけることができたのである。 今はどれほど努力してみたところで、あのころのような自由な想像力の飛翔にめぐまれることはない。 そう考えると、三十年前に古美術から受けた深い感銘や、それに刺戟されたさまざまの関心は、そのまま大切に保存しなくてはならないということになる。 こういう方針のもとに著者は自由に旧版に手を加えてこの改訂版を作った。 文章は添えた部分よりも削った部分の方が多いと思うが、それは当時の気持ちを一層はっきりさせるためである。 * 荒井寛方氏の労作、この後五六年を経て、大正十二年の関東大震災の際、東京帝国大学文学部の美術史研究室において 烏有 ( うゆう )に帰した。 アジャンター壁画の模写から受けた印象のうちで、最も忘られないものの一つは、あの一種独特な色調である。 色の明るさや濃淡の工合が我々の見なれているものとはひどく違う。 恐らくそこに熱国の風物の反映があるのであろう。 あれは濡れた感じのまるでない色調である。 中でも不思議に感じたのは、山の中にキンナラの夫婦がいて雲の中で天人が楽を奏しているという構図の、五六世紀ごろの画であった。 人物も植物も非常に濃い色で描かれているにかかわらず、妙に冷たい、沈んだ感じを持っている。 たとえば木の葉などは、黒ずむばかりの濃い緑に塗られていながら、どんな深い森の幽暗な樹陰でもこんなではあるまいと思われるほどに、光や空気の感じを欠いている。 熱国の強烈な色彩というものを、華やかに輝く光と結びつけて考えている我々には、これらの画の色調はかなり予想外であった。 しかし考えてみると、雪山を理想郷とするインド人が冷たい色に対する特殊な好尚を持っているということには、少しも不自然なところはない。 インドの土地を知らない者には、あのニュアンスの少ない、空気の感じのまるでない色が、どれほど写実になっているのか判断することはできないが、少なくともあの色調によって、五六世紀ごろのインド人に普通であった情調を推測することはできると思う。 当時のインド人はギリシア人のごとく快活ではなかったのであろう。 このことは色調からばかりでなく、壁画に描かれた多くの顔の表情からも、推測することができる。 男も女も、大抵は憂欝な表情をその顔に浮かべているのである。 ことに女の顔の病的な美しさは、その有力な証拠になる。 キレの長い、瞳を上へつるしあげた大きい眼には、何となく物すごい、ヒステリカルな暗さが現われている。 脂肪が少ないために異常に鋭くなっている顔の輪郭の線や、眼、鼻、唇などを刻み出す細かい微妙な線などには、豊かという感じがまるで欠けていると共に、妖艶な、すご味のある、奇妙な美しさがあふれている。 これを 健 ( すこ )やかな、豊かな、調和そのものであるようなギリシア女の画に比べて見ると両者の相違はきわめて明瞭にわかると思う。 次に目に残っているのはインド独特の写実である。 どの壁の画であったか、一丈ぐらいの、乳の大きい女の裸体像があった。 確かにそこには、肉体を鋭く凝視し、その中から強い魅力の秘密をつかみ出そうとする眼が働いている。 ところでこの写実は、一つの人体において試みられているほどには、画面全体に行きわたっていないのである。 構図は恐ろしく非現実的で、突飛な物の形が雑然と並んでいる。 もちろん部分的には、まとまりのいい、無理のない構図もあるが、(また仏伝図や 本生図 ( ほんしょうず )には統一のある立派な構図を持ったものもあるらしいが、)大体としては、きわめて象徴的な、気ままな、お 伽噺 ( とぎばなし )めいたやり方で満足しているように見える。 これをポムペイなどで発見されたローマのギリシア風の画と比べて見るのは、非常に興味の深いことであるが、今は十分の準備がない。 ただ気づかないでいられないのは、写実ということについて、両者の気分が非常に違っていることである。 目で見たものをそのまま写生したくなるのは、画家の本能にあることと思われるが、その本能がここでは働き方を異にしている。 ギリシア風の画家はどんなに想像の材料を描く場合でも、自然らしく見せることを忘れず、写実の地盤を離れることがない。 しかしインドの画家は、一々の人体を非常に精妙に描きながら、その人体の位置についてはほとんど自然を無視したやり方をする。 たとえば空中を飛んでいる天人の体が、いかにも巧妙に、浮動しているごとく描いてあるかと思うと、それが地の上を歩いている人のすぐ頭の上に、まるで両者の関係を顧慮することなしに置いてある。 これは画家が画面全体の幻影を自然のごとく心中に思い浮かべていなかった証拠であろう。 構図は芸術家の幻影から来ないで、描こうとする物語の約束から出ている。 この種のことは大乗神話を描いた仏教の経典にも認められると思う。 ギリシア風の画とアジャンター壁画との関係は、美術史の問題として研究の価値があるばかりでなく、当時の世界文化の交錯を知るためにも、明らかにしなくてはならない。 またたといこの画の作者が純インド人であったとしても、こういう画の流派がインドを父としギリシアを母として生まれたものであることは、ある点まで認めなくてはなるまい。 ギリシアの芸術的精神を摂取しなくては、この種のインド芸術は生まれなかったであろう。 ただその 咀嚼 ( そしゃく )の程度がガンダーラ芸術よりもはるかに強かったために著しく独自な芸術となり得たのであろう。 アジャンター壁画の模写はもう一つ興味のある問題を提出した。 あのような画がどうして宗教画として必要であったのであろうか。 文芸復興期の宗教画はキリスト教の内部に古代の芸術が復活したものとして説くこともできるし、中世に反抗する人間性の解放として説くこともできるが、アジャンター壁画はどう説明していいであろうか。 ことに問題となるのは天人や 菩薩 ( ぼさつ )として現わされた女の顔や体の描き方、あるいは恋愛の場面などに描かれた 蠱惑的 ( こわくてき )な女の描き方である。 文芸復興期のマドンナは豊かな肉体と優美な顔とをもって描かれているが、しかしそこには、美の 権化 ( ごんげ )としてのアフロディテの表現の上に、さらに永遠の処女としての侵し難い清らかさ、救世主の母としての無限の慈愛を現わそうとする努力があり、またあるものはそれを現わし得ている。 しかしアジャンター壁画の菩薩には、この清らかさや慈愛を現わそうとする努力がない。 このことは特に天人や、恋愛する女や、物語の図に現われる女などに著しい。 あの高くもり上がった乳房や、太い腰部の描き方を見た人は、恐らく何人もこの見解に反対しまいと思う。 そこに現わされたのは、調和の極致であるような、美しい線と面との交響でもなく、また生の歓びを神的にまで高めたような、神秘な恍惚でもない。 直ちに触覚に迫って来る肌の柔らかさや肉のふくらみの感じである。 官能の享楽を捨離して、山中の僧院に真理と 解脱 ( げだつ )とを追究する出家者が、何ゆえに日夜この種の画に親しまなくてはならなかったのか。 人間生活を宗教的とか、知的とか、道徳的とかいうふうに截然と区別してしまうことは正しくない。 それは具体的な一つの生活をバラバラにし、生きた全体としてつかむことを不可能にする。 しかし一つの側面をその著しい特徴によって他と区別して観察するということは、それが全体の一側面であることを忘れない限り、依然として必要なことである。 この意味では、宗教的生活と享楽の生活とは、時折り不可分に結合しているにかかわらず、なお注意深い区別を受けなくてはならぬ。 仏徒の生活も、この区別から脱れることはできない。 仏教の礼拝儀式や殿堂や装飾芸術は、決して宗教的生活の本質に属するものではない。 宗教的生活はこれらのすべてを欠いてもかまわない。 また他方では、官能を 悦 ( よろこ )ばせる芸術はいうまでもなく、精神を高め心を浄化する芸術であっても、それをただ享楽するだけであるならば、かかる人を宗教的生活にひきいれることはできない。 だから仏徒の教団においても、キリスト者の教会においても、原始的な素朴な活力を持っていた間は、決して芸術と結びつかなかった。 むしろ芸術をば、その感性的な特質のゆえに、排斥する立場にあった。 これは烈しい情熱をもって宗教的生活の内に突入しようとするものにとって、きわめて自然なことである。 しかし芸術が人の精神を高め心を浄化する力を持つことは、無視さるべきでない。 たといこの美的感情移入が、享受者の実生活ではなくて、ただ空想の世界の出来事に過ぎぬとしても、それはまだ実現せられない より高き自己を自分の前に展開して見せることによって、実生活にいい刺戟を与え、実行の動機を産み出すことがある。 たとえば宗教の儀式に音楽を用いれば、それはショペンハウエルのいわゆる 一時的解脱に人を導き、法悦と解脱とへの人々の要求を強く刺戟することになるであろう。 阿弥陀経 ( あみだきょう )に描かれた浄土が、あらゆる芸術によって飾られていることは、この間の消息を語るものである。 かく芸術は、 衆生 ( しゅじょう )にその より高き自己を指示する力のゆえに、衆生救済の方便として用いられる可能性を持っていた。 仏教が芸術と結びついたのは、この可能性を実現したのである。 しかし芸術は、たとい方便として利用せられたとしても、それ自身で歩む力を持っている。 だから芸術が僧院内でそれ自身の活動を始めるということは、何も不思議なことではない。 芸術に恍惚とするものの心には、その神秘的な美の力が、いかにも浄福のように感ぜられたであろう。 宗教による解脱よりも、芸術による恍惚の方がいかに容易であるかを思えば、かかる事態は容易に起こり得たのである。 アジャンターの壁画はそれを実証している。 この壁画を描いた画家は、恐らく仏の説いた戒律に束縛せられていなかったであろう。 この僧堂に住みこの礼拝堂で仏を礼讃した人々も、恐らく官能断離の要求を強く感じてはいなかったであろう。 そうしてほのかな燈火の光に照らし出される男女さまざまの姿態や、装飾的に並んだ無数の仏像などの奇異な、強烈な刺戟によって、陶然とした酔い心地を経験していたのであろう。 それが何らか宗教的な心持ちとして受け取られたとすれば、それはこの陶酔が芸術の享楽によって与えられたのであって、在家の生活におけるがごとく、たちまち厭倦と苦痛とに変ずる直接の享楽によって起こされたのでなかったことに基づくのであろう。 これは彼らが仏を信じていなかったことを意味するのではない。 しかし彼らの信ずるのはすべてを許し何人をも成仏せしめる寛容な仏であって、戒律と 精進 ( しょうじん )とを命令する厳しい教主ではなかったであろう。 従ってあのような画と彫刻に飾られた石窟の内部が、極楽浄土の縮図として、人々に究極の浄福を予感せしめる機縁ともなり得たのであろう。 もう一つ問題となるのは、ペルシアの使臣を描いたらしい三尺ぐらいの比較的小さい画である。 この画だけは色の調子がまるで違っている。 画面全体が快く調和のとれた、温かい、ニュアンスの多い色で塗られている。 一人のペルシア人とそれを取り巻く四五人の女とを描いた構図もまた非常に巧みである。 人物の輪郭の線も他の画とはよほど違っている。 没線画と線画との間をさまよっている他の画に比べると、この画だけはよほど線の画になっているといってよい。 Z君はこの画だけが特に優れているのを不思議がって、アジャンターの中でも特殊の伝統を引いたものではなかろうか、ガンダーラや 西域 ( さいいき )の絵画と関係のあるものではないであろうか、などといっていた。 確かに、この画だけは特殊な気分と美しさを持っている。 この画にペルシアの影響が認められるというのも、こういう点に注目してのことであろう。 スタインの『古 于 ( コータン )』の中の写真に、裸の女が蓮池の中に立っている画の傍に二人の仏の描かれたのがあるが、あれなどは非常に清らかな感じのもので、インドの画とは随分気分を異にしていながら、しかもこの画とはどこか描き方に似たところがあるように思う*。 * 壁画保存の方法として画面にニスを塗ったとき、天井にあるこの画は塗り残されて新鮮な色を保っているのだそうである。 従ってこの画の色調はアジャンター壁画の本来の色調を示しているといってよい。 ペルシア使臣の画で特に目についたのは、ペルシア人の右肩にいる女の顔の誘惑的な表情であった。 これはギリシア風の美術に認められないインド独特の女の美しさで、インド人が女をいかに恐れ、いかに愛していたかを、最も代表的に示していると思う。 これは中世のウェヌスベルグの伝説に現われて来るのと同じ心持ちで、ギリシア人は全然それを知らなかった。 この心持ちを最初アレキサンドリアあたりへ輸入したのは、あるいはインドからであったかも知れない。 肉に酔うか、魂を救うか、この選択の前に立って身を 慄 ( ふる )わせている男の目にうつる女の美しさは、まさにあれである。 この画はそういう美しさを写実的に、しかし最も典型的に描き出している。 けれどもこれは宗教画ではない。 もし禁欲僧が日夜この画に親しまなくてはならなかったとしたら、この画は苦行の座の針にもひとしいものであったろう。 それは美しいが、しかし 恐ろしい、それほど蠱惑的である。 大慈大悲という言葉の妙味が思わず胸に浮かんでくる。 昨夜父は言った。 お前の今やっていることは道のためにどれだけ役にたつのか、頽廃した世道人心を救うのにどれだけ貢献することができるのか。 この問いには返事ができなかった。 五六年前ならイキナリ反撥したかも知れない。 しかし今は、父がこの問いを発する心持ちに対して、頭を下げないではいられなかった。 父は道を守ることに強い情熱を持った人である。 医は仁術なりという標語を片時も忘れず、その実行のために自己の福利と安逸とを捨てて顧みない人である。 その不肖の子は絶えず生活をフラフラさせて、わき道ばかりにそれている。 このごろは自分ながらその動揺に愛想がつきかかっている時であるだけに、父の言葉はひどくこたえた。 実をいうと古美術の 研究は自分にはわき道だと思われる。 今度の旅行も、古美術の力を享受することによって、自分の心を洗い、そうして富まそう、というに過ぎない。 もとより鑑賞のためにはいくらかの研究も必要である。 また古美術の優れた美しさを同胞に伝えるために印象記を書くということも意味のないことではない。 しかしそれは自分の中心の要求を満足させる仕事ではないのである。 雨は終日しとしとと降っていた。 煙ったように雲に半ば隠された比叡山の姿は、京都へ近づいてくる自分に、古い京のしっとりとした雰囲気をいきなり感じさせた。 (五月十七日) 今夕はT君から芝居にさそわれたのをことわって、庭の樹立の向こうに雲の去来する比叡山を眺めながら、南禅寺畔の叔父の家で夕飯を食った。 しんみりとしたよい晩であった。 がここにも、享楽の生活をさしおいてまずなすべきことが横たわっているように思う。 しかし自分の心は、放蕩者のように、美術の享楽に向かって急いでいる。 僕はあたふたとこの家を去ろうとする自分を省みて、心に底冷えを感じないではいられなかった。 夜床にはいってから、『 甲子夜話 ( かっしやわ )』をあけて見た。 「楊貴妃はじんぜうなるやせ容の人の如く想はるれど、天宝遺事に貴妃素有 二肉体 一、至 レ夏苦熱、常有 二肺渇 一、毎日含 三一玉魚児於 二口中 一、蓋藉 二其凉津 一沃 レ肺也と。 されば楊貴妃はふとりたる女なりけり」とある。 また 能は宋代の芝居から、 雅楽は唐代の 伎楽 ( ぎがく )から来たものだという林氏の説ものっている。 いかにも随筆らしくておもしろい。 水の音がしきりに聞こえている。 南禅寺の境内からここの庭へはいって、つつじの間を流れて池になり、それから水車を回して邸外へ出るのである。 蘭学者 新宮凉庭 ( しんぐうりょうてい )が、長崎から帰って、ここに順正書院という塾を開いたとき、自分が先に立って弟子たちといっしょに加茂河原から石を運んで、流れや池を造ったのだという。 家もその時のままである。 頼山陽が死ぬ前一二年の間はしょっちゅうここへ遊びに来ていた。 この部屋に山陽が寝たこともあるかも知れない。 水車はそのころから自分の家で食う米をついていたらしい。 天保時代ですらこの方面では今よりも偉かったと思わずにはいられない。 空が美しく晴れて 楓 ( かえで )の若葉が鮮やかに輝いているなかに、まるで緑に浸ったようになって、F氏の茶がかった家が隠れていた。 二階からわずかに都ホテルのあたりが見えるだけで、あとはすっかり若葉の山に取り囲まれている。 樹の種類の異なるに従って、少しずつ色の違うさまざまの若葉が、地からむくむくと湧きあがって来たように見え、まるで烈しい交響楽のように我々の感覚を圧倒してしまう。 だから五分間もそれを眺めていると、人間の世界から遠く遠く離れて来たという心持ちになる。 電車の通りから十町と離れていない所に、こういう閑静な隠れ場所があるという事は、昔からの京都の特長で、文芸などにもその影響が著しく認められると思う。 ここの建築は、もと五条坂の裏通りにあって、 清水焼 ( きよみずやき )の職工の下宿屋となっていたのを、F氏が偶然散歩の途上に見つけて、ついにここに移したのだという。 ひどく荒れていた柱や板を洗ったり磨いたりして見ると、実にしゃれた茶室や座敷が出て来た。 屋根の鬼瓦に初代道八の作があったと言われているから、たぶん文化ごろの建築であろう。 非常に繊巧なもので、すみずみまで気が配ってある。 茶室のほかに座敷が二間、二階一室で、坪数はわずかであるが、廊下や一畳二畳の小間を巧みにあしらって、心理的には非常に広く感じさせるようにできている。 簡素な味がないから、永くなれば飽きるかも知れぬが、しかし江戸時代の文化が最も繊細になったころの建築として、非常に興味深いものである。 ひる少し前から、F氏とT君と三人で博物館に行った。 大谷光瑞 ( おおたにこうずい )氏将来の 庫車 ( クチャ )・ 和 ( コータン )等の発掘品が今日は非常におもしろかった。 あの西域の壁画の破片で見ると、西域の画はアジャンターのよりもはるかに技巧が幼稚なように見える。 無造作に直線を二本引いた鼻や、乱暴に線を長く引いた眉などは、ふざけて描いたものとしか思えない。 しかし仏画をふざけて描くということはあり得ないであろう。 とすると、画家としては素人の僧侶が描いたのであろう。 鼻や眉の描き方はいかにも幼稚らしいが、画全体はかなり精神に富んだ、清らかな美しさを持ったものである。 線は乱暴にひいてあるが、しかしいかにも生き生きとした力を持っている。 たどたどしいくま取りも、写実的な、新鮮な印象を与える。 色はたくまずしてさわやかな諧調を保っている。 肉づけは後期印象派の画に見受けられるような、無技巧のおもしろさを現わしているともいえる。 こういう特徴は、アジャンターの壁画を画いたような専門家の技巧からはかえって出にくいであろう。 とすると、技巧の修練は十分でなくとも自己の幻影を描き出すには十分な熱心を持っている素人の手がそこに感ぜられるのである。 インドから中央アジアへの伝道を企てたような、信仰に熱していた僧侶たちにとってはアジャンターあたりの極度に耽美的な儀礼は、頽廃の徴候としか感ぜられなかったであろう。 そうしてガンダーラ地方の簡素な芸術の方が、むしろ心からの同感を呼び起こしたであろう。 ガンダーラの画がどういうものであったかはわからないが、彫刻と同じように、写実的な、清らかな、かなり精練されない所もある芸術だったとすると、画才のある素人にはわりにまねやすかったであろうと思われる。 専門の画家ならば、あのペルシア人かギリシア人らしい 髯 ( ひげ )のはえた男の手を、ああは画かないであろう。 あの手は指のつけねのところに、さも面倒臭くなったというふうに、横に直線が引いてある。 専門の画家が画くとすればあの直線を引く手間で普通に写実的な手を描いてしまうであろう。 前に言った鼻の画き方でもそうである。 人の顔を描き慣れているものが、すなわちどう線を引けば鼻の形が出るかという事を知りぬいているものが、ふざけてででもなければ、ああいう窮した描き方をするわけがない。 といって落書きでもなさそうである。 やはり、ガンダーラの美術に好愛を持っていた僧侶のうちの画才のあるものが、この西域の画の作者だろうと考えるほかはない。 確かにあの画は、インドの画よりも深い精神的内容を感じさせる。 それは官能の美以上の深い美しさである。 たとえばあの菩薩(?)の顔は、技巧から言えばアジャンターの画などと比べものにならないほど 拙 ( つたな )いかも知れない。 しかしこの菩薩の顔の方がはるかに強く人を感動させる。 じっと見まもっていると、奇妙な、幻想的な恍惚に引き入れられて行くほど神秘めいた深さを持っている。 無造作にくま取ったあのまぶたの感じや、微笑みかけているあの唇の感じなどは、実に何とも言えない。 同じ発掘品で、唐の影響を著しく受けていると思われる仏頭が四つある。 それを見ながら考えたことであるが、仏教美術の東漸を研究するには、 眉や眼や鼻や耳などの描き方の変遷を注意深く調べて見なくてはなるまい。 なぜなら、インドアアルヤ族、ギリシア人と東方人との混血児、特にアジア人の血の混じったもの、トルコ族、蒙古族など、異なった種族の中を伝わって来る間に、モデルの変遷によって画き方もまた変わって来たろうと思われるからである。 たとえば眉と眼との間に引く細い線がだんだんその位置を移しているのは、まぶたの厚ぼったい蒙古人やシナ人がモデルとなり始めたことを語るのではないか。 長い細い弓なりの眉もまた同じことを語っていはしないか。 ガンダーラの彫刻には明らかに蒙古人をモデルにしたらしいのがあるが、そのやり方が中央アジアでうまく利用されたことは疑いがない。 それがシナにはいってさらに強く変化させられていることは、右に言ったようなモデルの推移によって、説明がつくのではないであろうか。 種族が異なるに従って、理想の顔や体格がどういうふうに変わって来るかという問題は、文化の伝播と連関して、興味のある問題である。 たとえば仏画は、東へ来れば来るほど清らかに気高くなって行くが、このことは仏教の教義の変遷とどう関係するか。 あるいはまた当時の諸民族の内心の要求や問題とどう関係するか。 これらは考究に価する問題であろう。 シナへ来て西域の美術が一層端厳な、「仏」にふさわしいものになったということは、同じ発掘品のなかのガンダーラの仏頭と、推古天平室の中央にすわっている広隆寺の 弥勒 ( みろく )*( 釈迦 ( しゃか )?) 塑像 ( そぞう )とを比べて見ればわかる。 あの仏頭はその写実の確かさにおいて強く我々の心を捕えるものであるが、しかしあの弥勒の超自然的な偉大さにはかなわない。 一体あの弥勒は我が国の仏像のうちで最も著しくガンダーラの様式を現わしているものである。 その肉づけの写実的なことと言い、その重々しい、大きい衣のひだの、小気味のいい大胆さ自由さと言い、シナ風の装飾化の動機にわずらわされずに、端的に人体を作り出している。 特に塑像としての可能性は、極度に生かし切ってあると思う。 我が国の仏像で西洋彫刻に最も近いものは恐らくこれである。 しかもそのギリシア的な様式にもかかわらず、この仏の与える印象は完全に仏教的である。 その威厳のある力強い顔は、理想化された人ではなくして、人の形をかりた超自然者という印象を与える。 ガンダーラの仏頭が企ててなし得なかったところを、この弥勒がなしとげているのである。 ギリシア・仏教式美術がシナに来て初めて完成したということは、この弥勒の前では確かに言えると思う。 書翰紙ののせてある 卓子 ( テーブル )の側の柔らかい椅子に体をもたせかけると、いかにも自然にペンを取り上げたくなって来るという具合が、日本の風呂にはいったあととはひどく違う。 西洋の風呂は 事務的で、日本の風呂は 享楽的だ。 西洋風呂はただ体のあかを洗い落とす設備に過ぎないので、言わば便所と同様の意味のものであるが、日本の風呂は湯の肌ざわりや熱さの具合や湯のあとのさわやかな心持ちや、あるいは陶然とした気分などを味わう場所である。 だから西洋の風呂場と便所とはいっしょであるが、日本人はそれがどんなに清潔にしてあっても、やはり清潔だけではおさまらない美感の要求から、それを妥当と感じない。 この区別が興味をそそって、とりとめもなく文化史的な考察に入り込ませる。 湯を享楽するのは東洋の風だと言われている。 東洋でも熱い国では水に浴するがこれは同じ意味のものと認めてさしつかえない。 西洋にももちろんこの風がないわけではないが、それはトルコ風呂の類で、東洋の風を輸入したものであろう。 温泉なども、西洋のはおもに温泉を呑むのであって、日本のように浴して楽しむのではないらしい。 シナの古い文芸では、浴泉の享楽が酒や女の享楽と結びつき、すこぶる感覚的に歌われているが、西洋にこんな文芸はあるかどうか。 もっともローマでは入浴が盛んだった。 私宅の浴室も公衆の浴場も、純粋に享楽のために造られたもので、特に公衆浴場はぜいたくの限りがつくしてあったらしい。 大きい円天井の建物の中に、大理石を盛んに使って、冷水の池もあれば温湯の浴槽もある。 脱衣室もあれば化粧室もある。 すべてが美しい柱や彫刻や壁画で飾られている。 そのなかで人々は泳いだり、温浴したり、蒸し風呂を取ったり、雑談にふけったり、その他いろいろの娯楽をやる。 ところがそのギリシア人も、家の中で風呂にはいるなどということは、東洋人から教わったのであった。 しかも初めは戦争や運動のあとで、体の疲れを回復するために使ったに過ぎなかった。 それを享楽のためにやっているのは、『オデュッセイア』のなかに 奢侈 ( しゃし )の国として描かれているあの神話的なプァイエーケスの国である。 小アジアや南イタリアあたりの植民地が盛んにぜいたくをやるようになると、この風は一般にひろまってしまった。 やはりぜいたくや淫蕩の先駆をやるシバリスの市民が蒸し風呂などというものをはやらせた。 共同浴の風習も東洋から来たもので、温浴と共にだんだん盛んになった。 こんな惰弱な風はよろしくないといって、ヘシオドスやアリストファネスがだいぶやかましく言ったが、だめだった。 男女混浴の風もはやった。 アレキサンドロス大王がダリオス王の風呂場を見て驚いているのなども、この方面から考えるとおもしろい。 しかしこの温浴を楽しむ伝統は、中世以後のヨーロッパにはあまり栄えていない。 もちろん体を洗うのは人間として必要なことであるから、家には浴室があり、浴室の持てないものには公衆浴場があったに相違ないが、それは「必要なもの」として以上に「楽しむもの」にはならなかったらしい。 デュウラアの描いた公衆浴場の画を見ると、女どもがいかにもせわしそうな、早く用をすませてしまいたいという風をしている。 スザンナ入浴の画はずいぶんいろいろな人が描いているが、どれにもわれわれの知っている入浴の心持ちは現わされていない。 で、たとい享楽を目的とするトルコ風呂の類があるとしても、それは特別の場合で、西洋人の日常生活にあみこまれているわけでない。 西洋風呂があの構造である以上は、西洋人風呂の味を解せずと言っていいわけである。 東洋の風呂の伝統が、シナやインドでどうなっているかは知らないが、とにかく日本では栄えている。 もちろん日本の風呂の趣味も最初はシナから教わったもので、それまでは川へ行って水浴をやっていたに相違あるまい。 しかしたまたま唐の詩人の感興が日本人の性質のうちにうまく生きて、もう何世紀かの間、乞食をのぞいたあらゆる日本人の内に深くしみ込んでいる。 風呂桶がいかにきたなかろうと、日本人は風呂で用事をたすのではない、楽しむのである。 それもあくどいデカダン趣味としてではなく、日常必須の、米の飯と同じ意味の、天真な享楽としてである。 温泉の滑らかな湯に肌をひたしている女の美しさなどは、日本人でなければ好くわからないかも知れない。 湯のしみ込んだ 檜 ( ひのき )の肌の美しさなどもそうであろう。 西洋の風呂は、流し場を造って、あの 湯槽 ( ゆぶね )に湯が一杯張れるようになおしさえすればいいのである。 この改良にはさほどの手間はかからない。 それをやらないのだから西洋人は湯の趣味を持たないとしか思えない。 京都から奈良へ来る汽車は、随分きたなくガタガタゆれて不愉快なものだが、沿線の景色はそれを 償 ( つぐの )うて余りがある。 桃山から宇治あたりの、竹藪や茶畑や柿の木の多い、あのゆるやかな斜面は、いかにも平和ないい気分を持っている。 茶畑にはすっかり覆いがしてあって、あのムクムクとした色を楽しむことはできなかったが、しかし茶所らしいおもしろみがあった。 柿の木はもう若葉につつまれて、ギクギクしたあの骨組みを見せてはいなかったが、麦畑のなかに大きく枝をひろげて並び立っている具合はなかなか他では見られない。 文人画の趣味がこういう景色に 培 ( つちか )われて育ったことはいかにももっともなことである。 この沿線でもう一つおもしろく感ずるのは、時々天平の彫刻を思わせるような女の顔に出逢うことである。 これは気のせいかも知れぬが、彫刻とモデルとの関係はきわめて密接なはずだから、この地方の女の骨相と関連させて研究してみたならば、天平の彫刻がどの程度にこの土地から生い出ているかを明らかにし得るかも知れぬ。 奈良へついた時はもう薄暗かった。 この室に落ちついて、 浅茅 ( あさじ )が 原 ( はら )の向こうに見える若草山一帯の新緑(と言ってももう少し遅いが)を窓から眺めていると、いかにも京都とは違った気分が迫って来る。 奈良の方がパアッとして、大っぴらである。 T君はあの若王子の奥のひそひそとした隠れ家に二夜を過ごして来たためか、何となく奈良の景色は落ちつかないと言っていた。 確かに『万葉集』と『古今集』との相違は、景色からも感ぜられるように思う。 食堂では、南の端のストオヴの前に、一人の美人がつれなしですわっていた。 黒みがかった髪がゆったりと巻き上がりながら、白い 額 ( ひたい )を左右から 眉 ( まゆ )の上まで隠していた。 目はスペイン人らしく大きく、 頬 ( ほお )は赤かった。 襟 ( えり )の低い薄い白衣をつけて、丸い腕はほとんどムキ出しだった。 またすぐ近くの卓子には、顔色の蒼い、黒い髪を長く垂れた、フランス人らしい大男の家族が座をとった。 その男のビッコのひき方が、どうやら戦争で負傷したものらしく思えた。 四つに七つぐらいの子供にはシナ人の乳母がはだしでついていた。 妻君はまだ若くてきれいだったが、もう一人のきゃしゃな体をしたおとなしそうな娘の、いかにも清らかなきれいさにはかなわなかった。 この娘の頸は目につくほど長かった。 この格好は画でよく見たが、実物を見るのは初めてである。 われわれが巡礼しようとするのは「美術」に対してであって、衆生救済の 御仏 ( みほとけ )に対してではないのである。 たといわれわれがある仏像の前で、 心底 ( しんそこ )から頭を下げたい心持ちになったり、慈悲の光に打たれてしみじみと涙ぐんだりしたとしても、それは恐らく仏教の精神を生かした美術の力にまいったのであって、宗教的に仏に帰依したというものではなかろう。 宗教的になり切れるほどわれわれは感覚をのり超えてはいない。 だから食堂では、目を楽しませると共に舌をも楽しませていいこころもちになったのである。 食後T君と共にヴェランダへ出て、外をながめた。 池の向こうの旅館の二階では、乱酔した大勢の男が芸妓を交えてさわいでいる。 興福寺の塔の黒い影と絃歌にゆらめく燈の影とが、同じ池の面に映って若葉の間から見えるのも、おもしろくなくはなかった。 われわれはそれを見おろすような気持ちになって、静かに雑談にふけった。 顔を見るなりすぐに言い出したのは、昨夜東京で催されたシコラの演奏会のことであった。 Z君はそれをきくために出発をおくらせていたのである。 Z君は少し落ちつくと、早速気早な調子で巡礼の予定をきめにかかった。 十日ほどの間に目ぼしい所を大体回ってしまうような、欲張った計画ができあがった。 ひるから新薬師寺へ行った。 道がだんだん郊外の淋しい所へはいって行くと、石の多いでこぼこ道の左右に、破れかかった 築泥 ( ついじ )が続いている。 その上から盛んな若葉がのぞいているのなどを見ると、一層廃都らしいこころもちがする。 幼いころこういう築泥を見なれていた自分には、さらにその上に追懐から来る淡い哀愁が加わっているように思われる。 壁を多く使った 切妻 ( きりづま )風の建て方も、同じ情趣を呼び起こす。 この辺の切妻は、平の勾配が微妙で、よほど古風ないい味を持っているように思われる。 三月堂の屋根の感じが、おぼろげながら、なおこの辺の民家の屋根に残っているのである。 古代のいい建築は、そのまわりに、何かしら雰囲気といったようなものを持ちつづけて行くとみえる。 廃都らしい気分のますます濃くなって来る狭い道を、近くに麦畑の見えるあたりまで行ってわれわれはとある門の前に留まった。 しかしその門の前に立っただけでは、まだ、今までながめて来たもの以上に非常に変わった光景がわれわれを待っているだろうという気はしない。 門をはいってすぐ鼻の先に修繕のあとのツギハギに見える堂の側面が突き立っているのを見ると、初めておやというような軽い驚きを感ずる。 この感情は堂の正面へ回って少し離れた所から堂全体をながめるに及んで、このようなすぐれた建築が、どうしてこんな所に隠れているのだろうというような驚きの情に高まって行く。 そうしてそれは、美しさから受ける恍惚の心持ちに、何とも言えぬ新鮮さを添えてくれる。 この堂は 光明皇后 ( こうみょうこうごう )の 建立 ( こんりゅう )にかかるもので、幾度かの補修を受けたではあろうが、今なお朗らかな優美な調和を保っている。 天平建築の根強い 健 ( すこ )やかさも持っていないわけではない。 この堂の前に立ってまず 否応 ( いやおう )なしに感ずるのは、やはり天平建築らしい確かさだと思う。 あの簡素な構造をもってして、これほど偉大さを印象する建築は他の時代には見られない。 しかしこの堂の特徴はいかにも 軽快な感じである。 そこからくる優しさがこの堂に全面的に現われている。 それは恐らく天井を省いて化粧屋根裏とし、全体の立ち居を低くしたためであろうと思われる。 がこの新薬師寺では、堂の美しさよりも本尊の薬師像や別の堂にある 香薬師像 ( こうやくしぞう )の方がもっと注目すべきものなのである。 本堂のなかには円い仏壇があって、本尊薬師を中央に十二神将が並んでいる。 薬師のきつい顔は香で黒くくすぶって、そのなかから仏像には珍しく大きい目がギロリと光って見える。 この薬師像の面相は、正面から見ると香のくすぶり方のせいでちょっと変に見えるが、よく見ると輪郭のしっかりした実に好い顔である。 それは横へ回って横顔を見るとよくわかる。 肩から腕へかけての肉づけなども恐ろしく力強いどっしりした感じを与える。 木彫でこれほど堂々とした作は、ちょっと 外 ( ほか )にはないと思う。 全体が一本の木で刻まれているというばかりでなく、作全体に非常に緊密な統一が感ぜられる。 この像の人を圧するような力はそういう大手腕に基づくのであろう。 かつて講義の時関野博士はこの像を天平仏と見ていられたように記憶するが、われわれは弘仁仏ではなかろうかと話し合った。 衣文 ( えもん )の刻み方の 強靱 ( きょうじん )な、 溌剌 ( はつらつ )とした気持ちが、どうもそのように思わせる。 香薬師は今日は見ることができなかった*。 * 香薬師は白鳳期の傑作である。 かつて盗難に逢い、足首を切断せられたが、全体の印象を損うほどではない。 最初訪れた時はそういう騒ぎのあとで、倉の中に大事に 蔵 ( しま )ってあるとのことであった。 その後この薬師像を本尊とする御堂もでき、 御廚子 ( おずし )を開扉してもらって静かに拝むことができるようになった。 御燈明 ( おとうみょう )の光に斜め下から照らされた香薬師像は実際何とも言えぬほど結構なものである。 ほのかに微笑の浮かんでいるお顔、胴体に密着している衣文の柔らかなうねり。 どこにもわざとらしい技巧がなく、素朴なおのずからにして生まれたような感じがある。 がそれでいてどこにも隙間がない。 実に恐ろしい単純化である。 顔の肉づけなどでも、幼稚と見えるほど簡単であるが、そのくせ非常に細かな、深い感じを現わしている。 試みに顔に当たる光を動かしてさまざまの方向から照らして見るがよい。 あの簡単な肉づけから、思いもかけぬ複雑な濃淡が現われてくるであろう。 こういう仕事のできるのは、よほどの巨腕である。 そのことはまた銅の使いこなし方にも現われている。 いかにもたどたどしい 鋳造 ( ちゅうぞう )の仕方のように見えていながら、どこにも硬さや不自由さの痕がない。 実に驚くべき技術である。 この香薬師像は近年二度目の盗難に逢った。 帰りは春日公園の中の寂しい道を通った。 この古い森林はいつ見てもすばらしい。 今はちょうど若葉が美しく出そろって、その間に太古以来の太い杉や檜の直立しているのが目立つ。 藤の花が真盛りで、高い木の 梢 ( こずえ )にまで紫の色が見られた。 鹿野苑 ( ろくやおん )の幻想をここに実現しようとした人のこころもちが、今でもまだこの森の中にただよっているという気がする。 しかし一歩大通りへ出ると、まるで違った、いかにも「名所」らしい、平民的な遊楽の光景に出逢う。 そこにまた奈良でなければ見られない気分がある。 それもわるくはないが、この気分と、三月堂などの古典的な印象とが、まるで関係なしに別々になっているのは、いかにも不思議である。 興福寺の 金堂 ( こんどう )や南円堂にはいって見たが、疲れて来たのであまり印象は残らなかった。 しかし南円堂では壁の画が注意をひいた。 晩の食卓では昨夜のような光景をながめながら、Z君にアメリカのホテルの話をきいた。 * 京都府 相楽郡当尾村 ( そうらくぐんとうのおむら )にある。 奈良から東北一里半ほどである。 奈良の北の郊外はすぐ山城の国になる。 それは名義だけの区別ではなく、実際に大和とは気分が違っているように思われた。 奈良坂を越えるともう光景が一変する。 道は小山の中腹を通るのだが、その山が薄赤い砂土のきわめて痩せた感じのもので、幹の色の美しいヒョロヒョロした赤松のほかにはほとんど木らしいものはない。 それも道より下の 麓 ( ふもと )の方にところどころ群がっているきりで、あとは三尺に足りない雑木や小松が、山の肌を覆い切れない程度で、ところ 斑 ( まだら )に山にしがみついているのである。 そうしてその斑の間には今一面につつじの花が咲き乱れている。 この景色は、三笠山やその南の大和の山々とはよほど感じが違う。 しかしその乾いた、砂山めいた、はげ山の気分は、わたくしには親しいものであった。 こういう所では子供でも峰伝いに自由に遊び回れる。 ちょうど今ごろは柏餅に使う柏の若葉を、それが足りない時には 焼餅薔薇 ( やきもちばら )のすべすべした円い葉を、集めて歩く季節である。 つつじの花の桃色や薄紫も、にぎやかなお祭りらしい心持ちに子供の心を浮き立たせるであろう。 谷川へ下りて水いたずらをしてももう寒くはない。 ジイジイ蝉の声が何となき心細さをさそうまで、子供たちは山に融け入ったようになって遊ぶ。 二十年前には自分もそうであった。 それを思い出しながらわたくしは、故郷に帰ったような心持ちで、飽きずにこの景色をながめた。 この途中の感じが浄瑠璃寺へついてからもわたくしの心に妙にはたらいていた。 しかし浄瑠璃寺へすぐついたわけではない。 道はまだ大変だった。 山を出て里へ出たり、それらしいと思う山をいつか通り過ぎてまた山の間にはいったり、やがてまた旧家らしい家のあるきれいな村へ出たり、しかも雨あがりの道はひどい でこぼこで、 俥 ( くるま )に乗っているのもらくではなかった。 畑と山との美しい色の取り合わせを俥の上で賞めていたわたくしたちも、とうとう我慢がしきれなくなって、Z夫人のほかは皆その狭い田舎道に下り立った。 そうして若葉の美しい 櫟 ( くぬぎ )林のなかや穂を出しかけた麦畑の間を、汗をふきふき歩いて行った。 本道の方は崖が崩れてとても通れまいということだったのである。 しかし意気込んでかかったわりには急な坂は短く、すぐに峰づたいの 坦々 ( たんたん )たる道へ出た。 それで安心して歩いていると、この道がまたなかなか尽きそうもなくなった。 赤松の 矮林 ( わいりん )の間には相変わらずつつじが咲いている。 道傍に石地蔵の並んだ所もあった。 大きい竹藪の間に人家の見える所へも来た。 水の音がしきりに聞こえて、いかにも 幽邃 ( ゆうすい )な趣がある。 あれこそ寺だろうと思っていると、それは水車屋だった。 山の下からながめた時はるか絶頂の近くに見えた家がどうもこれらしい。 もうそんなに高くのぼったかと思う。 と同時に、一体どこまで昇ればいいのだろうと思う。 やがてべら棒に大きな岩が 道傍 ( みちばた )の崖からハミ出ている所をダラダラとのぼって行くと、急に前が開けて、水田にもなるらしい麦畑のある平地へ出た。 村がある、森がある、小山がある。 こんな山の上にあるだろうとは思いがけない、いかにも 長閑 ( のどか )な農村の光景である。 浄瑠璃寺はこの村の一隅に、この村の寺らしく納まっていた。 これも予想外だった。 しかし何とも言えぬ平和ないい心持ちだった。 こんなふうで、もう奈良坂まで帰っていていい時刻に、やっと浄瑠璃寺へついたのである。 さてこの山村の麦畑の間に立って、寺の小さい門や白い壁やその上からのぞいている松の木などの野趣に充ちた 風情 ( ふぜい )をながめた時に、わたくしはそれを前にも見たというような気持ちに襲われた。 門をはいって最初に目についたのは、本堂と塔との間にある寂しい池の、水の色と 葦 ( あし )の若芽の色とであったが、その奇妙に澄んだ、濃い、冷たい色の調子も、(それが今初めて気づいた珍しいものであったにもかかわらず)初めてだという気はしなかった。 わたくしは堂の前の白い砂の上を歩きながら、この漠然たる心持ちから脱することができなかったのである。 この心持ちは一体何であろうか。 浅い山ではあるが、とにかく山の上に、下界と切り離されたようになって、一つの長閑な村がある。 そこに自然と抱き合って、優しい小さな塔とお堂とがある。 心を潤すような愛らしさが、すべての物の上に一面に漂っている。 それは近代人の心にはあまりに淡きに過ぎ平凡に過ぎる光景ではあるが、しかしわれわれの心が和らぎと休息とを求めている時には、秘めやかな魅力をもってわれわれの心の底のある者を動かすのである。 しかるにその夢想を表現した山村の寺に面接して見ると、われわれはなおその夢想に共鳴するある者を持っていたのである。 それはわたくしには驚きであった。 しかし考えてみると、われわれはみなかつては桃源に住んでいたのである。 すなわちわれわれはかつて子供であった! これがあの心持ちの秘密なのではなかろうか。 こんな心持ちに気をとられて、本堂のなかに横に一列に並んでいる九体の仏には十分注意が集まらなかった。 Z君に言われて、横に長い 須弥壇 ( しゅみだん )の前の金具をなるほどおもしろいと思った。 仏前に一つずつ置いてある 手燭 ( てしょく )のような格好の木塊に画かれた画もおもしろかった。 色の白い地蔵様もいい作だと思った。 しかし何よりも周囲と調和した堂の外観がすばらしかった。 開いた扉の間から 金色 ( こんじき )の仏の見えるのもよかった。 あの優しい新緑の景色の内に大きい九体の仏があるというシチュエーションは、いかにも藤原末期の幻想に似つかわしい。 それが、Z夫人には気の毒だったが、今日の旅にはふさわしかった。 こんなわけで、帰りは近道をしたけれども、奈良へ帰ったのはもう四時過ぎであった。 そうしてすぐその足で、浄瑠璃寺とはまるきり気分の違った東大寺のなかへ、しかも 戒壇院 ( かいだんいん )へ 馳 ( か )けつけた時には、あの大きい松の立ち並んでいる幹に斜めの日が射し、厳重な塀に囲まれた堂脇の空地には 黄昏 ( たそがれ )を予告する寂しい陰影が漂うていた。 わたくしたちは、小さい花をつけた雑草の上に立って、大きい 鍵 ( かぎ )の響きを聞いた。 それがもう気分を緊張させる。 戒壇院はそういうところである。 堂のなかに歩み入ると、まずそのガランとした陰欝な空間の感じについで、ひどいほこりだという嘆声をつい洩らしたくなる。 そこには今までながめて来た自然とは異なり、ただ荒廃した人工が、塵に埋もれた人の心があるのみであった。 この壇上で幾百千の僧侶が生涯忘れることのないような厳粛な戒を受けたであろうに。 そう思うとこの積もった 埃 ( ほこり )は実に寂しい。 しかしその寂しさはあの潤いのある 九体寺 ( くたいじ )のさびしさではない。 このガランとした壇上の四隅に埃にまみれて 四天王 ( してんのう )が立っているのである。 しかも空前絶後と称せられる貴い四天王が。 それを見ると全く妙なアイロニイを感ずる。 わたくしはこの種の彫刻をそのあるべき所に置いて見るのが好きであるが、しかしそのあるべき所がこのようにあるまじき状態になっているとすると、どうしたらいいであろう。 戒壇の権威はもう地に 堕 ( お )ちている。 だからこそわれわれは、布をかぶせてはあるが土足のままで、この壇上を踏みあらすこともできるのである。 しかし戒壇の権威は地におちても、この四天王の偉大性は地におちはしない。 今となればそれは戒壇よりも重い。 このように埃のなかに放置すべきものではない。 四天王はその写実と類型化との手腕において実に優れた傑作である。 たとえばあの西北隅に立っている 広目天 ( こうもくてん )の眉をひそめた顔のごとき、きわめて微細な点まで注意の届いた写実で、しかも白熱した意力の緊張を最も純粋化した形に現わしたものである。 その力強い雄大な感じは、力をありたけ表出しようとする力んだ努力からではなく、自然を見つめる静かな目の鋭さと、 燻 ( いぶ )しをかけることを知っている控え目な腕の 冴 ( さ )えとから、生まれたものであろう。 だからそこには後代の護王神彫刻に見られるような誇張のあとがまるでない。 しかし筋肉を怒張させ表情のありたけを外面に現わしたそれらの 相好 ( そうごう )よりも、かすかなニュアンスによって抑揚をつけた静かなこの顔の方が、はるかに力強く意力を現わし、またはるかに明白に類型を造り出している。 この天王の骨相は、明らかに蒙古人のものである。 特に日本人として限定することもできるかも知れぬ。 わたくしはこの顔を見てすぐに知人の顔を思い出した。 目、鼻、頬、特に 顴骨 ( かんこつ )の上と耳の下などには、われわれの日常見なれている特殊の肉づきがある。 皮膚の感じもそうである。 しかしこれがシナ人でないとは断言はできぬ。 ただインド人でないことは明らかである。 発掘品から推測し得る限りでは、西域人でもないであろう。 とすると、この種の写実と類型とは、少なくとも 玉関 ( ぎょくかん )以東で発達したものといわなくてはならない。 四天王の着ている 鎧 ( よろい )も興味を引いた。 皮らしい性質がいかにも巧妙に現わされている。 両腕の肩の下のところには 豹 ( ひょう )だか 獅子 ( しし )だかの頭がついていて、その開いた口から腕を吐き出した格好になっている。 その口には 牙 ( きば )や歯が刻んである。 それがまたいかにも堅そうな印象を与える。 肩から胸当てを釣っている 具 ( びじょう )は、現今使っているものと少しも違わない。 胸から腹へかけては、体とピッタリ密着して、体が動くと共にギュウギュウと鳴りそうな感じである。 わたくしはこの像が 塑像 ( そぞう )であることをつい忘れてしまいそうであった。 一体この武具はどこの国のものであろうか。 下着が 筒袖 ( つつそで ) 股引 ( ももひき )の類であるところを見るとインドのものでないことは確かである。 またギリシアやローマの鎧も、似寄ったところはあるが、よほど違っている。 ペルシアのはかなり近いかも知れぬが、少なくともギリシアと交渉のあった古い時代には、こんな鎧はなかった。 とすると、中央アジアかシナかの風に相違ないということになる。 中央アジアは革細工の発達しそうなところであるが、しかしそこで用いられた鎧の格好はもっと単純なものであったらしい。 そうすればこの武具の様式は結局シナで発達したということにならざるを得ない。 そこで問題が起こる。 仏菩薩 ( ぶつぼさつ )はインド風あるいはギリシア・ローマ風の装いをしているのに、何ゆえ護王神の類はシナの装いをするか。 それに対してわたくしはこう答えたい。 ガンダーラの浮き彫り彫刻などで見ると、一つの構図の端の方にはギリシアの神様がいたり、哲学者らしい 髯 ( ひげ )の多い老人がいたりする。 于 ( コータン )の発掘品などにも、于 の衣服らしいのを着た人物を描き込んだのがある。 大乗経典の描いている劇的な説教の場面などを視覚的に表象しようとする場合には、仏菩薩などの姿はハッキリきまっているが、あとの大衆はどうにでも勝手に思い浮かべるほかはなかったために、国々でそれぞれ特有な幻影が生み出された、というわけであろう。 従ってシナ風の装いをした四天王や十二神将の類は、特にシナ美術の独創を現わしているかもしれない。 四天王を堂の四隅に安置するやり方も、シナの寺院建築と密接な関係があるであろう。 仏教美術がシナで屈折した度はよほど強いものらしい。 そうしてその土台となった西域の美術が、すでにインドよりもガンダーラの方をより強く生かしていたと考えられる。 日本へ来た仏教美術はもう幾度かの屈折を経たものである。 戒壇院から、三月堂へまわった。 三月堂の外観は以前から奈良で最も好きなものの一つであったが、しかし本尊の 不空羂索観音 ( ふくうけんさくかんのん )をさほどいいものとは思っていなかった。 しかるに今日は、あの美しい堂内に歩み入って静かに本尊を見上げた時、思わずはっとした。 全くそこには後光がさしているようであった。 以前にうるさいと感じたあの線条的な背光も、今日は 薄明 ( はくめい )のうちに 揺曳 ( ようえい )する神秘の光のように感ぜられ、言い現わし難い微妙な調和をもって本尊を生かしていた。 この本尊の全体にまだらに残っているあの金の光と色とは、ありふれた金色と違って特別に美しい豊潤なもののように思われる。 それにはあの堂の内部の、特にあの精巧な天井の、比類なき美しい古びかたが、非常に引き立てるようにはたらいているであろう。 が同時に、この堂の内部の美しさは、中央にほのかに輝いている金色なくしては、ととのって来ないのである。 つまり両者は、全体として一つの芸術を形造っている。 それは色と光と空気と、そうしてその内に 馳 ( は )せめぐるおおらかな線との大きな静かな交響楽なのである。 本尊の姿の釣り合いは、それだけを取って見れば、恐らく美しいとは言えないであろう。 腕肩胴などはしっかりできていると思うが、腰から下の具合がおもしろくない。 前にこの美しさがわからなかったのは豊かなものの全体を見ないで、ただ局部にのみ目をとめたためかと思われる。 推古の美術は多くを切り捨てる簡素化の極致に達したものであるが、天平の美術はすべてを生かせることをねらって部分的な 玉石混淆 ( ぎょくせきこんこう )を恐れないのである。 わたくしは心から不空羂索観音と三月堂とに頭を下げた。 そうして不空羂索観音の 渇仰者 ( かつごうしゃ )であるZ君に 冑 ( かぶと )をぬいだ。 しかし美しいのはただ本尊のみではない。 周囲の諸像も皆それぞれに美しい。 脇立 ( わきだ )ちの 梵天 ( ぼんてん )・ 帝釈 ( たいしゃく )の小さい塑像( 日光 ( にっこう )、 月光 ( がっこう )ともいわれる)が傑作であることには、恐らく誰も反対しまい。 その他の諸像には相当に異見があり、特に四天王に至ってはZ君はほとんど一顧の価値をも認めまいとしたが、しかしわたくしはこの比較的に簡素な四天王にも推服する。 特に向かって左後ろのがよい。 もちろん戒壇院の四天王ほどにすぐれた作でなく、やや硬い感じを与えるが、しかしいかにも明快率直で、この堂内に置かれてもはずかしくないと思う。 これらのことについてはホテルへ帰ってからだいぶ論じ合った。 今日はいろいろ予想外のことがあったためか皆元気が好かった。 食堂で隣りの 卓子 ( テーブル )に商人らしい四人づれの西洋人がいて、三分間に一度ぐらいのわりで無慮数十回の乾杯をやっていたが、われわれもそのこころもちに同感のできるほど興奮していた。 Z君は、三月堂の他の諸像をほとんど眼中に置かず*、ただ不空羂索観音と梵天(月光)とを、特に不空羂索観音を、天平随一の名作だと主張した。 それにはわたくしもなかなか同意はできなかった。 天平随一の名作を選ぶということであれば、わたくしはむしろ 聖林寺 ( しょうりんじ )の十一面観音を取るのである。 * 三月堂の壇上に置かれた諸像のうちでは、 塑像の日光・月光菩薩像、 吉祥天像 ( きちじょうてんぞう )などが彫刻として特にすぐれている。 しかしこれらは本来この堂に属したものではあるまい。 壇の背後の廚子中に秘蔵された 執金剛神 ( しゅうこんごうしん )も同じく塑像で、なかなかすぐれた作である。 本文では彫刻と建築との釣り合いを主として問題としたため、これらの彫刻にあまり注意を向けていないが、単に彫刻として堂から引きはなして考えるならば、これらの彫刻が最も重んぜらるべきであろう。 室へ帰ってから興奮のあとのわびしさが来た。 何かの話のついでに、生涯の仕事についてT君と話したが、自分の仕事をいよいよ大っぴらに始めるまで、根を深くおろして行くことにのみ気をくばっているT君の落ちついた心持ちがうらやましかった。 根なし草のようにフラフラしている自分は、何とか考えなおさなくてはならない。 ゲエテのように天分の豊かな人でさえ、イタリアの旅へ出た時に、自分がある一つの仕事に必要なだけ十分の時間をかけなかったことを、またその仕事に必要な手業を十分 稽古 ( けいこ )しなかったことを、悔い嘆いている。 落ちついて地道にコツコツとヤリ直しをするほかはない。 しばらくは柔らかい椅子に身を埋めてぼんやりしている。 やがて少し体が休まると、手を洗って、カラアをつけ変えて、柔らかい 絨氈 ( じゅうたん )の上を伝って、食堂に出て行く。 Z夫人はいつのまにかきれいに身仕度をして、活き活きと輝いた顔を見せる。 できるだけ腹を空かせている上に、かなりうまい料理なので、いいこころもちになってたらふく食う。 元気よくおしゃべりを始める。 今日見た芸術品について論じ合い、受けて来たばかりの印象を消化して行くのは、この時である。 が、食堂を出る時分には、腹が張った上に、工合よく疲れも出て、ひどくだるい気持ちになる。 喫煙室などへ行っても、西洋の女のはしゃいでいるのをぼんやりながめているくらいなものである。 さてそれから室へ帰って風呂にはいると、その日の印象を書きとめておくというような仕事が、全く億劫になってしまう。 印象は新鮮なうちに捕えておくに限るのであるが、それがなかなか実行し難い。 手帖の覚え書きはだんだん簡単になって行く。 博物館を午前中に見てしまおうなどというのは無理な話である。 一度にはせいぜい二体か三体ぐらい、それも静かに落ちついた心持ちで、胸の奥に沁み込むまでながめたい。 N君はそれをやっているらしい。 入り口でパッタリ逢った時に、N君はもう見おえて帰るところだった。 「このごろは大抵毎朝ここへ来ますよ、気分さえよければ」と彼は言った。 朝の早いN君のことだから、まだ露の乾かない公園のなかを歩きまわった 揚句 ( あげく )、戸が開くと同時に博物館のなかへはいって、少し汗ばんだ体にあの天井の高い室の冷やりとした空気を感じながら、幾時間でもじいっと仏像の前にたたずんでいるのであろう。 そういう気ままな生活をもう一月もつづけているN君に対して、あわただしい旅にあるわたくしは何となき一種の 面憎 ( つらにく )さを感ぜずにはいられなかった。 N君に別れて玄関の石段をのぼり切ると、正面の陳列壇のガラス戸があけてあって、壇上の聖林寺十一面観音の側に洋服を着た若い男が立っていた。 下にいる館員に向かって「肉体美」を説明しているのである。 ガラス戸のあいているのはありがたかったが、この若者はどうも邪魔になってならなかった。 やがてその男は得意そうに体をゆすぶりながら、ヒラリと 床 ( ゆか )へ飛び下りてくれたが、すぐ側でまた館員に「乳のあたりの肉体美」を説き始めた。 N君が渋面をつくって出て行ったわけがこれでわかった。 しかしわたくしたちはガラス戸のあいている機会を逃さないために、やはりこのそばを立ち去ることができなかった。 それほどガラスの凹凸や面の反射が邪魔になるのである。 それにつけても博物館の陳列の方法は何とか改善してほしい。 経費などの都合もあることで当事者ばかりの罪でもあるまいが、今のままでは看者に与える印象などはほとんど顧慮せられていない。 N君のような落ちついた見方をしていれば、ある程度までその困難に打ち 克 ( か )つこともできるであろうが、しかし誰もがそういう余裕を持つわけには行かない。 せめて一つ一つの仏像が、お互いに邪魔をし合わないで独立した印象を我々に与えるように、もう少し陳列の順序と方法とを考えれば、短時間に見て行こうとする者にも、もう少しまとまった、強い印象を与え得るかと思う。 理想的に言えば、美術館のような公共の享楽を目ざすものは、うんと 贅沢 ( ぜいたく )にしていいのである。 私人の贅沢とはわけが違う。 あの入り口正面の陳列壇などには、そのために特に一室を設けてもいいような傑作が、いくつも雑然と列べられている*。 そのためにどれほど見物が損をしているかわからない。 当事者にわかりいい言葉でいうと、「こういうことは日本の恥である。 こういうことがあるから西洋人が日本人を尊敬しないのである。 」 国宝という言葉をもっと生かしてもらいたい。 日本の古美術に対しては、われわれは日本民族の一員として、当然鑑賞の権利を持つ。 この鑑賞のために相当の設備をしないのは、国宝の意義を没すると言っていい。 * これは大正八年ごろのことで、そのころには入り口正面に向かって聖林寺の十一面観音、それと背中合わせに法隆寺の百済観音などが立っていた。 聖林寺の観音はその後数年を経て寺へ帰った。 桜井から 多武 ( とう )の 峯 ( みね )への路を十数町行ってちょっと右へはいったところである。 百済観音もまた近年は法隆寺へ帰って、 宝物殿 ( ほうもつでん )の王様になっている。 だが、聖林寺の十一面観音は偉大な作だと思う。 肩のあたりは少し気になるが、全体の印象を傷つけるほどではない。 これを三月堂のような建築のなかに安置して周囲の美しさに釣り合わせたならば、あのいきいきとした豊麗さは一層輝いて見えるであろう。 仏教の経典が仏菩薩の形像を丹念に描写していることは、人の知る通りである。 何人も阿弥陀経を指して教義の書とは呼び得ないであろう。 これは まず第一に浄土における諸仏の幻像の描写である。 また何人も法華経を指してそれが幻像の書でないとは言い得まい。 それは まず第一に仏を主人公とする大きい戯曲的な詩である。 観無量寿経のごときは、 特に詳細にこれらの幻像を描いている。 仏徒はそれに基づいてみずからの眼をもってそれらの幻像を見るべく努力した。 観仏はかれらの内生の重大な要素であった。 「仏像」がいかに刺戟の多い、生きた役目をつとめたかは、そこから容易に理解せられるであろう。 そういう心的背景のなかからわれわれの観音は生まれ出たのである。 何人が作者であるかはわからないが、しかし何人にもあれ、とにかく彼は、明らかな幻像をみずからの眼によって見た人であろう。 観世音菩薩 ( かんぜおんぼさつ )は衆生をその困難から救う絶大の力と慈悲とを持っている。 彼に救われるためには、ただ彼を念ずればいい。 彼は境に応じて、時には仏身を現じ、時には梵天の身を現ずる。 また時には人身をも現じ、時には獣身をさえも現ずる。 そうして衆生を 度脱 ( どだつ )し、衆生に 無畏 ( むい )を施す。 まず第一にそれは人間離れのした、超人的な威厳を持っていなくてはならぬ。 と同時に、最も人間らしい優しさや美しさを持っていなくてはならぬ。 それは根本においては人でない。 しかし人体をかりて現われることによって、人体を神的な清浄と美とに高めるのである。 儀規 ( ぎき )は左手に 澡瓶 ( そうへい )を 把 ( と )ることや頭上の諸面が菩薩面・ 瞋面 ( しんめん )・ 大笑面 ( たいしょうめん )等であることなどを定めているが、しかしそれは幻像の重大な部分ではない。 頭上の面はただ宝冠のごとく見えさえすればいい。 左手の瓶もただ姿勢の変化のために役立てば結構である。 重大なのはやはり超人らしさと人間らしさとの結合であって、そこに作者の幻想の 飛翔 ( ひしょう )し得る余地があるのである。 かくてわが十一面観音は、幾多の経典や幾多の仏像によって培われて来た、永い、深い、そうしてまた自由な、構想力の活動の結晶なのである。 そこにはインドの限りなくほしいままな神話の痕跡も認められる。 半裸の人体に清浄や美を看取することは、もと極東の民族の気質にはなかったであろう。 またそこには抽象的な空想のなかへ写実の美を注ぎ込んだガンダーラ人の心も認められる。 あのような肉づけの微妙さと確かさ、あのような衣のひだの真に迫った美しさ、それは極東の美術の伝統にはなかった。 また沙海のほとりに住んで雪山の 彼方 ( かなた )に地上の楽園を望んだ中央アジアの民の、烈しい憧憬の心も認められる。 写実であって、しかも人間以上のものを現わす強い理想芸術の香気は、怪物のごとき沙漠の脅迫と離して考えることができぬ。 さらにまた、極東における文化の絶頂、諸文化融合の鎔炉、あらゆるものを豊満のうちに生かし切ろうとした大唐の気分は、全身を濃い雰囲気のごとくに包んでいる。 それは異国情調を単に異国情調に終わらしめない。 憧憬を単に憧憬に終わらしめない。 人の心を奥底から掘り返し、人の体を中核にまで突き入り、そこにつかまれた人間の存在の神秘を、一挙にして一つの形像に結晶せしめようとしたのである。 このような偉大な芸術の作家が日本人であったかどうかは記録されてはいない。 しかし唐の融合文化のうちに生まれた人も、養われた人も、黄海を越えてわが風光明媚な内海にはいって来た時に、何らか心情の変移するのを感じないであろうか。 漠々たる黄土の大陸と十六の少女のように可憐な大和の山水と、その相違は何らか気分の転換を 惹起 ( じゃっき )しないであろうか。 そこに変化を認めるならば、作家の心眼に映ずる幻像にもそこばくの変化を認めずばなるまい。 たとえば顔面の表情が、大陸らしいボーッとしたところを失って、こまやかに、幾分鋭くなっているごときは、その証拠と見るわけに行かないだろうか。 われわれは聖林寺十一面観音の前に立つとき、この像がわれわれの国土にあって幻視せられたものであることを直接に感ずる。 その幻視は作者の 気禀 ( きひん )と離し難いが、われわれはその気禀にもある秘めやかな親しみを感じないではいられない。 その感じを細部にわたって説明することは容易でないが、とにかく唐の遺物に対して感ずる少しばかりの 他人らしさは、この像の前では全然感じないのである。 しかもそこには神々しい威厳と、人間のものならぬ美しさとが現わされている。 薄く開かれた瞼の間からのぞくのは、人の心と運命とを見とおす観自在の 眼 ( まなこ )である。 豊かに結ばれた唇には、 刀刃 ( とうじん )の堅きを段々に 壊 ( やぶ )り、 風濤洪水 ( ふうとうこうずい )の暴力を和やかに 鎮 ( しず )むる無限の力強さがある。 円く肉づいた頬は、肉感性の幸福を暗示するどころか、人間の淫欲を抑滅し尽くそうとするほどに気高い。 これらの相好が 黒漆 ( こくしつ )の地に浮かんだほのかな金色に輝いているところを見ると、われわれは否応なしに感じさせられる、確かにこれは観音の顔であって、人の顔ではない。 この顔をうけて立つ豊かな肉体も、観音らしい気高さを欠かない。 それはあらわな肌が黒と金に輝いているためばかりではない。 肉づけは 豊満でありながら、 肥満の感じを与えない。 四肢のしなやかさは柔らかい衣の 皺 ( ひだ )にも腕や手の円さにも十分現わされていながら、しかもその底に強剛な意力のひらめきを持っている。 ことにこの重々しかるべき五体は、重力の法則を超越するかのようにいかにも軽やかな、浮現せるごとき趣を見せている。 これらのことがすべて気高さの印象の素因なのである。 それは観音の出現が虚空での出来事であり、また運動と離し難いものであるために、定石として試みられる手法であろうが、しかしそれがこの像ほどに成功していれば、体全体に地上のものならぬ貴さを加えるように思われる。 肩より胸、あるいは腰のあたりをめぐって、腕から足に垂れる天衣の工合も、体を取り巻く曲線装飾として、あるいは肩や腕の触覚を暗示する微妙な補助手段として、きわめて成功したものである。 左右の腕の位置の変化は、天衣の左右整斉とからみあって、体全体に、流るるごとく自由な、そうして均勢を失わない、快いリズムをあたえている。 横からながめるとさらに新しい驚きがわれわれに迫ってくる。 肩から胴へ、腰から脚へと流れ下る肉づけの確かさ、力強さ。 またその釣り合いの微妙な美しさ。 これこそ真に写実の何であるかを知っている巨腕の製作である。 われわれは観音像に接するときその写実的成功のいかんを最初に問題としはしない。 にもかかわらずそこに浅薄な写実やあらわな不自然が認められると、その像の神々しさも美しさもことごとく崩れ去るように感ずる。 だからこの種の像にとっては写実的透徹は必須の条件なのである。 そのことをこの像ははっきりと示している。 しかしこの偉大な作品も五十年ほど前には路傍にころがしてあったという。 これは人から伝え聞いた話で、どれほど確実であるかはわからないが、もとこの像は 三輪山 ( みわやま )の 神宮寺 ( じんぐうじ )の本尊であって、明治維新の神仏分離の際に、 古神道 ( こしんとう )の権威におされて、路傍に放棄せられるという悲運に逢った。 この放逐せられた偶像を自分の手に引き取ろうとする篤志家は、その界隈にはなかった。 そこで幾日も幾日も、この気高い観音は、埃にまみれて雑草のなかに横たわっていた。 ある日偶然に、聖林寺という小さい真宗寺の住職がそこを通りかかって、これはもったいない、誰も拾い手がないのなら拙僧がお守をいたそう、と言って自分の寺へ運んで行った、というのである。 聖林寺観音の左右には 大安寺 ( だいあんじ )の不空羂索観音や 楊柳観音 ( ようりゅうかんのん )が立っている。 それと背中合わせにわが百済観音が、 縹渺 ( ひょうびょう )たる雰囲気を漂わしてたたずむ。 これは 虚空蔵 ( こくうぞう )と呼ぶのが正しいのかも知れぬが、伝に従ってわれわれは観音として感ずる。 その右に立っている法輪寺虚空蔵は、百済観音と同じく左手に澡瓶を把り、右の 肱 ( ひじ )を曲げ、 掌 ( たなごころ )を上に向けて開いている。 これも観音の 範疇 ( はんちゅう )に入りそうである。 さらに百済観音の左には、薬師寺(?)の、破損はひどいが 稀有 ( けう )に美しい木彫の観音があって、ヴィナスの艶美にも似た印象をわれわれに与える。 その後方には法隆寺の小さい観音が立っている。 目を転じて室の西南隅に向かうと、そこには大安寺の、 錫杖 ( しゃくじょう )を持った女らしい観音や一輪の蓮花を 携 ( たずさ )えた男らしい観音などが、ズラリと並んでいる。 さらに目を転じて室の北壁に向かうと、そこにも 唐招提寺 ( とうしょうだいじ )などの木彫の観音が、あたかも整列せしめられたごとくに、並び立っている。 室の中央には法隆寺の小さい 金銅観音 ( こんどうかんのん )が、奇妙な微笑を口元に浮かべつつ、台上のところどころにたたずんでいる。 岡寺の観音は 半跏 ( はんか )の膝に肱をついて、夢みるごとき、和やかな瞑想にふける。 それが弥勒であるとしても、われわれの受ける印象は依然として観音である。 十大弟子、天竜八部衆、二組の四天王、帝釈・梵天、 維摩 ( ゆいま )、などを除いて、目ぼしいものはみな観音である。 これは観音像がわりに動かしやすいために、自然に集まってきたというわけかも知れない。 しかし考えてみると、三月堂の不空羂索観音、聖林寺の十一面観音、薬師寺東院堂の聖観音、 中宮寺 ( ちゅうぐうじ )観音、 夢殿 ( ゆめどの )観音など、推古天平の最も偉大な作品は、同じくみな観音である。 他に 薬師如来 ( やくしにょらい )の傑作もあるが、観音の隆盛にはかなわない。 だから推古天平室に観音の多いことは、直ちに推古天平時代の観音崇拝の勢力を暗示するとみてよいであろう。 観音崇拝の流行は上代人心の動向を知るに最も都合のいいものである。 聖母崇拝と似たところがないでもない。 また阿弥陀崇拝や浄土の信仰に転向してゆく契機がすでにこの内に含まれているとも見られる。 推古、白鳳、天平と観音の様式や気分が著しく変化して行ったことも、ただ外来の影響とのみ見ず、新しいものの魅力に引きずられて行く礼拝者の新しい満足という方面からも解釈してみなくてはならない。 観音の様式の変化でまず著しいのは、聖林寺観音と百済観音との間に示されているものである。 わたくしは聖林寺観音の写実的根拠のことを言った。 写実はあらゆる造形美術の地盤として動かし難いと思う。 しかしこの写実は、 写真によって代表せられるような平板なものではない。 それは作者の性格を透過し来たることによってあらゆる種類の変化を示現し得るような、自由な、「芸術家の眼の作用」を指すのである。 芸術家は本能的に物を写したがる。 がまた本能的にその好むところを強調する自由を持っている。 この抑揚のつけ方によって、個性的な作品も生まれれば、また類型的な作品も生まれる。 時代の趨勢によっていずれか一方の作家が栄えるということはあるが、いずれの道によるも要するに芸術は個によって全を現わそうとする努力である。 われわれの観音の時代は、製作家がただ類型を造り出すのに骨を折る時代であった。 しかしその仕事においても、抑揚のつけ方は自由であった。 このことを拡大して見せているのが聖林寺観音と百済観音との対照である。 百済観音は写実的根拠を有する点において聖林寺観音に劣らない。 あの肩から腕へ、胸から胴への清らかな肉づけや、下肢に添うて柔らかに垂れている絹布のひだなどには、現実を鋭く見つめる眼のまがいなき証拠が現われている。 しかしこの作家の強調するところは聖林寺観音の作家の強調するところと、ほとんど全く違っているのである。 この相違のうしろには、民族と文化とのさまざまな転変や、それに伴う作家の変動などが見られるかもしれない。 百済観音は朝鮮を経て日本に渡来した様式の著しい一例である。 源は六朝時代のシナであって、さらにさかのぼれば西域よりガンダーラに達する。 上体がほとんど裸体のように見えるところから推すと、あるいは中インドまで達するかも知れない。 しかるにこのガンダーラもしくはインド直系であるはずの百済観音は、ガンダーラ仏あるいはインド仏に似るよりも、むしろはるかに多く漢代の石刻画を思わせる。 全体の気分も西域的ではない。 すなわちガンダーラやインドの美術はシナにはいってまず 漢化せられたのである。 もっとも漢化せられずに西域そのままの様式を持続していたもののあることは大同の石仏などの示している通りであるが、しかし百済観音が代表しているのは漢化せられた様式だけである。 そうしてこの様式こそシナにおける創作と言い得るものであろう。 シナの美術が全面的にギリシア美術の精神を生かしてきたのは、ガンダーラが 廃滅に帰した後、 恐らく二世紀以上もたってから、 玄弉 ( げんじょう )が中インドのグプタ朝の文化を大仕掛けに輸入した後のことらしい。 かく漢化の時代が先に立ち、諸文化融合の時代があとに来たために、様式の変化は歴史の進程と逆になっているが、そこにはまた六朝から唐へかけてのシナ文化の推移が語られているように思う。 百済観音をこの推移の標本とするのは、少し無理である。 竜門の浮き彫りなどに現われた直線的な衣の手法は、夢殿観音には似ているが百済観音には似ていない。 しかしここで問題としたいのは、あの直線的な手法の担っている様式的な意義なのである。 百済観音は確かにこの鋼の線条のような直線と、鋼の薄板を彎曲させたような、硬く鋭い曲線とによって貫かれている。 そこには簡素と明晰とがある。 同時に縹渺とした含蓄がある。 大ざっぱでありながら、微細な感覚を欠いているわけでもない。 形の整合をひどく気にしながらも、形そのものの美を目ざすというよりは、形によって暗示せられる何か抽象的なものを目ざしている。 従って「観音」という主題も、肉体の美しさを通して表現せられるのではなく肉体の姿によって暗示せられる何か神秘的なものをとおして表現せられるのである。 垂れ下がる衣のひだの、永遠を思わせる静けさのために、下肢の肉づけを度外しているごときは、その一例と見ることができよう。 従ってこの作家は、肉体の感覚的な性質の内へ食い入って、そこから神秘的な美しさを取り出すというよりも、表面に漂う意味ありげな形を捕えて、その形をあくまでも追究して行こうとするのである。 そこに漢の様式の特質も現われている。 しかしこの像の美しさは、それだけでは明らかにならない。 右のような漢の様式の特質を中から動かして仏教美術の創作に趣かせたものは、漢人固有の情熱でも思想でもなかった。 外蛮の盛んな侵入によって、血も情意も烈しい混乱に陥っていた当時の漢人は、和らぎと優しみとに対する心からの憧憬の上に、さらにかつて知らなかった新しい心情のひらめきを感じはじめていた。 それは地の下からおもむろに萌え出て来る春の予感に似かよったものであった。 かくしてインドや西域の文化は、ようやく漢人に 咀嚼 ( そしゃく )せられ始めたのである。 異国情調を慕う心もそれに伴って起こった。 無限の慈悲をもって衆生を抱擁する異国の神は、ついにひそやかに彼らの胸の奥に忍び込んだのであった。 抽象的な「天」が、具象的な「仏」に変化する。 その驚異をわれわれは百済観音から感受するのである。 彼らは新しい目で人体をながめ、新しい心で人情を感じた。 そこに測り難い深さが見いだされた。 そこに浄土の象徴があった。 そうしてその感動の結晶として、 漢の様式をもってする仏像が作り出されたのである。 わたくしは百済観音がシナ人の作だというのではない。 百済観音を形成している様式の意義を考えているのである。 シナではそれはいくつかの様式のうちの一つであった。 しかし日本へくるとこの様式がほとんど決定的な力を持っている。 それほど日本人はこの様式の背後にある体験に共鳴したのである。 百済観音の奇妙に神秘的な清浄な感じは、右のごとき素朴な感激を物語っている。 あの円い清らかな腕や、楚々として濁りのない滑らかな胸の美しさは、人体の美に慣れた心の所産ではなく、初めて人体に底知れぬ美しさを見いだした驚きの心の所産である。 あのかすかに微笑を帯びた、なつかしく優しい、けれども憧憬の結晶のようにほのかな、どことなく気味悪さをさえ伴った顔の表情は、慈悲ということのほかに何事も考えられなくなったういういしい心の、病理的と言っていいほどに烈しい偏執を度外しては考えられない。 このことは特に横からながめた時に強く感ぜられる。 面長 ( おもなが )な柔らかい横顔にも、薄い体の奇妙なうねり方にも。 しかし百済観音の持っている感じはこうでもしなくてはいい現わせない。 あの 深淵 ( しんえん )のように 凝止 ( ぎょうし )している生の美しさが、ただ技巧の拙なるによって生じたとは、わたくしには考えられぬ。 それは僧侶であったかも知れぬ。 三月堂の 良弁 ( ろうべん )が彫刻家としても優れていたという伝説などは、一概に 斥 ( しりぞ )けてしまうわけには行かないであろう。 良弁堂の良弁像が 良弁の自作であるという伝えは、この像が 貞観 ( じょうがん )時代の作と見られる限り、信をおきがたいものであるが、しかしそれは良弁が彫刻家でもあったことを否定すべき理由とはならない。 三月堂の建築と言い、堂内の彫刻と言い、良弁に関係のあるものがすべて第一流の傑作であることは、少なくとも良弁が非常によく芸術を解する人であり、また非常に優れた芸術家を配下に持っていた、ということの証拠である。 もしあの良弁像が自作であるならば、良弁は第一流の彫刻家であるが、もし彼の配下の彫刻家もしくはその弟子があれを 刻 ( きざ )んだとすれば、彼は天下随一の彫刻家を養成したわけである。 実際良弁像に現われたような優れた写実の腕前は、天平時代にも貞観時代にも珍しい。 あれの造れる人なら確かに三月堂や聖林寺の観音も造れたろうという気がする。 東大寺の一派が天平芸術の中核をなしているのは、確かに天才が良弁の近くにいたために相違ない。 大仏鋳造のごときもこれと離して見ることはできない。 聖武帝をこの決意に導いたのが良弁だという『 元亨釈書 ( げんこうしゃくしょ )』等の説も、恐らく真実であろう。 ただあの巨大な堂塔と巨大な 金銅仏 ( こんどうぶつ )とを 最初に幻想したのが良弁であったかあるいは他の天才であったかは知ることができぬ。 薬師寺の銅像や法隆寺の壁画ができてから三月堂の建造に至るまでには、少なくとも二十年余りの歳月がたっている。 それから大仏の鋳造が計画せられるまでには、また十年の間がある。 開眼供養 ( かいげんくよう )はなおその十年後である。 もしある天才芸術家の在世を考えるならば、この歳月によって年齢の関係をも顧みなくてはならぬ。 一人の天才の存否は時代の趨勢よりも重い。 天平後期の芸術に著しい変化が認められるのは、外来の影響のみならず、この種の芸術家が死んだということにもよるであろう。 作家の名や生活がわからないにしても、作品に個性が認められることは事実である。 三月堂の諸作や聖林寺観音などを一群として、これを興福寺の十大弟子や天竜八部衆に比べて見る。 あるいは大安寺の木彫諸作を、唐招提寺の木彫に比べて見る。 あるいはもっと詳しく、たとえば大安寺の楊柳観音・四天王の類を同じ寺の十一面観音などと比べて見る。 そこにあるのは単に技巧上の区別ではない。 明らかに作家の個性の相違である。 興福寺の諸作は 健陀羅 ( ガンダーラ )国人問答師の作と伝えられている。 その真偽はとにかくとして、あの十大弟子や八部衆が同一人の手になったことは疑うべくもない。 その作家は恐らく非常な才人であった。 そうして技巧の達人であった。 けれどもその巧妙な写実の手腕は、不幸にも深さを伴っていなかった。 従ってその作品はうまいけれども小さい。 この作家の長所は、幽玄な幻像を結晶させることにではなく、むしろ写実の警抜さに、あるいは写実をつきぬけて鮮やかな類型を造り出しているところに、認められなくてはならぬ。 釈迦の弟子とか竜王とかということを離れて、ただ単に僧侶あるいは武人の風俗描写として見るならば、これらの諸作は得難い逸品である。 竜王の顔において特にこの感が深い。 ここに看取せられるのは現実主義的な作者の 気禀 ( きひん )である。 それによって判ずれば、この作者がシナにおいて技を練ったガンダーラ人であるということは必ずしもあり得ぬことではない。 しかしわれわれの見聞した限りでは、この作に酷似する作品はシナにも西域にも見いだされない。 従ってこの作者が我が国の生み出した特異な芸術家であったということも、許されぬ想像ではない。 興味をこの想像に向ければ、「問答師」なる一つの名は愛すべく珍重すべき謎となるであろう。 大安寺の諸作は右の諸作ほど特異な才能を印象しはしない。 もっとふっくりした所もあり、また正面から大問題にぶつかって行く大きい態度も認められる。 しかし写実がやや表面に流れているという非難は避けることができない。 あの楊柳観音の横の姿などは、いかにもよく安定した美しい調和、どっしりとした力強さを印象するが、しかし何となく余韻に乏しい。 その円い腕なども、微妙な感覚を欠いている。 四天王にしても、これという欠点はなく、面相などは非常にいいが、しかし全体の感じにどこか物足りない、平凡なところがある。 道慈 ( どうじ )が大安寺を建てたのは三月堂よりも前であった。 しかしこれらの木彫がそのときにできたかどうかはわからない。 感じから言えばもっと新しい。 材料を木に取って、 乾漆 ( かんしつ )では出すことのできないキッパリした感じを出そうとしているのが、その新しい証拠である。 写実の技巧が一歩進んでいることも認めなくてはなるまい。 それらの点から考えると、三月堂派の傑作に対抗してそれ以上に出ようとする心持ちが、これらの作家になかったとは言い切れない。 しかし不幸にもその熱心は外面にとどまった。 彼らの見た幻像は三月堂派の作家のそれよりははるかに 朧 ( おぼ )ろであった。 従って、形がますます整って行くと反対に、彫像の印象はますます新鮮さを失った。 大安寺の女らしい十一面観音は、恐らくこれらの作家に学んで、さらにその道を押し進めた作家の作であろう。 頭部は後代の拙い補いだから論外として、その肢体はかなり写実的な女の体にできている。 胸部と腰部とにおいてことに著しい。 そこには肉体に対する注意がようやく独立して現われて来たことを思わせるものがある。 観音らしい威厳はないが、ヴィナス風の美しさは認められる。 この像から頭部と手とをきり離して、ただ一つの女体の像として見るならば、大安寺の他の諸像よりははるかに強い魅力を感ぜしめるであろう。 唐招提寺の破損した木彫は、右の十一面観音と非常によく似た手法のものであるが、しかし感じはもっと大まかなように思う。 唐から来た 鑑真 ( がんじん )が唐招提寺に一つの中心を造ったのは、大仏の開眼供養よりは六七年も後のことで、ここに天平時代の後期が始まるのであるが、同じく 玄宗 ( げんそう )時代の流風を伝えたにしても、三四十年前の道慈の時とは、かなり違って現われるのが当然である。 不幸にして新来の彫刻家は、 気宇 ( きう )の大なるわりに技巧が 拙 ( つたな )かった。 大自在王といい釈迦といい、豊かではあっても力が足りない。 ことに釈迦は、大腿が著しく太く衣が肌に密着している新しい様式のものであるが、どうも 弛緩 ( しかん )した感じを伴っているように思われる。 しかしそういう点にまた作家の個性が現われているのかも知れない。 このほかに法隆寺なども、有力な一派をなしていたに相違ない。 この室には塑像の四天王や梵天帝釈や、五重塔内の塑像などが出ているが、少なくともこの塑像と四天王とには共通の気分が認められる。 おっとりとした、 山気 ( やまけ )のない、自ら楽しんで作るといったふうの、非常に気持ちのいい芸風である。 女と童女との塑像で見ても明らかなように、写実としては確かな腕が現われていながら、強い幻想の空気に全体を包まれている。 多聞天や広目天もこの意味でかなり優れた作だと思う。 わたくし 一己 ( いっこ )の 好悪 ( こうお )によっていうと、興福寺の竜王よりはこの天王の方がすぐれている。 奇妙なことかも知れぬが、腕のとれた彫刻などでも、あまりに近くへよると、不思議な生気を感じて、思わずたじたじとすることがある。 ただ記憶に残っている像でも、生きている人と同様に妙な親しみやなつかしみを感じさせる。 それから考えると、昔の人が仏像を幻視したということは少しも不思議ではない。 また観音像に恋した比丘や比丘尼の心持ちも理解できるように思う。 『 日本霊異記 ( にほんりょういき )』は書き方の幼稚な書であるが、天平の人のそういう心持ちを表現している点でおもしろい。 法隆寺のものでは、金堂の 天蓋 ( てんがい )から取りおろしてこの室に列べられた 鳳凰 ( ほうおう )や天人が特に興味の深いものである。 鳳凰は大きい三枚の尾羽をうしろに高くあげて、今飛びおりたばかりの姿勢を保っているが、その尾羽のはがねのように堅そうな、それでいて鳥の羽らしく柔らかそうな感じは、全く独特である。 荒っぽくけずられた、体のわりに大きい足は、頭部の半ばを占めている偉大なくちばしと共に、奇妙にのんきな、それでいて力強い、かなり緊張した印象を与える。 簡素で、 雄勁 ( ゆうけい )で、警抜である。 百済観音について言ったような直線と直線に近い曲線とが全体を形造っているのではあるが、同時にまた簡単な水墨画に見るような自由なリズムの感じもある。 天人は 琵琶 ( びわ )を持って静かに 蓮台 ( れんだい )の上にすわっている。 素朴な点は鳳凰にゆずらない。 また鳳凰と同じく顔と手が特に大きい。 しかも誇張の感じはほとんどない。 そればかりでない、あの眼と口とは、その大きさのゆえに、一種奇妙な、蠱惑と威厳との相混じたような印象を与える。 わたくしはかつてこの像こそ日本人固有の情緒を現わしたものであろうと感じたことがあった。 しかし竜門浮き彫りの拓本などを見ると、これに似た感じがそこにもある。 従ってこの像は、漢人にも共通であるこの種の情緒を、特に好く生かせたものと見るべきであろう。 その意味でこの像はわれわれの祖先のものである。 これらのものを見ると、法隆寺の天蓋の作られた時代や、その時代の法隆寺の作者たちは、実に恐るべきものである。 法隆寺の作品はこのほかになお注意すべきものが少なくない。 維摩の塑像のごときは我々を 瞠目 ( どうもく )せしむるに足る小気味のいい傑作で、 三月堂の梵天・ 帝釈(寺伝日光・月光)や広隆寺の 釈迦(弥勒?)などと共に、ガンダーラ式手法の発展したものではないかと思う。 もっともその発展はシナ人の手によって成し遂げられたのかもしれないが、しかしわれわれはシナの遺品でこれと同じ感じのものを知らない。 従ってわれわれはこれらの像の与える感じをシナ風であるとは思わない。 むしろ日本人の方が、この写実的精神を受けついだのではないかと考えざるを得ない。 思えばこの種の大芸術は民族と文化との混融から来た一時的な花火であった。 もしこれを順当に成長させて行く力が、われわれの祖先に宿ってさえいたならば、われわれは自信をもって日本文化の権利を主張し得ただろうにと思う。 法隆寺の 銅板押出仏 ( どうばんおしだしぶつ )は小さいものではあるが、非常に美しい。 特に本尊阿弥陀のほのかに浮き出た柔らかな姿は、法隆寺壁画の阿弥陀を思わせる。 これは唐からの輸入品で、壁画となにか関係を持っているかもしれない。 もともとこの仮面は、高揚した芸術創作の欲望から生まれたものではなく、幾分戯画的気分に支配せられた、第二義的な製作欲の所産であろう。 しかし人間の感情をある表情の型によって表現する手際には、実に驚くべきものがある。 それは第一に、厳密な写実的根拠を持っている。 第二に、ある表情の急所を鋭く捕えて、一挙にそれを類型化している。 従ってそのねらい所が、深い内部的な、感情にある場合には、恐るべく立派な芸術品になるが、それに反して外面的な滑稽味や、醜い僻や、物欲に即した激情などにある場合には、あまり高い芸術的価値を感ぜしめない。 たとえば人の表情の内には猿との類似を思わせるものがある。 それを鋭く捕えて一つの型にしたところで、われわれはその巧妙な捕え方に驚くばかりで、芸術的印象をうけはしない。 しかし内心から湧き出る悲哀や歓喜の表情がある濃淡をもって一つの明白な型に仕上げてあるのを見ると、われわれは汲めどもつきぬ生の泉に出逢ったような強い喜びを感ずるのである。 仮面の表情は、単に型化せられているばかりでなく、また著しく誇張せられている。 しかしそれは、伎楽面製作の本来の動機が、表情を誇大した仮面によって、広い演伎場の多衆の看客に、遠い距離において明白な印象を与えたいという所にあるからであって、必ずしも創造力の薄弱に基づいているのではない。 従ってこれらの仮面には誇張に伴うはずの空虚な感じなどはなく、空間的関係の特殊な事情による一種異様な生気さえも現われて来るように思われる。 このことは天平の伎楽面を鎌倉時代の 地久面 ( ちきゅうめん )、 納曾利面 ( なそりめん )の類と比較して見れば明らかである。 鎌倉時代の面は創造力の弱さを暴露した作品であって、そこにはただ生命の実感と縁の少ない誇張のみがある。 それは重心が 末梢 ( まっしょう )神経へ移ったような病的な生活の反映であるといってよい。 そこに作者の現わそうとするのは、現実の深い生に触れて得られた Vision ではなく、疲れた心を襲う 荒唐 ( こうとう )な悪夢の影である。 そこには人間的なものは現われていない。 女の顔を刻んだ面すらも、天平の 天狗 ( てんぐ )の面よりはもっと非人間的である。 従って芸術としての力ははるかに弱い。 かつてわたくしはH氏のところで、天平伎楽面の傑作の一つを親しく手にとって賞玩したことがある。 その頬の肉付けの、おおらかにゆったりとした、しかもこまかい濃淡を逸していない、落ちつきのある快さ。 目や鼻や口などの思い切って大胆な、しかし自然の美しさを傷つけない巧妙な刻みかた。 皺として彫られた線のゆるやかなうねりと、顔面凹凸の滑らかな曲面の感じとの、快く調和的なリズム。 そうしてその弾力のありそうな、生気に充ちた膚肉の感じ。 それをながめていると、顔面に漂うている表情から、陶酔にやや心を 緩 ( ゆる )うしているらしい曇りのない快活な情緒が、しみじみ胸にしみ込んで来る。 生きた人に間近く接した時感ぜられる、あの、生命の放出して来るような感じが、ここにも確かに存しているように思える。 しかも相手が人間ではなくて彫刻であるために、そこに一味の気味わるさが付きまとっている。 そのときH氏が、その仮面をとって自分の顔の上につけた。 この所作によって仮面は突然に異様な生気を帯びはじめた。 ことに仮面をかぶったH氏が少しくその首を動かしてみたとき、顔面の表情が自由に動き出したかと思われるような、強い効果があった。 わたくしは予期しなかったこの印象に圧せられて、思わず驚異の眼をみはった。 仮面を畳の上に横たえ、または手にとって自分の膝の上に置いた時には、それはその本来あるべき所にあるのではない。 われわれはこれまで仮面をその作られた目的から放して、それだけで独立したものとして観察するに慣れていたのである。 普通人の顔の四倍もありそうなその仮面を、人体と結びつけて想像することは、この驚異の瞬間まではわたくしには不可能であった。 しかしさてこの仮面が、仮面としてそのあるべき所に置かれて見ると、そのばかばかしい大きさは少しも大き過ぎはしない。 むしろその大きさのゆえに人が仮面をつけたのでなくして、芸術的に造られた一つの顔が人体を獲得した、と言っていいような、近代人の想像をはずれた、おもしろい印象が作り出されるのである。 ここではじめてわたくしは、仮面を何ゆえに大きくしたかを了解した。 そうして、ギリシアの劇の仮面も同じくらいな大きさであったことを思い出し、この種の仮面の効用と大きさとの間に必然の関係のあることに思い到ったのである。 後代の仮面が天平の伎楽面に比して著しく小さくなっているのは、その用いらるる舞踏や劇に著しい変化のあったことを語るものであろう。 わたくしはこの時の強い印象によって、天平時代に伎楽面を用いた伎楽が、音楽と舞踏とから成る 所作事 ( しょさごと )であったに相違ないという考えを抱きはじめた。 いま数の多い伎楽面を一々ながめ味わってみると、このさまざまな表情のうしろにそれぞれ所作事における役割を感じ出せるように思う。 伎楽演奏の記事は『 続紀 ( しょくき )』にもところどころに現われている。 それによると、諸大寺供養の際のみならず、また宮中の儀式や饗宴の際にも演奏され、時にはその演奏自身を目的とする催しもあったらしい。 孝謙女帝が幸 二山階寺 一奏 二 林邑及呉楽 一などはこの類であろう。 しかし『続紀』は単に名を挙げるのみで、内容の記述に及んでいない。 伎楽がいかなるものでありいかにして演奏されたかは、他の書によって知るほかはない。 そこで問題となるのは、あの仮面を保存していた東大寺の『要録』である。 ここではそれに基づいて、できる限りの想像を試みてみよう。 まず舞台である。 大仏開眼供養の記事には舞台の記述がまるでないが、貞観三年の「開眼供養記」はかなり具体的にその構造をしるしている。 この開眼供養は大仏の頭が地に堕ちたのを修繕した時のことで、最初の開眼供養からすでに百年以上の年月を経たのちである。 その間に文化一般の非常な変遷があり、それに伴って音楽の大改革もあった。 従ってこの際の記述をもって直ちに天平時代の光景を推測することはできない。 しかし幾分の参考にはなるであろう。 第一に舞台は 戸外に設けられた。 すなわち大仏殿前の広場である。 これは天平時代にも同様であったらしい。 楽人たちが左右に分かれて堂前に立ったという記述からそう推測しても間違いはあるまい。 次に舞台は木造の高壇であった。 方八丈、周囲に高欄をめぐらし、四面に額をかける。 舞台上東西には宝樹八株ずつを植え、その側に 礼盤 ( らいばん )一基ずつを据える。 他に 玉幡 ( ぎょくばん )をかける高座二基、高さ三丈三尺の 標 ( ひょう )一基などが、恐らく舞台の近くに設けられたらしい。 また別に広さ二丈長さ四丈の小舞台が、大殿中層南面に造られた。 これらの構造が天平時代にもあったかどうかは疑わしい。 少なくとも開眼供養の時には、 踏歌 ( とうか )の類はじかに庭の上で演ぜられたのである。 東西発声、分 レ庭而奏(続紀)とある。 伎楽などのために別に舞台が設けられていたかとも思われるが、どうも明らかでない。 舞台の他にはなお 幄 ( あげばり )(天幕)が設けられた。 貞観の時は東西三宇ずつで、それが楽人・勅使・諸大夫等の席になっている。 天平の時には開眼師・菩提僧正以下、 講師 ( こうし )・ 読師 ( どくし )が 輿 ( こし )に乗り 白蓋 ( びゃくがい )をさして入り来たり、「堂幄」に着すとある。 また衆僧・沙弥南門より参入して「東西北幄」に着すとある。 貞観の時は東西南の歩廊及び軒廊に千僧の床を設けたが、天平の時にはまだ歩廊ができていなかったので、それだけ多くの幄舎を設ける必要があったのかも知れない。 これらの設備を含む大仏殿前の広場は、濃い単色の衣を着飾った天平の群集によって取り巻かれた。 僧尼の数は一万数百人としるされているが、他に数千の官人も参集したであろうし、また一般の民衆も、たとい式場にはいることはできなかったにしても、この大供養の見物に集まって来なかったはずはない。 そこで華やかな衣の色が一面に地を埋め、東大寺の 伽藍 ( がらん )はこの色の海の上に浮いていたことになる。 もとより大仏殿は今のように左右に寸のつまった不格好なものではなかった。 現在は正面の柱が八本であるが、最初は十二本あって、正面の大きさがほとんど倍に近かった。 またこの堂に対して、中門の外側の左右には三百二十尺の高塔ができかかっていた。 これらの堂塔の大きさは、ただ想像するだけにも骨が折れる。 この雄大な建築と、数知れぬ人の波との上に、うららかな初夏の太陽が、その恵み深い光と熱とを注いでいたのである。 開眼の式がすむ。 講読がおわる。 種々の楽が南門柱東を過ぎて参入し、堂前を二度回って左右に分かれて立つ。 そこでいよいよ舞台が衆人注意の焦点に来る。 まず現われたのは日本固有の舞踏である。 最初のは『続紀』に 五節 ( ごせちのまい )とあり、『要録』に 大歌女 ( おおうため )、大御 三十人とある。 天の岩戸の物語と結びつけられているあの「踏みとどろかす」ところの踊りであろう。 次は 楯伏舞 ( たてふしまい )四十人、これも武人の踊りで、手に 楯 ( たて )をもって節度を刻んだものらしい。 次が 踏歌 ( とうか )(あるいは女漢 躍歌 ( とうか ))百二十人、これは女が二組に分かれて歌いながら踊るのであろうが、『釈日本紀』の引用した説によると歌曲の終わりに「 万年阿良礼 ( よろずとせアラレ )」という「 繰り返し ( リフレイン )」がつくので、たぶん藤原時代以前から俗にこの踊りを 阿良礼走りと言った。 走るというのだからほぼ踊りかたの想像はつく。 これらの歌舞が一わたりすむと、その次が唐及び 高麗 ( こま )の舞楽である。 さてこれらの楽と舞とがいかなるものであったか、それを想像するのがここでの関心の焦点である。 われわれの前にある伎楽の面がこれらの舞楽のあるものに、(少なくとも三つの林邑楽に)用いられたことは疑いがないであろう。 正倉院にはこの時の面が保存せられているそうであるが、もとより同じ感じのものであろう。 衣裳もこの時のものが残っているといわれるが、詳しくはわからない。 天保四年の目録によると、長持のなかに「御衣類色々、古織物数多」や「御衣類、塵芥」などがあった。 今でも塵芥のようになった古い布地はおびただしい数量であると言われる。 その中からこの時の衣裳を取り出すのは困難であろう。 貞観供養の記録には舞女装束、唐衣、唐裳、菩薩装束などの言葉が見え、またその材料らしく 調布三百二十反、 絹八疋、 唐錦九尺、 紗一疋、 青摺衣 ( あおずりごろも )二領、 鞋 ( くつ )十足などもあげられているが、 弘法 ( こうぼう )滅後の風俗変遷を経た後の貞観時代にどれほど天平の面影を残していたかはわからない。 唐衣という言葉はその衣の起源を示すのみで、必ずしも唐風の忠実な保存を意味してはいないのである。 いわんや藤原後期の舞楽装束が、天平のそれを推測する根拠となり得ないのは言うまでもあるまい。 従って最もたしかなのは、天平の画によって想像することである。 そこに描かれている衣裳は、肉体の輪郭やふくらみをはっきりと浮かび出させ、筋肉の表情を自由に外に現われしめるような、柔らかく垂れ下がったものであるが、伎楽の衣裳もそういう類ではなかったかと思われる。 特にインドの風を現わしたものはそうでなくてはならなかったであろう。 貞観の供養にさえも菩薩などは仏像彫刻と同じような扮装をしたらしい。 まして、唐風流行の天平時代に、西域風、インド風やペルシア風などの衣裳を大胆に用いたとしても、少しも不思議はない。 舞台上の所作については、貞観の「供養記」がその幾分を伝えている。 午二剋 ( うまのにこく )に、人鳥の扮装をした東大寺林邑楽が、供物をささげ、東西二列に分かれて舞台から堂上へと静かに歩いて行く。 舞台には 一疋 ( いっぴき )の大きい白象が立っている。 その背に造られた玉台の上には、白い肌のあらわな 普賢菩薩 ( ふげんぼさつ )が、彫刻や画にある通りの姿をして、瞑想に沈んでいる。 やがて 伽陵頻伽 ( かりょうびんが )の人鳥が供物を仏前にささげて帰って来ると、 誦讃 ( じゅさん )の声につれて菩薩が舞い出す。 伽陵頻伽も二行に対立して、楽を奏しつつ舞う。 多門天王が従鬼十四人をひきいて(あるいは王卒と十二 薬叉 ( やくしゃ )とをひきいて)現われる。 弓を持つもの 鉾 ( ほこ )を持つもの、 斧 ( おの )を持つもの、棒を持つものが一人ずつある。 また同時に吉祥天女が天女二十人をひきいて現われる。 内十六人は各造花一茎をささげ、他に 如意 ( にょい )、 白払 ( びゃくほつ )、 扇 ( れいせん )等を持つものがある。 天王薬叉も天女も皆彫刻や画にある通りの扮装をしていたと考えていい。 彼らも東西二列となって舞台から仏前に至り供物をささげて再び舞台に帰ってくる。 そこで王卒・薬叉の類は舞台 辰巳角 ( たつみかど )に立つ。 天女十六人は左右に分かれて舞を舞う。 大自在天王が天人六十人をひきいて現われる。 二十人は 天衣綵花 ( てんいさいか )を盛り、四十人は音楽を調べる。 東西に別れて舞台に列び、仏を讃歌していうには、 仏身安座一国土 一切世界悉現身 身相端厳無量億 法界広大悉充満 讃歌がおわると天人らは綵花を散らし始める。 繽紛 ( ひんぷん )として花が浮動する。 次いで天人が舞う。 舞はまだ午四剋から 酉 ( とり )四剋まで続くのであるがあとは略して右の三例を考えてみよう。 前の二つは記録にも明らかに新作だとことわってあり、後の一つも華厳経の句を讃歌に使ったところから推して大仏供養のための特殊なものであったことが察せられる。 作者は唐舞師、笛師などとあるから、 雅楽寮 ( ががくりょう )の役人であったかも知れない。 舞の振りや楽の 旋律 ( せんりつ )を無視して論ずるのは無謀であるが、ただこの舞曲の構造から考えると、恐らく活人画を去ること遠くないものであったろう。 それは経典と仏像とから得た幻想のきわめて素朴な表現であって、特に芸術家の創造力を示したものではない。 貞観の初めは 恵心院源信 ( えしんいんげんしん )の晩年であって、 来迎図 ( らいごうず )に現われたような特殊な幻想がすでに力強く育っていた。 右の諸作にもこの傾向は著しく認められる。 もしこれを日本化というならば、これらの舞楽はすでに日本化せられたものである。 従ってそれらはあの大きい伎楽面に似合うよりは、むしろ後代の平凡な小さい仮面に似合うものと言ってよい。 とすれば、われわれは貞観の『供養記』からしては天平の伎楽面にふさわしい伎楽を見いだし得ないのである。 天平の伎楽と貞観の舞楽との間に右のごとき区別が生じたのは、貞観供養より先だつ二三十年、弘法滅後の 仁明帝 ( にんみょうてい )前後の時代に行なわれた音楽の大改革のゆえであろう。 この時代には高麗楽のみが栄え、伎楽も林邑楽もその独立を失った。 そうして新しく唐新楽( 羯鼓楽 ( かっこがく ))が起こり、高麗楽と共に左右楽部として 雅楽なるものを形成した。 そこで 新作改作が盛んに行なわれ、新しい 日本的外国楽が成立するに至ったのである。 この機運が 神楽 ( かぐら )や 催馬楽 ( さいばら )などにも著しく外国楽を注ぎ入れたところから見ると、当時の日本化は、外来の音楽・舞踏のうちから特に日本人(すなわち帰化人が帰化人として目立たなくなったほど混血の完了した平安中期の日本人)の趣味に合う点のみを抜き出して育てることであった。 だから偉大なものも、彼らの趣味に合わない限り、捨て去られる。 伎楽のごときはこの意味で骨抜きにされたのである。 林邑楽はインドの舞曲で、特に バラモン教の畑に育ったものらしい。 しかし仁明時代の変革でそのバラモン的香気を失ったことは、貞観供養の林邑楽を見てもわかる。 だから貞観以後百年二百年を経た時代に盛んに行なわれた舞楽は、たとい林邑の名を存していても、全く別物であったと考えなくてはならない。 『舞楽要録』によると、舞楽の最盛期であった藤原時代後半の数多い舞楽演奏は、二三の例外を除いてほとんど皆林邑楽の陵王(左) 納蘇利 ( なそり )(右)をプログラムの最後に置いている。 また 胡飲酒 ( こいんず )、 抜頭 ( ばとう )などの林邑楽をその中間に加えることもまれでない。 しかしこれらの林邑楽は、どの記録から推しても、あまりに繊細な 規矩 ( きく )に束縛されている。 貞観時代には素朴ながらも自由な幻想のはたらきが許されていた。 今やその自由さえも地を払っているのである。 鎌倉時代はあの別種な仮面を製作した時代であるから、 古 ( いにしえ )の舞曲に対する正しい理解があったとは思えないが、少なくとも藤原末の伝統は保たれていたであろう。 この時代に音楽生 藤原孝道 ( ふじわらのたかみち )によって書かれた『雑秘別録』なるものを読むと、当時の音楽界の雰囲気がうかがわれる。 孝道をしてこの書を書かしめたのは、音楽を覆いかくす「 秘伝相承 ( ひでんそうしょう )」への反抗である。 「秘蔵すなど申すは、家のならひなれば申すに及ばねども、理かなひても覚えず」というのが彼の主張であった。 しかし彼自身の関心も要するにこの種の秘伝の範囲をいでなかった。 胡飲酒について彼はいっている、「まことに舞にとりて異なる秘蔵大事の物とかや。 これを舞ひつれば 勧賞 ( けんしょう )をかぶる。 見たるにたゞ同じ 体 ( てい )にていづくに秘事あるべしとも見えねども、折々振舞ひて出入りにつけて秘蔵の事どもありとかや。 」そうして彼が熱心に物語るのは、藤原末における相伝の歴史である。 雅実 ( まさざね )の日記に「忠時こいんず舞ふ。 相伝なき事どもあり。 自由らうぜきのおのこなり」とあることなども引用せられている。 相伝が結局芸術の生命を 萎微 ( いび )させたのであるにかかわらず人々の注意はこの相伝を得ることに集まって、舞曲そのものの自由な考察には向かわなかった。 だから「すぢなきことは、ものの説はうせず、すがたは皆うすめり」といわれる。 菩薩舞のごときは、「白河院の頃までは、天王寺の舞人まひけれども、させることはなくて、 大法会 ( だいほうえ )にかりいだされけるを、むつかしがりて、のち伝はらずなりて、今はなしとかや。 」これは技巧の末に 拘泥 ( こうでい )する芸術の末路である。 舞楽として残存していたものは、もはや天平の活き活きとした大きい芸術ではない。 天平の伎楽面と鎌倉の伎楽面との間に、芸術的気禀の根本的相違を認め、また生の根をつかむ能力の比較にならぬほどな径庭を許すならば、以上のことは何らの考証なくしても是認せられるだろう。 では何によってあの天平伎楽面の用いられた舞曲を想像し得るのであるか。 それはあの伎楽面自身によってである。 天平時代にはあの伎楽面を用いて伎楽が演ぜられた。 伝説によると 菩薩あるいは 仏哲がインドの舞曲、菩薩舞・菩薩・部侶・ 抜頭楽 ( ばとうがく )の類を伝え、 開眼大会 ( かいげんだいえ )の時に演ぜられて来集貴賤を感嘆せしめた(東大寺要録二)。 岡部氏の研究によると、抜頭舞はベーダの神話にあるペドュ(Pedu)王蛇退治の物語を材料としたもので、抜頭はペドュの音訳であるか、あるいは王がアスヴィンの神からもらった名高い殺蛇の白馬(馬はパイドュ Paidu)の音訳であろうとのことである。 足利末にできた『舞曲口伝』には、「この曲は天竺の楽なり。 婆羅門 ( バラモン )伝来なり。 沙門仏哲これを伝ふ。 唐招提寺にありと云ふ。

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