斎藤 利 三。 斎藤利三

斎藤利賢

斎藤 利 三

生涯 [ ] 『』には斎藤道三の子、『』には稲葉一鉄の甥とあり、一鉄の姉妹が道三に嫁いでいることは『稲葉家譜』にも記されているので、どちらも正しいと見られる。 年間にに降ったと見られ、を継いだ実弟の斎藤利治の要請によりとなった(堂洞軍記)。 天正3年()には信長より福光郷一円などを宛行われた(南陽堂楠林氏文書)。 が織田家家督とを継ぐと、斎藤利治と同様にその家臣()となった。 10年()6月2日の当時は、岐阜城のだったと見られるが、変報を受けると城を掌握し 、6月4日には美濃・・千手堂・に禁制を掲げた(瑞竜寺文書他)。 以後、の動きを保つ。 当時、大垣付近に在住していた宣教師の報告によれば、「岐阜において太子の宮殿が掠奪され、諸侯の一人が城を占領したが、いずれに味方するか発表しなかった」(1583年2月13日付書簡)とあり 、利堯はととの間で中立を保った様である。 この頃、ではが旧領を回復するため利堯の舅である稲葉一鉄のを攻め、では主のがのやのを攻めるなど、国中が乱れていた。 その後、と信孝が明智光秀を討ち、6月20日ごろ京都を出立して美濃へ向かうと、利堯は国衆の人質を連れ、不破郡長松(現大垣市長松町)で引き渡しを行った。 6月27日のにより信孝に美濃国が与えられ利堯はそのとなり、美濃国要所である利治からの三代目加治田城城主となる。 では城を追われた肥田忠政が加治田城に逃れた為、同年7月にの兵がである()に攻めよせた。 で城代に任命していた部隊が中心と、援軍・軍により二度も森軍を撃退する。 森長可はを思い加治田城を攻めるが、利堯はとしてこれに対し激戦の上に退けた()。 その後、同年10月18日付け羽柴秀吉書状(浅野家文書・金井文書)では、と斎藤利堯宛てになっており、利堯は岡本良勝と並ぶ重臣となっている。 信孝と秀吉の対立の中で、利堯は稲葉一鉄に勧められて信孝から離れ、天正11年(1583年)4月、により信孝が自害してからは、誰にも仕えなかったと伝わる()。 また、利堯は加治田・兼山合戦の後、ほどなく死去したという説もある 利堯を失い統制の失われたはそれぞれに・・・・とそれぞれに離れ、加治田城も廃城となった。 加治田衆のとは、隠棲しながら利堯の弟の斎藤利治の遺児、、の二人の男子を加治田城衣丸にて養育した、その後、長沼三徳と義興・市郎左衛門兄弟は、岐阜城主・に仕えた。 人物 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2017年10月)• 信長は美濃斎藤道三の子息利堯(玄蕃助)に美濃福光郷ならびに牛洞野村月成方を支給、その福光郷のうち五〇貫文を犬山之伊勢守息女)(・娘:千代君)に相渡すように命じている(南陽堂楠林氏文書)。 この伊勢守息女は(義康)の母と考えられるが、利堯は彼女のの臣であった可能性もある。 )・犬山織田氏は美濃守護代斎藤氏と連携して尾張上四郡を維持しており、美濃斎藤氏との関係は強く信長が織田伊勢守息女を養女にして、六角氏に嫁がせたと考えられる。 弟の斎藤利治が織田家でを継承し、全国各地へ信長と行動()するようになると、兄である利堯へに要請し、利堯は留守居となる。 利治は姉のが信忠のとなり、信忠が二代目織田家後継者となると信忠付き側近(重臣)となる。 兄である利堯も利治と共に信忠付き重臣として加治田城留守居と共に留守居を任せられた。 斎藤利治が本能寺の変で討死後、留守居の岐阜城を占拠し、岐阜城主となる。 親族の稲葉一鉄と行動を共にし、美濃斎藤氏として。 岐阜城を中心にを保つ。 明智光秀が秀吉に敗れると、秀吉に与して信孝に仕え、信孝の老臣()となり、を家臣団とした美濃国要所の三代目加治田城城主となった。 斎藤利堯が後、甥の、その子のがに仕えた。 母であると兄弟のが遺伝的に長身である為、利堯も長身のであったと考えられる。 との親族関係も深く、姉妹が母血筋であり、織田家でも重責を担う。 後もとの結びつきは深い。 脚注 [ ]• 富加町史編集委員会『富加町史』下巻 通史編、、1980年、233 - 242頁。 学校(Powered by BIGLOBEウェブリブログ)参考。 (天正三年正月十一日付斎藤玄蕃助宛織田信長朱印状()、岡本良勝・斎藤利堯宛羽柴秀吉披露状写(『』)『』の十月十八日付の岡本良勝・斎藤利堯(としたか)宛の秀吉の書状 関連項目 [ ]• 参考文献 [ ].

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斎藤道三

斎藤 利 三

さいとう-としみつ は、1534年 1537年? 、美濃の白樫城主・斎藤利賢 斎藤伊豆守 の次男として生まれた。 母は蜷川親順 斎藤親順の娘 の娘?。 の妹・ の叔母 の娘 とも? この斎藤家は、 とは別系となる本来の由緒ある美濃斎藤氏の一族だ。 美濃斎藤氏は斎藤道三に乗っ取られた。 明智光秀の叔母 明智光継の娘 が、斎藤利三の父・斎藤利賢の継室に上がった事で、同じ土岐一族である明智家と親戚の絆も強くなったようだ。 しかし、父・斎藤利賢の長男・ いしがい-よりとき は、実母の再婚相手である石谷光政の娘と結婚し、名門・石谷家の養子となり、将軍・足利家に仕えたが、 が に を追われると、明智光秀の家臣に加わっている。 この石谷光政の娘が1563年に四国の 25歳 に正室として輿入れしている。 元親夫人、名は不明 この輿入れの際には、長宗我部元親が京都へ上洛したと言われている。 このように、斎藤利三の姉か妹か、果たして母も同じかは不明だが、斎藤利三と長宗我部元親は親族となった。 一方、斎藤利三は、はじめ松山新介に仕えたとされるが、その後、美濃の に仕えた。 斎藤利三の正室 前室 は、斎藤道三の娘とさせるが、確証はない。 尾張を統一した の調略もあり、1561年、西美濃三人衆の が織田家へ寝返ると、それに従い、稲葉一鉄の家臣として美濃・曽 主となっている。 そして、稲葉一鉄の娘 あるいは姪? ・安を継室に迎えたようだ。 この稲葉一鉄の娘・安は、 、 、と末娘・お福 らを産んだ。 のち、お福は稲葉正成と結婚するが離縁したあと、稲葉重通の養女となり、江戸幕府の第3代将軍・徳川家光の乳母として、大奥で権勢を誇ったのは余りにも有名だ。 稲葉家ではかなり冷遇されていたようで、斎藤利三 37歳 はやがて稲葉一鉄と喧嘩別れすると、1570年、親戚の明智光秀を頼った。 明智光秀は、 と並ぶ明智家筆頭家老として重用した。 1578年、明智光秀が丹波を平定した後には、丹波・ 主10000石となった。 津田宗及らと度々茶の湯を嗜むなど、 としての教養もあったようだ。 1582年、稲葉一鉄の女婿で家老であった那波直治 那波和泉守 を斎藤利三が仲介して明智家の家臣に迎えようとしたところ稲葉側に発覚。 稲葉一鉄は織田信長に訴え、織田信長は稲葉家の元家臣であった斎藤利三も返すよう命じたが、明智光秀は「良い部下を持つことは私の為ではなく、上様の為である。 」と言って拒否。 この理屈に織田信長は立腹し、明智光秀の額を敷居に押し付けて折檻したと伝わる。 このような経緯もあり、織田信長は斎藤利三に切腹を命じて、那波直治を戻すように1582年5月27日に決定を出したが、その4日後に が起こった。 また、織田信長が明智光秀に討たれた1582年の の変の直前に斎藤利三が四国の長宗我部元親とやりとりした書状が2014年に発見された。 これまで、織田信長に徹底抗戦と考えられていた長宗我部元親が、 の武田家が滅亡したあと、織田信長に降伏する意向がこの書状に示されていたことが判明した事で、明智家が長宗我部元親との外交交渉を行っていたと考えられる。 しかし、織田信長は四国攻めをすることを決定し、 と を大阪方面に向かわせ、準備を開始した。 これらの要因などが多数絡んだ結果、明智光秀は我慢が限界にきて、本能寺で織田信長を討つ考えに至ったと小生は考える。 明智光秀は謀反を計画すると、5月晦日から6月1日の間に斎藤利三、 、 、明智秀満などの重臣に打ち明けた。 斎藤利三はその無謀さから明智秀満と共に反対したと言われているが、天下を取るには今しかないと斎藤利三が変の主導的な役割を担ったとの説もある。 1582年6月2日、本能寺にて織田信長を討った後、 に入って らを警戒したが、中国地方から大返しを行った羽柴秀吉との 6月13日 では、斎藤利三が先鋒として円明寺川東岸に布陣し、 ・高山重友らと戦った。 しかし、敗れて逃走すると、近江の堅田で捕縛された。 梅雨時だったため暑さの為、衰弱していたと言われる。 羽柴秀吉の命で6月17日に六条河原にて斬首。 享年49。 屍もともに粟田口で磔に処されたとも? 首もしくは胴体は、明智光秀の遺体と共に、本能寺に晒されたと言われている。 その後、斎藤利三の首は親交が深かった絵師・海北友松により、京都市左京区浄土寺真如町の真正極楽寺へ葬られた。 上記写真 カテゴリー• 126• 762• 111• 108• 128• 115• 113• 208• 162• 156 いつもご高覧賜りまして、深く御礼申し上げます。 各ページのリンク・紹介は自由で報告も不要です。 当サイトに掲載されている写真・画像、その他商品名・番組名などは、各社の商標・登録商標・著作物です。 記載内容は可能な限り事実に基づき、公平になるよう配慮致しておりますが、史料自体の問題などもあり、中には誤認もあるかと存じます。 ご指摘賜れば、再調査の上、必要に応じて修正・加筆など行いますので、誤字・脱字のご指摘と合わせて、コメント欄よりご一報賜りますと幸いです。 残念ながら当方の承諾を得ていない、記事の流用や成りすましサイト・動画などが見受けられ弁護士と対処を検討中です。 他サイトご利用の際にはご留意願います。

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斎藤氏

斎藤 利 三

斎藤利三(さ・としみつ 4 ~ 2)とは、の武将である。 のちにのとなった局は。 概要 氏の出自だが、若き日については諸説ありよく分からない。 がを制圧する頃、の臣となったが、やがてに仕官先を変える。 以後はとしてを支えた。 通称は内蔵助。 はの正室。 この縁もあって、はとの取次役を担当していた。 やがて情勢の変化からとは敵対関係となりが計画されるが、これを本寺の一因と推測する向きもある。 利三自身が謀反に積極的だったのか反対だったのかは意見が分かれるが、に従い に加担。 その後、で軍の先鋒を務めたが、敗れて捕縛され、六条で処刑された。 出自と一族 氏は元々氏に仕える守護代だったが、下上で中の実権を握っていた。 が、そこを更に下上されて によって乗っ取られてしまう。 利三はこの乗っ取られた側の氏の一族である。 ただ、この氏の系図がひどくしていて、よく分からない部分も多い。 は利賢(としかた)。 この人の(つまり利三の)は氏の出身。 利賢の最初の妻は幕府重臣・蜷親世 のであったが、後に理由あって離縁し、(祖)のが後妻となった。 利三のがどちらなのかは意見が分かれる。 ともかく、氏や氏とは親戚関係にあった。 の前妻・蜷氏はその後、幕臣・石政と再婚して、を二人産んだ。 の方は利三の・ 石頼を養子とする形で。 の方はの正室となった。 こうして石氏を経由する形ではあるが氏とも関係となる。 が蜷夫人と離縁した経緯はよく分からないが、蜷親世の子を養子(利三の) に迎えていたりするので、子になかったのか政略的な都合か。 と蜷の友好関係はその後も続いていて、利三のがの妻になっている。 (こうして生まれた縁を頼って、石頼もも後々氏の下へ亡命していく) いろいろややこしいが、の有層(・・)だけでなく、幕臣(蜷・石)ともの代から関係を持っている人物である。 利三自身も、の(安)を妻とした。 二人の間に生まれた子の中に、福…のちの 局がいる。 生涯 とは同い年である。 若き日 利三やの若き日の動向については諸説あるが、当初は幕府のだったとも言われる。 利三が生まれた頃のは氏も氏も分裂抗争にあけくれており、没落・逃亡の憂きにあう者も多くいた。 の関係などから見るに、そうした事情でに流れ、初め幕府に仕えた後、が落ち着いてきたところで戻ってきたのかもしれない。 少なくともが当の頃(6~1)にはにいた。 義の死後、一たち三人衆はの調略に応じて寝返るが、利三もこれに従って一の臣となった。 一のとしたのもこの頃だろうか。 光秀の腹心に だが一との関係は上手くいかず、0年に出奔し、の下に転身した。 「な利三にをかけたが引き抜いた」と説明されることもあるが、実際には親戚関係にあったの護をめて自分から駆け込んだようだ。 なお中では臣の引き抜きは禁止とされていた。 後に2年にも臣・那波直治の引き抜き騒動が起こり、しかもこの時は利三が仲介役として動いていたらしい。 これにがしての カ頭を掴んで折檻、利三にはの命が下された、それがの数日前……とされるが、これは当事者の一方であるに伝わる話なので、どこまで信じるかは次第だろう。 この後はのとなって各地を転戦。 滅亡後は・石頼も臣に加わった。 9年の丹定後にはに任命される(かつてのの居)。 この年、・福(局)が誕生。 本能寺の変から最期 2年、は突如としてに反旗を翻し、 を起こす。 が「敵は本寺にあり!」と謀反をにするより前に、極秘に計画を打ち明けられていた重臣数名の中に利三もいた。 このに、利三・石頼を介した氏との関係維持に腐心すると、氏と和し氏との対立に転じたの、対策に関する意見の相違があるのではないか、という研究も進められているが、細かい部分は。 変の直後は・佐和山に入って北・東の抑えを任されたが、逆に西から怒涛の勢いでが戻ってきたことで事態は一転、軍は で大を喫する。 利三は軍の先鋒を務めたが敗走し、4日後に・堅田に潜んでいたところを捕縛され、六条でされた。 消えてゆく 露のいのちは 短の あすをも待たず 日のの峰 流な一面もあり、・北友(の子)と親しかった。 友は利三の遺児たちを保護していたといわれる。 その後 この後、たちはそれぞれ数奇な運命をたどる。 ・利賢の晩年は不明だが、利三の死の時点ではまだ存命で、6年に死去した。 ・石頼は生き延び、のいだへと逃れた。 以降は臣となったがの戦いで甥・と共に討死した。 ・利康はで討死。 (4~2) 三男・利宗もに参加したが、降伏・出したため許された。 やがての臣となり、十六将のひとりに数えられている。 清正死後はを出奔するが、局の口利きもあって幕府旗本となった。 (7~7) 五男・三存は本寺の時点ではまだ幼児だった。 その後、局の夫・正成が仕えていたの臣になる。 彼も後に旗本に取り立てられた。 (0~5) そして・福はに引き取られて養女となり、やがて正成と。 4年に正成と離縁してのとなると、のち 『局』の号を賜り、大の最大実者に上り詰めた。 補足 「」()における斎藤利三の覧。 作品によっては彼の存在もの条件だったりする。 的にはそこそこの武官。 最近は知略も良くなってきた。 本寺では数少ないまともなの臣となる。 内政 群雄伝 S2 魅 野望 42 武将録 S3 74 魅 野望 66 教養 伝 采配 76 智謀 野望 69 戦才 A 智才 86 B 政才 魅 野望 69 録 69 智謀 伝 采配 智謀 33 世記 采配 智謀 野望 録 統率 知略 下創世 統率 知略 33 教養 統率 76 武勇 知略 統率 武勇 知略 74 47 創造 統率 武勇 76 知略 統率 武勇 76 知略 大志 統率 81 武勇 78 知略 86 内政 外政 関連項目• 親三と名乗る.

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